日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

知識と才能を神から恵まれ

2014-11-29 | Weblog
  ダニエル1章 

  17節「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」(新共同訳)

  1節「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した」。本書は預言書に位置付けているが、ユダヤ教は諸文書でエステル記の次に来る。形式と内容から黙示文学と見ることができる。六章までダニエルは三人称であるが、七章以降は一人称である。ヨヤキム即位三年目は、紀元前606年であるが、実際は598年第一回捕囚のこと(歴代誌下36章5~7節、列王記下24章1~17節see)。
  2節「主はユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた」。背後に神の御手があったという。主なる神が主導権を持ち、本書の前提になっている。
  4節「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた」。王の命令でイスラエル人の中から少年らが選ばれ、侍従長の管理下に置かれ、三年間宮廷で祭儀教育をうけることになる(5節)。四人の少年の名前が挙げられるが、侍従長はユダヤ名からバビロン姓に変えさせる(6~7節)。
  8節「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た」。少年の一人ダニエルは宮廷で偶像に献げられた肉類と酒の下がり物で身を汚すことを拒んだ。神の御計らいで、侍従長は彼に好意を示し、親切にした(9節)。侍従長は、この申し出に対し、王の命令に違反することを恐れたが、ダニエルは一つの提案をした(10~11節)。その提案は十日間食べ物を野菜だけ、飲み物は水だけにして、宮廷の少年たちと顔色で比べて見てくださいというもの(12~13節)。その結果顔色と健康は彼らより良かったので、ダニエルの願い通りになった(14~15節)。
  17節「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」。彼らは三年間知識と才能、知恵と理解力を神から与えられ、バビロンの若者たちより優れていた(17節)。体力、知力、霊力に優っていたのである。ダニエルについては、二章の伏線となっている。侍従長は四人を王の前に連れて行き、少年らと王は語り合ったが、バビロンの王宮に仕える者らと並ぶ者はいなかった(18~19節)。
  20節「王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていた」。

  主イエスの幼少期のことがルカ福音書に出ている。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(2章40節)。コヘレト12章1節では「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とある。

その日から『主がそこにおられる』と呼ばれる

2014-11-28 | Weblog
  エゼキエル48章 

  35節「都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から『主がそこにおられる』と呼ばれる」(新共同訳)

  1節「部族の名は次のとおりである。『北の限界は、ヘトロンの道からレボ・ハマトを経てハツァル・エナンに至る。これがダマスコとの国境である。その北側にハマトがある。その東の端から海までがダン族のものである。これが一部族』」。新しいイスラエル全体の嗣業地の境界線が北東南西に示されたが(47章15~20節)、ここでは各部族の境界線を記している。その最初が北からダン族である。続いてダン族の境界線に沿って東端から西端までアシェル族(2節)、同じ境界線に沿ってナフタリ族(3節)、マナセ族(4節)、エフライム族(5節)、ルベン族(6節)、ユダ族と続く(7節)。ここに七部族が挙げられる。それぞれ土地の南北の幅を機械的に測るが、地形から同一とはならない。
  8節「ユダ族の境界線に沿って、東の端から西の端までは、あなたたちがささげる献納地にしなければならない。その幅は二万五千アンマで、長さは東の端から西の端に及ぶ各部族の割り当て地の長さと同じである。その中央に聖所が置かれる」。ユダ族の境界線に沿って献納地が定められる。これは既に45章1~5節にあるのと同じである。長さは二万五千アンマ×幅一万アンマがツァドクの子孫である祭司で、中央に聖所がくる(8~12節)。それに隣接して長さは二万五千アンマ×幅一万アンマがレビ人のものである(13~14節)。
  15節「幅五千アンマ、長さ二万五千アンマの残りの土地は一般用であり、居住地として、また牧草地として都に属するものである。都はその中央に置かれる」。中央に居住地に囲まれた都があり、大きさは四千五十アンマの西方形である(16節)。都には二百五十アンマ西方形の牧草地がある(17節)。残りの土地は一般用の耕作地である(18~19節)。聖なる献納地(祭司とレビ人の土地)と都の所有地の残りは君主の所有地となる(20~21節)。
  23節「また残りの部族については、東の端から西の端まで、先ずベニヤミン族のものである。これが一部族」。残り五部族の割り当てでベニヤミン族につづいてシメオン族(24節)、イサカル族(25節)、ゼブルン族(26節)、ガド族(27節)の割り当てとなる。
  30節「都の出口は、次のとおりである。北側は長さ四千五百アンマである」。都の出口の門であるが、都の北側の門はルベン、ユダ、レビの三つ(31節)、東側はヨセフ、ベニヤミン、ダンの三つ(32節)、南側はシメオン、イサカル、ゼブルンの三つ(33節)、西側はゴド、アシェル、ナフタリの三つ(34節)。十二部族だが、嗣業地のなかったレビの名があり、またマナセとエフライムはヨセフになっている。
  35節「都の周囲は一万八千アンマである。この都の名は、その日から『主がそこにおられる』と呼ばれる」。捕囚後の新しいイスラエル十二部族を幻として描いたのは、整えられた信仰共同体であることを預言者エゼキエルは求めたからである。
 
  本書の結論は、都と神殿が中心に位置つけられ、絶対的神聖性を示しているといえる。ここで示される新約聖書箇所は、第一コリント6章19~20節である。

群がるすべての生き物は生き返り

2014-11-27 | Weblog
  エゼキエル47章 

  9節「川が流れていくところではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(新共同訳)

