日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

あなたの光とまことを遣わしてください。

2020-05-26 | Weblog
詩43篇 

 3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」聖書協会共同訳

  本詩は42篇に続く内容的同一のものとされている。小見出しはなく、呼び掛けが「神よ」(エろヒーム)と同じであり、42~49篇を「コラ詩篇」とされ、詠唱者(管理者)を担当した。
1節「神よ、私を裁き 私のために争ってください。神に忠実ではない国民から、欺きと不正の者から私を救い出してください」。直訳「また争い給え(ヴエリヴア-)、わが訴えを(リヴイ―)」
2節「あなたこそ、わが砦なる神。なぜ私を拒まれたのですか。なぜ私は敵の虐げの中を嘆きながら歩むのですか。直訳「なぜ私を見放されたのか(ゼナふターニ)岩波訳「なにゆえ私を突き放したのですか」。
3節「あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き、聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう」。本詩は水でなく「光と眞」である。
4節「私は神の祭壇へと、私が喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。」背景は。エルサレム巡礼の行列と音楽を奏でる者らが伺われる。これは捕囚により異国の地よりエルサレムを待望している。神の慈しみも知らず、欺きとよこしまな異邦の民に囲まれているこの境遇から救い出してくださいと切望する。
5節「私の魂よ、なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ」。42篇12節と同じで賛美の中のリレインで、自問自答である。魂は空になる程に思いを集中するのである。直訳「なお、私は彼に感謝する」(オッド オデンヌ)。ヘブライ語対訳聖書では「わたしはなお、告白しよう」と訳している。



私は喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。

2020-05-22 | Weblog
 詩42篇 

 5節「私は祭りに集う人の群れと共に進み、喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。」聖書協会共同訳

1節「指揮者によって、マスキール、コラ」の子の詩。43篇に表題がないことと、6節、12節と、43篇5節に同じ繰り返しがあるところから、この二つは連続した詩と見なされる。
2節「鹿が谷川で水をあえぎ求めるように 神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」かつてはエルサレム巡礼の行列を導いた音楽を奏でる者であったが(43篇4節)、今は捕囚により、エルサレムと神殿から追放され、異教徒に苦しめられ激しい嘆きの中にある。干上がった川床で鹿が水を求めて喘ぐように、私の魂はあなたを慕い喘いでいるという。
3節「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか」。エルサレムの神殿に詣でて主を賛美する日を待ち望む私には涙は昼も夜もパンのようであり、「お前の神はどこにいるのか」と人々の嘲笑が聞こえてくる(4節)。
5節「私は祭りに集う人の群れと共に進み、喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと、導いた。喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。それらをも思い起こして、私の魂を注ぎ出す」。「魂を注ぎ出す」とは心が空っぽになる程に思いを集中することである。
6節「私の魂よ、何故うち沈むのか。何故呻くのか。神を待ち望め私はなお、神をほめたたえる『御顔こそ、わが救い』と。」前述の通り12節、43章5節で繰り返されている。原文「うなだれる(テイシュットはひ-)岩波訳「くずおれる」文語訳「思い乱れる」。しかしなお神の御顔の救いを仰ぐ。
7節「わが神よ、私の内で魂は打ち沈み、あなたを思い起こす ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から」。山頂から雪溶けの水が激流となって流れ下るのである。
8節「あなたの激流のとどろきに答えて深淵は深淵を呼び込み 砕け散るあなたの波頭は私を越えて行く」その流れ下る轟きは神から声である。それは苦難の象徴であるが同時に神の慈愛を読み取ろうとするのである。
9節「昼に、主は命じて慈しみを私に送り、夜にはするm主の歌が私と共にある。わが生ける神への祈りが」
10節「わが岩なる神にこう祈ろう。『なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか』と。
11節「私を苦しめる者は私の骨という骨を砕き、日夜、私を嘲って言う『あなたの神はどこにいるのか』と。」
12節「私の魂よなぜ打ち沈む、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神を褒めたたえる。『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ。
 本詩から神への切なる待望と信仰の祈りが示される。


