日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

エゼキエルが描く神殿の幻

2010-02-28 | Weblog
エゼキエル40章  

  新しい神殿の幻と共同体(40~48章)
  1~49節 神殿の外庭と内庭
  2節「神の幻によってわたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に降ろされた」。それは紀元前573年新年祭の贖罪日の出来事であったという(レビ記25章9節see)

  5~16節 神殿外庭の測量
東門から入り門の敷居(6節)、控えの間と控えの間の間隔(7節)、廊門の奥行(8節)、東の三つの控えの間と両側の門、脇柱、仕切り(9~11節)、控えの間全体と廊門(12~15節)、格子窓(16節)。

  17~27節 外庭の測量
庭の敷石に沿った三十の部屋(17~18節)、東側の門に沿った庭と門の脇柱と廊(19節)、北側の門と三つの控えの間は東側と同じ(20~23節)、南側の門も東側と同じ(24~27節)。

  28~49節 内庭の測量
南の門と控えの間、脇柱と廊は外庭の門と同じで石段で八段上がる(28~31)、右回りに東門(32~34節)、北門(35~37節)。献げ物の動物を洗う部屋、二つの聖卓(38~39節)、廊門の内側と外側にある八つの聖卓それぞれの大きさ(40~42節)。歌い手の部屋、祭司の務めの部屋(43~47節)、神殿に入る石段と神殿の廊(48~49節)。

この測量は42章まで続く。
 記述を追って行くと、神殿全体の構造が厳密に計られているが、これを鳥瞰図にするのは難しい。ここから何が見えてくるか。
  
  預言者エゼキエルは新しい国の復興をエルサレム神殿中心に精緻に描いた。バビロンから帰還した民は、ソロモン神殿を思い浮かべて第二神殿を建設した。そしてユダヤの統治をしたヘロデも紀元前20年に財を尽くして神殿建設に着工した(完成は紀元64年)。しかし、それらの神殿はすべて戦禍によって消滅し、崩れた城壁は地下に埋もれた。

主イエスは真の礼拝は石垣で築かれたエルサレム神殿に依らないことを告げている。ヨハネ福音書4章23~24節
 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。

熱い思いをもって憐れむ

2010-02-27 | Weblog
エゼキエル39章 

 1~10節 主なる神はゴグを滅ぼす
 4節「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる」。38章後半に続く預言で、同志討ちしていたゴグの軍隊は、敗北し消滅することが告げられる(5~6節)。
 7節「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。…」。これによって聖なる名は、諸国民に対しても知らせることになる。すべての武器は燃やされ、七年間燃料となる(9節)。

 11~16節 ゴグの軍隊の死体を埋める
 11節「その日わたしはゴグの為に、イスラエルの中のよく知られている場所を墓地として与える。…」。そこはゴグの軍勢の谷と呼ばれる。「旅人の道をふさぐ」とは汚れて近づけないこと。民は国中を行き巡り七カ月間骨を探してゴグの谷に埋める(14節)。そこに標識を立てておく(15節)。

 17~21節 猛禽と野の獣が死体を食べる
 奇怪な光景であり、4節にあるが、11~16節と文脈が合わない。「ゴグの軍勢の谷」に猛禽と野の獣が群り来て、墓を掘り起こして食べるということなのか。それはイスラエルが犠牲の雄羊、小羊、雄山羊、雄牛を犠牲として祭壇に献げるのと重ね合わせている(18節)。おぞましい預言である。

 22~29節 イスラエル回復の預言
 22節「その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる」。国々はイスラエルの捕囚と、神が彼らを敵の手に渡したこと、汚れと罪に応じて行ったことを知る(23~24節)。そして回復が実現するという。
25節「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ」。口語訳「…わが聖なる名のために、ねたみを起す」。岩波訳「…慈しみ、わが聖なる名のゆえに嫉妬する」。エゼキエルの神は「熱情の神」である(16章38、42節、23章25節、36章5、6節、38章19節)。
29節「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ…」。

