イザヤ27章
6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ地上をその実りで満たす」(新共同訳)
1節「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」。26章20~21節に続く「その日」で2節、12節、13節にもあるイスラエル回復を示す終末預言である。
2節「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え」。口語訳「その日『麗しきぶどう畑よ、このことを歌え』」。小見出しの通り「主のぶどう畑」で5章1~7節の酸いぶどう畑と対比される。
4節「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があればわたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」。神はぶどう畑を邪魔する茨とおどろを焼き尽くそうと言う。
5節「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」。ATD「わが避け所にすがるのであれば、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。神との和解は自発的信頼によって成立する。先ずそれが促される。
6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし イスラエルは芽を出し、花を咲かせ 地上をその実りで満たす」。イスラエルを神から引き離すものはなく、根を張り、芽を出しやがて稔りの収穫の時がくる。神との和解の成立を示す。
7節「主は、彼を撃った者を撃たれたように、彼をも撃たれたか。彼を殺した者を殺されたように、彼をも殺されたか」。撃ち殺されるのは誰か。内部の敵対するものを排除すると解される。つまり豊かな実を結ぶために、枝を切り取り、手入れをすることである。
8節「あなたは彼と争って 彼を追い立て、追放された。東風の日に、激しい風をもって 彼を吹き払われた」。激しい東風で吹き払われるとは、エジプト、アッスリヤに追いやることであり、罪と咎を取り除くために必要な手入れであり、神の審判である。
10節「城壁に囲まれた都は孤立し 置き去りになり、見捨てられて荒れ野となる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏し、また小枝をも食い尽くす」。神に敵対する都の破滅で、偶像礼拝の民とその都を指す。これは24章、25章1~3節にある。これに対応する新しい神の都も描かれている(26章1~4節)。
12節「その日が来ると ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる」。離散したイスラエルの民は、その日が来ると再び集められる。その日、勝利の角笛が吹きならされる。アッシリアやエジプトに追いやられた民は、改宗者となり、エルサレムに来て神を礼拝するのである(13節)。
ここでは神との和解成立には、敵対する民と都が一度破滅されねばならないことが示されている。そのことがなされる「その日」に、初めて見事なぶどう畑について喜び歌うのである。5章1~7節のぶどう畑の歌と、本章の主のぶどう畑とは表裏の関係としてイザヤは預言している訳である。
6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ地上をその実りで満たす」(新共同訳)
1節「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」。26章20~21節に続く「その日」で2節、12節、13節にもあるイスラエル回復を示す終末預言である。
2節「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え」。口語訳「その日『麗しきぶどう畑よ、このことを歌え』」。小見出しの通り「主のぶどう畑」で5章1~7節の酸いぶどう畑と対比される。
4節「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があればわたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」。神はぶどう畑を邪魔する茨とおどろを焼き尽くそうと言う。
5節「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」。ATD「わが避け所にすがるのであれば、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。神との和解は自発的信頼によって成立する。先ずそれが促される。
6節「時が来れば、ヤコブは根を下ろし イスラエルは芽を出し、花を咲かせ 地上をその実りで満たす」。イスラエルを神から引き離すものはなく、根を張り、芽を出しやがて稔りの収穫の時がくる。神との和解の成立を示す。
7節「主は、彼を撃った者を撃たれたように、彼をも撃たれたか。彼を殺した者を殺されたように、彼をも殺されたか」。撃ち殺されるのは誰か。内部の敵対するものを排除すると解される。つまり豊かな実を結ぶために、枝を切り取り、手入れをすることである。
8節「あなたは彼と争って 彼を追い立て、追放された。東風の日に、激しい風をもって 彼を吹き払われた」。激しい東風で吹き払われるとは、エジプト、アッスリヤに追いやることであり、罪と咎を取り除くために必要な手入れであり、神の審判である。
10節「城壁に囲まれた都は孤立し 置き去りになり、見捨てられて荒れ野となる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏し、また小枝をも食い尽くす」。神に敵対する都の破滅で、偶像礼拝の民とその都を指す。これは24章、25章1~3節にある。これに対応する新しい神の都も描かれている(26章1~4節)。
12節「その日が来ると ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる」。離散したイスラエルの民は、その日が来ると再び集められる。その日、勝利の角笛が吹きならされる。アッシリアやエジプトに追いやられた民は、改宗者となり、エルサレムに来て神を礼拝するのである(13節)。
ここでは神との和解成立には、敵対する民と都が一度破滅されねばならないことが示されている。そのことがなされる「その日」に、初めて見事なぶどう畑について喜び歌うのである。5章1~7節のぶどう畑の歌と、本章の主のぶどう畑とは表裏の関係としてイザヤは預言している訳である。