日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

心動かされ進んで

2007-09-30 | Weblog
      出エジプト35章1~3節は、31章12~17節の反復。4~36章7節は幕屋建設の準備である。その内容は既に25章から31章11節に示されていた。言うならば設計の指示通り準備するのだ。
      安息日厳守で、3節にどこででも火を焚いてはならないとある。現代でもユダヤ教徒(原理主義者)はこれを守り、様々な電化製品を用いて前日にタイマーのスイッチを入れるとか。onとoffがあるから便利だろう。

  幕屋建設の準備で奉納や作業をする男女が、一応に「進んで」「心から」「心動かされ」ていることに注目させられる(5、21、22、26節)。21節は新改訳「感動した者と、心から進んでする者」となっている。NKJではThen everyone came whose heart was stirred, and everyone whose spirit was willing,
  心を尽くし精神(霊)を尽くすということになる。その結果は36章7節「作業全体を仕上げるのに十分で有り余るほどあった」という。
  神の業に仕え、それを完成するのは、義務強制によってではないことを倣いたい。

   

顔の輝き

2007-09-29 | Weblog
   出エジプト34章はモーセが再びシナイ山に二枚の石板を持って登り、神の掟を授かるところであるが、ここでも33章の臨在の幕屋で神と向合った時と同様彼の顔は輝いた(29-35節)。40日40夜神と語ている間に自分の顔の肌が光を放ったことを知らなかったという(29節)。下山して民の前にでて知ることとなる。彼らは恐れて近づけなかったので、モーセは自ら顔に覆いを掛け、神と語る時は覆いを除いたという(30-33節)。
   この出来事は33章20節から、彼は中保者的な存在となるのだろう。顔覆いは何なのか。神格化なのか、それとも反対に謙遜を表わしたのか。

    かつて天皇を現人神としていた時代、庶民は顔を伏せて見ることがでず、写真を御真影と称していた。滑稽な話だ。

   この事柄をパウロは第2コリント3章にこのように述べている。
  「モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。… わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」

神と語るモーセ

2007-09-28 | Weblog
     出エジプト33章は偶像礼拝という甚だしい背信行為の審判がなされた後のことである。32章34節のモーセに告げた言葉は、主の使いが民に先立って行くが、神ご自身ではない。そして行く手に立ちはだかる六つの他民族を追い出すが神は民の頑なな心の故に滅ぼすかも知れない(1~3節)と告げた。
    そこで再び偶像を鋳造しない為に身に着けている飾りを取りはずすなら、この後のことを考えるという(4~5節)。そこで民は飾りをはずした。
    7~11節は臨在の幕屋で神がモーセとが物語った様子。
    その会話の内容が、12~16節である。神はモーセに好意(口語訳=恵み)を示すと約束された(17節)。それは何か。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」ということである(19節)。

    しかし輝く神の御顔はモーセですら見ることはできなかった(18~23節)。11節の「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とは神と向合ったが顔を見たということではないようだ。
    この事は34章29-33節でくわしく出てくる。
  

  

偶像礼拝

2007-09-27 | Weblog
      出エジプト32章では、神に背く大きな事件が起きた。モーセが40日40夜シナイ山で神の律法を授かっている間、麓の民はモーセが居ないことで不安を覚え、金の仔牛を鋳造し、祭壇を築いて献げ物をし、飲み食いし立って戯れた(4~6節)。
      神は激しく怒りを燃やしてモーセに告げた。直ちに下山した彼は持っていた二枚の掟の板を砕き、偶像の金の仔牛も粉々に砕いた(19~20節)。
      この後に二つの事が出ている。一つは偶像礼拝に組みしなかったレビの子等が剣で三千人を殺し粛清したこと。次にモーセが神に赦しを求め自らの命をもって責任を取ろうとした。(アロンは自らの罪と誤りを弁明する)
  この偶像礼拝という背信は、後の歴史に度々起きた。イスラエルだけでなく、すべての人間が陥る罪である。

    偶像礼拝は先ずモーセ不在=不安の解消から始まる(1節)。金の耳輪=拝む対象物をつくる(3節)。雄牛=自然種族の繁栄を求める(4節)。飲み食いし戯れる=本能的欲望に陥る(6節)。