  1節「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた」。小見出し「命の水」。エゼキエルは神殿から水が流れ出る異象を見る。この神殿は40~43章に描き出されていたものである。
  2節「彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた」。東門は閉まって入れないので北門から入って見た。測り縄を持つ人に出合い、先ず東の方から測ると一千アンマ(約525メートル)まで足のくるぶしの水量(3節)、更に一千アンマで膝の深さ、更に一千アンマで腰に達した(4節)。続いて一千アンマを測ると渡ることが出来ない川となった(5節)。
  6節「彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した」。測り縄をもつ人物は預言者を川岸に立たせた。見ると川岸にはこちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた(7節)。彼は、これらの水は東の地域へ流れ、死海から更にアラバ湾にまで下り、その汚れた海に入った。するとその水はきれいになると告げた(8節)。
  9節「川が流れていくところではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」。その魚を漁師たちは獲り、網を岸辺で干す(10節)。両岸の茂る樹は、葉は枯れず果実は絶えることなく月ごとに収穫する。葉は薬用となる(11~12節)。同じ言葉をヨハネ黙示録22章1~2節にみる。 
  13節「主なる神はこう言われる。『あなたたちが、イスラエルの十二部族に土地を嗣業として割り当てるときの境界線は、次のとおりである…』」。聖なる領地を十に部族に割り当てる。先にヨセフの割り当て分を決める(14節)。そして北東南西の順で境界線を設定する。北の端(15~17節)、東の端(18節)、南の端(19節)、西の端(20節)。寄留している外国人の割り当て地(21~23節)。但し滞在して子どもが与えられている人である(22節)。レビ記19章34節see。荒れ野と砂漠に囲まれた地域にあるヨルダン渓谷は現代でもユダヤ、パレスチナにとってはライフライン(Life line)である。これはイスラエル旅行をすると実感できる。

  聖書は水が湧き出ることで神の祝福を表している(イザヤ書35章、詩46篇)。主イエスはご自身を「いのちの水」として証言された(ヨハネ福音書4章14節、7章37-38節)。正にイエスは 「この水が流れる所では、すべてのものが生き返る」(10節)とは、正に主イエスを預言する言葉である。

朝ごとの焼き尽くす献げ物である

2014-11-26 | Weblog
 エゼキエル46章 

  15節「朝ごとに、小羊一匹と穀物の献げ物と油をささげねばならない。これは、変わることのない朝ごとの焼き尽くす献げ物である」(新共同訳)。

  1節「内庭の東向きの門は、仕事をする六日の間、閉じておかねばならない。安息日には門を開く。また、新月の日にも門を開かねばならない」。神殿には東南北と三つの門があり、東門は君主が入る門である。君主は祭司が「燔祭と酬恩祭」(口語訳)を献げている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして門の敷居の所で礼拝したのち、出ていく。門は夕方まで閉じてはならない(2節)。民は、安息日と新月に、門の入り口の所で主に向かって礼拝しなければならない(3節)。
  4節「君主が、安息日に主に献げる焼き尽くす献げ物は無傷の小羊六匹と無傷の雄羊一匹である」。更に穀物の献げ物が付加される(5節)。新月にささげる献げ物の規定であるが、この時は更に無傷の雄牛一頭が加えられる(6~7節)。
  8節「君主が入るときは、門の廊を通って入り、また、そこを通って出て行かねばならない」。国の民が、定められた祝日に主の前に入るときは北の門を通って、礼拝に来た者は南の門を通って出て行き、南の門を通って来た者は、北の門を通って出て行かねばならない。君主と民の出入りする門が異なる。民は同じ門から出入りしないという規定(9~10節)。
  11節「巡礼の祭りと定められた祝日とに、穀物の献げ物は、雄牛一頭について麦粉一エファ、雄羊一匹について麦粉一エファ、小羊については、彼が望むだけの穀物の献げ物をささげる。また、麦粉一エファについて、油一ヒンを添える」。安息日、新月以外の祭りの献げ物で、ここでは巡礼の祭り(過越祭、七週祭、仮庵祭)と定められた祝日の献げ物の規定である(45章17節see)。
  13節「あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない」。祭司に向けて告げられている朝ごとの「焼き尽くす献げ物」(燔祭)」、「穀物の献げ物」(素祭)についての規定。この「常燔祭」(口語訳see)は、朝毎になすべき変わらない永遠の掟である(14~15節)。
  16節「主なる神はこう言われる。『君主が、その子のだれかに嗣業を贈与するならば、それはその子の所有地となり、それは嗣業に含まれる』」。君主の子への嗣業の贈与(相続地=新改訳)であるが、家臣に贈与した時は解放の年に返すことになる(17節)。民の嗣業は取り上げてはならに(18節)。解放の年とは、ヨベルの年のことである(レビ記25章10節see)。
  19節「彼はまた、門の傍らにある入り口から、北に面した祭司の聖なる部屋にわたしを連れて行った。そこには西向きの隅に一つの場所があった」。献げ物の調理する場所は西向きの隅で、そこで調理する(20節)、外庭の四隅に石垣で囲まれた所に運び(23節)、その場所で煮る(24節)。