不思議な光景から引き出される結論は、戦争の武器の無い、戦死もない永遠の平和な世界である。本章にも「平和の契約」が背景にある(34章25節)。

謙遜と傲慢について

2010-02-26 | Weblog
  エゼキエル38章 

  38~39章 マゴグのゴグに対する預言
  2~13節 マゴグのゴグへの呼びかけ
  3節「主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう」。マゴグは「ゴグの地」、スクテヤ人と言われるが歴史的に特定できない。神話的存在で、創世記10章2節にあり、ヨハネ黙示録20章8節に引用される。
  4節「わたしは…お前の顎に鉤をかけて、お前とその全軍、馬と騎兵を連れ出す」。それは大集団で、ペルシャ、クシュ、プト、ゴメルとその軍隊、ベト・トガルマとその軍隊が招集される(5~6節)。
  8節「…多くの日の後…多くの年を経た後一つの国を襲う。…彼らは剣の恐れから解放され…今は皆、安らかに暮らしている」。「多くの日」「多くの年」とは黙示文学的表現である。捕囚後、散らされていたイスラエルが故国に集められ平和に暮らしているが、そこに襲撃するという。

  10~16節 ゴグのイスラエル襲撃の問いと答え
  13節「『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と」。これは悪い計画である(10節)。
  16節「…そのことは、終わりの日に起こる。…それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである」。イスラエルの慢心を戒め、わたしの聖なることを知らせること(36章22~23節see)。 

  17~23節 主なる神の怒り
  18節「ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤りは激しく燃え上がる」。これを熱情と怒りをもって語る。その日イスラエルに大地震が起き(19節)、山々は裂け城壁は倒れ、魚も鳥も野の獣も震える(20節)。
  21節「わたしはすべての山の上で、ゴグに向かって剣を呼び寄せる。…」。この時ゴグの軍隊に同志討ちが始まり、彼らも裁かれることになる。疫病と流血が起き、大雨と雹と火と硫黄が注ぐ(22節)。彼らも主なる神の聖なることを知る(23節)。

  マゴについては、39章に続く。

  ここから先ず、マゴという黙示的な存在も、互いに殺し合う不完全な滅ぼされるべきものであることを知る。いま一つはイスラエルに向けられる神の熱情と怒り(19節)は、その慢心に対してであり、一方的な救いと選びに心低くし聖なる名を崇めるべきことである。

  ヤコブは謙遜と傲慢について次のように述べている。
  「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(口語訳4章6~7節)。


枯れた骨よ、主の言葉を聞け

2010-02-25 | Weblog
エゼキエル37章 
 
  枯れた骨の復活
 1~10節 枯れた骨の幻
 1節「…わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨で一杯であった」。預言者エゼキエルは、強烈な幻体験をする。それはエルサレム陥落の絶望状況を描き出した幻である。 
  3節「…この骨は生き返ることができるか」。この問いに「あなたのみがご存知です」と答えた。そこで主は言われた。
  4節「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」。主の言葉は、霊を吹き込むと生き返るというもの(5節)。命じられた通りに預言すると、カタカタと音を立て、骨と骨とが近づき、骨の上に筋と肉が生 じ、皮膚がすべてを覆う。しかし霊はなかった(7~8節)。
 9節「…『霊に預言せよ。…主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』」。命じられた通り預言すると、霊が彼らの中に入って生き返り、大きな集団となった。

  11~14節 幻の解釈
  この枯れた骨の山はイスラエルの全家である(11節)。そして主なる神は墓を開いて骨を引き上げ(13節)、霊を吹き込んで生ける者とし、自分  の土地に住まわせるという(14節)。

 15~28節 一つとなる神の民
 16節「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい」。二本の木に文字を書くという象徴行為で、南ユダと北イスラエルを示す。そしてそれを互いに近づけ、手の中で一本の木になる(17節)。
  これをイスラエルの民の前で示し、主なる神の言葉を語る。
  22節「わたしは…イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは…二度と二つの王国に分かれることはない」。捕囚の民が故国に帰還し一つの国が再生すること示した象徴行為である。
  彼らの背信行為は赦され、神の民となり(23節)、主の僕ダビデが牧者として民を治めて掟を守り行う(24節)。彼は永遠に支配者となり、民はそこに永遠に至るまで住む(25節)。聖所が永遠に真ん中に置かれる(28節)。
  「僕ダビデ」は34章23~24節にある。これは新しい国を示す終末預言であり、「永遠」が25~28節に五回出てくる(16章60節see)。

  枯骨の谷とは、暗黒と死の支配する絶望のどん底を象徴する。そこで「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」とは言え得ない事柄ではない。しかし主の言葉の絶対性が示される。キリストの福音宣教はこれと同じである。