安息日厳守

2007-09-26 | Weblog
      出エジプト31章18節は、25~30章の幕屋建設に関する指示の終わりである。
そのリストが7~11節にある。
     これに技術指導する人物が二人名指された。一人は助手である。「神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、…細工に意匠をこらし~」(3節)とある。リストを見て判るが当然優れた指導力を持つ英知と知識が必要となる。日本で言えば宮大工の棟梁か。
12~17節に安息日厳守が20章8~11節よりもっと明確に告げられる。
15節「七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。」
       20章では、「主は安息日を祝福して聖別された」(11節)から祝日として守ることが求められているが、ここでは「最も厳かな安息日」として一段と厳しく要求され石打で殺されることになる。
   マカベア戦争(BC167~162年)で、シリアのアンティオコス4世の弾圧を受けた時安息日を死守し殺害された記録を思い出す。彼らは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れなかった」(マタイ福音書10章28節)。
   キリスト者の安息日理解とは格段の相違がある。それは「主の(復活)日」だからだ。しかし安息日厳守であって、これを曖昧にしたり、疎んじてはならない。

  


人口登録

2007-09-25 | Weblog
     出エジプト30章では香をたく祭壇と香料、手足を洗う水盤、聖別の油が示され、幕屋建設の指示が概ね終わり、後は技術者の任命(31章1~11節)だけとなる。注目したいのは、その中で11~16節に人口を調査し登録の指示がある。これは民数紀1章で実施される。
     登録に際して20歳以上の男子が銀半シェケルを献納金としなければならない。これは幕屋のために使用される資金となる。これによりイスラエル共同体はみな祭儀に参加するという意思統一が計られることとなる。しかしそれだけではなかった。ここで繰り返されている命の贖い(12、15、16節)とは何か。祭司が神殿でなされる贖いの業に与かるということではない。
    人口調査の対象となる20歳以上の男子は戦闘要員である。つまり軍事力を知ることになる。そこで共同体は神への信頼を忘れ、人の力を過信して罪を犯す。これを戒め、罪を贖うことを神は求められる。
    この事例がサムエル記下24章にある。

    軍事力を誇示し、他国と競合して殺人を繰り返す愚かさは、裁かれねばならない。

祭司の任職

2007-09-24 | Weblog
     出エジプト29章は37節まで祭司の任職式ついて述べ、7日間行うという。38節からは毎日祭壇に献げ物を絶やさないこと。
   任職式については、レビ記8章で実施が詳細に出ている。7節の「聖別の油」は30章23-33節にある。
   10~18節は贖罪の為の焼き尽くす献げ物で、雄牛と雄羊を屠る。雄牛の場合は雄羊と違い肉と皮と胃の中身は宿営の外で焼き捨てる(14節)。口語訳では肉と皮と汚物となっている。
   この事柄がヘブライ13章11~12節で、イエスの十字架を指しているという。これはほかに出てこない注目すべき箇所である。

   19~28節は上記と違い祭司の体や衣服を聖別し、パンの籠から準備した「丸型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個」(新改訳)を犠牲の羊の胸肉と共に焼き尽くす献げ物とする。
    その時パンと胸肉を祭司が「揺れ動かす」(tenu-hpa-h)という動作がある。何故か新共同訳は訳出していない。口語訳は「揺祭」としているが、この主に向かって揺り動かす所作に意味がある。それは献げ物を神に差出そして神の手から祭司の許に授かるといういうことである。これが26~34節で祭司が幕屋の入口で7日間食べる食べ物となっているのである。この揺祭はレビ記23章11,12,20節(口語訳)にある。

   神が祭司だけでなく幕屋と祭壇をも聖別するのは、イスラエルの人々のただ中に宿り、語りかけ、彼らの神となるためだと示している(44~46節)。

祭服

2007-09-23 | Weblog
     出エジプト28章は祭司の着衣が記載されている。前半38節までは祭司アロンの祭服、39節以下はアロンの子らの祭服となっている。大祭司と祭司の相違と思われる。何れも威厳と美しさが目的(2、40節)のようだ。素材は亜麻布と亜麻のより糸と金、青、紫、緋色の毛糸で刺繍して作る。エフェド(前掛け)と胸当てには12個の宝石、金環と鎖などが付けられる。上着の裾には金の鈴を付ける。

