日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

祝宴

2006-02-28 | Weblog
 ルカ福音書15章はよく知られている処で、いつ読んでも心に深く残る。
 「見失った羊」の譬、「無くした銀貨」の譬、「放蕩息子」の譬
 「放蕩息子」は正確ではない。「二人の息子」の譬が正確である。
 ここで問題になるのは「祝宴」である。
 父から財産の分け前を貰い、換金して家を出、放蕩して財産を無くし豚飼いにまで落ちぶれる弟息子は、餓えて死にそうになる。そこで我に返り、父の許に有り余るパンを思い、雇い人となろうと帰る。彼を発見し迎え入れる父の態度は異常と思える程である。その祝宴を見た兄息子は怒って家に入ろうとしない。これを父がなだめる。
 この時言った言葉が32節にある。
 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
 この兄息子に告げる言葉と、譬を語る発端となっている1~2節のファリサイ派と律法学者らの不平の箇所とを重ね合わせる必要がある。
 イエスと出会い、信じ従って生きるのは、「大宴会」(ルカ14章15節以下)に招かれることなのだ。
 これが「福音」Good Newesといわれる所以であろう。


腰をすえて計算する

2006-02-27 | Weblog
 ルカ14章にイエスの弟子になる条件があるが、興味深い例が告げられている。
 28節「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」
 イエスに従って生きるということは、中途半端なことではないということか。人生をこれに賭けるということか。不徹底ではいけない。
 どこまでも真摯に、単純に信頼する。
 三日坊主という言葉がある。キリスト者の寿命は2,3年だそうだ。つまりすぐに信仰を放棄してしまう。
 かつて著名な文学者の何人も信仰放棄した例を知っている。
 生ぬるい者を吐き出す仁王様を刻んだ平櫛田中のことを思い出す。
 親兄弟を捨てるほどの本腰を入れてイエスに従いたい。

ああエルサレム

2006-02-26 | Weblog
 ルカ福音書13章31~35節にイエスがエルサレムのために嘆く箇所がある。
 34節「 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
 イスラエル旅行で、オリブ山の「主涙したもう教会」(Dominus Elevit)に入って見た。涙の滴をかたどった屋根で1950年代のもの。エルサレム城東側が見える大きな窓がある。その下部に雌鶏と雛のモザイク絵が描かれていた。イエスが涙されたのは、19章だから場面が重なっていることになる。
 エルサレムとは神の平和という意味であるが、二千年の歴史はこの都を巡ってどれ程争い憎しみあって来たことであろう。神の子イエスの涙は止むことがない。世界の国民をその羽の下に入れて慈しむ主である。
   

悪い情報

2006-02-25 | Weblog
 1週間海外旅行をしたが、聖書通読は続けることができた。
 今朝の旧約聖書は民数記13~14章。
 32~33節「イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。 そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」
 12人偵察隊の10人がした報告である。目的地に入るのは無理だと告げた。多数決で、声の大きい方の意見が正答と思いえた。
 しかしこれは悪い情報である。この結果はどうなったか。往復40日の旅路を、神は40年の荒野にして裁かれた。
 現代も様々な悪い情報が飛び交っている。その一つに憲法9条がある。
 目を開き、悪い情報に心を奪われてはならない。神の聖意が何であるかを先ず問うところから決断する。それが祈りである。

逆三角形

2006-02-16 | Weblog
ルカ3章22節は罪なきイエスが、罪人と全く同じ立場に成って洗礼を受けた処である。
 「 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
 これは天の父と御子イエスの会話である。
 「心に適う」とは、御子の働きに対する神の保証を示している。
 「わたしの子」と呼ばれる旧約聖書の箇所が二つあり、詩1篇では王即位のところ、イザヤ書42章は主の従僕の預言で、これから考察すると、イエスの身分は王であり従僕である。
 イエス像を偉人とか天才として捉えるピラミッド型ではなく、逆三角形で天の王座から地上に来て人となり従僕になったと捉えると、よく判る。

天に栄光、地に平和

2006-02-15 | Weblog
ルカ福音書2章にはイエス誕生とその後の少年イエスが記される。クリスマスに開くところ、これまで幾度読んだか知れない。
 14節「いと高きところには栄光、神にあれ、
    地には平和、御心に適う人にあれ」
 天使の大軍が讃美した歌声は、現代にも鳴り響いている。これは天使の祈りだ。
 地の平和を求めない人はいないだろう。問題は自分勝手に「平和だ、平和だ」と叫ぶことである。相手に恐れや不安を与える平和では駄目である。第三者が要る。それが絶対者なる神である。言い換えれば神の平和である。
 そこで、神の御心が示されねばならない。
 いと高いところに表わされる神の栄光と、地に示される神の御心が映し出される世界であるよう、天地に主に祈る。