  ここでは「変わることのない朝毎の焼き尽くす献げ物」(15節)に注目したい。永遠の掟だとある。日々の日課は怠りやすいからだ。これはキリスト者にとっては「朝毎の祈りの祭壇」である。アシュラム運動は「朝毎の静聴」(朝の十五分)を生活化するものである。哀歌3章22~23節が示される。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(口語訳)

贖罪の献げ物

2014-11-25 | Weblog
 エゼキエル45章 

  22節「君主はこの日、自分自身のため、また、国のすべての民のために、贖罪の献げ物の雄牛をささげねばならない」(新共同訳)

  1節「あなたたちが、国を嗣業として割り当てるときは、土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない。その土地は、長さ二万五千アンマ、幅二万アンマであり、この領域は周囲全体にわたって聖なるものとなる」。小見出し「聖域」。神殿の周囲に聖なる献納地として二万五千×二万アンマが定められた。献納地の中心にある聖所の区域(五百アンマ)の周囲に幅五十アンマ=放牧地となる(2節)。献納地の中で二万五千×一万アンマ=祭司のもので、彼らが家を建てる場所となる(3~4節)。残る二万五千×一万アンマは神殿に仕えるレビ人の所有となり、彼らの住む町となる(5節)。その献納地に隣接して、幅五千×二万五千アンマは都の所有地で君主が治める(6~8節)。
  9節「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる」。君主には「正義(ミシュパート)と恵みの業(ツェダーカー)」口語訳「公道と正義」が求められる(33章16節see)。 
  10節「あなたたちは、正確な天秤、正確なエファ升、正確なバト升を用いなさい」。正しい度量衡の規定が示される。エファ升(麦用)とバト升(油用)は同じ量の入れ物で十分の一ホメルである(11節)。献げ物は、大麦も小麦もエファ升で一エファの六分の一である(13節)。一コルは一ホメルと同じ(14節)。これらの正しい量りを用いて献げ物をすることが求められる(15節)。民は献げ物を君主のもとに持参しなければならない。
  17節「そして君主は、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物を、巡礼の祭り、新月の祭り、安息日、およびイスラエルの家に定められたすべての祝日にささげねばならない。君主は、イスラエルの家の贖いのために、贖罪の献げ物、穀物の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげねばならない」。これらを「公平と正義」に基づいてすることは既に厳しく要求されている(9節)。
  18節「主なる神はこう言われる。『一月一日に、あなたは無傷の雄牛の子一頭を取って、聖所を清めねばならない』」。これは一月一日の贖罪日についての規定で、祭司は贖罪のいけにえの血を神殿の門柱と祭壇の四隅と内庭の門柱に塗らねばならない(19節)。十四日には、過越祭を七日の間祝い、酵母を入れないパンを食べねばならない(21節)。出エジプトを記念する過越祭である(出エジプト12章see)。
  22節「君主はこの日、自分自身のため、また、国のすべての民のために、贖罪の献げ物の雄牛をささげねばならない」。新しく建国されるイスラエルは、君主も民もみな聖なる神の前に罪の贖いの献げ物を必要としている。
  25節「七月十五日の祭りにも、同じように七日の間、贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物と油をささげねばならない」。口語訳「七月十五日の祝い日に、彼は七日の間、罪祭、燔祭、素祭および油を…供えなければならない」。これは仮庵祭である(レビ記23章34節)。
  神は独り子イエスをこの世に降し、肉において生き、十字架の死を通して「永遠の救いの源」とされたのである(ヘブライ5章9節)。御子は「罪を取り去るために只一度ご自身をいけにえとして献げられた」(同9章26~27節)。イエスこそ神の御前に、唯一の献げ物(同10章14節=Once for all)である。

わたしが彼らの嗣業である

2014-11-22 | Weblog
 エゼキエル44章 

  8節「彼らは嗣業を持たない。わたしが彼らの嗣業である。あなたたちはイスラエルにおいて彼らに財産を与えてはならない。わたしが彼らの財産である」(新共同訳)