   ビジアルにすると興味深い。これが威厳と美しさを表わす祭服だったのかナ、と想像する。

   仏教の僧侶も派手な刺繍で意匠を凝らした高価な祭服を着る。権威を示すためだろう。「大袈裟」はここから来る。
  庶民は黒が礼服となっているが、これは「黒子」になることだ聞いた。そういえば裁判官の着衣も黒である。黒は自分を隠す色なのか。
   ローマ法王の着衣のことが以前テレビで放映されたが、衣裳係の担当者が、記者の質問に「スーパーに行って、色々物色するのです。値段は廉いものですヨ」と答えていた。カトリックのおおらかさを感じた。
   
   万人祭司であるキリスト者の基本は、マタイ7章25節、第一テモテ6章8節、そして生き方としては、コロサイ3章12節になる。

  

祭壇と庭

2007-09-22 | Weblog
     出エジプト27章 幕屋を囲む庭とそこに祭壇が置かれる。祭壇の構造がでているが、四隅に角がある。この角は意味がある。レビ記4章に祭司が祭壇に犠牲を献げる時に血を塗ってその標しとした。ソロモンが神殿を建設した時、罪の許しを願ってアドニヤとヨアブが祭壇の角を摑んだが、彼らは成敗されている(列王記上1章51、2章28節)。形式的では効果は無かった。

    幕屋の周囲に聖域として庭が設定され、幔幕を張った。東西約23m、南北45mの広さになる。東側には9m幅の出入り口がある。ここで祭司たちが祭儀を行なうことになる。これもエルサレム神殿建設の時に登場する(列王記上6章)。

   イエス・キリストはこの聖域を取り除き、すべての者が大胆にはばかることなく「恵みの座」に近づくことが出来るようにしたのである(ヘブライ4章16節)。

幕屋

2007-09-21 | Weblog
     出エジプト26章は幕屋である。
    幕屋は移動可能な組み立ての構造であり、幕の素材や大きさ、色彩が指示されている(1-13節)。組み立ての壁板や横木の大きさと共に、それらが金箔で覆うことになる(29節)。幕には織り込まれた模様があるが、それは意匠家が描いたケルビムである(1節)。14節に「最後に、赤く染めた雄羊の毛皮で天幕の覆いを作り、更にその上をじゅごんの皮の覆いでおおう」となっているが、海に生息する哺乳類のじゅごんの皮を大量にどうして入手できるだろう。ここは、NKJ badger skins(あな熊の皮)、TEV the other of fine leatherの訳がよい。

  幕屋は垂れ幕で聖所と至聖所とに仕切られ(31-35節)、至聖所に契約の箱、聖所に燭台が置かれる。

  この幕屋は実際には神殿建設のモデルとなったのだが、荒れ野生活でイスラエルの民が神への礼拝に最高最良の思いを尽くそうとしていることが伝わってくる。

  マルコ12章30節「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」とのイエスの言葉が示される。この「精神を尽くし、思いを尽くし」を新改訳では「思いを尽くし、知性を尽くし」としている。

箱と燭台

2007-09-20 | Weblog
      出エジプト25章から31章まで幕屋と祭具とそこで勤める祭司について記述している。
    25章は箱と机と燭台である。
    先ず箱は、荒れ野の旅で持ち運んだ純金を被せた「契約の箱」と呼ばれるものである。その中に掟の板(16節)が納められている。大きさは長さ110cm、幅と高さは67cm。箱の上部は「贖いの座」と呼ばれる蓋がある。口語訳「贖罪所」新改訳「贖いのふた」と訳している。そこに一対のケルビムが翼を広げて覆っている。 
 ヘブライ語「贖い」ko-hperは「覆う」「隠す」という意味を持っている。このことから「贖いの座」という言葉(kapporeth)は口語訳、新改訳が原意に近い。29章では祭司がこの処に犠牲の血を流すことで、罪の贖いの業としている。
   罪を覆い隠して神は贖うという具象的な箱であることが判る。これは新約聖書の贖罪論に展開されよう。