主は彼が病の床にあっても支えてくださる 

2020-05-16 | Weblog
 詩41篇 

 4節「主は彼が病の床にあっても支えても支えてくださる。その人が病気の時あなたはその床を新たにしてくださる」聖書協会共同訳 
  
 1節指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。この小見出しは40篇と同じである。文頭に「幸いなるかな」(アシュレー)が来る。それは「弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる(2節)。原文「弱い者」(ダる)は3~4節に言及している弱く貧しい者である。聖書は一貫して主なる神への信頼と、同胞への愛の働きかけを連動して説く。つまり愛の業のなかで神の聖意が働くのである。箴言14章31節、マタイ福音書25章31~36節を参照したい。「主が守り、生かし 彼はその地で幸いな人と呼ばれる。その人を敵の思いのままにさせないでください」と。「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気にとき、あなたはその床を新たに変えてくださる」(3~4節)原文「あなたはひっくりかした」(ハフアふタ)「彼の寝床を」(ミシュカヴオ)=「寝返りを打たせた」。文語訳「床を敷き更(か)へ給わん」。ヘブライ語対訳では「立ち直らせてください」とあり、5節とつながる。
 5節「私は言いました『主よ、私を憐れみ、魂を癒してください。私はあなたに罪を犯しました』と」。主語が変わる。ここでは罪と病気とを結びつける伝統的な旧約の理解がある。「罪の病」とは何か。先天的な疾患と、自業自得の罪過とが明確にされていない。イエスの福音は罪と病を止揚するものである(ヨハネ福音書9章3節、ローマの手紙6章22~23節see)。
 6節「敵は私に悪意を持って言います『いつ彼は死に、その名は滅びるか』と」。そして、早く死んでその名も消えうせるがよいという。見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り、悪事を集め、外に出ては言い触らし、私を憎む者は皆、私のことでささやき合い私に悪をたくらみます(7~8節)。
 9節「『不吉なことが彼に起こっている。彼は倒れ伏してもう立ち上がることは出来ない』と」。私が信頼していた友さえも私のパンを食べながら威張って私を足蹴にします(10節)。ヨハネ福音書13章18節でユダの裏切りとして引用されている。
 11節「しかし主よ、あなたは私を憐れみ立ち上がらせてください。私は彼らに報います」。人間の信頼関係に限界があることを教え、それ故に神への信頼によって回復が求められる」。その根拠として
①主の御旨にかなうこと(12節)直訳「あなたが私を愛する事」(はフアツタ)
②反対者(敵)私に向って勝ち誇らない(直訳)凱歌を上げないよう(同)
③このことで、私は知りました あなたが私を喜びとされていることを。敵は私に勝ち誇れないことを」。
 13節「あなたは私を、全き者としてヘブライ語対訳「無垢なわたしを(ベトウミ)支え、とこしえまでもあなたの前にわたしを直訳「直立させた、確率させた」(ヴアタツイヴエ―ニ)
 14節「イスラエルの神、主をたたえよ いにしえからとこしえまで。アーメン、アーメン」。

