日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

芽を出し、花を咲かせ地上をその実りで満たす

2014-01-31 | Weblog
  イザヤ27章 

  6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ地上をその実りで満たす」(新共同訳)

  1節「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」。26章20~21節に続く「その日」で2節、12節、13節にもあるイスラエル回復を示す終末預言である。
  2節「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え」。口語訳「その日『麗しきぶどう畑よ、このことを歌え』」。小見出しの通り「主のぶどう畑」で5章1~7節の酸いぶどう畑と対比される。
  4節「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があればわたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」。神はぶどう畑を邪魔する茨とおどろを焼き尽くそうと言う。
   5節「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」。ATD「わが避け所にすがるのであれば、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。神との和解は自発的信頼によって成立する。先ずそれが促される。
  6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし イスラエルは芽を出し、花を咲かせ 地上をその実りで満たす」。イスラエルを神から引き離すものはなく、根を張り、芽を出しやがて稔りの収穫の時がくる。神との和解の成立を示す。
  7節「主は、彼を撃った者を撃たれたように、彼をも撃たれたか。彼を殺した者を殺されたように、彼をも殺されたか」。撃ち殺されるのは誰か。内部の敵対するものを排除すると解される。つまり豊かな実を結ぶために、枝を切り取り、手入れをすることである。
  8節「あなたは彼と争って 彼を追い立て、追放された。東風の日に、激しい風をもって 彼を吹き払われた」。激しい東風で吹き払われるとは、エジプト、アッスリヤに追いやることであり、罪と咎を取り除くために必要な手入れであり、神の審判である。
  10節「城壁に囲まれた都は孤立し 置き去りになり、見捨てられて荒れ野となる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏し、また小枝をも食い尽くす」。神に敵対する都の破滅で、偶像礼拝の民とその都を指す。これは24章、25章1~3節にある。これに対応する新しい神の都も描かれている(26章1~4節)。
  12節「その日が来ると ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる」。離散したイスラエルの民は、その日が来ると再び集められる。その日、勝利の角笛が吹きならされる。アッシリアやエジプトに追いやられた民は、改宗者となり、エルサレムに来て神を礼拝するのである(13節)。

 ここでは神との和解成立には、敵対する民と都が一度破滅されねばならないことが示されている。そのことがなされる「その日」に、初めて見事なぶどう畑について喜び歌うのである。5章1~7節のぶどう畑の歌と、本章の主のぶどう畑とは表裏の関係としてイザヤは預言している訳である。


主よ、平和をわたしたちにお授けください

2014-01-30 | Weblog
 イザヤ26章 

  12節「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」(新共同訳)

  1節「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」。25章9節「その日」と同じ終末預言である。「堅固な都」とは「シオンの山」(24章23節)、「主の山」(25章6節)と共通する。
  2節「城門を開け 神に従い、信仰を守る民が入れるように」。主に従い信頼する新しい民である。志の堅固な者が主の全き平安のうちに守られる。主に信頼しているからだ(3節)。
  4節「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」。平和な都が建設される幻が描かれる。古い都は破壊される。残された権力の無い貧しく弱い民が足下に踏みつけて行く(5~6節)。
  7節「神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる」。小見出しは「復活を求める祈り」。口語訳「正しい者の道は平らである。あなたは正しい者の道をなめらかにされる」。「従う者」(ツェデカー)は「正しい者」。
  8節「主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです」。「定められた道」は「ミシュパト(公正)の道」である。
  10節「神に逆らう者は、憐れみを受けても 正しさを学ぶことがありません。公正の行われている国で不正を行い 主の威光を顧みようとしません」。主から憐れみを受けても罪人は義(ツェデク)を学ばず、正しい国で悪を働くのである。
  12節「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです」。信頼の告白と、すべてを成し遂げられる主の御名だけを唱える。「平和」(シャローム)は主から賜わるものである。
  14節「死者が再び生きることはなく 死霊が再び立ち上がることはありません。それゆえ、あなたは逆らう者を罰し、滅ぼし 彼らの記憶をすべて無に帰されました死者が再び生きることはなく」。悪しき支配者は完全に滅ぼされて、死の世界から生き返ることは無いということ。永遠の滅びを示す。
  16節「主よ、苦難に襲われると 人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと、彼らはまじないを唱えます」。苦難は、妊婦が産みの苦しみをするのと同じである(17節)。しかしそれは風を産むようなもので、救いをもたらすことなく、地上に住む者を生み出すことはできない(18節)。
  19節「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」。しかしどこまでも主を信頼する民(3~4節)に、希望の光は到来する。これは14節と対比される。この光景はエゼキエル書37章の預言に見られる。ここから復活信仰を読み取ることが出来るとすれば、ローマ4章17節「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じる」ということになる。
  20節「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ 激しい憤りが過ぎ去るまで」。過ぎ越しのイメージが使われる(出エジプト記12章22~23節)。これは諸国に対する直接的な審判である。
 21節「見よ、主はその御座を出て 地に住む者に、それぞれの罪を問われる。大地はそこに流された血をあらわに示し 殺された者をもはや隠そうとはしない」。地に流された血の報復は主がなされる(創世記4章10節、ヨハネ黙示録6章10節)。

