日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

我々の命を造られた主

2014-07-31 | Weblog
  エレミヤ38章 

  16節「ゼデキヤ王はエレミヤにひそかに誓って言った。『我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない』」(新共同訳)。

  1節「マタンの子シェファトヤ、パシュフルの子ゲダルヤ、シェレムヤの子ユカル、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤがすべての民に次のように語っているのを聞いた」。小見出し「水溜めに投げ込まれる」。それは、この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬが、しかし、出てカルデア軍に投降する者は、命だけは助かって生き残るというものである(2節)。反バビロンの立場をとる四人の高官たちはエレミヤのバビロン投降預言を確認し、ゼデキヤ王に上訴した。反国家的な災いを望んでいるという(3~4節)。
  5節「ゼデキヤ王は答えた。『あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから』」。死刑を要求する側近たちに王は拒否できなかった。そのため彼は王子マルキヤの水溜めに綱で釣りおろされ、溜まっていた泥の中に沈んだ(6節)。宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクは、この出来事を王に伝え、このままなら死ぬと訴えた(7~9節)。王は彼に水溜から引き揚げさせた(10節)。王の首尾一貫しない曖昧な態度が伺える。
  14節「ゼデキヤ王は使者を遣わして、預言者エレミヤを主の神殿の第三の入り口にいる自分のもとに連れて来させ、「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」と言った」。王はエレミヤにひそかに誓い、我々の命を造られた主に対し、あなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしないといった(16節)。王が「我々の命を造られた主」と言ったのは正しい。しかしこれは誰もが口にする誓いの常套句だ。本気で言ったとすれば預言者も王も等しく、この主なる神の手中にあることを悟るべきだ。エレミヤの警告は終始変わるものではなかった(17~18節)。
  20節「そこで、エレミヤは言った。『いいえ、彼らに引き渡されることはありません。どうか、わたしが申し上げる主の声に聞き従ってください。必ず、首尾よくいき、あなたは生き長らえることができます』」。もし従わないなら、王や王妃や王子たちに悲惨な最期がまっていると答えた(22~23節)。
  25節「役人たちは、わたしがあなたと話し合ったことを聞きつければ、きっと、あなたのもとに来て、『王に何を話したのか言え。隠さずに話せ。殺しはしないから。何を王がお前に話したかを言え』と言うだろう」。そこで、王はエレミヤに「助命嘆願だった」という口実をあたえる(26節)。エレミヤは監視の庭にもどされ、都が陥落するまで命を長らえることになった。
  本章から示される聖句は「わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」(フィリピ1章20節口語訳)


主から何か言葉があったか

2014-07-25 | Weblog
 エレミヤ37章 

  17節「ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。『主から何か言葉があったか。』エレミヤは答えた。『ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます』。」(新共同訳)

  1節「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである」。小見出し「エレミヤの逮捕」。彼の逮捕と投獄の受難は32章にある。 
  2節「王も家来も国の民も、主が預言者エレミヤによって告げられた主の言葉に聞き従わなかった」。ヨアキムの第一回捕囚(紀元前598年)後、ヨアキンは三ヶ月で在位を退けられ、ゼデキヤ(マタンヤを改名させられる)が王位についた。しかしエレミヤの預言に耳を傾けなかった。
  3節「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と頼んだ」。未だ投獄されていなかったので自由に彼の許に来ることが出来た(4節)。その時、ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来たので、カルデア軍はこの知らせを聞いて、エルサレムから撤退した(5節)。34章8~11節でゼデキヤが債務奴隷をエルサレムから解放した時期と重なる。戦闘態勢を整えてバビロンと対戦しようとした。
  8節「カルデア軍が再び来て、この都を攻撃し、占領し火を放つ」。主はエレミヤを通して再びエルサレムを攻撃すると告げた。
  12節「そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地を相続するために、ベニヤミン族の地へ行こうとした」 32章6~15節の土地を買う象徴行為の時である。この時エレミヤがエルサレムから出て行こうとしたことをバビロン逃亡と誤解された(13節)。彼は弁明して、カルデア軍に投降などしないと言ったが、守備隊長イルイヤは彼を捕えて役人にところに連れて行かれ、役人たちは激怒し、エレミヤを打ちたたき,書記官ヨナタンの家に監禁した。丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこに留め置かれた(14~16節)。
  17節「ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。『主から何か言葉があったか…』エレミヤは答えた。「ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます」。王とエレミヤとの会話。何と大胆、何という確信か。彼は王をも恐れなかった。預言者は終始一貫してバビロン降伏を伝えた。それは神への悔い改めと赦しを求める言葉である。彼は「神の口」である(1章9節)。
  エレミヤは書記官の地下牢に送り返さないよう王に願い出る(18~20節)。それは公正な審判を求めたためと思われる。
  21節「ゼデキヤ王は、エレミヤを監視の庭に拘留しておくよう命じ、パン屋街から毎日パンを一つ届けさせた。これは都にパンがなくなるまで続いた。エレミヤは監視の庭に留めて置かれた」。 王は素直にエレミヤの言葉を聞いたとは思えない。しかし何故預言者を保護しようとしたのか。使徒言行録24章24~27節にパウロがカイサリヤ監禁中に総督フェリクスが取った態度と似ている。
  キリスト者に求められているのは、「語るべきことを大胆に語ることである」(エフェソ6章20節see)。