血は命

2006-02-14 | Weblog
レビ記17章11節に
 「わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」とある。
 血と命は同一であるという。現代医学で死の判定に脳死と心臓停止と二つあるが、人工心臓で生存しているニュースを聞くと複雑になる。
 しかし素人考えだが、人の脳細胞も末梢血管によって生命体として存在している筈だ。したがって人は血がなければ生きられない。血に替わるものはない。
 聖書には血についての記述が非常に多いようだ。
 キリスト教会では、聖餐式でいつもぶどう酒(液)から十字架上で流されたイエスの血として、これを象徴・記念にして飲む。そこでイエスの血による「命の贖い」として与かることになる。レビ記17章に聖書的根拠をもつものである。
 ユダヤ教徒は今も、すべての食肉は血を取り除いたものである。専門店があると聞いた。キリスト者は原理主義者ではないので、拘泥しない。
 しかし血を流すすべての争い(犯罪・戦闘)を否定する。それは神から与えられた命を奪うからである。
 これは死刑廃止とも結びつく。
 

悪霊

2006-02-13 | Weblog
 レビ記16章に贖罪日の規定がある。そこに荒れ野にいるアザゼルのことが出てくる。
 21~22節「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。」 
 二匹のうち、一匹は神の祭壇で贖罪の犠牲として献げられる。もう一匹がアザゼルのためである。何故このような事をしなければならなかったか理解出来ない。アロンと祭司がなしてきた祭儀、神の前でなされる犠牲の贖罪で十全ではないのか。
  一体アゼゼルとは何者なのか。「連れ去る雄山羊」の二語からできているという。固有名詞ではないようだ。諸説があるが、悪霊が荒れ野に生息し、雄山羊はその犠牲だろうという。悪霊も神の支配の中にあることはヨブ記で判る。
 新約聖書福音書には、悪霊がイエスに挑戦し、これを追い出す記事が出てくる。
 悪霊とは何か。「人の心に働きかける悪しき力」である。昔も今も変らない現実ではなかろうか。この誘惑に唆されて「罪責」となり悩ませる。「魔がさした」という。人は不断に悪の挑戦を受けている。だからこそ、悪霊を追い出す主イエスにいつも結ばれる必要がある。
 現代社会にもアゼゼルが跳躍している。昨日の新聞に大阪府教育監が収賄容疑で
逮捕された記事があった。様々な犯罪のニュースで話題にこと欠かないが、彼らはみんな魔に刺されたのである。
 
 

十字架のイエス

2006-02-12 | Weblog
 マルコ福音書15章にイエスが死罪判決を受けて十字架につけられ、息を引取り墓に葬られるところである。ピラトもユダヤ最高法院、そして唆された群衆も何一つ罪のないイエスを無き者にしようとした有様が窺える。十字架上のイエスに向かって「降りて見よ」「人を救って自分が救えないのか」と嘲笑し揶揄する。午後三時に落雷のように響いた言葉が34節である。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」アラム語では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」である。
 芥川龍之介の作品「青銅のキリスト」では、武士の風上にも置けない人物と評しているが、これはいただけない。周囲にいた群衆と同じである。
 十字架死は神に呪われた者、見捨てられた者である。この極限に身を置いているイエスの中に「わたし」を置いて、見つめることができるかどうか。
 わたしの罪がそこであらわにされるところから、新しい救いの道が開かれる。誰か「十字架のめどを通って~」と表現していたのを思い出している。「めど」とは針の穴のことであろう。
 十字架上の叫びは、詩22篇1節の言葉で、それに続いて22編全体を祈られたという説もある。そうかも知れない。

神の御心を祈る

2006-02-11 | Weblog
 マルコ14章は最も長いところで、72節まである。多く示されるが、今朝は32~42節からゲッセマネの祈りについて黙想する。
 エルサレム城を西に眺めるオリーブ畑の丘でイエスはしばしば夜を過ごされたようである。この徹夜の祈りは、34節もだえ苦しむもので、汗が血の滴るように地面に落ちる熱祷であったとルカは記している。
 逮捕される直前であるが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは目を覚ましていなさいと二度も言われたができなかった。三度目に言われて初めて漸く周囲の状況がわかる鈍感さだ。
 イエスの祈りは36節である。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
 祈りは、大別して自分の願望を求めるのと、神の御心の実現を願うのと二つある。しかし厳に優先順位を違えてはならない。
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、イエスの優先順位とは異なる。イエスを信じる者は、同じでなければならない。
 ここで、いま一度祈りの姿勢を正す。
 もっともここで弟子たちは睡魔という誘惑に陥った。イエスは38節「心は燃えても、肉体は弱い」と語り、神の御心を祈り求めることが困難であることを示しているように思う。
 努力してではなく、聖霊の力で「アッバ父よ」と呼ぶことである。
 

