日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

殺意

2008-03-31 | Weblog
  サムエル記上19章 サウルの殺意は遂に公になる。
  サウルの殺意の実行が繰り返されるが、主が共にいるダビデを殺すことは出来ないことを語っている。
 息子ヨナタンが王の真意を質した時に「罪なき者の血を流す」(申命記21章8節)罪を犯さないと告げているが(1~6節)、それは本来の王の自覚である筈。しかし悪しき霊に囚われたサウルの本心は変わっていない(9~10節)。
  第1回はダビデの家を見張り、翌朝捉えようと使者を遣わすが妻ミカルの気転で難を逃れる(11~17節)。
  家を出たダビデを捕らえようと追っ手を送ったが、サムエルを先頭にした預言者集団にその使者も巻き込まれてしまい目的を果たせない。三度も追っ手を送るが失敗し、サウロ自身が出掛けるが、彼も恍惚状態になってしまう(18~24節)。
  これはサウルがサムエルから油を注がれて王に選ばれた時に起きた状態(10章9~13節)と同じであるが、19章24節はその時の言葉である(12節)。
  この意味は不明だが、王の働きが終焉したことを示すのかもしれない。しかし殺意はなおも続く。

  殺意に取り囲まれた時の祈りはこうである。
 「わたしの力と頼む神よ/あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。」(詩59篇18節)

  写真 備後イースター・フェスティバル  

嫉妬

2008-03-30 | Weblog
   サムエル記上18章 ダビデとサウル王の確執が一層増大する
   王子の地位にあるヨナタンがダビデと友情を深めるのと対照的に、サウル王との関係は一層悪化した(3~7節)。
   彼が派遣されて出陣する度に勝利し、兵士やサウルの家臣、そして町の女たちの人気は増した。
   10節は、16章14~23節と同じだが、違うのは嫉妬で殺意を抱いていること。しかしダビデがそれにもかかわらず王を慰めようとする忍従が伺えよう。
   激戦地に送って戦死させようとサウルは図るが「主がダビデと共におられる」時は、誰も敵対することはできない(12、14節)。
   二女ミカルを嫁がせる時も思い知らされた。ダビデに対する嫉妬と恐れは、主から一層見放されることになる(12、28節)。

   ペリシテ人を殺し陽皮200を持ち帰らせ娘の結納金に代えさせるとは陰惨な話である。
   
   箴言4章30節に「娼嫉(ねたみ)は骨を腐らせる」(元訳)。必要なのは「分別」である(サムエル記上16章18節)。Ⅱテモテ1章7節も参照したい。   

対ゴリアト戦

2008-03-29 | Weblog
  サムエル記17章 ダビデとゴリアトの一騎打物語
  これは一つの物語として読むことが出来る。イスラエル旅行でエラの谷は観光ルートである。道路脇から滑らかな小石を土産に持ち帰り、教会の子供たちにゴリアト戦の話を時々する(現在の地形は大きく変わっている)。

  ダビデは少年となっているが、サウル王が自分の装束を着せ、剣を帯びて歩いてみた(39節)というから、成長した若者と言ったほうがよい。もっともこの時慣れない武具では自由が利かない。武具を必要としない彼らしい事柄だ。この後一発でゴリアトを倒しその首をはねて討ち倒した後にその首と武具を持ち帰るダビデには逞しい若者の勇姿を想像させる(5節、49~50節、54節)。

  しかし、この物語の中心は45節と47節にある。
  ダビデの勇敢さより、「剣と槍を必要としない」万軍の主の戦いであり勝利であることを強調しなければならない。

  ここではこども賛美歌35番「主われを愛す」がぴったりする。

  

神の選び

2008-03-28 | Weblog
   サムエル記上16章 ダビデの登場
   1節のサムエルの嘆きは15章35節にある。主は彼に新しい王の登場を指示された。密かにベツレヘムのエッサイの許を訪ねる(1-5節)。これは既にルツ記4章で予言されていたことである。
   エッサイの八番目末息子が選び出されたが、7節「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」はサウルを教訓として伝える主の言葉だ。
   12節に「彼は血色が良く、目は美しく姿も立派だ」というサムエルの評価はダビデの内面性と思われる。神の物差しと彼の物差しが一致し、ダビデに油を注いだ。 
   13節「主の霊が激しく降る」ことが新しい王の資格となっている。これに比較して14節以下のサウルは悪しき霊にさいなむ人物となっている。それが何時の頃か判らない。縦琴を奏でて心が安らぐというのは精神疾患と言えなくはないが(16節)、神からの試練と見るべきであろう。
   ダビデのもう一つの評価が18節にある。相撲の力士で言えば心技体が整っていた。そして何より「主が共におられる」ことが王に選ばれる最大の条件となる。