聖なる名が崇められること

2010-02-24 | Weblog
  エゼキエル36章
 
  イスラエル回復の預言
  1~15節 イスラエルの山々の回復 
  2節「主なる神はこう言われる。敵がお前たちに向かって、『ああ、永遠の丘が今や我々の所有となった』と言っている」。イスラエルの周囲にいる敵国が、嘲笑している言葉である。 
  3節「それゆえ主なる神はこう言われる」。同じフレーズが4、5、6、7節と続く。侮り、はしゃぎ、嘲って、(わたしの)山と丘、牧草地、町々を略奪した国々に対して告げる。
  7節「…わたしは手を挙げて誓う。必ず周囲の国々は自分の恥を負う」
  8節「しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝をだし、和が民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である」。捕囚期の終わり間近い。枝を出し、実を結ぶ繁栄の回復を示す。
  土地は耕され種を蒔き(9節)、
  町の廃墟は建て直される(10節)。
  人と家畜は増え(11節)、
  嗣業の土地が与えられる(12節)。
  14節「お前は二度と人間を食らうことはなく、二度と自分の民の子を失わせることはない、と主なる神は言われる」。災害や疫病などで命が奪われることはない。

  16~38節 イスラエル民の回復
  16節「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した…」。流血と偶像礼拝によって汚したイスラエルの家に対して、回復の根拠は何か。それは「汚した聖なる名」を神が惜しんだからだと告げている(20~21節)。
  民の側には救いの根拠はなく一方的な神の業である。

  22節「…主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う」。
そこでわが聖なる名のために行うのは何か。
  ①清い水ですべての汚れと偶像から清める(25節)
  ②新しい霊を置き、石の心を取り除き、肉の心を与える(26節) 11章19節と同じ。
  ③木の実と畑の作物を豊かにし飢饉は無くなる(29~30節)
  ④悪と罪を思い起こし自分自身を嫌悪し恥じる(31~-32節) 
  ⑤荒れ果てた土地は、回復しエデンの園のようになる(35節)
  ⑥民の人口を羊の群れのように増やす(37節)

  イスラエル回復の実現が、神の聖なる名が崇められることを唯一の根拠としている。この絶対恩寵を受け入れることが出来るかを、ここで問い直したい。

永遠の敵意と平和の契約

2010-02-23 | Weblog
  エゼキエル35章 

  エドムに対する預言
  3節「彼に語りなさい。…セイル山よ、わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を荒れ果てた廃虚とする」。セイル山はエドムのこと。創世記27章にヤコブとエサウ双子の抗争物語がある。エドムに対する神の審判の預言は既に25章12~14節に出ている。
  5節「お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである」。岩波訳「お前には永遠の敵意があって、…その災禍の時、最後の処罰の時に~」。これが再度審判を預言する理由である。これはエルサレム陥落に際してエドムが南から侵入し、ユダの民を殺戮したことである。それは永遠の敵意であるという。
  9節「わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる」。これに対して主なる神も永遠の報いを告げられる。
  10節「…二つの国と土地はわたしのもの~」。この二つは北イスラエルと南ユダのことである。

  11節「それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる」。

  25章で示されたように、ここでも「わたしが主であることを知る」という神の主権が繰り返し告げられている(4、6、9、11、12、15節)。エゼキエル預言の特徴である。
  民族的宗教的対立は、21世紀になっても消えないばかりか、一層深化し殺戮行為は想像を超える残虐さである。アルメニア人とセルビア人の間に起きたコソボ紛争をはじめ、94年にアフリカの小国ルワンダで起こった多数派フツ族による少数派ツチ族の大量虐殺が歴史に爪痕として残っている。
唯一なる方の前にすべての者が一致することは不可能なのか。

  世界三大宗教と言われるイスラム、ユダヤ、キリスト教の共通項は「唯一なる神の前に人は皆等しい」ということである。これを基軸にして世界の平和を祈らねばならない。これが34章で示された「平和の契約」ではないか。

平和の契約による大牧者

2010-02-22 | Weblog
  エゼキエル34章
  
  1~10節 イスラエルの牧者たち
  2節「…イスラエルの牧者たちに対して預言し…語りなさい。災いだ…牧者は群れを養うべきではないか」。偽りの牧者は羊の乳を飲み、羊毛を身にまとい、それでいて群れを養おうとはしない(3節)。弱っている羊を強めず、病めるものを癒さず傷ついたものを包まない(4節)。野獣の餌食になろうとしているのに探さない(8節)。
  10節「主なる神はこう言われる。見よ、…わたしの群れを彼らの手から求め、群れを養うことを止めさせる」。このようなイスラエルの牧者に対して主なる神は裁きを宣言される。

