日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神に祈って何になるのか

2019-06-02 | Weblog
ヨブ記21章 
 
  15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。

  1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。
  7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で(9)、家畜は増えてみな喜び踊って死んでいく(10~13節)。彼らは神に向かって不遜なことを言い、なぜ全能者に仕え、祈って何になるのかとうそぶく。だが彼らは財産を多く手にしている(14~16節)。
  17節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか」。この不条理に神はどうして罰して思い知らせられないのかと問い質す。「灯が消されることが無い」は20章23、28節の反論である。神の怒りを麦のもみ殻のように吹きとばされ、子孫にまで延ばしておられるのか、生きている間に破滅を自分の目で見、全能者の怒りを飲み干せばよいのにと言う(18~21節)。詩1篇4~5節には神に逆らう悪しき者がもみ殻のように吹き飛ばされるとある。
  22節「『人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる』と言う」。これは本末転倒である。不条理の言葉が続く。ある人は死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生で、まるまると太っている人が居ると思えば、全く反対にある人は死ぬまで悩み嘆き続けて、幸せを味わうこともない人もいる(23~25節)。だが、両方とも死んで陰府に降ると同じではないかと言う(26節)。あなたちはこの論理でわたしに対して不法をたくらんでいるのだ(27節)。
  28節「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕はどうなったのか」とあなたたちは問う」。「高潔な人」は口語訳「王侯の家」だが、新共同訳はヨブのように解釈している。これを問うのは誰か、あなたたちか。通りかかる旅の者が館を見て尋ねるのか。あなたたちも旅の者も、この神の不条理を応えることは出来ないだろう(29節)。
  30節「悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに~」。裏工作をしていても、誰も暴くことはできず、その仕業を罰することはない。彼のために盛大な葬儀が執り行われ、墓泥棒に対して番人が立ち、葬列のあとが絶えない(31~32節)。
  34節「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。ヨブの結論の厳しいことば。口語訳「…あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

  15節の「神に祈って何になるのか」という批判は、キリスト者も耳にする事がある。ルカ福音書23章35~37節を読むと、主イエスは、十字架上でユダヤ最高法院の議員達から、この言葉を浴びせられている。


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