ルカ福音書15章はよく知られている処で、いつ読んでも心に深く残る。
「見失った羊」の譬、「無くした銀貨」の譬、「放蕩息子」の譬
「放蕩息子」は正確ではない。「二人の息子」の譬が正確である。
ここで問題になるのは「祝宴」である。
父から財産の分け前を貰い、換金して家を出、放蕩して財産を無くし豚飼いにまで落ちぶれる弟息子は、餓えて死にそうになる。そこで我に返り、父の許に有り余るパンを思い、雇い人となろうと帰る。彼を発見し迎え入れる父の態度は異常と思える程である。その祝宴を見た兄息子は怒って家に入ろうとしない。これを父がなだめる。
この時言った言葉が32節にある。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この兄息子に告げる言葉と、譬を語る発端となっている1~2節のファリサイ派と律法学者らの不平の箇所とを重ね合わせる必要がある。
イエスと出会い、信じ従って生きるのは、「大宴会」(ルカ14章15節以下)に招かれることなのだ。
これが「福音」Good Newesといわれる所以であろう。
「見失った羊」の譬、「無くした銀貨」の譬、「放蕩息子」の譬
「放蕩息子」は正確ではない。「二人の息子」の譬が正確である。
ここで問題になるのは「祝宴」である。
父から財産の分け前を貰い、換金して家を出、放蕩して財産を無くし豚飼いにまで落ちぶれる弟息子は、餓えて死にそうになる。そこで我に返り、父の許に有り余るパンを思い、雇い人となろうと帰る。彼を発見し迎え入れる父の態度は異常と思える程である。その祝宴を見た兄息子は怒って家に入ろうとしない。これを父がなだめる。
この時言った言葉が32節にある。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この兄息子に告げる言葉と、譬を語る発端となっている1~2節のファリサイ派と律法学者らの不平の箇所とを重ね合わせる必要がある。
イエスと出会い、信じ従って生きるのは、「大宴会」(ルカ14章15節以下)に招かれることなのだ。
これが「福音」Good Newesといわれる所以であろう。