  11~16節a 主が羊の牧者となる
  11節「私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」。主なる神が、ちりぢりになっている群れを探し出して世話をするのである。良い牧草地で群れを養い憩わせる(14~15節)。追われた羊を連れ戻し、傷を包み弱ったものを強くする(16節)。

  16b~22節 公平をもって羊を養う
  16節「…しかし肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平を持って彼らを養う」。公平(ミシュパート)は「裁き」「判決」という意味がある。新改訳「正しい裁き」よい牧草地で養われていながら、羊と羊、雄羊と雄山羊との間に争いがある(17節)。ここでは、「雄羊と雄山羊」はイスラエル共同体の指導者たちを指している。
  20節「わたし自身が、肥えた羊と痩せた羊の間を裁く」。弱い羊と強い羊の間を公正に裁くことができるのは、主なる神である。
  21節「お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった」。これは、肥えた羊と痩せた羊が起きる実態である。

  23~31節 僕ダビデを牧者として起こす
  23節「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。ダビデが新しくイスラエルの指導者として登場する預言は、サムエル記下7章8~13節にある(ダビデ契約と呼ばれる)。
  24節「また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る」。新しい牧者として立てるのは、主なる神で、彼はその僕である。そこで「平和の契約」が結ばれる(25節)。略奪に遭うことも、凶作も、辱められることも二度とない(28~29節)。

  神と結ばれる平和の契約は、旧約の歴史では実現しなかった。これは羊のために命を捨てる良き羊飼い・神の子イエス(ヨハネ10章11~16節)によって始まる新しい歴史によらねばならなかったことである。
  「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神」(ヘブライ13章20節)の御名を崇めたい。

本心で立ち帰らない頑迷さ

2010-02-21 | Weblog
  エゼキエル33章 

  1~9節 見張りの務め
  2節「…彼らの中から一人の人を選んで見張りとする」。彼は国に剣が臨む時、角笛を吹きならして民に警告する(3節)。これに聞かず彼を殺したら、責任はその者にある。見張りが角笛を吹かなかったなら、命を奪われたら、その血の責任は見張りにある(4~6節)。
7節「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。…わたしの警告を彼らに伝えねばならない」。同じ事柄がエゼキエル自身にも求められる。
  8節『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないため、悪人が自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。」見張りの務めは、3章17~21節と同じだが、ここでは角笛で警告する。生死にかかわることで、曖昧さを許さない。その責任を個々に厳しく求められる。18章20節以下の罪の個別性原理がここにある。

  10~20節 民の立ち帰りを神は求める
  11節「…わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」。神の本心は民の滅びではなく、立ち帰りである。
  14節「また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら~」。彼は死ぬことはない。必ず生きる(15節)。
  16節「彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は  必ず生きる。」。「正義(ミシュパート)と恵みの業(ツェダーカー)」は口語訳「公道と正義」。18章5、19、21、27節see

  21~29節 捕囚を免れた民の告げられた預言
  21節「…捕囚の第十二年十月五日…『都は陥落した』」。都から逃れた者が来る前の晩に,主の言葉がエゼキエルに臨み、黙していなかった(22節)。
都が陥落した原因は神の戒めを犯して偶像礼拝をなし(25節)、諸国の武力を頼み不義を行ったからだ(26節)。
  27節「それゆえ…主なる神はこう言われる。わたしは生きている。廃墟にいる者は必ず剣に倒れる。…」。イスラエルの山々は荒れ果てて、そこを通る者はいなくなる(28節)。

  30~33節 彼らも捕囚の民として予言者のもとに来る 
  30節「…あなたの同胞は~あなたの事を語り、互いに語り合っている。『さあ行って…聞こうではないか』」。その知らせを聞いた捕囚の民は彼の言葉を聞いているが、無責任な態度で聞いている。
  1節「…口では好意を示すが、心は利益に向かっている」。口先では良いことを言うが、本心は貪欲だ。
  32節「楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ」。自らの罪の責任を問うことをしない、捕囚の民の高慢と頑硬、背反と自我が示される。