死を永久に滅ぼしてくださる

2014-01-25 | Weblog
 イザヤ25章 

  8節「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる」(新共同訳)。

  1節「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」。小見出しは「神の驚くべき御業」。これは24章23節のメシア預言の成就である。
 2節「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」。諸国にある都は滅ぼされて瓦礫の山となり、再建されることはない。そして民はあなたを恐れ敬うようになるという(3節)。
 4節「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨」。新しい神の砦が築かれて、弱い者や悩める貧しい者らの避け所となる(詩46篇2節)。異邦の民の騒ぎを鎮め、高慢な民の歌声を沈黙させる(5節)。
 6節「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」。万軍の主はこの山で、すべての民のために祝宴を開く。そこで上質で香の高いぶどう酒が供せられる。顔を包んでいた悲しみと辱めの布を取り除く(7節)。
  8節「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる」。すべての顔から涙をぬぐい、死を永久に滅ぼしてくださる。
  9節「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」。その日、主の御手はこの山の上に留まるモアブはこの祝宴に与かることはない。モアブは踏みつけられて堆肥の山にされる(10節)。水の中で両手を広げて上手に泳いでいても、主は彼をおぼれさせてしまう(11節)。
  12節「主はお前の城壁の砦と塔を砕き、打ち倒して地の塵に伏させる」。これは26章5節で再度繰り返されている。
  紀元前587年ユダが滅ぼされ、エルサレムが崩壊した後、モアブは侵入し略奪を行ったとされる(申命記23章3~4節see)。
  ここでは、モアブに対する報復により、メシア到来を告げられている。しかしイザヤはイスラエルの民族的対立とその勝利という、単なる国家主義の枠を超えた視点を持つ預言者であることは明らかである。因みに8節の「彼は死を永久に滅ぼす」岩波訳「永久に死を取り除かれる」という予言は、イエス・キリストによって成就実現したのである。この句は第一コリントの手紙15章54節に引用されている(ヘブライ語・原語「滅ぼす」(バラヤ)は「飲み込む」「呑み尽す」の意味がある)。

主に従う人に誉れあれ

2014-01-24 | Weblog
 イザヤ24章 
 
 16節「地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。『わたしは衰える、わたしは衰える わたしは災いだ。欺く者が欺き 欺く者の欺きが欺く』」(新共同訳)

  1節「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ 地の面をゆがめて住民を散らされる」。新共同訳の小見出しは「神の世界審判」となっている。黙示的な表現で神の審判が告げられる。全地の破局が示される。民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて社会的特権は奪われ除かれる(2~3節)。世界は砂漠化して、民は弱り果てる(4節)。
  5節「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り 永遠の契約を棄てたからだ」。神の審判の理由は律法を犯し、契約を破ったからである。
  6節「それゆえ、呪いが地を食い尽くし そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされ/わずかの者だけが残された」。口語訳「…そこに住む者はその罪に苦しみ」。
  7節「新しい酒は乾き、ぶどうのつるは枯れる。心の朗らかだった人々も皆、ため息をつく」。ぶどうの収穫が無いので、太鼓も竪琴も音は絶え、酒を飲んで歌う者らもいない(8~9節)。
  10節「混乱の町は破壊され どの家も閉ざされ、入る者もない」。荒廃した町は家の出入りする人もなく、酒を求めて叫ぶ声があり、喜びと楽しみは無くなり、都の城門は破壊される。諸民族の間では、残されているオリーブや葡萄の実を探し求めるような状態が起きる(11~13節)。レビ記19章10節では果実を全部取らないで残す義務があった。しかしここでは最早果実はないという。
  14節「彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い 海から叫び声をあげる」。16節aまで、黙示的な場面が展開されている。「彼ら」とは誰なのか不明である。文脈からすると6節「わずかの者だけが残された」を指し、7~13節の審判が全世界に下された神を賛美していることになる。
  16b節「~『わたしは衰える、わたしは衰える わたしは災いだ。欺く者が欺き、欺く者の欺きが欺く』」。6章5節see 預言者イザヤは傍観者たり得ない。世界の破滅に共に苦悩する。
  17節「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む」。再び地上の破局が告げられる。恐れの声をのがれる者は穴に落ち、そこから這い上がった者は、罠に捕えられる。天の窓は開け、地の基が震い動くからである(18節)。地は全く砕け、地は裂け、地は激しく震い、地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のようにゆり動く。罪はその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない(18~20節)。
  21節「その日が来れば、主が罰せられる 高い天では、天の軍勢を 大地の上では、大地の王たちを」。神の主権の確立を示す黙示的表現である。「天の軍勢」とは地の王たちを守る天的な存在。彼らは牢に集められ、獄に閉じ込められて罰せられる。
  23節「月は辱められ、太陽は恥じる万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現されるとき」。口語訳「…その栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる」。主の栄光の輝きにもはや月も太陽も要らない。これはヨハネ黙示録21章23~24節に記されている。主こそ真の王座におられる「王の王」である(19章16節)。