改めて、別の巻物を取れ 

2014-07-22 | Weblog
  エレミヤ36章 

  28節「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ」(新共同訳)

  1節「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ」。本章はヨアキム治世4年と5年の出来事である。主は預言者エレミヤに巻物を取り、ヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、語ってきた言葉を残らず書き記しなさいと言われた。そこで彼は召命を受けてから23年間予言して来た事を、主の指示に従ってバルクに口述筆記させ巻物にした(3~4節)。
  5節「エレミヤはバルクに命じた。『わたしは主の神殿に入ることを禁じられている』」。そこでこの書き記した巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさいと告げた。神の怒りが大きい事を知って、悪の道から立ち帰るかもしれない(7節)。バルクは命じられた通り、神殿の庭でこれを民に読み聞かせた(8節)。巻物の内容はつまびらかでないが、主の審判と民の立ち帰りであった。
  9節「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された」。この時バルクは口述筆記したエレミヤ言葉を民の前で読んだ。そして書記官シャファン子ゲマルヤ、孫ミカヤらによって役人たちに取り上げられた(10節)。役人たちはバルクに、その巻物を持ってくるように命じた。(11~14節)。
  15節「彼らはバルクに言った。『座って、我々にも巻物を読んでください。』そこで、バルクは彼らに巻物を読み聞かせた」。聞き終わると、彼らはみな顔を見合わせてバルクにこれはすべて王に伝えねばならない。これの言葉は誰の教えか、口述かと問うた。バルクはエレミヤの言葉を口述したと答えた(16~18節)。役人はバルクとエレミヤに急いで身を隠すように指示し、宮廷にいる王のもとに、その言葉を伝えた(19~20節)。そこで、王はユディを遣わし巻物を取ってこさせ(21節)。
  23節「ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」。王もその側近も主の警告に対する悔い改めの態度を表さなかった(24節)。主はエレミヤに今一度別な巻物に元通り書き記せと言われた(28節)。そしてヨアキムと王の一族に神の審判がくだると告げることになった(30~31節)。バビロンの再攻撃が始まる二年前である(列王記下24章1節see)。
  原始キリスト教会の時代、ローマ帝国でもキリスト教を抹殺しようとして、使徒たちの書き表された文書をことごとく燃やした。その後の迫害時代にも繰り返された。これは「焚書」と言われる。しかし神の言葉は消し去ることは出来ない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ福音書24章35節)、「しかし、主の言葉は永遠に変わることはない」(第一ペテロ1章25節)。

父祖の命じた命令を固く守っている

2014-07-21 | Weblog
 エレミヤ35章 

  16節「レカブの子ヨナダブの一族が、父祖の命じた命令を固く守っているというのに、この民はわたしに従おうとしない」(新共同訳)

  1節「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代に、主からエレミヤに臨んだ言葉」。小見出し「レカブ人の忠誠」。主はエレミヤに、レカブ人一族のところへ行って、主の神殿の一室に来るようにと伝え、彼らにぶどう酒を飲ませよと言われた(2節)。第一回捕囚前のヨアキム時代に戻る(列王記下24章)。この時、レカブ人はエルサレムに住んでいた。エレミヤは、命じられた通りレカブ人一族の前にぶどう酒を満たした壺と杯を出して、どうぞ飲んで下さいと差し出した(2~5節)。
  6節「すると彼らは答えた。『我々はぶどう酒を飲みません。父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです』」。また家を建てるな、種を蒔くな、ブドウ園を作るな、またそれらを所有せず、生涯天幕で住むようにと、命じられたことをすべて守って来た(7節)。それは父祖レカブの子ヨナダブがバアル宗教粛清の時に示したイエフへの忠誠心(列王記下10章15節)を子孫である我々が250年間守って来たのであり、ここで曲げる訳にいかないと断る(8~10節)。そして、今は、バビロンの王ネブカドレツァルがこの国に攻め上って来たので、エルサレムに行き、カルデア軍とアラム軍の攻撃を避けようとして、ここに滞在していると答えた(11節)。これは34章のゼデキヤ王の変節と対比した出来事であった。イスラエルの不誠実と対比する象徴行為としてエレミヤは語る(12~14節)。
  15節「わたしは、お前たちにわたしの僕である預言者を、繰り返し遣わして命じた。『おのおの悪の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。他の神々に仕え従うな。そうすれば、わたしがお前たちと父祖に与えた国土に留まる事ができる』と。しかし、お前たちは耳を傾けず、わたしに聞こうとしなかった」。レカブの一族の忠誠心は先祖の命令に対するものだが、この民は主に聴き従う事をしないのは何故か。預言者が民に求めるのは神への誠実である。誠実なる神に誠実をもって応えねばならない(16~17節)。
  19節「それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない」。レカブ人に対して祝福の言葉を伝える。