滅びへの隷属からの開放

2010-02-20 | Weblog
  エゼキエル32章 
 
  1~10節 ファラオに対する嘆きの歌
  1節「第十二年の十二月一日に、主の言葉が臨んだ」。31章1節の日付から一年半が経過している。紀元前586年とすれば、エルサレムは崩壊し、第二バビロン捕囚が始まっていると考えられる。 
  2節「人の子よ、エジプトの王に向かって嘆きの歌をうたい彼に言いなさい。…お前は滅びに定められた。~」。鰐に擬えられ、地引き網で引き上げられ野に投げ捨てられる(2~3節)。これは29章と同じである。禿鷹や野獣が来て肉を食べ、食べ残した肉は腐り、流された血とともに谷を満たす(4~6節)。
  7節「…わたしは空を覆い、星を暗くする。また問いようを雲で覆い~」。その日自然界は暗闇で覆われ(~8節)、多くの民は茫然とし震える(9~10節)。
  12節「わたしは勇士たちの剣で、お前の軍勢を倒す…」バビロン軍の剣で攻撃しみな滅ぼされる。
  14節「そのとき、わたしはその水を澄ませ、流れを油のように静かに流れさせると、主なる神は言われる」。不思議な情景である。それは死が支配する沈黙の世界である。
  16節「…国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う~」。葬儀の時に雇われて歌う泣き女である。

  17~32節 死と陰府の世界
  17節「第十一年のその月の十五日…」。15日後
  18節「…エジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ…穴に下って行く者と共に」。エジプトと貴族たちが陰府に下って行くことを、泣き女に泣き悲しめという。彼らは剣に倒れて陰府の底に横たわる(19~21節)。
  陰府の底に横たわる死者たちは皆剣で倒れたものたちである。それはアシュルとその仲間(22節)、アッシリアとその仲間(23節)、エラムとその軍勢(24~25節)、メシュクとトバルとそのすべての軍勢(26~28節)、エドムの王たちとすべての君候(29節)、シドンのすべての人々(30節)、そして最後にファラオとすべての殺された軍勢が横たわる(31~32節)。陰府の底に落とされた者らは、すべて割礼のない者である。そこは何一つ希望のない死の闇である。
  しかしファラオが慰められる(31節)とは何なのか。皮肉と取るべきか。自虐的な表現だろう。
 
  今、地球破壊が進行している。その元凶は愚かな我々人間なのだ。求められるのは叡智である。すべての生命をいつくしむ創造主を畏れ、それに服するところから始まる新創造ではないのか。エゼキエルは、このことを突きつけている。

  ローマ8章20~22節に、すべての被造物が「滅びへの隷属から開放」されることを呻いているとある。

「よらば大樹の陰」 

2010-02-19 | Weblog
  エゼキエル31章 

  エジプトのファラオに対する預言
  2~9節 大木に擬えたファラオ
  3節「見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり丈は高く、梢は雲間にとどいた」。口語訳「見よ、わたしはあなたをレバノンの香柏のようにする…」。大木のファラオはレバノンの香柏に比べられる。梢が雲間に届く大木で、枝は茂りすべての鳥が巣を作る。獣も民も木陰に住む(4~6節)。エデンの園のすべての木も美しさをうらやむ程(8~9節)。

  10~14節 その高慢さのゆえに切り倒される
  10節「わたしは彼を諸国の民の最も強い者の手に渡す。その者は彼を悪行に応じて扱う。わたしは彼を追放する」。心が奢り高ぶったので、主なる神は彼を追放する。
12節「諸国の最も凶暴な民である異国人が彼を切り倒し…その枝はすべての谷間に落ち、若枝は切られて~谷を埋める。すべての民は、その木陰から逃げ去り、彼を捨てる」。「諸国で最も凶暴な民である異邦人」とはネブカドレツァルとバビロン軍である。大木は切倒され、枝は谷に埋められ、民は彼を捨てて逃げさる。
  13節「彼の倒された幹には、空のすべての鳥が住み、若枝のもとには、野のすべての獣がやどる」。エジプトに支配されていた諸国民が自由に住むこと。

