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松本さんの絵 第438◎ 母が見たのは戦艦ヤマトでした。

2015年03月19日 22時15分00秒 | 日記
 



図538       ヤマトの進水式

  母が見たのは戦艦ヤマトでした。わたしの母は広島県呉市の生まれです。大正9年生まれで、ことし3月で95歳になります。呉は海軍の基地で、秘密裏に大型戦艦を作っていました。そのことは呉の市民であっても噂をすることはできませんでした。母の父親は海軍の職業軍人でしたから知っていたようです。母の友達によると、戦艦の「せ」の字を口に出すことは禁物で、特高警察に知れるのが恐ろしかったと言います。それでも1940年8月には、内々に市民も参加して、進水を祝ったそうです。母の実家は、市内に油問屋を経営していました。祖父は、第一次、欧州大戦に海軍士官で従軍しましたが、当時は、すでに退役軍人で、海軍の出入り業者として油類を納めていました。油はヤマト製造にも使われたといいます。ヤマトの進水式には、極秘裏に呉市長、各界の名士などが列席したそうです。呉市長の娘が、支綱を切る儀式に参加したとのことです。母は父に連れだって、呉市高等女学校の友達と一緒に参列したそうです。ヤマトを見上げると、水兵が整列していました。戦艦は大きすぎて視界に入らなかったそうです。銀座の服部時計店のビルくらいあったといいます。戦後になって、ヤマトは沈没地点が確認されていますし、先月には、続いて戦艦武蔵の船体も海底で見つかりました。ヤマトも武蔵も主砲を使うと着弾距離が40キロ以上あり、精度も高く、当時すでに短距離ミサイルを装備していたようなものと思います。レイテ戦でヤマトが引き返さずに40キロはなれた地点で援護射撃すれば、連合軍のレイテ上陸を砲撃で阻止できたと、同盟通信(共同)のOBから聞いたことがあります。その人の話は、続きます。たら、ればの話です。レイテ戦で連合艦隊の損害が大きくなれば、それを機に日本は空母を温存して大東亜の制空権を回復したかもしれないそうです。そして講和条約を有利にして終戦を迎えることができたという話をしてました。