  1節「それから、彼はわたしを東に面した聖所の外の門の方へ連れ戻した。門は閉じられていた」。この門は閉じられたままにしておき、開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからであると告げた(2節)。主なる神が神殿に臨在することを示すためである。そして君主(上に立つ者)だけは主の前でパンを食べてよい。門の廊から入り、そこから出て行く(3節)。
  4節「それから、彼はわたしを北の門を通って神殿の前に連れて行った。わたしが見ると、主の栄光が主の神殿を満たしていた。わたしはひれ伏した」。小見出し「祭司の務め」。すべての掟とすべての律法に心を留め、特に、神殿に入ってよい者と、聖所から排除すべき者すべてに注意せよと告げられた(5節)。それは王国時代に雇われて神殿奉仕をしていた無割礼の外国人である(6~9節)。
  10節「レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない」。神殿で奉仕をするが、神殿のそれぞれの門に詰めて、神殿で行われるさまざまな雑務の仕事が課せられる(14節)。神殿の雑務とは、門衛や犠牲の動物のなどである。
  15節「イスラエルの子らが迷って、わたしから離れたとき、わたしの聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、わたしに近づき仕えることができる。彼らはわたしの前に立って、脂肪と血をささげねばならない、と主なる神は言われる」。聖所の務めをするのは、ツァドクの子孫のレビ人の祭司である。民数紀、レビ記にあるアロンの子孫のレビ人の祭司と厳密に別ける。
  17節「彼らが内庭の門に入るときは、亜麻布の衣服を着なければならない。内庭の門と神殿で仕えるときは、羊毛のものを身に着けてはならない」。祭司らの着用する規定である。頭につけるターバン、腰につける短いズボン、着用した衣服を部屋で脱いで置いて、別な衣服で外庭に出る規定(18~19節)、頭髪についての規定(20節)、飲酒の規定(21節)、婚姻についての規定(22節)。
  23節「彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない」。争いの裁きと安息日の聖別(24節)、身内の死人についての規定、身を清め七日間待つ、そして再び聖所に入る時の規定(25~27節=レビ記21章1~3節see)。
  28節「彼らは嗣業を持たない。わたしが彼らの嗣業である。あなたたちはイスラエルにおいて彼らに財産を与えてはならない。わたしが彼らの財産である」。農業に携わらない祭司らは嗣業の地を持たない。彼らは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物としてささげられたものを食べることができるのである(29節)。
  30節「あらゆる初物の献げ物の中で最良のものはすべて、また、あなたたちがささげるすべてのものの中で最良の献げ物はすべて、祭司のものとなる。あなたたちが初物の麦粉で作ったものも祭司に与えねばならない。あなたたちの家に祝福をもたらすためである」。祭司は鳥でも獣でも自然に死んだもの、かみ殺されたものすべて食べてはならない(31節)。初物の献げ物は祭壇で焼かれないで、祭司の取り分となる。ここで祭司が嗣業を持たないのは、主なる神が最良のもので養われるからだと判る。
  キリスト者も祭司の職に任じられた者である(第一ペトロ2章9節)。そうならば、最も良いもので主に養わるという自覚を促される。最も良いものをくださる方への信頼を深くしたいものである(マタイ福音書6章33節、7章11節see)。

わたしはあなたたちを受け入れる

2014-11-20 | Weblog
  エゼキエル43章
 
  27節「これらの日が終わると、八日目以後、祭司たちはあなたたちの焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を祭壇にささげる。そして、わたしはあなたたちを受け入れる」と主なる神は言われる」(新共同訳)

  1節「それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた」。小見出し「主の顕現」。エゼキエルは東門に立つと、大水のとどろきのような音と共に神の栄光が近づき大地は輝いている幻を見る(2節)。それはケバル川の河畔で見た幻と同じであった(3節、1章1節see)。主の栄光は東の門から神殿の中に入り、霊は彼をひき上げて内庭に導いた(4~5節)
  6節「わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた」。それは麻縄と測り竿を持った男の声である(40章3節)。この場所は神の王座のあるべき場所で、神が臨在される処であり、神殿に隣接する土地に建てた王宮で王が死体を葬る時、誤って神殿を汚すようなことはない(7節)。王宮と神殿にある門柱と敷居との隔たりは壁ひとつだった(8節)。
  9節「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」。彼らがその罪を恥じるなら、神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせ、それを書き記し、そのすべてを施工させよと告げる(10~11節)。これが神殿に対する律法である(12節)。
  13節「 祭壇の大きさをアンマで示すと、次のとおりである。ただし、これは普通のアンマに一トファを加えたものである。祭壇の土台の周囲の溝は深さ一アンマ、幅一アンマで、溝の周囲の縁取りの高さは一ゼレトである。祭壇の台座は、次のようである」。土台の周囲の溝、台座、下段と中段と上段の幅と高さ、祭壇の炉の高さと幅と長さ、炉を支える段の幅と長さ、周囲の縁、溝の設計図(14~16節)。祭壇は東門の正面の内庭に向かった位置にある(17節)。
  19節「ツァドクの子孫であるレビ人の祭司だけが、わたしに仕えるためにわたしに近づくことができる、と主なる神は言われる。あなたは彼らに贖罪の献げ物である若い雄牛を与えなさい」。先ず祭壇を聖別する掟が求められる。それはツァドクの子孫であるレビ人の祭司によるのである。彼らに贖罪の献げ物である若い雄牛を与えなさいと言われる。次にそれを聖所の外の神殿の定められた場所で焼き、翌日は無傷の雄山羊を同じように献げる(21~22節)。この後七日間贖罪の献げ物が祭壇で焼かれ、祭壇の聖別がなされる(23~26節)。雄山羊の場合は二日目からで六日間となる。口語訳は「焼き尽くす献げ物」=燔祭、「贖罪の献げ物」=罪祭である。八日目以降は、燔祭と和解の献げ物である。こうして、神はあなたたちを受け入れると言われる(27節)。「和解の献げ物」(酬恩祭)は、犠牲の動物の脂肪部分を取除いた肉を祭司たちが和解の印しとして食するのである(レビ記3章)。
  罪祭と燔祭と酬恩祭(口語訳)によって神と和解と一致の関係が成立するという旧約律法は、「唯一の献げ物」となられたイエス・キリストによって成就していることを、キリスト者は確認しなければならない。ヘブライ10章14節を読みたい。「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。


身に着けた衣服はそこに置く

2014-11-19 | Weblog
  エゼキエル42章 

  14節「祭司たちが聖所に入ったときは、聖所からそのまま外庭へ出てはならない。務めの時に身に着けた衣服はそこに置く。なぜなら、それは神聖だからである。彼らは別の衣服に着替えて、民のいる所に近づかねばならない」(新共同訳)