  15~18節 大木は陰府に下る
  ここでは大木が陰府に下る情景が描かれる。
15節「主なる神はこう言われる。彼が陰府に下る日に、わたしは彼のゆえに淵を喪に服させ、彼を覆う。…」。この時川の水は干上がり、野のすべての木も萎れる。大木が倒される地響きで打ち震え、エデンやレバノンの木々はそれが当然なことだと納得する(16節)。そのエデンやレバノンの木々と、大木の陰に宿っていた総てのものは共に「穴」、「陰府」(17節)、「地の深き所」(18節)に下る。これは暗黒の死の世界を指す。
  18節「『…これがファラオとそのすべての軍勢の運命である』と主なる神は言われる」。口語訳「…。これがパロとその民衆であると、主なる神は言われる」。

  「よらば大樹の陰」という思想が今もある。事無かれ主義。忘我の罠。「みんな病」。「みんなで渡れば怖くない」。「長いものに巻かれろ」。誤った信頼を生じさせる大木こそ切倒される必要がある

主の日が来ますように

2010-02-18 | Weblog
  エゼキエル30章 

   1~9節 エジプトに対する審判(1)
   2節「…主なる神はこう言われる。泣き叫べ、ああ、その日は災いだ」。その日とはバビロン軍の侵入を指す。
   5節「クシュ、プト、リディア、諸種族の群れ、クブおよびその他の同盟国の住民も、彼らと共に剣で倒れる」。「諸種族の群れ」が口語訳は「アラビヤ」となっている。同盟国も侵入されるが、エジプトの荒廃が最も甚だしい(7節)。

   10~12節 エジプトに対する審判(2)
   11節「彼とその軍隊、諸国の中で最も凶暴な軍隊が、この国を滅ぼすために動員される。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、この国を殺された者で満たす」。ネブカドレツァルの軍隊は、諸同盟国の比ではない。致命的な打撃はナイル川を干上がらせること(12節)。

  13~19節 エジプトに対する審判(3)
  13節「…わたしは偶像を打ち壊し、メンフィスから偽りの神々を絶つ。エジプトの国には、もはや支配者がいなくなる。わたしはエジプトの地に恐れを与える」。巨大なスフィンクスを破壊する。若者は剣で倒れ、他の人々は捕囚として連れ去られる(18節)。「テハウネヘス」の地名は、エレミヤ43章7~8節にユダの残留民逃亡先として出てくる。

  20~26節 エジプトに対する審判(4)
  20節「第十一年一月七日」。紀元前587年3~4月頃
  21節「…わたしはエジプトの王ファラオの腕を折った。見よ、彼の腕は…、剣を取ることができない」。これと全く逆にバビロンの王の腕を強くし、その手に剣を与える(24~25節)。そして「わたしが主であることを知る」こととなる(26節)。
 
  本章には「主の言葉が臨んだ」(1、20節)、「主なる神はこう言われる」(2、10、13、22節)、「わたしが主であることを知る」(25、26節)という言葉で、主なる神の支配が強調されていることに注目したい。
  それが「主の日」(3節)であり、神の支配の完成という終末信仰である。イザヤ13章6、9節、ヨエル2章1、11節、アモス5章18節、第一テサロニケ5章2、4節etc

  人の側にはいつか判らないから、その確実性に疑いを抱きやすい。しかしこれは「主の言葉は実現している」「必ず実現する」という信仰である。「主の日」あるいは「その日」という言葉で(特に後者が多い)、旧約新約を問わず、聖書には数多く出てくる。
 
 キリスト者が日毎に祈る「御国が来ますように」は、「主の日が来ますように」と言ってもよい。  


頼りにならない葦の杖

2010-02-17 | Weblog
  エゼキエル29章 

   1~12節 エジプトの王ファラオへの預言
   エジプトに対する預言は29~32章で、諸外国に対する預言で最も長い。
   2節「人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し~」。第十年の十月十二日(紀元前587年頃)はエルサレムがバビロン軍に攻撃された頃である(24章1節see)。その時ゼデキヤはエジプトの援軍を頼んでいる(エレミヤ37章5節)。大国に囲まれたユダとイスラエルは幾度も歴史の舞台に引き出された。特にこの巨大な権力国家エジプトに翻弄されている。ヒゼキヤ時代アッスリヤ攻撃を避けようとエジプト援軍を願った時、イザヤはそれを非難している(30~31章)。ヨシアはメギドの戦いでファラオ・ネコに殺され、一時ユダはその支配下に置かれた(列王記下23章)。
   3節「…エジプトの王、ファラオよ、…ナイル川の真ん中に横たわる巨大な鰐よ、お前は言う。『ナイル川はわたしのもの…自分のために造ったものだ』と」。ファラオがナイルに生息する鰐に擬える。鰐は陸に引上げられ殺されて鳥や野獣の餌食になる(4~6節)。
   6節「エジプトのすべての住民は、イスラエルの家にとって、葦の杖にすぎない」。風が吹けばすぐ折れるナイルの河辺に生える葦の杖で、役に立たない。エジプトの地は、四十年間荒野に変わり廃墟となる(9~12節)。

