日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神に祈って何になるのか

2019-06-01 | Weblog
ヨブ記21章 
 
  15節「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか」(新共同訳)。

  1節「ヨブは答えた」。ツォファルに対するヨブの反論である。これまで語ったのは因果応報論では説明し切れないということである。わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。13章17節でも同じことを述べている。我慢して聞いてくれ。それから笑うなら笑えと訴える(2~3節)。わたしはこれまで人に訴えているのではないのに、なぜ我慢しなければならないのか。これから語ることは慄然とし身震いさえするのだ、だから口に手を当て驚くがよい(4~6節)。
  7節「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。ヨブは因果応報を批判し問い直す。神に逆らうものが幸福に生き永らえ、子孫も栄え(8節)、家は平和で(9)、家畜は増えてみな喜び踊って死んでいく(10~13節)。彼らは神に向かって不遜なことを言い、なぜ全能者に仕え、祈って何になるのかとうそぶく。だが彼らは財産を多く手にしている(14~16節)。
  17節「神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い 神が怒って破滅を下したことが何度あろうか」。この不条理に神はどうして罰して思い知らせられないのかと問い質す。「灯が消されることが無い」は20章23、28節の反論である。神の怒りを麦のもみ殻のように吹きとばされ、子孫にまで延ばしておられるのか、生きている間に破滅を自分の目で見、全能者の怒りを飲み干せばよいのにと言う(18~21節)。詩1篇4~5節には神に逆らう悪しき者がもみ殻のように吹き飛ばされるとある。
  22節「『人が神に知識を授けえようか。彼は高きにいまし、裁きを行われる』と言う」。これは本末転倒である。不条理の言葉が続く。ある人は死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生で、まるまると太っている人が居ると思えば、全く反対にある人は死ぬまで悩み嘆き続けて、幸せを味わうこともない人もいる(23~25節)。だが、両方とも死んで陰府に降ると同じではないかと言う(26節)。あなたちはこの論理でわたしに対して不法をたくらんでいるのだ(27節)。
  28節「あの高潔な人の館はどうなり この神に逆らう者の住まいとした天幕はどうなったのか」とあなたたちは問う」。「高潔な人」は口語訳「王侯の家」だが、新共同訳はヨブのように解釈している。これを問うのは誰か、あなたたちか。通りかかる旅の者が館を見て尋ねるのか。あなたたちも旅の者も、この神の不条理を応えることは出来ないだろう(29節)。
  30節「悪人が災いの日を免れ 怒りの日を逃れているのに~」。裏工作をしていても、誰も暴くことはできず、その仕業を罰することはない。彼のために盛大な葬儀が執り行われ、墓泥棒に対して番人が立ち、葬列のあとが絶えない(31~32節)。
  34節「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。ヨブの結論の厳しいことば。口語訳「…あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

  15節の「神に祈って何になるのか」という批判は、キリスト者も耳にする事がある。ルカ福音書23章35~37節を読むと、主イエスは、十字架上でユダヤ最高法院の議員達から、この言葉を浴びせられている。


わたしを贖う方は生きておられる

2019-06-01 | Weblog
ヨブ記19章
 
   25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(新共同訳)