  1節「それから、彼はわたしを北側の方の外庭に連れて行き、神域と別殿に対して北側にある部屋に入らせた」。正面の横幅百アンマ、奥行五十アンマで、内庭に向い合って三段の階段状の建物があった(2~3節)。その部屋の前に幅十アンマの通路があり、内庭沿って1アンマの道があった(4節)。最上階の並んでいる部屋は狭くなり、建物は三段で柱はなく、外庭に通じる部屋に沿う外側には50アンマの境壁あった(5~7節)。建物の全長は100アンマ、東側からの入口があった(9節)。
  10節「そこから外庭の境壁が始まっていた。東側にも、神域と別殿とに沿って部屋があった」。東側の部屋は横幅、奥行、入口、そこに通じる道は、北側の部屋と同じである(11~12節)。
  13節「この場所で、主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる。またそこに、彼らは最も神聖なものを置く。それは穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物である。この場所が神聖だからである」。その場所は、祭司らが食事するところであり、神殿で執り行う「素祭、罪祭、愆祭」(口語訳)の献げ物の保管場所である。祭司たちが聖所に入ったときは、聖所からそのまま外庭へ出てはならない。務めの時に身に着けた衣服はそこに置く。なぜなら、それは神聖だからである。彼らは別の衣服に着替えて、民のいる所に近づかねばならない。更に祭司らの着衣を脱ぎ替える所でもある(14節)。
  15節「彼が神殿内の測量を終わると、東に面している門からわたしを外へ連れ出し、そして、彼は周囲を測った」。神殿の外側の測量となる。先ず東側から始める。次に北側に移り、続いて南側、そして西側で、各々五百アンマの正方形である(16~19節)。それは聖俗の境界を表わす(20節)。これが聖域である。
  40章から42章で神殿の左右対照の幾何学的な建造物がすべて記述されている。しかしレビ記や出エジプト記にあるような職人の手による内部装飾や色彩、金や銅の鋳造の祭具などは無い。エゼキエルは、神の聖なる臨在を示す神殿を幻として描いたと思われる。そこで少しばかり見えてくるのが13~14節である。特に祭司が聖所で祭壇に犠牲を献げる奉仕の後に、務めの時に身に付けた衣服を脱いで別の衣服に着替えることが求められている。つまり聖なる衣服をまとうことである。これは「白い衣」であろう。新約聖書ヨハネ黙示録には「白い衣」が多く出ている(3章4、5、18節、4章4節、6章11節、7章9、14節、19章14節)。「キリストを着る」はローマ13章14節、ガラテヤ3章27節、「朽ちないものを着る」第一コリント15章53節、「新しい人を身に着ける」エフェソ4章24節、コロサイ3章10節。関連する聖句として第二コリント5章3~4節がある。
  因みに「キリスト者は羊の皮をかぶった狼だ」と厳しく偽善をあばき批判をしたのは、伝道者、聖書学者、神学者、説教家の「聖書正典論」を著された渡辺善太(1885年~1978年)で、晩年は銀座教会名誉牧師でした。


ここが至聖所である

2014-11-18 | Weblog
 エゼキエル41章 

  4節「更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると二十アンマ、その横幅も二十アンマであった。そして彼はわたしに、『ここが至聖所である』と言った」(新共同訳)
 
  1節「彼はわたしを拝殿に連れて行った。まず、脇柱を測ると、こちら側の幅は六アンマ、あちら側の幅も六アンマであった。これが脇柱の幅である」。拝殿の測量であるが、内庭の正面に位置する拝殿の脇柱につづいて、入口と壁の幅(2節)、次の入口の幅と両脇の壁の幅を測る(3節)。更に拝殿の奥行きと横幅は同じで、「ここが至聖所である」と言った(4節)。それぞれ20×20アンマの二つの正方形である(列王記上6章20節see)。新改訳「本堂」
  5節「彼が神殿の壁の厚さを測ると六アンマ、脇間の幅は四アンマで、神殿の周囲を囲んでいた」。拝殿の周囲に三十の脇間があり三階建(5~6節)、「突き出た処」とは階段である。神殿を囲んでいる上に行くほど広くなる回廊(7節)、脇間の土台は一段と高く舗装された脇間の土台(8節)、脇間の外側の壁、神殿の周囲とある空き地(9~10節)。脇間の入口南北にあり、周囲にある空地の幅(11節)。脇間は祭儀に用いる道具や神殿の宝物を入れる部屋であろう。
  12節「神殿の西側にある神域に面した別殿は奥行き七十アンマ、建物の周囲の壁は厚さ五アンマ、建物の横幅は九十アンマであった」。西側の別殿と神殿との間に聖域がある。神殿と別殿は聖域をいれて、それぞれ百アンマの正方形である(13~15節)。拝殿の内側外側の壁にはケルビムとなつめ椰子の模様が刻まれている(17~20節)。別殿は祭殿用の木材や、犠牲の動物の置き場と考えられている。
  21節「拝殿の入り口には四つの側柱があった。聖所の前にあったのは」。木製の祭壇と聖卓、「これは主の前に置かれた聖卓である」と言った(22節)。拝殿と聖所の二つの扉(23~24節)、廊の正面の格子と明かり取りの窓(25~26節)。
  本章から何を学ぶか。預言者エゼキエルは神殿、拝殿、別殿と神から示された設計図を書き綴っているが、それは神礼拝中心の生き方をイスラエルの民に表わそうとしたのであろう。
 キリスト者にとって神の神殿とは、一人ひとりのキリストに結ばれた共同体である。それを表わす聖書個所は、第一コリント6章19節、第二コリント6章16節、第二テサロニケ2章4節にあるが、特に第一コリント3章16~17節(新共同訳)を挙げたい。
 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」