  13~16節 エジプトは弱小の王国となる 
  16節「イスラエルの家は、もはや、彼らに頼らず、かつて彼らを頼みにして犯した罪を思い起こす。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」。かくして、イスラエルがエジプトを頼りにして神への信頼に背いた罪を悟ることになる。

  17~21節 ネブカドレツァルの報酬
日付が「第二七年の一月」(紀元前571年)とあるから別の時の預言になる。
18節「…ティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった」。ティルス攻撃が13年続いたと思われる。長い戦いで荷を担いだ兵士たちの頭ははげ、肩は擦りむけたという。
  20節「ティルスに対して費やした王の働きの報いとして、わたしは王にエジプトの土地を与える。彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである、と主なる神は言われる」。ネブカドネツァルに、対ティルス戦十三年間の報酬としてエジプトを与えるという。この預言は実現しなかった。
  21節 エジプトの審判によりイスラエルが回復し、メシヤの到来を期待する。

  エジプトが「頼りにならない葦の杖」(6節)とあるが、主イエスは、預言の成就としてイザヤ42章1~3節を引用し、ご自身を「正義を勝利に導くまで、…傷ついた葦を折らず…」と言われた(マタイ12章20節)。
  人はまことに葦のような存在であるが、そこで神への信頼を呼び覚ますことを知るべきである。パスカルも「パンセ」で「考える葦」と表現している。

 安らかに地に住む

2010-02-16 | Weblog

エゼキエル28章 

  1~19節 ティルスに対する神の審判(続き)
  1~5節 「わたしは神だ」と言う
  2節「…お前の心は高慢になり、そして 言った『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住み家に住もう』と…」。それは思い込んでいるだけだ。富を積み、金銀を宝庫に蓄え、富を増し加えて高慢になっている(4節)。
  6~10節 神はティルスを滅ぼす
  8節「お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ」。諸国の中で最も暴虐な外国人を立ち向かわせて剣を抜き、切り倒されると主は告げる。
  11~19節 嘆きの歌
  13節「お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んだ」。ティルスが楽園神話の原人として描かれる(シリア海岸で発見された、紀元前14~15世紀頃のフェニキア文化を伝える楔形文字の粘土版文書を反映している)。
  15節「お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったが、ついに不正がお前の中に見いだされるようになった」。そこでわたしはお前を神の山から追い出し滅ぼした(16節)。
  18節「…お前を焼き尽くさせ~お前を地上の灰にした」。諸国の中で人々に恐怖を引き起こし、消えうせる(19節)。
  ここでは、創世記2~3章にあるエデンの園と人間の堕落と、ティルスの君主の堕罪が重ね合わされている。

  20~23節 シドンへの預言
  シドンはフェニキアの都市国家で地中海貿易が盛んで、ティルスと競い合う国であった。紀元前594~593年バビロンに滅ぼされ、王は捕囚になった(エレミヤ27章3~11節参照)。

  24~26節 イスラエル回復預言
  自分を神とする国々の命運は明らかし、イスラエルを再び集め聖なる民として、「わたしが与えた土地に住む」という(25節)。
  26節「彼らはそこに安らかに住み、家を建て、ぶどう園を植え、安らかに住み着く。彼らを侮辱する周囲のすべての人々に、わたしが裁きを行うからである。そのとき彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知るようになる」。ティルスとシドンという海洋国家の滅亡を描くなかで、預言者エゼキエルは、神によって建設される「エデンの園」(創世記2章)を告げた。