 旧約聖書には「ヘセド」の言葉が多く出てくるが(250回・特に詩篇)、これは誠実、忠信、真実、真心、信頼、信仰、慈しみなどに訳される。エレミヤ書を見ると、2章2節では「若い時の真心」となっているが、口語訳「若い時の純情」、新改訳「若い時の誠実」。31章3節「慈しみを注ぐ」は、口語訳「真実をつくす」、新改訳「誠実を尽くす」、岩波訳「慈愛を注ぎ続けた」である。新約訳聖書でこれと対比するのは「クレーストス」で慈愛、憐れみと訳される。ローマの手紙2章4節、エフェソの手紙2章7節などに出ている。これらは神から出てくるもので、人が持ち合せているのではない。だからこそ、祈り求めることである

お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよ

2014-07-19 | Weblog
 エレミヤ34章 

  17節「それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする」(新共同訳)

  1節「主からエレミヤに臨んだ言葉。ときに、バビロンの王ネブカドレツァルとその軍隊、および支配下にある領土の全王国、全民族が、エルサレムとその周辺の町々を攻撃していた」。小見出し「ゼデキヤへの警告」。ここでも「主は言われる」が前章に続いて記される。それはこの都エルサレムをバビロンの王の手に渡すというものである(2節)。第二回捕囚が近い時の預言である。しかし、ゼデキヤ王は剣にかかって死ぬことはない。バビロンへ連行されるが、主の言葉に聞くなら、「平和のうちに死ぬ」と告げた(5節)。しかし、実際は21節以下に告げられている通りで悲劇的な最後になる(列王記下25章6~7節see)。
  8節「ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉」。歴史的背景としては、エジプトの援軍により、一時的にバビロンの包囲が解かれたことが挙げられる(37章5節see)。傭兵であった債務奴隷を指す。戦時下では非常手段として一時的に解放した。
  9節「その契約は、ヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、また何人であれ同胞であるユダの人を奴隷とはしないことを定めたものである」。出エジプト21章1~6節、申命記15章12~18節see。
  11節「しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分とした」。バビロンの襲来は無いとして、再び強制的に奴隷の身分としたのである。
  12節「そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ」。ゼデキヤの変節を糺す。主は奴隷の家エジプトの国から先祖を導き出した日に結んだ契約に、同胞のヘブライ人が身を売って働いた時、七年目には自由の身として、去らせなければならないと定めたが先祖はそれに聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。しかし今日、心を入れ替えて、皆この契約を実行して隣人を解放した、新しく契約を結んだ(13~15節)
  16節「ところがお前たちは、またもや、態度を変えて。わたしの名を汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている」。エレミヤはこの変節に対して厳しく神の審判を告げることになる(18~20節)。
  21節「ユダの王ゼデキヤと貴族たちを敵の手に、命を奪おうとする者の手に、すなわち一時撤退したバビロンの王の軍隊の手に渡す」。彼らをまたエルサレムに呼び戻して攻撃し、王と王の軍隊は敗北し、都は廃墟となる。王の悲劇的な最後は列王記下25章6~7節、エレミヤ52章10~11節にある。
 ゼデキヤの変節は破廉恥な契約違反であった。「変節」はいつの時代も国の指導者、政治家の陥りやすい罠である。誰もが利得や自己保身で状況に左右される。状況倫理という。政治家だけではない。
 しかし、キリスト者には「変節」があってはならない第二コリント手紙6章8節には「悪評を受けても、好評を博しても」神の僕として変わらない生き方が示される。

隠された大いなることを告げ知らせる

2014-07-18 | Weblog
  エレミヤ33章 

  3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる」(新共同訳)