都のように建設された物

2014-11-17 | Weblog
 エゼキエル40章 

  2節「神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった」(新共同訳)

  1節「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った」小見出し『新しい神殿の幻』。エゼキエルは、幻のうちにイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に降ろされた。そして崩壊したエルサレムの14年後の様子を示される(2節)。それは紀元前573年新年祭の贖罪日の出来事であったという(レビ記25章9節see)
  3節「主がわたしをそこへ連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた」(3節)。彼は先ず神殿の周囲を囲む外壁を測り竿で測った(4~5節)。続いて東門から入り門の敷居(6節)、控えの間と控えの間の間隔(7節)、廊門の奥行(8節)、東の三つの控えの間と両側の門、脇柱、仕切り(9~11節)、控えの間全体と廊門(12~15節)、そして格子窓を測った(16節)。
  17節「更に、彼はわたしを外庭に連れて行った。すると、そこに部屋があった。庭の周りには敷石があった。敷石に沿って、その周りには三十の部屋があった」。庭の敷石に沿った三十の部屋(17~18節)、東側の門に沿った庭と門の脇柱と廊(19節)、北側の門と三つの控えの間は東側と同じ(20~23節)、南側の門も東側と同じ(24~27節)。
  28節「更に、彼は南に向いている門から、わたしを内庭に連れて行った。南の門を測ると、前の場合と同じ寸法であった」。南の門と控えの間、脇柱と廊は外庭の門と同じで石段で八段上がる(28~31)、右回りに東門(32~34節)、北門(35~37節)。献げ物の動物を洗う部屋、二つの聖卓(38~39節)、廊門の内側と外側にある八つの聖卓それぞれの大きさ(40~42節)。歌い手の部屋、祭司の務めの部屋(43~47節)、神殿に入る石段と神殿の廊(48~49節)。この測量は42章まで続く。

  記述を追って行くと、神殿全体の構造が厳密に計られているが、これを鳥瞰図にするのは難しい。ここから何が見えてくるか。預言者エゼキエルは新しい国の復興をエルサレム神殿中心に精緻に描いた。バビロンから帰還した民は、ソロモン神殿を思い浮かべて第二神殿を建設した。そしてユダヤの統治をしたヘロデも紀元前20年に財を尽くして神殿建設に着工した(完成は紀元64年)。しかし、それらの神殿はすべて戦禍によって消滅し、崩れた城壁は地下に埋もれてしまった。近年行われた城壁の発掘作業で、その破壊された石垣の層が、幾層も浮び上がっている。それは紀元二世紀以降、トルコ軍やイスラム教徒らによる争奪戦を物語っている。
  主イエスはエルサレム神殿の石垣の崩壊を予告した(マタイ福音書24章1~2節)。そして真の礼拝は石垣で築かれた神殿に依らないことを告げている(ヨハネ福音書4章23~24節)。特に24節である。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。

熱い思いをもって憐れむ

2014-11-14 | Weblog
  エゼキエル39章 

  25「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ」(新共同訳)

  1節「人の子よ、あなたはゴグに向かい預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう」38章に続く預言。主なる神はゴグを滅ぼす。北の果てから導いてイスラエルの山々に来させ、左手から弓を叩き落とし、右手から矢をも落す(2~3節)。
  4節「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える」。裁きの火が送られ、同志討ちしていたゴグの軍隊は、敗北し消滅することが告げられる(5~6節)。
  7節「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる」。これによって聖なる名は、諸国民に対しても知らせることになる。すべての武器は燃やされ、七年間燃料となる(9節)。
  11節「その日、わたしはゴグのために、イスラエルの中のよく知られている場所を墓地として与える。それは海の東の旅人の谷である。その墓は旅人の道をふさいでしまう。人々はそこにゴグとすべての軍勢を埋め、そこをゴグの軍勢の谷と呼ぶようになる」。そこはゴグの軍勢の谷と呼ばれる。「旅人の道をふさぐ」とは汚れて近づけないこと。民は国中を行き巡り七カ月間骨を探してゴグの谷に埋める(14節)。そこに標識を立てておく(15節)。
  17節「人の子よ、主なる神はこう言われる。あらゆる種類の猛禽と、あらゆる種類の野の獣に語りなさい。お前たちは集まれ。来て、わたしがお前たちのために屠ったわたしの犠牲に向かい周囲から集まれ。それはイスラエルの山々の上での大いなる犠牲である。お前たちはその肉を食らい、その血を飲め」 猛禽と野の獣が死体を食べるという奇怪な光景であり、4節にあるが、11~16節と文脈が合わない。「ゴグの軍勢の谷」に猛禽と野の獣が群り来て、墓を掘り起こして食べるということなのか。それはイスラエルが犠牲の雄羊、小羊、雄山羊、雄牛を犠牲として祭壇に献げるのと重ね合わせている(18節)。おぞましい預言である。
  22節「その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる」。イスラエル回復の預言国々はイスラエルの捕囚と、神が彼らを敵の手に渡したこと、汚れと罪に応じて行ったことを知る(23~24節)。そして回復が実現するという。
  25節「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ」。口語訳「それゆえ、主なる神はこう言われる、いまわたしはヤコブの幸福をもとに返し、イスラエルの全家をあわれみ、わが聖なる名のために、ねたみを起す」。エゼキエルの神は「熱い思いをもって憐れむ神」=熱情(キナー)の神である(16章38、42節、23章25節、36章5、6節、38章19節)。
  29節「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐと主なる神は言われる」。不思議な光景から引き出される結論は、戦争の武器の無い、戦死もない永遠の平和な世界である。本章にも「平和の契約」が背景にある(34章25節)。