これは詩篇第一巻(1~41節)の纏めである。
第二巻(42~72篇)、第三巻(73~89篇)、第四巻(90~106篇)
第五巻(107~150篇)。



私の耳を開いて下さった 

2020-05-13 | Weblog
  詩40篇 

 7節「生け贄の供え物も、あなたは喜ばれず私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえも、清めのいけにえも、あなたは求められなかった」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。賛歌。
2節 「私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向って身を乗り出し私の叫びを聞いてくださった」神への嘆願。2~12節は破滅から救われた感謝。後半13~17節は敵の攻撃より神の救助を求める祈りである。「身を乗り出し~」は意訳で「望みに(カヴオー)」「私は待ち望んだ(キヴイーティ)」。
3節「主は私を滅びの穴,泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし」。私の口に新しい歌を我らの神への賛美を授けてくださった。多くの人はこれを畏れ,主に信頼する(4節)。
 5節「幸いな者 主を頼みとする人、ラハブにも、偽りの神に迷う者にも顔を向けない人。」 我が神、主よ、あなたは多くのことを奇しき業と計らいを私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。私がそれを語り伝えようにもおびただしくて数えきれません(6節)。ここで「ラハブ」(複数レハビーム)は「頑固な者、おごる者」を意味し、エジプトの別名である(87篇)4節89篇11節、イザヤ30章7節。岩波訳「暴君」。
 7節「いけにえも供え物も、あなたは喜ばれず、私の耳を開いて下さった。焼き尽くすいけにえ(潘祭)も清めのいけにえ(罪祭)もあなたは求められなかった」。形骸化した礼拝でなく、真の礼拝こそ神は求められるということである。「耳を開いてくださった」は直訳「耳を(オズナイム)あなたは掘った(ヴァはター)私のために(りー)」。出エジプト記21章5節see自主的に主人に仕える徴として行う儀式であった。
 9~12節は6~7節を受けて眞の礼拝を告げる。
 ①あなたの律法は私の胸の内にあります(9節)。直訳「の中に(べとふ)わが腸(メアイ)」
 ②私は義を告げ知らせました。決して唇を閉じません(10節)
 ③正義、直訳「あなたの義」(ツイドウはー)を心の中に秘め置かず…真実(エムナトウはー)と救いを語る(11節)。
④…慈しみ(はスデはー)と眞(まこと)(ヴァアミテはー)を隠しませんでした」(12節)。
  13節「数え切れないほどの災いが私に絡みつき、見ることが出来ないほどの過ちが私に迫りました。それらは私の髪の毛より多く、ここで私の心さえ私を見捨てました(二律背反状態)」。状況は変わるのである。私にからみつく罪からの救いと、命を奪おうと狙っている者と、災いに遭わせようと企む者が退けられるように祈る(14~15節)。詩70編1~6節は14~18節が殆ど同じである。
 16節「私を「あはは、あはは」とはやす者が自ら恥を受け、うろたえますように」。直訳「うろたえますように、彼らの恥のポショタム 結末(エケヴ)」(「あはは、あはは」(はアへ はアへ)=やった、うまくいったゾ。
 18節「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みて下さるように。あなたこそわが助け、わが救い、わが神よ、ためらわないでください」。直訳「遅れ給うな」(ルはアテ)わが神よ(イハろエ )」。
極貧の貧しさ(アニー)が強調されている。それは心打ち砕かれた態度表明である。しかし耳は開かれ(7節)真の礼拝がなされる時、恵みの御業を心に秘めることなく、集会で真実と救いを語り証しするということである(11節)。

主よ、私の祈りをお聞きください

2020-05-09 | Weblog
詩39篇 主よ、私の祈りをお聞きください 

 13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください」聖書協会共同訳 
  
1節 指揮者によって。エドトンの詩、賛歌。ダビデの詩。
2節 私は言った。『舌で罪を犯さないように。わたしの道を守ろう。悪しき者がわたしの前にいるうちは、口に轡をはめておこう』と。神への嘆願。38篇と同じ重い皮膚病を担っているかに思われる。何故口に轡をはめておくのか。それは悩ませている苦難のゆえに人生の空しさつぶやき「神に逆らう者」(口語訳=愚かな者)からのそしりを受けることがないためである。岩波訳「不法者の冒涜と曲解をうけさせぬように言葉を慎む」。ここでは悪意を抱いている者で9~⒑節で繰り返されている。
3節「私は黙り込み、口を閉ざし善いことついても沈黙した。だが、わが私の苦痛は募り」。私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った。(4節)忍耐の限界を覚え、沈黙を破って神に呼びかけずにおれないのである。
5節「主よ、そこで知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい。如何に私が儚いかを」。
6節「そうです あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無にひとしい。確かに立っているようでも人間は皆等しい」。「手の幅」とは四本指の幅で距離(場所―旅路)の表現で僅か10センチにも満たないのである。
7節「人は影のように歩き回り、空しいことであくせくしている。積み上げはするが、誰が集めるか知らない」。「空しいことであくせくする」直訳「虚しく(ヘヴェる)彼らは騒ぐ(イエへマユン)」。地上で積んだ富は、誰の手に渡るのか判らないが、知らぬ間に消えてしまう。「影の中」(ベツェれム)は暗黒の中のことである。
8節「今、私は何に望みを置きましょう。わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです」。背きの罪のすべてから私を助け出してください。愚かな者のそしりを受けることのないようにしてください(9節)。「愚かな者のそしりを受けること」直訳=「恥としてヘるパット 愚か者のナヴアる 私を 置き給うな アるテスイメーニ」,岩波訳「愚かな者の笑い草として置かないでください」
10節「私は、黙り込み口を開きません。あなたがそうなさったからです。」これは3節にもある。私は御手に撃たれて衰え果てています。私をさいなむその御手を放してくださいと訴える(11節)。「御手に撃たれて」は意訳で「あなたの手の(ヤデウは-)打撃によって(ミティグラット)」。肉体的苦痛を指す。岩波訳では「あなたの鞭を私から離して下さい」となっている。
12節「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆空しい」。新共同訳は「虫けら」であるが直訳は「しみが食い尽くす」で漢字では「衣魚、紙魚」で「しみ虫」と呼ばれるので間違いでは無いが、ヨブ記4章19節、エフェソ5章28節など出てくる。
13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないで下さい。私はあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人」。しかし結語では、苦難の中で虚しさを覚えながら唯一残されたことは主への祈りである。私の祈りを聞き、叫びに耳を傾け、涙に沈黙しないで下さいと訴える。影の中にうつろう日々では無く(7節)、あなたと伴う寄留者、居住者としてくださいと祈る。私が去って行く前に、私を立ち直らせてくださいと心から嘆願する祈りである。
14節「私から目を離して下さい。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に」。「目を離して」は直訳「目をそらせ給え(ハシャは)」で立ち直る為である。別訳は「解放する」(ヨブ記22章7節、イザヤ22章4節)である。空しい人生が転換する信仰を、ここで読み取ることができる。