  1節「主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた」。小見出し「エルサレムの復興」。エレミヤの預言に対する反発と尋問の為、ゼデキヤ王の手によって投獄されていたのである(32章1~5節)。彼に、主はご自身を「創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方」と示された(2節)。元訳「事を行うエホバ、事をなして之を成就(なしとげ)るエホバその名をエホバと名のる者」。
  3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる」。新しい創造の業をされる主の宣言である。「主はこう言われる」が繰り返される(4、10、12、17、19、25節)。
  4節「攻城の土塁が築かれた後、剣を帯びた敵の侵入を防ぐために、破壊されたこの都の家屋とユダの王の宮殿について、イスラエルの神、主はこう言われる」。神への背信によって都は破壊され、憤りと怒りによって死体に溢れる(5節)。
  6節「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」。ユダとイスラエルの繁栄を回復し、都を建て直し、彼らの罪を清め、反逆を赦す。この恵みについて世界の国々が主の喜ばしい名声、賛美の歌をもたらす。恵みと平和を見て恐れおののく者となる(7~9節)。
  10節「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない」。しかしやがて喜び祝う声、賛美の声が響き、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が『万軍の主をほめたたえよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。この預言が12~13節、14~16節でも繰り返される。
  15節「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義を持ってこの国を治める」。 その日にはユダは救われ(16節)、王座に就く者は、絶えることはない(17節)。レビ人である祭司のために、主の前に動物や穀物を供えて焼き、生贄を捧げる者は絶えることはない(18節)。
  20節「主はこう言われる。わたしが昼と結んだ契約、夜と結んだ契約を、お前たちが破棄して、昼と夜とがその時に従って巡るのを妨げることができないように」。主が僕ダビデと結んだ契約が破棄され、ダビデの王位を継ぐ者がいないので、レビ人である祭司との契約が破棄されということもない(21節)。昼と夜、天と地と結んだ契約が確立していないのなら、アブラハムの子孫、ダビデの子孫を退け、選ぶことはなかった。主は必ず彼らの繁栄を回復される(26節)。エレミヤにとって予言の座標軸は「主はこう言われる」である。荒廃も繁栄もこきに定められている。だからずれない、ぶれない、ピンボケにならない。明確で不動である。状況に巻き込まれて右顧左眄する預言者ではなかった。だから歴史の彼方に終末論がある。
  キリスト者もまた日々の生活の縦軸と横軸(座標軸)がしっかり定まっているかが問われる。「わたしを呼べ、わたしはあなたに答える」3節の言葉が響いてくる。

御名があがめられるようにされました

2014-07-15 | Weblog
  エレミヤ32章 

  20節「あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました」(20節)。

  1節「主からエレミヤに臨んだ言葉。ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレツァルの第十八年のことであった」。小見出し「エレミヤの拘束」。ゼデキヤ王の治世10年の出来事で、既にネブカドレツァル王によるバビロン軍に包囲され、彼はユダの宮殿にある獄舎に留置されていた(2節 列王記下25章1~2節see)。
  3節「ユダの王ゼデキヤが、『なぜ、お前はこんなことを預言するのか』と言って、彼を拘留したのである。エレミヤの預言はこうである。『主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する』」。ユダの王は必ず彼の手に渡されて尋問され、バビロンに連行され、そこに留め置かれる。バビロン戦っても決して勝つことはないと告げられた(4~5節)。
  7節「見よ、お前の伯父シャルムの子ハナムエルが、お前のところに来て、『アナトトにあるわたしの畑を買い取ってください。あなたが、親族として買い取り、所有する権利があるのです』と言うであろう」。ここで主はエレミヤに象徴的な行動を行うように促がしたのである。それは伯父の子ハナムエルが来て、アナトトにある畑を買い取り、親族としての権利を示すように要請されることである(7節)。主の言葉とおり、ハナムエルが獄舎に来てアナトトの畑の買い取るようにと告げた(8節)。親族の畑を買うのは、レビ記25章21節以下の理由であるが、獄舎に拘留されている彼には無駄なことである。しかし神の象徴行為として実行が求められた。この出来事は同じ拘束されていたユダの人々も見た(12節)。購入証書を素焼の器に入れて長く保存するようにとバルクに命じた。そしてやがて親族が買戻す時が来ると告げた(15節)。
  16節「購入証書をネリヤの子バルクに渡したあとで、わたしは主に祈った」。この象徴行為を解説する形のエレミヤの祈りである。天と地を創造された大いなる力ある神はエジプトの地で現わされたように、しるしと奇蹟を現わされ、この土地を賜りました(17~22節)。ところが彼らはあなたの律法に従って歩まず従わなかったので、今この都は攻め落とされようとしています。それにも関らずあなたの御言葉通り、畑を買えと言われました(23~25節)。
  27節「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」。それに対する神の応えである。イスラエルとユダの民は主の聖意に背き続け、繰り返し諭して来たにも関わらず聞くとなく、戒めを受け入れなかった(28~35節)。それがバビロンの王にこの都を渡される理由なのである(36節)。
  37節「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる」。アナトトの畑を買い戻すという行為は、神の恵みの業がやがて回復することを示すことだと主は言われる。
  38節「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。31章33節と同じ。神聖志は彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせることである(39節)。31章33節前半と同じ意味である。主は彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えて止まないのである(40節)。
 これは31章に述べられたことでありノアの契約と同じである(創世記9章16節)。ここに契約更新についての神の約束が示される。イザヤ55章3節、エゼキエル37章26節にもある。

新しい契約を結ぶ日が来る

2014-07-12 | Weblog
エレミヤ31章(Ⅱ) 

 31節「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」(新共同訳)

