日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

 静まれ、私こそが神であることを知れ

2020-06-27 | Weblog
詩46篇 

 11節「静まれ、私こそが神であることを知れ、国々に崇められ、全地において崇められる」聖書協会共同訳

 1節「指揮者によって、コラの子の詩。アラモト調。歌。
 2節「神は我らの逃れ場、我らの力、苦難の時の傍らの助け」力強い神への信頼を言い表す。本誌の背景にはBC702年アッスリア軍が攻めてきてエルサレムを包囲した時、一夜にして神の使いにより敗退したことが考えられている(列王記下18章13~19章35節see)。原文「非常に(メオッド)見いだされる(ニムツア―)苦難の時に(ヴェツアロット)助け(エズラー)」。容易に見出される助けということである。口語訳「悩めるときのいと近き助け」。がなじみ深く、名訳である。
 3節「それゆえ私たちは恐れない。値が揺らぎ、山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。海の波の横揺れを外敵からの勢力に例えている。聖書ではこれを「混沌の状態の表われとしている(創世記1章1節)。水が湧き上がる有様に山々が震えているという(4節)
 5節「川とその流れは神の都に、いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。」4節と対照的である。「川」(新共同訳)「大河」とは神の欠くことが出来ない生命線であり、神の愛と摂理を象徴する(65篇10節)。
 6節「神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」直訳「夜明け前に」(リフノット ボケル)苦難と失望の夜が明けて救いの朝が来る。上述の出来事が想定される(列王記下19章35節)。神の宮かは揺らぐことが無いからである(6節)。民は騒ぎ、国々は揺らぐからだ(7節)。直訳「どよめく」(ハムー)「諸国民は」(ゴイーム」「揺れる」(マートウ)対照的な出来事である。敵の軍隊が起こす雑音であり、不信仰者の右往左往する有様である。
 8節「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦」。12節と同じで、本詩の竪線的な信仰を表す。「万軍の主」とは全宇宙の支配者であり(6章3節)、「ヤコブの神」はイスラエル民族、南王国ユダの歴史を導かれる神を表している。
 9節「来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。」直訳「さあ来て(れふー)、見よ(はズー)、業を(ミフアろット)、主の(アドナイ)、」彼が地に置いた荒廃を(シャモット」である。岩波訳「~この地に驚愕を置かれた」となっている。れふーは、相手の動作を促す言葉である。
 10節「地の果てまで、戦いを止めさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。」人間が準備する一切の戦争を破る神の勝利を歌う。
 11節「静まれ、私こそが神であることを知れ。国々に崇められ、全地において崇められる」。直訳「お前たちは止めよ(ハルプー)、そして知れ(ウデウー-)、ことを(キ-)」諸国民の中で(パグイーム)、私は高められる(アルム)」。ハルプーは(武器を)「置け」「考えを捨てよ」という意味もある。
 12節「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。」
 本詩の基調となる信仰は、全能の主に対する全き信頼である。主を避け所とする時に平安(2~4節)、喜び(5~7節)勝利(8~10節)が与えられるのである。