熱情と怒りの火をもって語る

2014-11-12 | Weblog
 エゼキエル38章 

  19節「わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる」(新共同訳)

  2節「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して」。小見出し「マゴグのゴグに対して」。マゴグのゴグに対する預言は38~39章である。マゴグは「ゴグの地」、スクテヤ人と言われるが歴史的に特定できない。神話的存在で、創世記10章2節にあり、ヨハネ黙示録20章8節に引用される。主なる神は、メシェクとトバル(27章13節see)の総首長ゴグに立ち向かうという(3節)。そしてお前とその全軍、馬と騎兵を連れ出す。それは大集団で、ペルシャ、クシュ、プト(27章10節)ゴメルとその軍隊、ベト・トガルマとその軍隊が招集されるのである(5~6節)。
  8節「多くの日の後、お前は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う。それは長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている」。「多くの日」「多くの年」とは黙示文学的表現である。捕囚後、散らされていたイスラエルが母国に集められ平和に暮らしているが、彼らはそこを襲撃し、家畜や財産を略奪するという(10~12節)。何故なのか。
  13節「『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と」。この悪しき計画である。これは、終わりの日に起こる。わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためだと告げている(16節)。イスラエルの慢心を諭し、主の聖なることを知らせることである。
  18節「ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤りは激しく燃え上がる」。これを熱情と怒りをもって語る。「熱情」(キナー)は「妬み」「熱意」と同じ言語で、口語訳ではしばしば「妬み」と訳される(39章25節see、出エジプト記34章14節、申命記32章21節)。その日イスラエルに大地震が起き(19節)、山々は裂け城壁は倒れ、魚も鳥も野の獣も震える(20節)。
  21節「わたしはすべての山の上で、ゴグに向かって剣を呼び寄せる。人はおのおの剣をその兄弟に向ける」。ゴグの軍隊に同志討ちが始まり、彼らも裁かれることになる。同志討ちをするのは、「主の戦い」の特徴である(士師記7章22節、サムエル記上14章20節)。疫病と流血が起き、大雨と雹と火と硫黄が注ぐ(22節)。彼らも主なる神の聖なることを知る(23節)。
 マゴについては、39章に続く。ここから先ず、マゴという黙示的な存在も、互いに殺し合う不完全な滅ぼされるべきものであることを知る。いま一つはイスラエルに向けられる神の熱情と怒り(19節)は、その慢心に対してであり、一方的な救いと選びに心低くし聖なる名を崇めるべきことである。
  使徒ヤコブは謙遜と傲慢について次のように述べている。「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(口語訳ヤコブの手紙第4章6~7節)。

彼らと平和の契約を結ぶ

2014-11-11 | Weblog
  エゼキエル37章  

  26節「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く」(新共同訳)

  1節「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった」。小見出し「枯れた骨の復活」。預言者エゼキエルは、強烈な幻体験をする。それはエルサレム陥落の絶望状況を描き出した幻である。彼は周囲を行き巡ると多くの甚だしく枯れた骨を見た(2節)。
  3節「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです』」。そこで主は、これらの骨に向って「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語るようにと告げられた(4節)。主の言葉は、霊を吹き込むと生き返るというものであった(5節)。命じられた通りに預言すると、カタカタと音を立て、骨と骨とが近づき、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がすべてを覆った。しかし霊はなかった(7~8節)。
  9節「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』」。命じられた通り預言すると、霊が彼らの中に入って生き返り、大きな集団となった(10節)。
  11節「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」。幻の解釈である。この枯れた骨の山はイスラエルの全家であり(11節)、主なる神は墓を開いて骨を引き上げ(13節)、霊を吹き込んで生ける者とし、自分の土地に住まわせるという(14節)。
  16節「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい」。小見出し「一つとなる神の民」。二本の木に文字を書くという象徴行為で、南ユダと北イスラエルを示す。そしてそれを互いに近づけ、手の中で一本の木になる(17~19節)。これをイスラエルの民の前で示し、主なる神の言葉を語る(21節)。
  22節「わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない」。捕囚の民が故国に帰還し一つの国が再生すること示した象徴行為である。彼らの背信行為は赦され、神の民となり(23節)、主の僕ダビデが牧者として民を治めて掟を守り行う(24節)。彼は永遠に支配者となり、民はそこに永遠に至るまで住む(25節)。聖所が永遠に真ん中に置かれる(28節)。
 「僕ダビデ」は34章23~24節にある。これは新しい国を示す終末預言であり、「永遠」が25~28節に五回出てくる(16章60節see)。枯骨の谷とは、暗黒と死の支配する絶望のどん底を象徴する。そこで「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」とは到底言い得る事柄ではない。しかし主なる神の言葉の絶対性が示される。キリスト者に示されている福音宣教はこれと同じではないか。復活の主は「全世界に出て行って、すべての造られているものに福音を宣べ伝えなさい」と告げておられる(マルコ福音書16章15節)。決して怯んではならない。