 27節「見よ、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる」。27節後半は、回復の預言(1~26節)に続く。人口と家畜の数が激減した悲惨なイスラエルとユダの町や村に回復の時が到来する。かつて壊し、破壊し、滅ぼそうと見張っていたが、今、主は民が家を建て、牧草地を得て動物が住むようにするという(28節)。1章10、12節see
 29節「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と」。これは因果応報を表す諺で、否定される。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮くのである(30節)。エゼキエル書18章2節にも同じ預言がある。その日結ぶ新しい契約の第一は、過去の罪を問うことをしないのである。
 33節「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。第二は、シナイ山で結んで石の板に刻んだのとは異なり(32節)、彼らの胸の中に授け、心にそれを記すというのである。
 34節「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。この前半が第三である。喜びをもって受け入れ結ばれた新しい共同体は相互に「主を知れ」と教える必要はないのである。「知る」とは、全人格的に交わることで、形式的な理解が否定される(9章5節)。エゼキエルは新しい契約を「石の心」と「肉の心」として対比して語っている(35章26節)。本節の後半の「わたしは彼らの悪を許し、再び彼らの罪に心を留めない」を第四としてあげる。この様な無条件の赦しは、神の贖いの業によってなされるものである。
  35節「主はこう言われる。太陽を置いて昼の光とし、月と星の軌道を定めて夜の光とし、海をかき立て、波を騒がせる方、その御名は万軍の主」。第五は天体の運行が軌道の定めに従ってなされないことがあっても、イスラエルの子孫は永遠に絶えることなく、主の民として永遠の定めとなるのである(36~37節)。
  38節「見よ、主にささげられたこの都が、ハナンエルの塔から角の門まで再建される日が来る、と主は言われる」。新しい都の再建であるが、場所の特定は難しい。キドロンの谷はエルサレム城の東にあり、オリブ山との間の谷。
  新しい契約の預言は、主キリストによって成就したことがヘブライ8章7~13節に記されている。「律法を心に記す」ということは、第二コリント3章2~3節にある。主が最後の晩餐の時に「新しい契約」としてパンとぶどう酒を手渡されたことも、その一つである(ルカ福音書22章20節)。 言うまでもなく、主イエスが十字架において肉が裂かれ、血が流された出来事で罪の贖いを告げられたのである(ヨハネ福音書6章48節、53~58節)。

道しるべを置き、柱を立てよ

2014-07-11 | Weblog
  エレミヤ31章(1) 

  21節「道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に、あなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ」(新共同訳)

  1節「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。小見出し「新しい契約」。30章22節と同じ。回復の預言である。かつて父祖たちのように荒野から安住の地に向かう時がくる(2節)。
  3節「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」。「遠くから」とは出エジプトを回想させる言葉である。永い奴隷生活から救出され、約束の地へと導く主は永遠の愛、変わらない慈しみを民に注がれると約束される。その日イスラエルのおとめは、太鼓を抱え樂の音にあわせて踊る(4節)。サマリヤの山々に植えたぶどうの初なりの実を食べ、エフライムの山に立ち、「シオンに上り、主な神もとに行こう」という(5~6節)。
  8節「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る」。彼らはその解放に歓声を挙げながら新しい約束の土地に帰って来る。ここではバビロンが示されている。
  9節「彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり、エフライムはわたしの長子となる」。岩波訳「彼らは感涙にむせびながらやって来る。わたしは彼らを慰めつつ連れ戻る」。その情景がリアルに描かれている。それは散らされた群れを守り導く羊飼いのようにイスラエルの民を導くという(10節)。その時には、彼らは喜び歌いながらシオンの丘にきておとめも若者も老人も祝って踊る(12~13節)。ラケルの悲しみを想起し、泣きやむがよい(15~17節)。あなたの未来には希望があると告げる(創世記35章16~20節see)。
  18節「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。「あなたはわたしを懲らしめ、は馴らされていない子牛のように、懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です」。エフライムの悔い改め(18~19)に対して主は深く心に留め、憐れまずにはいられないという(20節)。同じ主の思いは「おとめシオン」にも向けられ立ち帰るなら、新しい創造がなされる。それは「女が男を保護する」という出来事である(22節)。岩波訳「女が転じて、男となる」。これは人の思いを超える奇蹟を示唆している。
  23節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしが彼らの繁栄を回復するとき、ユダとその町々で人々は、再びこの言葉を言うであろう。『正義の住まうところ、聖所の山よ、主があなたを祝福されるように』」。主は再び繁栄を回復し、シオンを正義(ツェデカー)の住むところとして讃たえ、また彼らはユダと町々で安住するようになるのである(24節)。
  26節「ここで、私は目覚め、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった」。回復の預言について、ここで一つの区切りを示し、27節から続いて新しい契約の預言になる。


お前の首から軛を砕き、縄目を解く

2014-07-09 | Weblog
  エレミヤ30章 

  8節「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない」(新共同訳)