  1節「ヨブは答えた」。ビルダドへのヨブの応答である。内容はビルダドに向けられた言葉と、神がヨブに向けておられる怒りの凄まじさを披瀝した言葉が出てくる。あなた達はどこまでわたしを苦しめ、そんな論法でわたしを打ち砕くのかと問い、侮辱するのはもう充分だと訴える(2~3節)。故意に犯したのでもない過ちを、跨張して責め立てて辱めているという(4~5節)
  6節「それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし わたしの周囲に砦を巡らしていることを」。神がわたしに不当な取り扱いをされているのを知るがよい。救いを求めても応えてもらえず、わたしの道はふさがれて通れず、行く手には暗黒があり、栄誉の冠は奪われ、希望は根こそぎ取り去られている(7~10節)。神はわたしに向かって怒りを燃やされ、主の軍勢は結集してわたしの天幕を取り囲んでいる(11~12節)。兄弟や知人、親族や友人、家に身を寄せている男や女らすべてから引き離されて、恐ろしい孤独地獄に陥っている(11~15節)。僕を呼んでも応えず、妻と子供に嫌われ、幼子まで背を向ける(16~18節)。心を許す親友から忌み嫌われてしまった(19節)。これはヨブのために様々言葉をかけて共に苦しみを共有してくれた三人の友から、背かれて嫌われていて、今は「骨皮筋右衛門」になっている(20節)。
  21節「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ 神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」。孤独と悲嘆と絶望の中に身を置いているヨブは思わず、神と一緒になって責めることを止めてくれと友人に憐れみ乞う(22節)。
  23節「どうか、わたしの言葉が書き留められるように 碑文として刻まれるように」。しかしヨブは絶望の心底から、神に向かって叫び、そこに希望の火種を発見する。それは既に17章3節で陰府への希望として垣間見たことである。自分の言葉が「たがね」(鋼鉄の刃に埋め込まれた純度の高い刃(やいば))で石碑に刻まれ、鉛でその文字を埋め込んで消えないようにという(23~24節)。それは何か。
   25節「わたしは知る。わたしを贖う方は生きて折られ、ついには塵の上に立たれる」。「塵の上」とは陰府を指す。「贖う方」(ゴーエル)とは、「調停し仲裁する方」9章33節、「陰府にてヨブを覚える神」14章13~17節、「天で弁護してくださる証人」16章19~21節である。ここに信仰の願望、確信が告白されている。この事柄は「はらわたは絶え入る」程の激しい期待と興奮でやつれはてるというのである(27節)。そしてヨブの苦しみを罪ある者とする友人に、あなた方こそ、「神の剣を覚悟せよ」と反論した(28~29節)。


神はわたしの歩む道を知っておられる

2019-06-01 | Weblog
ヨブ記23章 
 
  10節「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」(新共同訳)

  1節「ヨブは答えた」。エリファズとの対話は噛み合わなかった。そこでヨブは神との対話を切に願うのである。彼の独白は24章にまで続いている。ここでは16~17章、19章程の激しさはないようだ。来る日も来る日もわたしは、苦しみ嘆き(口語訳=呟きは激しく)、呻いて祈りの手は重い。どうしたら、その方を見出せるのか…どうしたら、おられるところに行けるのか。わたしの訴えを差し出し、思う存分(口語訳=口を極めて)…言い分を述べたいとつぶやく(2~4節)。必死に神を探し求めるヨブである。
  5節「答えてくださるなら、それを悟り 話しかけてくださるなら、理解しよう」。神は強い力で争われる方でなく、わたしを顧みてくださり、訴えは解決できるに違いないと独白する。神が答えてくださればわたしは理解し、訴えは解決するのに、それがない。東西南北,何処を尋ねてみても、神に出逢えない、見出せないのだという(6~9節)。
  10節「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」。わたしを炉に投じて精錬すると金塊が出てくるように、真実が明らかになるというのである。わたしの足は、あなたの定めた道から離れたことはなく、わたしの唇は神が告げられた通りに語り、その言葉を納得して胸に納めて来た(11~12節)。神は御自身の定められた諸々のことを実行しておられるのに(新改訳=みこころは一つである)、御顔を隠されるので、何故なのか考えれば考えるほど恐ろしくなり、勇気を失っておびえる(13~16節)。
  17節「わたしは暗黒を前にし、目の前には闇が立ちこめているのになぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか」。口語訳「暗黒がわたしの顔をおおっている」。孤独地獄という表現があるが、神の沈黙に打ちひさがれて大地に身を投げ出し、苦悩している姿が浮かんでくる。この苦悩の訴えは24章に続いている。
 これとは全く違うことばを、詩139篇9~10節に見出すことができる。
 「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
  あなたはそこにもいまし
  御手をもってわたしを導き
  右の御手をもってわたしをとらえてくださる」