   神の選びについては、ヨハネ15章16節を読むことが出来る。
 

主の喜ばれる献げ物

2008-03-27 | Weblog
   サムエル記15章 サウルはアマレク戦で勝利するが、その代償は王の廃位である。
   アマレクは砂漠の遊牧民であったが、2節で攻撃の理由が出エジプトの時代にまで遡ることは、如何に宿敵であったかを表す(出エジプト17章8-16節)。
   3節は聖絶規定といわれこれまで何回も出てきたが、これは神の唯一性普遍性を示すこと、社会倫理的に容認される聖書のメッセージではない。
   ここではサウルにサムエルを通して神の御声に聞き従うか否かの二度目(13章)の試練となった。そして同じ過ちを犯す(7~9節)。
   すべてを見通される主は、サムエルに王の過ちを告げる(10、11節)。そして夜通し主に祈ったというが、それはサムエルの執成しの祈りだったのか(12章23節)。
   サウルはカルメルに戦勝碑を建てギルガルで祭壇を築いて献げ物をしようとした。サムエルはサウルの言動を問い糺す。
   サウルは自分の過ちに気付くが、その責任を兵士に転嫁し、また勝利品の中から最上の供え物を献げようとしたと弁明する(14~21節)。
   彼は「わたしは主の御声に聞き従いました」(20節)と言うが、それは自己弁護する詭弁であり、不徹底な信心を暴露する。
   人はしばしば同じ過ちに陥るものだ。

  22節のサムエルの言葉は、聖書に多く出てくる信従の基本といえよう。
  イザヤ1章11~17、ホセア6章6、アモス5章21~24。
  主に喜ばれる献げ物は詩51篇19、そしてローマ12章1節である。

 

王の無能

2008-03-26 | Weblog
   サムエル記14章 ヨナタンの活躍
   英雄的なヨナタンの活躍振りが語られているが、同時に王サウルの無能も出ている。
   従卒一人を連れて大胆なヨナタンはペリシテ陣営の奇襲攻撃を仕掛けた(4~14節)。5節ミクマスとゲバの渓谷はペリシテ軍を油断させた。ヨナタンはこの時勝利の確信を主から与えられている(6節、12節)。ペリシテ陣地では同士討ちを始めて、動乱が起きたとある(15~16節)。
   奇襲攻撃は功を奏して勝利するが、それには第一20節、第二21節、第三22節が理由となっている。
   この時とったサウル王の行動は意味をなさなかった(18~19節)。無能が伺える。
   王の無能な行動は、民に勝利するまで断食の誓をさせたことである(25~28節)。29節でそれをヨナタンは指摘した。
   32節から誓は果たされたと見られなくはないが、兵士が血を含んだまま食べたことはレビ記17章の違反とされる。サウルは誓った手前、これを見過ごす訳に行かない為、早急に大きな石を運んでその上で血を流し抜き取り、祭壇を築いて酬恩祭をささげた(33~36節)。
   サウル王はこの時完全勝利を願って、神に託宣を求めたが、神は何も答えられなかった(37節)。そこで原因追求をする。38~46節で籤引きをし、ヨナタンが最後に当たったが、それは蜂蜜を杖の先で少しばかり取って舐めたことだった。
   ここでも籤引きという愚かな方法をとったサウル王の無能が暴かれる。民はヨナタンを死に渡すことを拒否した(45節)。

  ここはヨナタンの活躍と対比してサウルの王としての資質が試された物語である。
  誰でも、主が共にいることを知る賢明さが求められる(45節)。

短慮

2008-03-25 | Weblog
  サムエル記上13章 サウル王の失敗 
  1節は新改訳「サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。」となっている。新共同訳では、3節ヨナタンの活躍を想定するとサウルの年齢が特定出来ない。
  いずれにしても、サウルが対ペリシテ戦で極めて不利な状況に追いやられたことが伺える(2~5節)。ペリシテ軍の兵力は戦車三万、騎兵六千とあるが、ここも口語訳とは数が違う。ヘブライ語の数字の読み方は難かしい。
  8節にサムエルとの約束が出ているが、それが何時どこであったか不明。然しサウルのとった行動は、サムエルによって「愚かなことをした」と指摘されている(8~13節)。祭壇に献げ物をする祭儀はレビ族サムエルの権限であった。
  これは、11章、12章で示されていた王の権限を逸脱したことを指す。彼の短慮が犯した失敗である。ベニヤミン族のサウルには祭儀の権限は与えられていなかった。
  イスラエル軍には鉄製の武器が無かったことが戦闘の不利としてしているが(17~22節)、武力抗争がここでは問題ではなかった。

  王が祭儀・宗教を支配しようとする政治的な誘惑は、唯一絶対なる神に対する背反となる。これは15章でも起きている。

  箴言16章32節に「自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」とある。サウルの短慮は王位を失う原因となった。