お前たちの中に新しい霊を置く

2014-11-10 | Weblog
  エゼキエル36章 

  26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(新共同訳)。

  1節「人の子よ、あなたはイスラエルの山々に預言して言いなさい。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け」。小見出し「イスラエルの山々に向かって」。イスラエル回復の預言である。
  2節「主なる神はこう言われる。敵がお前たちに向かって、『ああ、永遠の丘が今や我々の所有となった』と言っている」。イスラエルの周囲にいる敵国が、嘲笑している言葉である。「それゆえ主なる神はこう言われる」という同じフレーズが2節から4、5、6、7節と続く。イスラエルは荒らされ、踏みにじられ、他の国々の所有となり、噂され、略奪され侮れ、捨てられた(3節)。彼らはみな、心底からはしゃぎ、嘲って、わたしの土地を取り、自分の所有とし、牧草地を略奪した者たちである(4節)。それゆえ、主なる神は燃える熱情をもって(口語訳=妬みの炎をもって)、彼らに対して語るという(5節)。
  7節「それゆえ、主なる神はこういわれる。わたしは手を挙げて誓う。必ず周囲の国々は自分の恥を負う」。そして、捕囚期の終わり間近い。枝を出し、実を結ぶ繁栄の回復をすると告げられる(8節)。土地は耕され種を蒔き(9節)、町の廃墟は建て直される(10節)。人と家畜は増え(11節)、嗣業の土地が与えられる(12節)。
  14節「お前は二度と人間を食らうことはなく、二度と自分の民の子を失わせることはない、と主なる神は言われる」。災害や疫病などで命が奪われることはない。二度と辱めの声を聞くことなく、侮りを受けることはない。二度とつまずかせることもない(15節)。
  17節「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった」。流血と偶像礼拝によって汚したイスラエルの家に対して、回復の根拠は何か。それは「汚した聖なる名」を神が惜しんだからだと告げている(20~21節)。民の側には救いの根拠はなく一方的な神の業である。
  22節「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う」。そこでわが聖なる名のために行うのは何か。以下六つを挙げる。
 ①清い水ですべての汚れと偶像から清める(25節)。
 ②新しい心を与え、お前たちの中に霊を置く。お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える(26節)。11章19節と同じ。
 ③木の実と畑の作物を豊かにし飢饉は無くなる(29~30節)
 ④悪い歩みと善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに自分自身を嫌悪し恥じる(31~32節)
 ⑤廃墟を立てなおし、荒れ果てた土地が耕され、回復しエデンの園のようになる。周囲の残された国々も破壊された周囲の人々も(34~35節)
 ⑥民の人口を羊の群れのように増やす。祭りの時廃墟であった町々は人の群で満される(37~38節)。

  イスラエル回復の実現が、神の聖なる名が崇められることを唯一の根拠としている。この絶対恩寵を受け入れることが出来るかを、ここで問い直したい。

果てしない敵意

2014-11-08 | Weblog
  エゼキエル35章 

  5節「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである」(新共同訳)

  2節「人の子よ、顔をセイル山に向け、それに向かって預言し」。小見出し「エドムに対して」。セイル山はエドムのこと。創世記27章、32~33章にヤコブとエサウ双子の抗争物語がある。エドムに対する神の審判の預言は既に25章12~14節に出ている。
  3節「彼に語りなさい。主なる神はこう言われる。セイル山よ、わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前に向かって手を伸ばし お前を荒れ果てた廃虚とする」。町々を荒れ地とし廃墟となった時、主なる神を知るようになると告げられる(3節)。
  5節「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである」。岩波訳「お前には永遠の敵意があって、イスラエルの子らを、その災禍の時、最後の処罰の時に、剣の手に渡したがゆえに~」。これが再度主の審判を預言する理由である。これはエルサレム陥落に際してエドムが南から侵入し、ユダの民を殺戮したことである。それは永遠の敵意であるという。廃墟となった山や丘、谷間には剣で殺された者らで満ちている(7~8節)。
  9節「わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる」。これに対して主なる神も永遠の報いを告げられる。それは『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである(10節)。この二つは北イスラエルと南ユダのことである。
  11節「それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる」。『荒れ果てて、エドムの餌食になった』と言ったからだ(12節)。イスラエルの家の嗣業の地が荒れ果てたことを喜んだようにわたしも同じようにする。
  25章で示されたように、ここでも「わたしが主であることを知る」という神の主権が繰り返し告げられている(4、6、9、11、12、15節)。エゼキエル預言の特徴である。
  民族的宗教的対立は、21世紀になっても消えないばかりか、一層深化し殺戮行為は想像を超える残虐さである。アルメニア人とセルビア人の間に起きたコソボ紛争をはじめ、今年イスラム教徒の内紛から派生したスンニ派武装集団「イスラム国」の残虐なテロとIT報道に、世界を震え上がらせている。唯一なる方の前にすべての者が一致することは不可能なのか。
 世界三大宗教と言われるイスラム、ユダヤ、キリスト教の共通項は「唯一なる神の前に人は皆等しい」ということである。これを基軸にして世界の平和を祈らねばならない。これが34章でも示された「平和の契約」ではないか。