主は御手を海に伸ばして国々を震わせ

2014-01-23 | Weblog
 イザヤ23章 

 11節「主は御手を海に伸ばして国々を震わせ、カナンに命じて、その砦を破壊される」(新共同訳)

 1節「ティルスについての託宣。泣き叫べ、タルシシュの船よ。ティルスは破壊され、住む家もなくなった。キティムの地から帰るやいなや、彼らはそのことを知らされた」。ティルスとシドン(フェニキア)についての託宣。ティルスはフェニキアの首都で最南端にある海洋貿易都市。フェニキアは紀元前2千年前まで遡ることができる。その交易は諸外国との共通言語として表音文字を産みだし、アルファベットの起源になる。
  2節「嘆け、海辺の住人たち、シドンの貿易商たちよ。お前の使者たちは海を渡り」。その交易は拡大し、国々は行き交う処となり、ナイル川の沿岸から多くの産物が収入となっていくが、やがて主なる神の審判により経済力は破壊され、周辺の海洋都市は生命線を断ち切られることになる(3節)。歴史的には、紀元前677年アッシリアに征服される。
  4節「うろたえよ、海の砦シドンよ。海がこう言っている。『わたしは産みの苦しみをしない。子を産み、若者を育て、おとめらを、はぐくむことはできない』と」。出産がないというのは、祝福の未来が無いという表現。
  6節「渡って行け、タルシシュに。泣き叫べ、海辺の住人たちよ」。フェニキアの住民が移住先をタルシシュに求める。
  9節「それを定められたのは万軍の主である。ティルスの誇る美しさをことごとく汚し、世界に重んじられていた者をすべて、辱めることを」。これらの離合集散に対して、海と大地を定められたのは万軍の主であると告げる
  11節「主は御手を海に伸ばして国々を震わせ、カナンに命じて、その砦を破壊される」。「キティム」(キプロス島)に逃れても安息を得ない(12節)。主はアッシリアによってカルデアの地を廃墟にされる(13~14節)。
  15節「その日が来ると、ティルスは、一人の王の生涯に等しい七十年の間、忘れられているが、その七十年が終わるとティルスは遊女の歌にうたわれているようになる」。ティルスの破壊された状態は70年間続くという。この歴史的事実は確認されない。70年は安息の期間と考えられている(エレミヤ記25章11~12節see)。その日が来ると、町の遊女たちが竪琴を奏でて町を巡り、多くの歌をうたうようになると告げる(16節)。
  17節「七十年が終わると、主はティルスを顧みられる。そのとき、彼女は再び遊女の報酬を取り、地上にある世界のすべての国々と姦淫する」。ティルスの交易が復興し(これを遊女の報酬と比喩的に解釈する)、様々な産物がユダの国に運ばれてくる。収益は、主の聖なるものとされる(18節)。
  かつて日本も海洋貿易で中国、東南アジアで経済発展をしたが、誤った政治支配から15年戦争により国は破れた。そこから平和憲法を有する国が誕生した。ここに、ティルスと日本が二重写しに見えてくる。唯物的思想と経済主上主義の日本は、この戦争責任が明確に問われないなら、平和国家の理念を見失い、再び過ちに堕ちる。そうあってはならない。

ここでお前は何者だというのか

2014-01-22 | Weblog
  イザヤ22章(2) 

  16節「ここでお前は何をしているのか、ここでお前は何者だというのか。ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り、岩をえぐって住みかを造ろうとする者よ」(新共同訳)

  15節「万軍の主なる神はこう言われた。『さあ行け、あの家令のところへ。宮廷を支配しているシェブナのところへ』」。22章後半で小見出し「シェブナの罷免」とある。同一人物として、36章3、22節、37章2節に出ている。歴史的背景として紀元前701年センナケリブ襲来(イザヤ37章)以降と考えられる。
  16節「ここでお前は何をしているのか、ここでお前は何者だというのか。ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り、岩をえぐって住みかを造ろうとする者よ」。シオンの丘の岸壁に貴族らの墓があったが、彼が地位と権力を奢って自らの墓を造ったことを非難された。生前墓だが、越権行為で彼の身分に相応しくないということか。
  17節「見よ、主はお前を放り出される。人よ、主はお前を衣のように巻き」。彼の墓が谷底に捨てられるように、衣で「簾巻き」(処刑の一種)にされ、外国に放り出される。そして彼の地位と職務は退けられる(18節)。
  20節「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び」。主なる神は預言者を通して、シェブナを罷免しエルヤキムを後任者とすると告げる。彼の名前も前述と同じ36章3、22節、37章2節に出ている。そこでは宮廷長である。彼を肌着風の半袖をもつ衣服と、祭司の着用するのに似ている飾り帯で腰をしめさせる(21節・ATD註レビ記8章13節see)。支配の権限を象徴する着衣式である。
  22節「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」。ユダの王ヒゼキヤのもとで宰相の地位に就く。
  23節「わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く」。建物の固定部分に打ち込まれた要(かなめ)の存在。
  24節「彼の父の家の栄光はすべて、彼の上に掛けられる。木の芽から葉に至るまで、また、小さな器もすべて、鉢からあらゆる壺に至るまで」。これも別のイメージ(エゼキエル15章3節see)で壁に打たれた大釘のような存在。その要も大釘も抜き取られ、壊されてしまう(25節)。それはユダの国にやがて起る崩壊を指す預言である。列王記下20章より省察し、国内に起きた政権交代であろう。わが国も一年前に政権交代があり、衆参両議員が多数を占める状態になった。インフレから脱却する経済政策を打ち出し、かつて所得倍増を呼び掛けた時代のように、様々な施策で豊かな国家を目指しているが、国民の経済格差は増大しつつある。しかしその背景となる国民の政治への信頼が危ぶられている。かつての「軍靴を鳴らして平和行進をする」時代に逆行してはならない。真の信頼は、争い奪い合うところには存在しない。それは聖書が約束している。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブの手紙4章1節)。