主の命令に背かず

2008-03-24 | Weblog
   サムエル紀上12章  サムエルはこれからは民が立てた王に従っていくことを告げる。
   彼は年老い、髪も白くなったと言いう。そして指導者として自分の働きを振り返り、身の潔白を証明する(2~5節)。主に対して忠実であったことを民に証言させた。
   次にサムエルの時まで、民は主に呼び求め仕えてきたので国が守られたという(6~11節)。
   然し今は民の要求から、主に替ってサウルが王として立てられた(12節)。
  13節「今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなた達に王をお与えになる」。否定的であった王を、主は肯定的に受け止められた。

  そこで14節以下に、これからの王制支配による時代に対して警告をしている。それは何か。
  「主はあなたたちに王をお与えになる。
   だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、
   主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も あなたたちの神、主に従うならそれでよい。 しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。」

  民も王も、共に「心を尽くして主に仕えなさい」というのが結論である(20節、24節)

王の資格

2008-03-23 | Weblog
  サムエル上11章 10章27節ではまだサウルを王として認めていない人々がいた。そこで彼の王としての資格が試される。
  ヨルダン川東のギレアデのヤベシュがアンモン人に包囲され服従を迫った。然しギレアデは7日の猶予をえて、使者をギブアにいるサウロの許に送った(1~4節)。
  野に出て牛を飼っていたサウルはこの知らせを聞いた時、「神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて…」とある(6節)。まるで士師サムソンのようだ(士師14章19節)。
  彼は全イスラエルに切り裂いた肉を送りつけ、戦闘参加を呼びかける(7節)。
  ギレアドの使者に明日にもアンモン人を撃退すると告げ、巧みな戦術でその通りアンモン人の陣営に突入した。

  この戦勝を得たイスラエルはサウルを王に相応しいと認め、サムエルの指示でギルガルに集り、公に王の即位がなされた(14~15節)。

  12~13節は、10章27節の事柄を受けた事柄で、彼が内紛を避けたことは王の資格として賢明だった。内部で争う国は滅びる。
  
  ヤベシ・ギレアドの住民がサウルに抱いた温情は忘れることは無かった(31章11~13see)

ロバに乗ってエルサレルに入城される方こそ王の資格に相応しい(ゼカリヤ9章9~10節。マタイ21章5節)

王様万歳

2008-03-22 | Weblog
   サムエル記上10章 サウルが王に選任される
   この章ではサウルが王に選任される経緯が出ている。そこには大きく三つの要素が示される。
   先ず第一はサムエルが主から告げられた通り(9章16節)、若者サウルの人間性を見極める前に「頭に油を注い」だ。これは王の任職を示す(ダビデ16章3節、ソロモン列王記上1章39節)。それが主の業である印であることを、三つの出来事を告げ、それが実現することで証明している(2~7節)。そして三つ目の神の霊に満たされた預言者の一団に出会って、その中に彼も加わったこと(10~13節)。
   第二はサムエルが人々をミツパに集めて、8章にあった王を求めていることを実現する為に、ペリシテに攻撃されたベニヤミン族の中からくじ引きによってキシュの息子サウルを選び出したこと(17~24節)。
   第三は、選出されたサウルと民との間に「王の権能」について取決めをさせたこと(25節)。

   王様万歳という喚声は、付和雷同の嫌いがあるが、9節「神はサウルの心を新たにされた」と、26節「神に心を動かされた勇士たちはサウルに従った」ことがせめてもの救いである。

   
   

出会いは偶然?

2008-03-21 | Weblog
   サムエル記上9章 8章の王制の願いを受けてサウルという若者が選ばれる。
   サウルの人と成りが2節と21節にある。表面だけでは王に相応しいかどうかは判らないことを知る必要がある。「美しく背が高い若者」は目立つ存在だったというだけ(落し穴があったことを後日知ることになる)。

   いなくなったロバを探しに出掛け、共の者から神の人の存在を聞いて逢いにいった時、サムエルと出会った。
  彼が神の託宣で未来を占う働きから、先見者と呼ばれていた(9節)。その出会いは、サウルには偶然であるが、サムエルは前日に神から告げられていたことであった(16節)。

 たかがロバ、されどロバ。神は様々な出会いを通して、その聖意を進められる。
 
 榎本著「一日一章」に明治時代奥出雲の佐藤家とバックストンとの出会い記事が出ている(少し間違った記述で訂正する要あり)。
 偶然と思えることでも、「今は判らないが後でわかる」(ヨハネ13章7節)という信仰経験をすることがある。