私の望みはすべてあなたの前に

2020-05-05 | Weblog
  詩38篇  

 10節「わが主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります」聖書協会共同訳 
  
1節 賛歌、ダビデの詩。記念のために。2節「主よ、怒って私を責めず、憤って私を懲らしめないでください」見出しの「記念」とは素祭(レビ記2章1節)の中で火祭として献げる感謝を表している。
本詩は七つの悔い改め(6,32、38,51,102.130,143各編)の一つ。先ず神の怒りから解放されることを嘆願する。わたしは「矢で射抜かれ、押さえつけられた獲物」のようだと訴えている(3節)。あなたの矢がわたしの中に突き刺さったという。痛みが全身に走るのである。矢を射られた獲物が暴れて逃げる有り様を想定している。
 4節「あなたの憤りのために私の肉体は健やかなところはなく 私の罪のために骨に安らぎはありません」。「私の過ちは頭を越えるほどにもなり、罪が耐えがたい重圧となって押しつぶされるほどだと告白する」(5節)。
①骨は痛む(4節) ②負った傷は膿んで悪臭を放つ(6節)
③身をかがめてうなだれて歩く(7節) ④腰はただれ(8節)
⑤体は健やかなところはない(8節) ⑥力は失せて立てないほどである(9節)それは重い皮膚病に罹っている有り様である。
 10節「わが主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります。嘆きもあなたから隠されていません」。願いと嘆きはすべて御前にあるという。そして取り巻かれている孤独な状況を告白する(11節)。その時、愛する者も。友も、身近な者も避けて離れていくのである。ここに孤独の苦悩がある。そして彼は何一つ反駁しないのである(12節)。命を狙う者、禍を望む者らは一日中欺き罠を仕掛けて「欺こう」「破滅させよう」となえている(13節)。私の耳は聞こえず、口は開くことも出来ない状態になっている(14~15節)。
 16節「主よ、私はあなたを待ち望んでいました。わが主よ、わが神よ、あなたは答えて下さいます」 私は言いました『私のことで彼らが喜ばないように』と。私の足が揺らぐと、彼らは私に尊大に振舞いました(17節)。
 18節「私は今にも倒れそうです。常に痛みが私の前にあります」。これは94篇18節にもある。解決は自分の過ちと罪過を言い表して主に祈ることだと言う(19節)。「私の敵は意気盛んで(原文「生き生きとして(はイーム)強くなる(アツェーム-)」、数を増し、私を憎む偽り者が増えています。善に悪をもって報いる者が善を求める私を訴えています」(20~21節)。
 22節「主よ、私を見捨てないで下さい。我が神よ、私から遠ざからないでください。」急いで私を助けに来てください。わが主、わが救いよ。(23節)」
苦悩と悔恨の情念が溢れている詩篇である。苦悩は彼らになした善に、悪で報いるという不条理である(35篇12~13節see)。
 キリスト者には苦難を受容する信仰がある。イエス・キリストの十字架と復活を通して、すべての罪と死との支配から解放される。そしてその恩寵は苦しみと病を受け入れることとなる。「世に勝つ信仰」(ヨハネ福音書16章33節)、であり、正に「恩寵無限」である。