  2節「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい」。小見出し「回復の約束」。召命の時以来語ってきた審判の預言を書き記すよう主から命じられた。それは神の審判に続く回復の約束でもある(3節)。
  5節「主はこう言われる。戦慄の声を我々は聞いた。恐怖のみ。平和はない」。小見出し「ヤコブの災いと救い」。やがて起る災禍(第二捕囚を指す)を逃れることはできないと告げられる。これは偽りの預言を見据えた言葉。それは産みの苦しみである。
  8節「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない」。捕囚の期間が来れば、平和の回復があると告げる。それは奴隷の首に架せられた鉄の軛が砕かれる日である(28章13~14節)。以下災いと救いが交互に伝えられる。
  10節「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと、主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない」。散らされていた国々を滅ぼし、お前を滅ぼし尽すことはない。しばし懲しめにあうが、それは罰せずに置くのではない(11節)。
  12節「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む」。傷口につける薬はなく癒えることもないという(13節)。15節でも繰り返される。「甚だしい悪とおびただしい罪」が、その切り傷となっているのだ。お前の敵はみな捕囚となり、強奪される。
  17節「さあ、わたしはお前の傷をいやそうと主はいわれる。人々はお前を、『追い出された者』と呼び、『相手にされないシオン』と言っているが」。傷が癒される日が約束されている。
  18節「主はこう言われる。見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し、その住む所を憐れむ。都は廃虚の丘の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される」。そこから感謝の歌と、楽を奏する者の音が聞こえる(19節)。彼らの数は増え、栄光を与えられ、昔のようになり、その集いは固く立てられるという(20節)。
  21節「ひとりの指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか、と主は言われる」。この人物は特定されないが、新しいイスラエルの中からバビロンからの解放を告げる者が登場するという。それはメシア的な存在とも考えられる。こうして「あなたたちはわたしの民、わたしはあなたたちの神」となる(22節)。
  24節「主の激しい怒りは、思い定められたことを成し遂げるまではやまない」。回復の時がくるまで怒りの嵐は止まないが、約束された回復の時は、神の審判を経てはじめて実現する創造の業だからである。

その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安がある

2014-07-09 | Weblog
  エレミヤ29章 

  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから
(新共同訳)

  1節「以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である」。小見出し「エレミヤの手紙」。23節までが捕囚の民に送った手紙である。これはゼデキヤ王がバビロンの許にエルアサとゲマルヤを派遣した時(理由は不明)、託したもの(3節)。
  5節「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」。妻をめとり、息子、娘をもうけて家庭をつくり、更に次世代の子孫を増やすように(6節)。これは捕囚の地バビロンに定着して子孫を残すことである。
  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。捕囚の民が孤立して生活するのでなく、共に地を継ぐ者として新たな共同体を作り出すことである。しかしそれは主の平安(シャローム)を祈ることによらねばならないのである。これは主イエスが弟子派遣の時の言葉に反映されている(マタイ福音書10章12~13節)。
  8節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」。バビロンに捕囚民としている偽りの預言者たちにだまされないようにと釘を刺している。歴史を支配されている主は、七十年の時が満ちたなら、主は恵みの約束を果たし、この地に連れ戻されるのである(9~10節 25章11節cuf)。
  11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。神の平和の計画であると告げている。70年は完全数。「平和」(シャローム)を祈る根拠もここにある。
  16節「そこで、ダビデの王座についている王と、この都に住む民のすべて、すなわち捕囚としてあなたたちと共に出て行かなかった同胞に対して、主はこう言われる」。都に住む民は決して主の審判を逃れたのではない。彼らにも必ず下る(17~18節)。主から遣わされた預言者の言葉を聞こうとしない(19節)。そればかりか、偽りの預言をしてバビロンから直ぐに帰還できると言って惑わしている(8~9節see)。偽預言者とは、「コラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤ」(21節)である。この人物については詳細には判らない。二人は第一捕囚の時にバビロンに捕らえられていったと思われる。エルサレムの時以来偽りの預言をしていた。エレミヤはネブカドレツァルによって処刑されるといったが、それは早い時期であったようだ(22節)。
  25節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、お前が自分の名で、次の手紙をエルサレムのすべての民と、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤと、すべての祭司に送ったことに関してである」。シェマヤがバビロンからエルサレムの民に手紙を書き送った。それは預言しているエレミヤを何故取り締まらないのかというものである(26~28節)。それに対する主の言葉は、彼を予言者として遣わしてはいない。彼と子孫は滅ぼされると告げた(32節)。
 
 「捕囚の町の平安を祈れ」(7節)とは、約束への信頼から来る。自由にして大胆、強い意志と変わらない真実、しなやかな望みと愛に拠った祈りである。


その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安がある

2014-07-05 | Weblog
  エレミヤ29章 

  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから
(新共同訳)