食らえ、飲め、明日は死ぬのだから

2014-01-21 | Weblog
  イザヤ22章(1) 

  13節「しかし、見よ、彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲んで言った。『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と」(新共同訳)。

  1節「幻の谷についての託宣。どうしたのか、お前たちが皆、屋上にいるのは」。新共同訳の小見出しは「癒しがたいエルサレムの罪」である。「幻の谷」とはエルサレム郊外ベンヒンノムの谷を指す(5節)。ここではエルサレムの状況を描き神の審判を告げる。
  2節「騒音に満たされ、どよめく都、喜びに浮かれた町よ。お前の死者たちは、剣に倒れたのではない、戦って死んだのではない」。町の民は喜びに有頂天になっている。それはエルサレムを包囲していたアッシリア軍が引き揚げたからである。この歴史的背景は列王記下18章13節(紀元前701年)にある。この時逃げ出した将校や兵士は皆捕えられたと告げる(3節)。
  4節「それゆえ、わたしは言う。『わたしから目をそらしてくれ。わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ』」。預言者イザヤは激しく泣く。神の厳しい審判に際して悔い改めることのない民に対しての悲しみである。
  5節「混乱と蹂躙と崩壊の日が、万軍の主なる神から来る。幻の谷に、騒音が響き渡り山に向かって叫ぶ声がある」。口語訳「騒ぎと、踏みにじりと、混乱の日…」岩波訳「…幻の谷では、城壁の崩壊、山に向っては助けを求める絶叫」。主の日には、狂喜のどよめきは、絶叫の悲鳴に変わるのである。
  6節「エラムは矢筒を取り上げ、戦車には人が乗り、馬がつながれた。また、キルは盾の覆いをはずした」。豊かな平野は戦車と馬で満たされる(7節)。アッシリアに従属したエラムとキルの軍隊がエルサレムを攻撃してくるのである。
  9節「また、ダビデの町に破れの多いのを見て、下の池の水を集めた」。これに対抗しようとエルサレムの防備を固める。水溜めを造り、水を入れたとは、給水設備を指す(列王記下20章20節see)。しかし民は、都を造られた方に目を向けない。城内に掘られたトンネルは、現在発掘されて観光ルートになっている。
  12節「その日には、万軍の主なる神が布告された。嘆くこと、泣くこと、髪をそり、粗布をまとうことを」。「その日、万軍の神、主は『泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。』と呼びかけられた」(新改訳)。神は民に悔い改めを布告される。しかし、この時エルサレムの民は、肉を食らい、酒を飲んで「明日は死ぬのだから」と言った(13節)。「メメント・モリ」(ラテン語・死を覚えよ)の本来の意味はこれを指している。神の厳しい審判が近づいている今は、泣き悲しむことである。死ぬまで罪はゆるされることはないと宣告する(14節)。イザヤは傍観者になれない。彼も「激しく泣いている」(4節)。主イエスがオリブの丘から、眼下にエルサレムを眺望し涙を流されたのと重なり合う場面である(ルカ福音書19章41~44節see)。

見張りの者は言った「夜明けは近づいている

2014-01-17 | Weblog
  イザヤ21章 

  12節「見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ もう一度来るがよい」(新共同訳)