  安らかに地に住むことは、イスラエルのみならず人類すべの共通の願いである。詩37篇3、29、34節and 132篇13~15節see



人を呑み込む海の深淵

2010-02-15 | Weblog
  エゼキエル27章 

   ティルスを豪華船にみたて、その沈没を嘆く滅亡の預言
  3~10節 ティルスの豪華船
  3節「海の出入り口を支配し、多くの島々を巡り、諸国の民と取り引きを行うティルスに向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。ティルスよ、お前は言う。『わたしの姿は美しさの極み』と」。口語訳「…『わたしは美の完全だ』」。
ティルスと交易する諸国の民が、その豪華な船の美しさを褒め歌わせている。それは主なる神が仕向けたこと。その美の完全さを自負する(4節)。セニル(ヘルモン山)の檜、レバノンの杉、バシャンの樫で建造し(5~6節)、エジプトの麻とエリシャ(キプロス)の染料で造った帆(7節)。熟練した船乗りたちが漕ぎ手となり、取引した武器で美しく身を装う(9~10節)。

  11~24節 諸国の人々と商品を交換した
  取引した国と民は「タルシシ」(12節)、「ヤワン、トバル、メシュク」(13節)、「ベト・トガルマ」(14節)、「ロドスサ島」(15節)。「アラムあ」(16節)、「ユダとイスラエル」(17節)、「ダマスコ」(18節)、「ウザル地方」(19節)、「デダン」(20節)、「アラブ」(21節)、「シェバとラバ」(22節)、「ハラン、カンネ…キルマド」(23節)。その商品はあらゆる産物である。

  25~36節 様々な産物の商品を運ぶ豪華船の沈没 
  沈没の予告(25~27節) 東風が船を打ち砕き、海の真ん中に沈む。東風はパレスチナでは砂漠から吹き寄せる熱風で神の審判の象徴である(ヨナ書4章8節)。
 水夫たちは叫び声をあげ、悲しみの声を上げる(28~32節)。
 船は水中深く沈み、積み荷も乗組員と共に沈んだ(33~34節)。
 海沿いの国々の民も王も驚き恐れ、商人たちは口笛を吹いて嘲る(35~36節)。


  ティルスの海洋交易がどんなものであったかが判る章である。地理的にはスペインのタルシシから、エーゲ海の島々、ユダとイスラエルを含むシリア、パレスチナからアラビア地域という広汎なものであった。
  文化史的にみれば、フェニキアからセム系表音文字を22のアルファベット体系にしてヨーロッパ世界に海洋を通して伝えられた。ギリシャ文字、ラテン文字がそれである。思想、芸術、学問の発展のルーツだ。
  しかし聖書では海は深淵で闇が覆い混沌(カオス)である(26章19~20節see)。

  海洋国日本も戦禍に巻き込まれて地獄を見た。真珠湾攻撃で火ぶたが切られた。米国は原爆を軍港長崎に落とした。沖縄を上陸戦場とし、不沈「戦艦ヤマト」の撃沈が太平洋戦の終止符となった。

  救いは無いのか。
   ヨハネ黙示録では、新しい天と新しい地には海が無いとある(21章1節)。それはヨナのように人を呑み込み、暗黒の淵に沈める死の世界から解放する神の御業を祈ることである(ヨナ書2章4~10節)。

ティルスの繁栄

2010-02-14 | Weblog
 エゼキエル26章
  
 ティルス(ツロ)の預言は28章19節まである。
 1節「第11年、その月の第一日、主の言葉がわたしに臨んだ」。ユダの捕囚とエルサレム陥落二年後である。
  4節「彼らはティルスの城壁を倒し、塔を破壊する。わたしはその土くれまでぬぐい去り、ティルスを裸の岩にする」。ティルスはフェニキアの都市国家で、地中海沿岸の島に出来ている要塞の町。海路による交易で栄えた。ネブカドレツァルはこの攻撃に13年を費やしたが占領できなかったと言われる。エルサレム陥落を喜んだことが審判の理由となる。
  9節「彼は破城槌で城壁を突き崩し、鉄の棒で塔を打ち壊す」。戦闘に「堡塁」や「破城槌」が用いられたが、これは人海戦術である。 

17~18節 嘆きの歌
19節「まことに、主なる神はこう言われる。わたしは、お前を住む者のない町のように荒れ果てた町とし、淵から水を湧き上がらせ、大水で覆う」。「淵から水を湧きあがらせる」とは世界が生成した原初の状態(創世記1章1節)に陥ることである。それは永遠の廃墟に陥ることである(20節)。

海洋都市が、海中に埋没する有様を描いているといえよう(21節)。

    写真でみるティルスは昔の面影を残す小さな港だ。