  1節「以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である」。小見出し「エレミヤの手紙」。23節までが捕囚の民に送った手紙である。これはゼデキヤ王がバビロンの許にエルアサとゲマルヤを派遣した時(理由は不明)、託したもの(3節)。
  5節「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」。妻をめとり、息子、娘をもうけて家庭をつくり、更に次世代の子孫を増やすように(6節)。これは捕囚の地バビロンに定着して子孫を残すことである。
  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。捕囚の民が孤立して生活するのでなく、共に地を継ぐ者として新たな共同体を作り出すことである。しかしそれは主の平安(シャローム)を祈ることによらねばならないのである。これは主イエスが弟子派遣の時の言葉に反映されている(マタイ福音書10章12~13節)。
  8節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」。バビロンに捕囚民としている偽りの預言者たちにだまされないようにと釘を刺している。歴史を支配されている主は、七十年(完全数)の時が満ちたなら、主は恵みの約束を果たし、この地に連れ戻されるのである(9~10節 25章11節cuff)。
  11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。神の平和の計画であると告げている。70年は完全数。「平和」(シャローム)を祈る根拠もここにある。
  16節「そこで、ダビデの王座についている王と、この都に住む民のすべて、すなわち捕囚としてあなたたちと共に出て行かなかった同胞に対して、主はこう言われる」。都に住む民は決して主の審判を逃れたのではない。彼らにも必ず下る(17~18節)。主から遣わされた預言者の言葉を聞こうとしない(19節)。そればかりか、偽りの預言をしてバビロンから直ぐに帰還できると言って惑わしている(8~9節see)。偽預言者とは、「コラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤ」(21節)である。この人物については詳細には判らない。二人は第一捕囚の時にバビロンに捕らえられていったと思われる。エルサレムの時以来偽りの預言をしていた。エレミヤはネブカドレツァルによって処刑されるといったが、それは早い時期であったようだ(22節)。
  25節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、お前が自分の名で、次の手紙をエルサレムのすべての民と、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤと、すべての祭司に送ったことに関してである」。シェマヤがバビロンからエルサレムの民に手紙を書き送った。それは預言しているエレミヤを何故取り締まらないのかというものである(26~28節)。それに対する主の言葉は、彼を予言者として遣わしてはいない。彼と子孫は滅ぼされると告げた(32節)。
 「捕囚の町の平安を祈れ」(7節)とは、約束への信頼から来る。自由にして大胆、強い意志と変わらない真実、しなやかな望みと愛に拠った祈りである。

その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安がある

2014-07-05 | Weblog
  エレミヤ29章 

  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから
(新共同訳)

  1節「以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である」。小見出し「エレミヤの手紙」。23節までが捕囚の民に送った手紙である。これはゼデキヤ王がバビロンの許にエルアサとゲマルヤを派遣した時(理由は不明)、託したもの(3節)。
  5節「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」。妻をめとり、息子、娘をもうけて家庭をつくり、更に次世代の子孫を増やすように(6節)。これは捕囚の地バビロンに定着して子孫を残すことである。
  7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。捕囚の民が孤立して生活するのでなく、共に地を継ぐ者として新たな共同体を作り出すことである。しかしそれは主の平安(シャローム)を祈ることによらねばならないのである。これは主イエスが弟子派遣の時の言葉に反映されている(マタイ福音書10章12~13節)。
  8節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」。バビロンに捕囚民としている偽りの預言者たちにだまされないようにと釘を刺している。歴史を支配されている主は、七十年(完全数)の時が満ちたなら、主は恵みの約束を果たし、この地に連れ戻されるのである(9~10節 25章11節cuff)。
  11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。神の平和の計画であると告げている。70年は完全数。「平和」(シャローム)を祈る根拠もここにある。
  16節「そこで、ダビデの王座についている王と、この都に住む民のすべて、すなわち捕囚としてあなたたちと共に出て行かなかった同胞に対して、主はこう言われる」。都に住む民は決して主の審判を逃れたのではない。彼らにも必ず下る(17~18節)。主から遣わされた預言者の言葉を聞こうとしない(19節)。そればかりか、偽りの預言をしてバビロンから直ぐに帰還できると言って惑わしている(8~9節see)。偽預言者とは、「コラヤの子アハブとマアセヤの子ゼデキヤ」(21節)である。この人物については詳細には判らない。二人は第一捕囚の時にバビロンに捕らえられていったと思われる。エルサレムの時以来偽りの預言をしていた。エレミヤはネブカドレツァルによって処刑されるといったが、それは早い時期であったようだ(22節)。
  25節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。それは、お前が自分の名で、次の手紙をエルサレムのすべての民と、祭司であるマアセヤの子ツェファンヤと、すべての祭司に送ったことに関してである」。シェマヤがバビロンからエルサレムの民に手紙を書き送った。それは預言しているエレミヤを何故取り締まらないのかというものである(26~28節)。それに対する主の言葉は、彼を予言者として遣わしてはいない。彼と子孫は滅ぼされると告げた(32節)。
 「捕囚の町の平安を祈れ」(7節)とは、約束への信頼から来る。自由にして大胆、強い意志と変わらない真実、しなやかな望みと愛に拠った祈りである。

アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように

2014-07-04 | Weblog
 エレミヤ28章 

  6節「預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」(新共同訳)

  1節「その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った」。小見出し「ハナンヤとの対決」。このハナンヤとの対決の時、ゼデキヤ王治世4年は、紀元前594年である(27章12節)。彼は祭司と民の前で、エレミヤに向かって、イスラエルの神、万軍の主はバビロンの王の軛を打ち砕くと言ったのである(2節)。27章でエレミヤが語った軛についての預言をハナンヤは反論する。そしてヨアキムの時の第一回捕囚の災禍が二年の内に取除かれ、奪われた神殿の祭具をすべて取り戻し、捕囚の民を神は連れ帰らせる(3節)。なぜなら主がバビロンの王の軛を打ち砕くからだと言った(4節)
  6節「預言者エレミヤは言った。『アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように』」。エレミヤは非国民ではない。その日、その時は決して今ではないことを、示されている。70年後に回復されることは既に語っている(25章12節see)。そこで真実の預言者の言葉は何であったかを問いかける(7節)。昔の預言者たちは多くの国、強大な国に対して、戦争や災害疫病を預言したという(8節)
  9節「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」。これは申命記18章15~22節にある。そこでハナンヤはエレミヤが自ら首にはめていた軛をはずし打ち砕いて(10節)、主は二年のうちにあらゆる国々の首にはめられているバビロンの軛を取り外すと語った(11節)。これは象徴行為である。この時エレミヤは黙って立ち去った。周囲から沸き起こる嘲笑を背にしていたのかもしれない。しかしどれ程の日時が経過したか判らない。
  13節「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。『お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った』」。そしてこれらの国々の首に鉄の軛をはめてバビロンに奴隷として仕えさせると告げた(14節)。
  15節「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」。ハナンヤの預言に神殿に集った祭司たちと民衆は歓声を挙げたであろう。民衆に迎合して解放を叫ぶ場面は想像に難くない。しかしエレミヤは偽りの安心に対する警告を繰り返し語って来た預言者である(6章14節、8章11節、14章13節、23章17節)。この後ハナンヤは死んだ(17節)。
  福音書に見られる主イエスも同じである(ルカ福音書4章28~29節、ヨハネ福音書2章13~17節、18章38~40節etc)。第二コリント6章4~8節に、キリスト者は悪評を浴びても好評を博しても、終始一貫変わることなく神に仕える者の態度を示すことが求められている。偽りの平和主義は厳に避けねばならない。


そうすれば命を保つことができる

2014-07-02 | Weblog
  エレミヤ27章 

  17節「彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都が廃墟と化してよいだろうか」(新共同訳)

  1節「ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の初めに、この言葉が主からエレミヤに臨んだ」。小見出し「軛の預言」。ヨヤキム(11年)、ヨヤキン(3ヶ月)後のゼデキヤ治世(11年・列王記下24章see)の預言である。
  2節「そして、ユダの王ゼデキヤのもとに遣わされてエルサレムに来た、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王の使者たちに伝言を持ち帰らせよ」。主はエレミヤに軛を首にはめて王宮に行くようにと指示した。ゼデキヤはエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王ら周辺諸国と共謀して反バビロン政策を企んでいた(3節)。そこで主の言葉を伝えたのである。
  5節「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える」。大地を造り、人と動物を造った神が、これらの国々をバビロンの手に渡す。ネブカドネツァルに仕え、軛を負うとしないなら剣、飢饉、疫病で国を罰し、滅ぼすと告げる(8節)。
  9節「あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない」。預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いまでが、反バビロン政策に加担している。
  11節「首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる」。これはヒゼキヤ王に向かっても同じ言葉を語るのである(12節)。悲壮な予言だが、その先に平安が約束されている(29章4~6節see)。どうして民が剣や疫病などで死んでよいであろうかと(13節)。
  14節「バビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ」。主は彼らを派遣していない。偽って預言している。わたしは彼らを滅ぼすと告げる。
  17節「彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都が廃墟と化してよいだろうか」。もし彼らが偽りの預言者でなければ、神殿と王宮に残っている祭具と財宝がすべて持ち去られないよう主に願うがよい(18節)。しかし神殿と王宮の祭具は、バビロンに持ち去られることになる。軛を負うのは容易なことではない。奴隷としての苦渋と屈辱をなめることだからである。しかしエレミヤは歴史を支配する神の働きを遥か彼方に認めている。それは「わたしの顧みる日」(21~22節)である。
  古今洋西を問わず人はすべて、罪と死の重荷という軛を負って生きている。抗うことが出来ない究極的な事実である。然し神は御子イエスを、共に軛を負う方とされた。マタイ福音書11章29~30節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。イエスがわたしと共に軛を負われるから、荷は軽くなり日々真の安らぎを得て歩むことができる。