  1節「海の荒れ野についての託宣。ネゲブに吹き荒れるつむじ風のように彼は来る、荒れ野から、恐ろしい地から」。小見出しは「バビロンの陥落」である。荒れ野はバビロンを指すと解釈されている。「ネゲブ」とは乾燥した土地で、死海からアガバ湾に至る荒地を指している。
  2節「厳しい幻が、わたしに示された。『欺く者は欺き続け、荒らす者は荒らし続けている。上れ、エラムよ 包囲せよ、メディアよ、わたしは呻きをすべて終わらせる』」。それはエラム(バビロンの東境)とメディア(同北境)からの攻撃により、バビロンが包囲されるということ。この予言はイザヤの時代から150年後に登場する国の出来事(紀元前539年、新興国メディアの攻撃で滅ぼされる)。歴史を支配する神に立てられた先見者で、やがて起こる国の滅亡を告げても不思議ではない。
  3節「それゆえ、わたしの腰は激しくもだえ、産婦の痛みのような痛みにとらえられた。わたしは驚きのあまり、聞くこともできず、恐れのあまり、見ることもできない」。主の託宣に対する預言者の苦悩である。
  4節「わが心は乱れ、おののきが、わたしを打ちのめす。楽しみにしていた夕暮れは かえって、わたしを恐怖に突き落とした」。預言者は何故これほどまで、恐怖し、苦悩するのであろうか。宴会が開かれていた最中に、敵の襲来が告げられ慌てる有り様が描かれる(5節)。
  6節「わが主はわたしにこう言われた。『さあ、見張りを立てよ。見るところを報告させよ』」。立てられる見張りは預言者自身を指している。
  7節「彼は見るであろう。二頭立ての戦車を ろばに乗る者、らくだに乗る者を。耳をそばだてて聞け、油断するな」。攻撃する二頭立ての騎馬隊、ろばと、らくだに乗った戦闘隊である。
  9節「『見よ、あそこにやって来た 二頭立ての戦車を駆る者が』。その人は叫んで言った。『倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた』」。夜通し見張っていたが、夜明けとともに二頭立ての馬車(早や馬)を駆る者から報告を聞いたのである。万国の予言者イザヤは他国の滅亡を見放すことが出来ないばかりか、苦悩に共感していることに驚く。
  11節「ドマについての託宣。セイルから、わたしを呼ぶ者がある。『見張りの者よ、今は夜の何どきか 見張りの者よ、夜の何どきなのか』」。「ドマ」はエドム領内の地名。「セイル」はエドム人の居留地。明けは近づいている、しかしまだ夜なのだと見張りが告げる。ここで一体何が示されているのか。バビロンの滅亡の託宣に続く予言とすると、バビロンによる苦難や苦しみ、迫害と圧政からの夜明けが近いことを示すものである。歴史的背景については諸説がある。
  13節「荒れ地についての託宣。荒れ地の茂みで夜を明かせ、デダンの隊商よ」。デダンもテマもバビロンの北西にいた砂漠の遊牧民。バビロンからの逃亡者に救助の手を差し伸べるようにと要請する。そこで待ち受けていた敵はシリア・アラビヤを本拠地とするケダルであった(14~17節)。
  予言者は、国の存亡に関わり、その暗闇の中に佇んで神の言葉を語る者であり、それは夜明けを待つ民に時のしるしを語る「見張り」である。これと等しくキリストの教会も闇の世界から民を解放する神の時を告げるのである(ローマ13章11~12節)。キリスト者は見張りの務めを怠ってはならない。

粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け

2014-01-16 | Weblog
  イザヤ20章 

  2節「それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。『腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け。』彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った」(新共同訳)

  1節「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い、これを占領した」。小見出しに「アシュドドの占領」とある。アシュドドはペリシテの首都。アッシリアに対する反乱で、紀元前711年にサルゴン二世によって征服された。
  2節「それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。『腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け』。彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った」。反アッシリアに対してクシュとエジプトがペリシテとユダの諸小国を巻き込んで反乱運動を起こそうとする動向に、イザヤはその誤りを「裸、はだし」で歩き回って警告の預言をした。「裸」になることは、ユダでは敗北者のしるしであった(歴代誌下28章15節)。この激烈な行為予言は、エゼキエル書4章4~8節、ホセア書3章1~3節にも見られる。
  3節「主は言われた。『わたしの僕イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしと前兆として、裸、はだしで三年間歩き回ったように』」。捕虜に対する言語に絶する恥辱と嘲笑の行為を、主はイザヤに指示した。神の聖意を表わすのに言葉だけでなく、行為や存在によった。このような予知行為を三年間も続けるということは、決して容易なことではない。「わたしの僕」と呼ばれていることに、注目しなければならない。これはbody languageといえるものである。
  4節「アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いて行く。若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く」。イザヤの予知行為は、エジプトとクシュ(エチオピヤ)の民が奴隷として引かれて行く有り様とoverlapして描かれる。
  6節「その日には、この海辺の住民は言う。『見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか』」。「海辺の住民」とは、ペリシテ人を指しているが、そこにはユダの人々もエジプトとクシュに頼ろうとしている心境が示されている。信頼すべき方を見失うキリスト者も同じではないか。
  ここであらためて7章4節「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。9節「信じなければ、あなた方は確かにされない」(信ぜずば、かならず立つことを得じ=文語訳)。

万軍の主は彼らを祝福して言われる 

2014-01-15 | Weblog
 イザヤ19章 

  25節「万軍の主は彼らを祝福して言われる。『祝福されよ、わが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル』と」(新共同訳)