ちいろば

2006-02-10 | Weblog
 マルコ11章7節「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」
 そしてエルサレムに入城したのである。
 これは旧約聖書ゼカリヤ書の柔和な王がろばの子に乗って来るという預言を実現した行動である。その王は軍馬を断ち諸国の民に平和を告げると預言されている。
 ろばは農耕に用いられた家畜で、今でもパレスチナでは乗っているのを見かける。イエスは正に平和の王である。そしてイエスに臣従する者はそれを明確に伝えなければならない。
 榎本保郎は、自分をイエスを背に乗せた「ちいろば」(関西弁)と語った。わたしも、ちいろばでありたいと願う。

犠牲をささげる

2006-02-07 | Weblog
レビ記1~3章を読むと、神礼拝は基本的に罪の贖いの犠牲を献げることに要約される。献げるのは無傷の牛、羊、鳩である。その場合1章4節「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」ということが示されている。これらを祭壇で焼き尽くし煙にする。この犠牲死で罪が贖われ消される訳である。この旧約の儀式の風景を想像すると、卒倒しそうである。
 すぐに思い浮かべる聖書の言葉は、ヨハネ福音書1章29節「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」である。これは洗礼者ヨハネのイエス証言である。ここで旧約と新約、律法と福音に結びつく。
 日本人の神々を礼拝するのとは全く異なる。祭壇の供物を捧げるが、荒ぶる神を鎮める為であり、それによって五穀豊穣を祈願するものである。
 この決定的な相違を知らないで人々は神に手をあわせて礼拝しているのである。
 

火の柱、雲の柱

2006-02-06 | Weblog
出エジプト記最後の箇所、40章37節「雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。」とある。所謂「火の柱、雲の柱」によって荒れ野の旅が導かれたのだ。
 人生の旅で考えるとどうなるか。
 人はだれも様々な決断、去就の求められる日々であり生涯である。右にすべきか左にすべきか判断に迷う。取捨選択に迷わない人はいないだろう。
 そんなときに明確な道標があったら、どんなに安心であろう。火の柱と雲の柱は人生の危険に満ちた荒れ野の旅に示して下さる神の道標である。
 具体的には、朝毎に聖書を開き、黙想し祈る静聴の時を持つことである。
 

命の価値

2006-02-05 | Weblog
 マルコ8章36節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」よく知られている聖句である。命は地球より重いとも言う。しかし現実はそうではない。何と軽々しく命が失われていくことか。人がいくらこれを警句として叫んでも届かない。
 どんな代価を支払っても命を買い戻すことは不可能である(37節)。
 この命の価値を創造された主がおられることを知らねばならない。それが35節の「福音」である。
 聖書を読み、イエス・キリストを知り、ああこれが「福音」なのだと発見したところから、命の創造主に全存在を任せて新しく生きていく。
 そこで命の価値が自ずからわかる。これが出発点である。
 そうでなければ、自分の命を大切にして他の命は奪うという「弱肉強食」の地獄になってしまう。
 

エッファタ

2006-02-04 | Weblog
 新約聖書通読はマルコ福音書7章である。
 31節以下にイエスが耳と口の不自由な人を癒された記事がある。イエスは群集の中から、この人を連れ出した。そして指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れて天を仰ぎ、深く息をつき、その人に「開け」(エッファタ)と告げると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解けて話すことが出来るようになった。
 このイエスの治癒行為に注目させられる。指を耳に差し入れたり、唾で舌に触れたりする、指はアニメの「E・T」を見るようだ。
 ここにはイエスのご人格と密接なふれ合いが示されている。人格的関係が治癒の基本に見られる。
 実際に聾唖の方々は障害を乗り越えて生活している。そのような方とこれまで何人も交際した。そこでいつも思うことは健常者は聞くこと語ることに無頓着であり、聞いても語らず、聞かないで語る、聞く耳を持たない、語る言葉を失っている人が”ごまん"といる。
 コミニケーションが出来ない。そこから様々なトラブルが起きる。聞きたくない、話したくないという人間不信も出てくる。
 主イエスからエッファタと叫んで頂き、わたしの耳と舌を健全な状態に癒していただきたいと祈る。