   今ひとつは燭台であるが、左右三つと上部で七の灯火皿があり、その支柱や灯火皿などにアーモンドの花と顎が装飾としてアレンジされている燭台である。これは常夜灯となる(27章)。灯火がシンボルとなるのは世界共通であろう。
  イスラエル旅行をするとミニチュアが土産品として売られている。

   場面は変るが、少年サムエルが主からの召命を受ける夜、「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」(サムエル上3章4節)ということが書かれている。

読み聞かせる

2007-09-19 | Weblog
     出エジプト24章 7節「契約の書」は新共同訳20章22節から23章19節までの16項目を指しているようだ。これと共に20章1~17節の十戒も併せて、モーセは民にこれを語った。ここで注目することは、3節と7節である。
  3節「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」
  7節「契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言う。

   この読んで聞かせると…「主が語られたことをすべて行い、守ります」と応答する。これが基本的に聖書の礼拝形式である。4000年後の今日もユダヤ教は変っていない。イスラム教も同じだろう。

   しかしキリスト教は、読んで聞かせ、よくよく学んでから応答する。何故なのか。その是非が問われる。
   神の言葉が、神の言葉として語られ聞かれていないのではないか。
   両刃の剣になっているのだろうか(ヘブライ4章12節)。
   ペトロの説教はそうであった(使徒言行録2章37節)。改めて示される。

正しい法

2007-09-18 | Weblog
    出エジプト23章も小見出しの通り(11)法廷について(12)敵対する者との関わり(13)訴訟について(14)安息年(15)安息日(16)祭についての内容となっている。20節以下は神の使者の声に聞き従うなら、敵対するアモリ人…エブス人(23節)らを徐々に追い出す(29-31節)という。カナン侵入のことか。

  ここで法廷について(1-3節)みると、三つのことが語られる。先ず根拠のない悪しき噂で証言することが戒められる。これは偽証による冤罪が裁判で問題になること。有罪が無罪になる事例がある。
  第二は多数者に追随して判決を曲げることだが、権力者の圧力や誤った世論で審判がなされてはならないこと。正しい法律に基づく審判では起こりえないことだが、「超法規」などといってあやまることを戒めている。第三は裁判に冷静な判断が必要であること。これも誤った先入観を持たないこと。
  これは6-9節にある訴訟の箇所にも適用される。

  何時の時代においても正しい法の許で、社会の秩序は守られ支えられている。
聖書はそのことを示唆している。

寡婦と孤児の神

2007-09-17 | Weblog
     出エジプト22章は小見出しにある通り(6)(7)(8)(9)(10)の内容になっている。(9)人道的律法の箇所は、イザヤ1章17、5章23、10章1-2、エレミヤ7章5などに出ている。申命記10章、14章、24章、26章、27章にもある。
 それを20節で神の憐れみと救いを根拠にしている。26節では「彼がわたしに叫ぶならわたしは聞く。わたしは憐れみ深いからだ」とある。
  創世記16章13節、21章14節以下のハガルのことが思い浮かんでくる。
  ヤコブの手紙1章27節にも出てくる。
  社会福祉の原点は、人間的な同情や憐憫によるのではないことが示唆される。

目には目

2007-09-16 | Weblog
     出エジプト21章は、20章22節から23章までの「契約の書」になる。24章にある通り、モーセが民に伝えた契約という形式になっている。
    21章では人の命に関わる事柄で、奴隷の取扱(1-11節)、死罪(12-17節)、傷害罪(18-32節)について記される。財産問題については33節から22章14節にある。
   死罪に父母に対する厳格な規定(15、17節)がある。これは20章12節と関わり、また神の祝福の継承(20章5-6節)が背景にあるのではないか。
   昨今の恐るべき尊属殺人とは雲泥の差がある。

   傷害罪では「目には目」fifty fiftyという基本原則(23-25節)があるが、これは復讐の連鎖を断ち切ることが出来ない。
   ニューヨークで起きた9.11事件以降、世界は復讐劇を演じ、数知れない殺人が今も続いている。テロを無くする道は開かれていない。
   主イエスはこれを断ち切る道を開かれた(マタイ5章38-42節)。これを実現する「叡智」が欲しい。