  1節「エジプトについての託宣。見よ、主は速い雲を駆って、エジプトに来られる。主の御前に、エジプトの偶像はよろめき、エジプト人の勇気は、全く失われる」。15節までエジプトに対する神の審判が告げられる。主がエジプトを支配することを示す。そこで内乱が起き(2節)、よろめく偶像や霊媒、口寄せを乱し(3節)、外敵に支配され(4節)、ナイル河が干上がり、河口のいぐさもすべての草も枯れる(5~7節)。
  8節「漁師は嘆き、悲しむ。ナイルに釣り針を投げる者も、水の面に網を広げる者もすべて衰える」。ナイルの漁業で生計を立てる漁師たち、その網を作る者、亜麻布を織る者らは苦境に陥る(9~10節)。
  11節「ツォアンの司たちは、まことに無知だ。ファラオの賢者、参議らは、愚かな謀を立てる。どうして、お前たちはファラオに言えようか。『わたしは賢者の子です、遠い昔の王たちの子孫です』と」。エジプトの賢者や、諸州の司たちのファラオ(王)への助言も、その無知さ加減があばかれるだけである。この様な事態は、主なる神のご計画であると告げる(12節)。主なる神は、エジプトを酒に酔ってよろめくように、よろめかせ、彼らは何も出来ない状態に陥る(13~15節)。
  16節「その日には、エジプトは女のように弱くなり、万軍の主が振りかざされる御手に恐れおののく」。「その日」とは神の審判が結審する日である。この事の発端はユダの国から来ると告げる。万軍の主が手を振りかざしてエジプトに混乱が起こさせるのである(17節)。「その日」に起きることが、18、19、21、23、24節に次々と示される。そこで、神はエジプトに新しい時代が来ることを告げる。
  18節「その日には、エジプトの地に五つの町ができる。そこでは、カナンの言葉が語られ、万軍の主に誓いが立てられる。その町の一つは、『太陽の町』ととなえられる五つの町ができる」。『太陽の町』は新改訳「イル・ハヘレス」。ATD「正義の町」直訳では「破滅の町」にもなるが、前後関係から新共同訳がよい。その日にはヘブライ語が話され、主への信仰が始まる。
  19節「その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その境には主のために柱が立てられる」。主を呼び,証しとなる。主はご自身をエジプト人に示される(20~21節)。
  22節「主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる」。主は撃たれるが、悔い改めて豊かな産物で土地はいやされる。
  23節「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する」。小国イスラエルはアッシリアとエジプトの大国に挟まれ、絶えず翻弄され、戦火に巻き込まれた。しかし今や、この首枷が取り除かれ、その時代の終わりを告げて、相互の和解と交流がはじまると預言する。イスラエルはエジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する国となる。
  25節「万軍の主は彼らを祝福して言われる。『祝福されよ、わが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル』とこれはメシア到来によって約束された新しい時代である(24~25節)。



わたしは黙して わたしの住む所から、目を注ごう

2014-01-14 | Weblog
 イザヤ18章 

  4節「主はわたしにこう言われた。『わたしは黙して わたしの住む所から、目を注ごう。太陽よりも烈しく輝く熱のように 暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように』」(新共同訳)

  1節「災いだ、遠くクシュの川の彼方で羽の音を立てている国は」。口語訳「ああ、エチオピヤの川々のかなたなるぶんぶんと羽音のする国」。クシュ(エチオピヤ)に対する託宣
  2節「彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ、海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国、遠くの地でも恐れられている民。強い力で踏みにじる国、幾筋もの川で区切られている国へ」。エチオピヤ人の勇姿が描かれる。これは7節にも出てくる。新共同訳・小見出しに「陰謀」とあるが、アッシリアとの親和政策に対して反旗を翻し、エチオピヤに使者を送り援軍を依頼することと解釈している。
  3節「世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい」。世界の住民、地上に住むすべての人が山に合図の旗をあげ、角笛を吹き鳴らす有様を、天上で神は黙して見ているという(4節)。何故か。口語訳「わたしは静かにわたしのすまいから、ながめよう」とある。この「黙する」(シャーカト)は「静まる・落ち着く・心を安んじる・沈黙する」とも訳される。神の沈黙は、諦観では決して無い。神は歴史を支配し、エチオピヤもアッシリアも滅び去ることを見通しておられる。神の視線は、歴史を越えて21世紀の現代世界に向けられている。核保有を巡り、緊張した国際情勢。日本も核の傘のもとでの平和。世界が右往左往している有様に対して、キリスト者は聖なる神の計画を待望する。そして示されるのは詩46篇10~11節である。口語訳「主は地のはてまでも戦いをやめさせ弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。静まって、わたしこそ神であることを知れ」と。
  5節「刈り入れ時の前に、花が終わり 花の房が実となり、熟し始めると 主は枝を刃物で切り落とし つるを折り、取り去られる」。その結果は野の果実がすべて猛禽と獣の餌に供せられるという無残な国の状態になるのである(6節)。これはエチオピヤ軍によるアッシリア攻撃が失敗し山野は荒廃するということ。
  7節「そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。背高く、肌の滑らかな民から遠くの地でも恐れられている民から、強い力で踏みにじる国、幾筋もの川で区切られている国から、万軍の主の名が置かれた場所、シオンの山へもたらされる」。最終的な結論が示されている

その日には、人は造り主を仰ぎ

2014-01-13 | Weblog
 イザヤ17章 

 7節「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」(新共同訳)

