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松本さんの絵 第378◎ 京都は無傷のままで戦争終結となった。

2014年03月28日 19時55分24秒 | 日記

 





  

図479         1945年7月 敗戦前のこと


  手元に色あせたハガキがあります。日本の大都市は毎日のように空爆がありました。焼夷弾の油に火がつくと日本の家は簡単に燃えて倒壊しました。しかしふしぎなことに京都は、ほとんど襲撃をうけませんでした。母によると深夜になると、連合軍の空爆が始まるので部屋の明かりは全部消すのだそうです。B29の低い爆音は恐ろしかったそうで、生きたこごちがしなかったようです。しかし京都は素通りします。3月13日は大阪市内が空爆で夜空が赤く染まりました。すでに東京はほぼ壊滅していたようで、連合空軍の戦闘機が低空でを飛んでいたそうです。パイロットの顔が見えたという話を、人から聞いたこともあります。また新宿、荻窪あたりの都心でさえ機銃照射でねらい撃ちされたそうです。戦闘機の弾丸は口径が大きく、市電のレールに当たると、鋼鉄のはずなのに穴が空きます。そのころ、父は空襲で負傷した親戚、義母を見舞いに広島を尋ねた。国鉄は何とか動いていたようです。

広島原爆投下まであと一ヶ月 色あせたハガキから

昭和20年7月18日消印

18日5時横川駅(爆心から2キロ北、広島城の西)に無事到着。全員無事、横川の叔母様は元気でした。叔父様は出勤のあとでした。午前中は勧業銀行にて用件をすまし、横川にもどって、いま叔母様に食事の用意をしてらっています。汗だくでごちそうの支度の最中です。明日は呉の義母様を見舞いに行きます。顔にすこし怪我をされている様子です。(7月1日の呉市内全域の最大規模の空襲により、焼夷弾の硫黄油が顔に付着した)。


昭和20年8月6日   広島市内中心部が壊滅

父は広島に数日滞在して、列車で帰京した。その翌月の6日に広島に投下された原爆は上空600メートルで炸裂した。生前父は命びろいしたと言っていた。爆心地、相生橋から横川まで2キロしか離れていなかったが、叔父叔母ともに無事だった。しかし父の姪は、運が悪く亡くなった。つづいて長崎が被爆、8月15日、ポツダム宣言受諾して敗戦、京都は無傷の戦争終結となった。広島長崎で、無事だった人たちの苦しみを知っていますか。その後半世紀近く広島では、被爆したことを公言できないきないジレンマに苦しんだ事をしっていますか。投下直後、放射能汚染された被爆者から人に二次被爆して死者が出たりしたために、その伝染性が嫌われて差別があったとは、ひどすぎないか。近年の福島原発による放射能被爆でも同じ事が言えないだろうか。


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