私の心に湧き立つ美しい言葉

2020-06-20 | Weblog
詩45篇 

 2節「私の心に湧き立つ美しい言葉 私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」聖書協会共同訳

 1~2節「指揮者によって「百合」に合わせて、コラの子の詩。マスキール。愛の歌。私の心に湧き立つ美しい言葉 私の詩を王のために歌おう。私の舌は巧みに物書く人の筆」10節まで王に対する語りかけである。「愛の歌」とは宮廷の詩人が王の結婚に対して捧げた歌である。「イエデイドット」はヘセドではない。これを比喩的に解釈して王をメシア、花嫁をイスラエルと見なした。同じ比喩的解釈は雅歌にも見られる。「心に湧き出る美しい言葉」とは動きが止まらないことで、自分の舌が書記の筆のように流暢に動くのである。
 3節「あなたは人の子の誰よりも美しく その唇は優雅に語り出す。それ故神はあなたをとこしえに祝福された」。第一に王が人として優雅で魅力的である。第二に勇士としての能力を賞賛する(4~6節)。腰の剣は栄えと輝き、矢は鋭く敵陣で諸国の民を倒す。「栄えと輝き」、口語訳は「威光と尊厳」である。第三は王の安定した支配の保証を示す(7~8節)。王を神と呼ぶところからメシア予言としてヘブライ人の手紙1章7~8節に引用されている。「あなたの王権の笏は公平の笏」(7節)は口語訳「王の杖は公平の杖」。王は笏を右手に持って審判を下すのである(エステル記4章11節see)。
 8節「あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ、神、あなたの神はあなたに喜びの油を注がれた あなたの仲間から選び出して」。新共同訳は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎む」となっている。ヘブライ語対訳では「愛する(アハヴタ)義を(ツエデク)」「そして憎む(ヴアテイスナー)悪を(レシャア)」。王なる神の本質を表している。
 9節「あなたの衣はどれもみな、没薬、沈香、シナモンの香りを放つ。象牙の宮殿から響く弦の調べはあなたを喜ばせる。没薬は「ミラル」でアラビヤ産の樹脂。沈香は「アロエ」で、インド産であり芳香を放つ。王の着衣と宮殿に響く弦の調べを詠う。
 10節「諸国の王女らはあなたの高貴な飾りを、あなたの右に立つ王妃はオフイルの金をその身につける」。「オフイルの金」とは列王記上9章27~28節、ヨブ記22章24節、28章16節see
11節「娘よ、心して聞け。よく見て、耳を傾けよ。あなたの民と父の家を忘れよ。」新しい女王に対する勧めである。外国の出身であろうと思われる。その民と父を忘れて夫に対して全き献身を勧める。この失敗例がある。ソロモン、アハブ etc
13節「テイルスの娘よ、民の富める者は贈り物を携えあなたの好意を願い求めている」。「テイルスの娘よ」は口語訳「ツロの娘よ」フェネキヤの都市国家で、富み栄えていたイスラエルの隣国。これは花嫁が王宮に輿入れする有様を描いている。最も美しい高価な衣装で王妃が侍女を連れて、歓喜のうちに、王の宮殿に行進するのである)14~15節)侍女らは喜び喜んで導かれ、宮殿に入る(16節)。
 17~18節「あなたの子らは先祖に代って立つ。あなたは彼らを全地の長とする。私はあなたの名を代々に覚えさせる。それゆえ、もろもろの民は、あなたに感謝を献げる、代々とこしえに」。詩人は今や未来の祝福、父の栄誉をもたらす名声の高い息子たちを予期し、その名が諸国の中で、代々限りなく語り伝えられるであろうと賛美する(18節)
 この詩篇は、王と王妃との婚宴の祝いの歌であるが、王妃は王を褒め称える側に置かれる。その威光はと賛美を捧げるという点で。キリストの教会も「花婿」としてその使命を与えられている(第二コリントへの手紙11章2~3節see).

心に隠していることを神は知っておられます

2020-06-13 | Weblog
詩44篇 

 22節「神はそれを探り出さないでしょうか。心に隠していることを神は知っておられます。」聖書協会共同

 1節「指揮者によって」。コラの子の歌。アスキール。神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。先祖の時代、いにしえの日々にあなたのされた業について」。本詩の時代背景は、バビロン捕囚後の近い頃と考察される。その状況は民の苦難と恥辱の中で、神による解放と勝利を願っている内容となっている。ここから国を憂い執りなす祈りの姿勢を学ことができる。
「先祖が私たちに語り伝えたこと」(2節)とは出エジプトの出来事を指し、それは信仰の原点でもあった。過去の出来事を根拠にして、現在の苦境からの解放を願うのである。
 4節「彼らは自分の剣によって土地を得たのでも自分の腕で勝利を得たのでもありません。あなたの右の手、あなたの腕、あなたの顔の光によるものでした。あなたが彼らを望まれたのです」。カナンの地に侵入して嗣業の地を得たのも
 自分たちではなく、あなたが、あなたの手、あなたの腕で勝利して得たことである。だから今こそ勝利を得させて下さいと嘆願する(5節)。「立ち向かってくる敵をあなたの名によって踏みつけてください。自分の弓や剣では救われない。彼らを恥辱させるのはただあなただけです」(6~8節)。 そうすれば彼らは絶えず神を賛美し、感謝を捧げることになる(9節)
10節「 しかしあなたは私たちを拒み、辱め私たちの軍勢と共に出陣されませんでした。」しかし何故 神は私たちを見放されるのですかと問い掛ける。ここでバビロン捕囚という苦境の現実に目を向ける時、住み慣れた地から敗走して恥辱と略奪と嘲りの的となり、ののしりの声が降りかかっていると訴える(11~17節)。
 18節「これらのことがことごとく降りかかりましたが、それでも私たちはあなたを忘れず契やくに背かず」。裏切る(原語=退く)ことをせず、あなたの道(原語=小道)からそれなかった(19節)。神の聖名を忘れて異教の神に向かって手を延べることは無いが、尚あなたはそれを探りだされる(21~22節)。
 23節「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ屠られる羊と見なされる」。ローマの信徒の手紙8章36節に引用されている。 
 24節「われらの主よ、目覚めてください。なぜ、眠っておられるのですか、私たちを永遠に捨て置かず起き上がってください」。「捨て置かず」新協同訳」(突き放しておく)。「目覚めてください」と繰り返している。見離さないでくださいという切望である。十字架上の主イエスの祈りに共通している(マタイ福音書27章46節、詩59;5~6節にもある。
 キリスト者として困難のどん底からの叫びを神に向けることが出来るだろうかが示される。