 1節「ダマスコについての託宣。『見よ、ダマスコは都の面影を失い、瓦礫の山となる』」。小見出しに、「ダマスコとエフライムの運命」とある。ダマスコはアラムの首都であった。ダマスコは荒塚(口語訳)となる。
 3節「『エフライムからは砦が、ダマスコからは王権が絶える。アラムに残るものは、イスラエルの人々の栄光のようになる』と、万軍の主は言われる」。アラム・エフライム同盟軍はユダを攻撃したが(7章1~2節)、紀元前732年アッシリアにダマスコは占領され、イスラエルも所領を奪われ、722年に滅ぼされた。
 4節「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり、その肥えた肉はやせ衰える」。終末予言。神の審判を示す。7節、9節see。
  6節「『摘み残りしかないのにオリーブの木を打つようなものだ。梢の方に二つ三つの実 豊かに実っている枝でも、四つ五つ』とイスラエルの神、主は言われる」。オリーブの実を打ち落とす時は、孤児や寡婦のために摘み残しするように申命記にある。ここで摘み残されたものの運命は無きに等しい。厳しい審判である。
 7節「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」。イスラエル滅亡という事実に主の民は目覚めて悔い改め、造り主への信頼を取り戻すことになる。
 8節「もはや自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない」。審判の理由は自分の指で作った偶像礼拝にある。
  10節「お前は救い主である神を忘れ去り、砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り、異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ」。偶像礼拝の誤りが厳しく指摘される。
  12節「災いだ、多くの民がどよめく、どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ、騒ぎ立つ、大水の騒ぎのように」。「どよめき」が繰り返される。諸国民とあるが、諸国の軍隊であり、エルサレムを攻撃してくる有様。しかし主はこれらを一掃される。それは脱穀機で、もみがらを吹き飛ばすようにという(13節)。神の審判は今や全地に及ぶ。
 14節「夕べには、見よ、破滅が襲い、夜の明ける前に消えうせる」。ここには、審判の後に来る救いの約束がある。21章11~12節では見張りの者が、夜明けは近づいていると告げている。紀元前701年にアッシリア軍にエルサレムが包囲された時のことが36、37章(列王記下18章)にあるが、この時一夜にして破滅から逃れることが出来ている(詩46篇6節、イザヤ30章27~33節see)



彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす

2014-01-11 | Weblog
 イザヤ16章 

  5節「そのとき、ダビデの幕屋に王座が慈しみをもって立てられその上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす」(新共同訳)

  1節「使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ その地を治める者よ、荒れ野の町セラから、娘シオンの山へ」。15章に続く預言。アッスリア軍に追われたモアブは首都セラからエルサレムに貢物を携え使者を送って救援を頼んでいる。それは小鳥が巣を追われて安全な場所を求めるようだ(2節)。
3節「助言し、指示を与えてください。真昼にも夜のような陰となって、追われた者を隠し、さまよう者を覆ってください」。雛が親鳥の翼の影に逃れる様である。この表現は詩篇に数多くでいる(詩17篇8節、57篇2節etc)
 5節「そのとき、ダビデの幕屋に王座が慈しみをもって立てられその上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす」。イスラエルに求められた「正義(ツェデク)と公平(ミシュパト)」(5章7節、11章4~5節)がモアブにも向けられる。メシアによる支配は民族と国境を越える。
  6節「我々はモアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り傲慢で驕っていた。その自慢話はでたらめであった」。ATD「われらは聞いた、モアブのおごりを、はなはだ高ぶったのを、そのうぬぼれ、おごり、思い上がり、そのほら話を!」その貢物は一体何だったのか。
  8節「ヘシュボンの畑、シブマのぶどうは枯れた。かつて、その若枝は諸国の支配者たちを押さえヤゼルに達し、荒れ野にはびこり、つるは広がって、海を越えたのに」。その果樹園やぶどう園の産物は海外にまで輸出する程豊かであったのだが、しかし彼らの高ぶりと驕りを悔い改めないなら、その豊かな野の産物も敵の攻撃で奪われてしまう(9節)。
  10節「わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も、酒ぶねで、ぶどうを踏む者もいなくなり、わたしは喜びの声を終わらせる」。もはや収穫の喜びは聞かれない。
  11節「それゆえ、わがはらわたはモアブのために わが胸はキル・ヘレスのために 竪琴のように嘆く」。モアブに対する神の深い同情心であり、嘆きの歌である。だからと言って神の意志は変わらないで短期間(三年)で実現するという。無力な偶像礼拝によっては難を逃れることはできない(12~13節)。
  14節「更に今、主は言われる。『雇い人の年期のように三年たてば、多くの民を持つモアブの栄光は必ず終わり、わずかな者だけが残され、力はうせる』」。傲慢や高ぶりは、人間の自己絶対化と結びつく。つまり偶像礼拝は人間の傲慢さの様相といえよう。フィリピの手紙3章19節を参照したい。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。

