日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

あなたは神を待つべきなのだ

2019-06-13 | Weblog
ヨブ記35章 
   
  14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(新共同訳)

  1節「エリフは更に言った」。エリフは教育的な態度で更にヨブを説得しようとしている。34章に続いてヨブの言葉を取上げて語る。しかし正確ではない。「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」と言っているが、それは正当だろうかと反論する(2節)。13章18節だが、これはヨブの基本的な主張。新改訳「わたしの義は神からだ」。「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の益があるか」と言うが、犯しているとか犯していないとか損得にしている高慢な態度を批判しているが、むしろエリファズが22章3節で述べている。
  4節「あなたに、また傍らにいる友人たちに わたしはひとこと言いたい」。ヨブと友人たちに、エリフは3節と同じことを伝えた。過ちを犯した、繰り返し背いたというが、神にとってそれが何だと言うのだと、ここではヨブの正当性は超越的な神とは関わりがない事柄だという(5~7節)。逆らったとか正しいとかいうのは同じ人間に関わることで、友人との論争は、神の問題となっていないと説くのである(8節)。
  9節「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ 権力者の腕にひしがれて、助けを求める」。この世の悲惨な状態に叫び声をあげて、この世の権力者に助けを求めるだけで、「わたしの造り主なる神」、夜の間に歌をあたえ、地の獣を教え、空の鳥から知恵を授ける方との、人格的な交わりを求めて叫ばない高慢さのゆえに叫んでも答えはない。全能者なる神は偽りを聞かれず、顧みることはない、冷たく諭している(10~13節)。
  14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」。隠れておられるのではない。神が現れる時を待つべきで、それは、今はまだ怒りの時ではないからだと諭している。「怒りの時」とは神の義が明らかになる時である。つまり神の法廷での訴えは、裁判官のもとに届いているから、その判決が下るのを待つべきだという意味である。そこでいつまでも無駄口を叩くことを止めなさいとヨブに言った(15節)。
  14~15節は、34章24節で問題にした「神の沈黙」に対するヨブへの解答という事でヨブにとって説得力のある言葉で只管な待望が求められる処である。



命を得て光を仰ぐ

2019-06-13 | Weblog
ヨブ記33章
 
 28節「しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐと」(新共同訳)。

  1節「さてヨブよ、わたしの言葉を聞き わたしの言うことによく耳を傾けよ」。三人の友人とヨブに呼びかけたが答えがないので、改めて「さてヨブよ」と語り始める。わたしは口を開き、率直に語り舌は偽りを決して言わない、唇は真実をもってはっきり言う(2~3節)。全能者の息を吹きかけてわたしは生かされた者だ(4節)。これは創世記2章7節を指す。あなたもわたしと同様に土のかけらに過ぎないのだから、脅かして押さえつけようとしている訳ではない。答えられるなら答えてみよという (6~7節)。
 8節「あなたが話すのはわたしの耳に入り 声も言葉もわたしは聞いた」。あなたは潔白で、罪を犯していない、清く不義はない。それでも神は敵視して足枷をはめ行き先を見張っておられると抗議している(9~11節)。そこに神の前であなたの罪があるのだとエリフは告げた(12節)。口語訳は「あなたはこの事において正しくない。神は人よりも大いなる者だ」と訳している。なぜ神と争おうとするのか、神はいちいち説明されない方で、知恵も力も人間の知りうるところではない。神は一つの方法で語り、また二つの方法で語るお方である(12~14節)。語る方法は色々あるということ。29節にも出ている今回のように、友人のような人生経験で得た知恵者たちだけでなく、深い眠りの中で夢を通して神が語るのも一つの方法なのだという(15~16節)。それは行いを改めて滅びを免れ、死の川を渡らないですむためであると語っている(17~18節)。
 19節「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく~」。病で食欲は無くなり、肉体はやせ衰え、魂は絶望してしまい、千人に一人でも執り成して潔白を証明してくれる者がいるなら、滅亡に陥らないようにしてください。この「執り成して潔白を証明してくれる者」を口語訳では「中保となって~正しい道を示す」。これが、超越した神が救いの道を示して下さるという第三の方法である。「代贖」(新改訳=身代金)を支払ますからと言うなら、死の病から立ち上がって若者のようになるに違いないとエリフは語るのである(20~25節)。そうすれば祈祷は受け入れられ、喜びの叫びをあげて御顔を仰ぎ見、神に正しいと認められる。そしてわたしは罪を犯したが、神はわたしを滅亡から救い出して下さり、命の光を仰ぐことができたと告白するのである(26~28節)。神は二度でも三度でも魂を滅亡から呼び出されるのである(29~30)。だからヨブよ、沈黙してわたしの言うことに耳を傾けよと呼び掛ける(31~33節)。 エリフの言葉は、。人は誰一人悔い改めなくしては神に義とされないことを伝える。苦難という暗闇から光明を見出す道は外にはないのである。苦しみは神への招きである。しかしここでは中保者は罪の苦悩を担われる方でないことは明らかである。て苦難の有無が条件であるという点では因果応報の壁は除かれてはいない。