   見えない神の御手の働きを、日々経験する者である。  

王を求める民

2008-03-20 | Weblog
   サムエル上8章 民が王を求めた。
   これは新しい王制国家の誕生となる。そのきっかけは士師であり指導者であるサムエルの老齢から来ている。彼の活躍期間が幾年であったか詳細には判らないが、イスラエルの民は周辺の王制国家に倣いたいと願う。
   その理由には二人の息子がサムエル亡き後、不正な士師として立つことを回避しようとしたようだ(3節)。
   サムエルは主なる神の本意を祈り伺う(6節)。彼らの高慢さと安直な解決を求めることに警告がなされる(7~10節)。
   それは悪しき王の支配が想定されている。
   徴兵制度、軍事の為に収入から徴収、男女を労働に徴用すること等である(11~17節)。
   かつてエジプトのファラオがイスラエルを支配した時代があったことを思い出させる(18~19節)。
   然しサムエルは、主なる神の聖意としてこれを認めた(21~22節)。

  イスラエルの歴史には暴君的な王が登場する。その予告か。
  パウロは王の存在を否定していないが、それは義と公平の神に服する限りに於いてであった(ローマ13章1~4節)

   

エベネゼル

2008-03-19 | Weblog
     サムエル記上7章 3章終わりからの続きである。
     サムエルの活躍が始まる。しかしここに20年の空白がある(2節)。
     この20年間に学んだことは何か。「イスラエルの家」(信仰共同体)として預言者・指導者であるサムエルの指示を受けることであった。それは「神の箱を担ぎ出す」愚かなことを止め、悔改めて主に立ち帰り、偶像を取り除き、ただ主にのみ仕えることである(3節)。
     シロにあった祭壇はペリシテによって破壊されていたので、サムエルはミツパに民を集めて、指示通り民に悔改めを促し、執成しの祈りを主に捧げた(5~6節)。
   その祭の最中にペリシテ軍が攻めて来たが、神は雷鳴で彼らを混乱させ撃退することが出来た(10節)。
   神中心に生きるなら、神が味方して敵を打ち倒すことが出来るという教訓である。ここでは士師としてのサムエルが示される。士師としての働きは15~17節にある。
   この時ミツパの近くに石を立て「エベネゼル」(主はわが助け)=口語訳と名付けた。
   キリスト者もまた主にのみ信頼する時(4節)、主はわが助けと告白できる。ここからローマ8章31節が示される。

 (写真 台北空港第2ターミナル)

祭壇の燃えぐさ

2008-03-18 | Weblog
    サムエル記上6章 神の箱の返還
    4章から続く一連の物語 ペリシテの町に7ヶ月も置かれていたが、占い師らの指示でイスラエルに返還することになる(2節)。
    賠償の献げ物を添えて返すというのも変な話だが、神々を恐れ災禍の元となった箱を返して事を収めようという心情か。
    雌牛二頭に箱を二つ車に載せて牽かせ、国境の町ベト・シェメシュに運んだ(10~14節)。もう一つの箱にはて五つの金の腫れ物と金のねずみを入れた。金の腫れ物がどんなものか不明。不潔な体の一部分?
    結局この牛と車を(多分金製の品もいっしょに)、イスラエルは祭壇で焼き尽くす献げ物の雌牛と燃えぐさにした(14~15節)。これが結論になる。
    箱の返還に際して、雌牛が乳を求める子牛の方に引かれないで、鳴きながら右にも左にもそれず真直ぐ国境に向かったことで超自然の神の手の働きを認めたという訳(12節)。
   この箱の行方はサムエル記下6章に出てくる。
   祭壇の燃えぐさとなった車と犠牲の雌牛はイスラエルの宗教の優位性を示すもの。
   しかし神の求められる聖性は人の側にはない(詩51篇12節)。
   
   

   

災禍

2008-03-17 | Weblog
    サムエル記5章 神の箱の続き
    ペリシテは戦利品として神の箱を奪い、アシュドドにあったダゴン像の神殿に置いた。彼らはその箱の威力を噂に聞いていたが(4章8節)、今はそれが無力な箱と侮っていたのかも知れない。
    しかし翌朝ダゴンは箱の前にひれ伏して倒れていた(3節)。もとに戻したが翌朝もひれ伏し、頭と両手がもぎ取られ胴体だけの無残な形になっていた(4節)。そして民の間に疫病が蔓延していったという(5節)。

    イスラエル敗北の原因となった神の箱はペリシテにも災禍をもたらす。可視的な単なる箱でしかないが、その背後に厳しい審判を下す見えない神の存在を示す物語であろう。「主の御手」「神の手」という言葉が5、7、11節に出てくる。
   ここには箱を偶像視し、神を持ち運び利用する人間の愚かさをみる。

   「はれ物」は箱を持ち運んだペリシテの五大都市ガトでもエクロンでも蔓延し、町の人々を恐怖に陥れた(7~12節)。これは6章から判るが、ねずみを媒介するペストである。

   人は偶像礼拝の誘惑に陥り、神はこれを試練によって裁かれる(ヤコブ1章13節)