草は枯れ、青草は尽き 緑はなくなった

2014-01-10 | Weblog
   イザヤ15章 

  6節「ニムリムの水は干上がり 草は枯れ、青草は尽き、緑はなくなった」(新共同訳)。

  モアブの託宣は15~16章。破滅と哀歌
  1節「モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた」。アルはアルノン川22キロにある町でモアブの町が列挙されている。キルは首都。
  2節「ディボンの娘は、嘆くために聖なる高台に上った。ネボの上で、またメデバの上で。モアブは泣き叫ぶ。皆、髪をそり上げ、ひげをそり落とす」。町々が擬人化されている。モアブはイスラエルを悩ます隣国で対アッシリア政策にも敵対した。ノアの姉娘とノアの間に生まれた不義の子孫という汚名を着せられている(創世記19章37節)。「ディボン」は、モアブの神ケモシュの高台があった。
  3節「巷で、人々は粗布をまとい 屋上でも広場でも皆、泣き叫び、嘆きくずおれる」。神の審判に、泣き叫び、嘆きに晒されている。
  4節「ヘシュボンとエルアレは助けを求めて叫び その声はヤハツにまで聞こえる。それゆえ、モアブの武装した勇士も悲鳴をあげ、その心はおののく」。これらの町名はアルノン川の流域にあったが破壊される。
  6節「ニムリムの水は干上がり、草は枯れ、青草は尽き、緑はなくなった」。新改訳「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった」。豊かな産物を与え、富と繁栄をもたらしたニムリムの川は枯渇してしまう。枯渇と荒廃は、1節と重なり合う。彼らは難を逃れるためにエルサレムに使者を送ることになる(16章1節)。つまり繁栄を誇ってもそれは束の間で富が奪われるなら、水の切れた草花と同じで枯れてしまうのである。これをイスラエルへの教訓として読み取ることができる。イザヤ書40章6~8節『呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ』。更にキリスト者に対する神の呼び掛けとして受け取る。人は神と富とに仕える事はできない。第1ペトロ1章24~25節『人は皆、草のようで…。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」。
  8節「叫び声は、モアブの全域に響き渡り、泣く声は、エグライムまで、またベエル・エリムにまで達する」。逃げのびた者も最終的には逃げ切ることは出来ないという(9節)。


わたしが定めることは必ず実現する

2014-01-09 | Weblog
  イザヤ14章 

  24節「万軍の主は誓って言われる。『わたしが計ることは必ず成り、わたしが定めることは必ず実現する』」(新共同訳)

  1節「まことに、主はヤコブを憐れみ、再びイスラエルを選び、彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり、ヤコブの家に結び付く」。先見者イザヤは歴史の地平に起きるバビロン滅亡と民が捕囚から解放される出来事を垣間見せる。捕囚の民であったイスラエルは彼らを捕囚の民にするという(2節)。
  3節「主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る」。バビロン滅亡に対する嘲りの歌。かつて、激怒して諸国民を撃ち支配したが、その抑圧は終わった(4~6節)。
  7節「しかし今、全世界は安らかに憩い、喜びの声を放つ」。解放の喜びは、糸杉もレバノン杉も喜びの声をあげるという(8節)。
  9節「地下では、陰府が騒ぎを起こす、お前が来るのを迎えて。そして、亡霊たちを呼び覚ます、地上では、すべてつわものであった者らを。また、その王座から立ち上がらせる、諸国の王であった者らを皆」。陰府の世界では地上であったものの逆転が起きる。王座から落され、無力なものとなる(10~11節)。
  12節「ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ」。古代の星神話が背景にある。王座を神の星よりも高く据えたが、しかしお前は陰府に落とされた、墓穴の底に」という(13~15節)。星はバビロンの支配者を指す。星は人の心を操る世界で、これに縛られて暗闇に引き寄せられ、運や不運のまじないをかけられる。天空を駆け巡るすべての星が西の彼方に消え去り、最後まで居座っていた「曙の子」も陰府の底に沈められる時が来る。星座と星占いは21世紀の現代でも、多くの人々の心を支配している。何ということであろう。陰府の底に沈められた時代が来たことを知らないのだ。
  19節「しかし、お前は墓の外に投げ捨てられる、忌むべきものとされた水子のように。剣で刺された者、殺された者に囲まれ陰府の底まで下って行く、踏みつけられた死体のように」。王の終焉の予告。王は埋葬されず放置されるという。
  22節「わたしは、彼らに立ち向かう」と万軍の主は言われる。『バビロンから、その名も、名残も、子孫も末裔も、すべて断ち滅ぼす』と主は言われる」。完全な終わりを告げる。そして町は沼地となる(23節)。 25節「わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし、わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛は、わが民から取り去られその重荷は、肩からはずされる」。アッシリアの滅亡予言は既に10章にある。この個所ではエルサレムに架せられた軛が取り去れるという。これも歴史を支配する万軍の主の定められた計画だと告げる(26~27節)。
  28節「アハズ王の死んだ年のことである。この託宣が臨んだ」。ペリシテに対する警告。紀元前715年。列王記下16章19節、同17章参照
  29節「ペリシテの民よ、だれも喜んではならない、お前を打った鞭が折られたからといって。蛇の根から蝮が出る。その子は炎のように飛び回る」。ペリシテの敵は、始めは蛇、次に蝮、更に火炎を吐く竜のように襲うという。そしてすべての民は死滅する(30節)。
  32節「異国の使者たちに、何と答えるべきか。『シオンの基を据えられたのは主である。苦しむ民は、そこに身を寄せる』と答えよ」。シオンに住む民は主なる神に保護されると告げる。ATDでは、30節の前二行を32節に置いて解釈している。