経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  出光佐三

2021-05-07 00:34:34 | Weblog
経済人列伝   出光佐三

 出光佐三は出光石油の創始者です。と言ってしまえばそれまでですが、多くの企業創始者がそれなりの逸話を持ち、それなりの特徴を持つ以上に、彼は個性的で奇抜な自己主張の強い、時として反抗的な商法を駆使して、企業を創設しました。彼の商法の特徴は、彼の人格と同様、理想と信念の固持、言い出したら聞かない強情さ、徹底した統制嫌い、そして楽観性とそれに会い呼応するような運の強さ、です。彼の挑戦的な人生は幾多の危機に遭遇します。しかしだめかと思うところでは運命の女神は彼に微笑みます。
 佐三は明治18年(1886年)福岡県宗像の赤間町(現宗像市)に生まれています。同地には宗像神社があります。宗像神社は裏伊勢と呼ばれる、一大大社で、天照大神から生まれた三神を祭ります。北は韓半島、西は中国、そして東は関門海峡を挟んで、畿内地方に通じる、交通の要衝にあり、海上交通の守り神として九州のみならず全国に渡って尊崇されました。従ってか、宗像地方の人は、神の子という意識が強く、自尊心と自立心に富む、と言われています。佐三はその典型です。彼の経営を彩る多分に観念的なところは、この宗像の神子、という意識と無関係ではありません。家業は藍デン屋です。阿波などから藍玉を買ってきて、それで布地を染める、染色業者の大手でした。佐三は長男に生まれます。生来病弱でした。しかし気は強かった。幼年時、ころんで草の葉で瞳を傷つけ、終生視力は弱いままで過ごします。小学校、高等小学校の成績はまずまず、父親の意向に反して、進学を望み、福岡商業学校に入ります。視力が弱いため、多読に耐えられず、逆に、自分の頭で考えること、をモット-とします。この学校は気に入らなかったようです。卒業旅行の約束を学校が一方的に没にしたのに抗議して、3年生はストを行います。結局一部の生徒による独断旅行になりました。その首謀者が佐三です。理想と反抗、まことに栴檀は双葉より芳しです。
 21歳神戸に出て、神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学します。ここで内地廉吉から、商人は生産者と消費者の関係を安定させ媒介する者、と教わります。これは佐三の終生の指針になります。卒論は、石炭と石油の燃料としての可否優劣について、です。佐三は石油に軍配をあげました。そして彼は次第に石油関係の仕事に魅かれてゆきます。彼は、石炭は51年でその埋蔵量が尽きる、と結論を出しています。51年後の昭和35年、石炭から石油に燃料の重点が推移する危機として、有名な三井三池の石炭争議が起こります。佐三の予言が当たったようでなにやら薄気味悪くなります。始め当時飛ぶ鳥を落とす勢いにあった鈴木商店に応募しますが、結果がなかなか来ません。腹を立てた佐三は酒井商店という零細企業に勤めます。鈴木商店から採用の通知がきますが、一蹴します。鈴木商店に関しては、後に金子直吉の列伝で取り上げるでしょう。酒井商店は小麦と機械油を扱っていました。父親の家業が傾いた事を知った、佐三は独立した事業を起こす事を決心します。しかし資金がありません。悩んでいる時、同級生の日田重太郎が6000円の資金融通を申し出ます。貸すのではありません。勝手に使ってくれと、というわけです。今まで私は60名以上の経済人の列伝を書いてきましたが、こんな事は始めてです。かなり有名になり、その将来が嘱望された時に、有利な融資を受ける事はありますが、若干24歳の、海のものとも山のものとも知れない、若造に現在で言えば5000万円から1億円に昇る金を、気前よく出す、それも同級生とは、この話が真実だとすれば、佐三はよほど良い星の下に生まれてきた事になります。
 27歳門司で出光商会を創始します。機械油、諸種の機械の部品間に摩擦を少なくするために塗る油、の販売を始めます。彼の仕事の最大の特徴は、機械油を一律機械的にするのではなく、販売先の機械の状況に合わせて、三種類の油を調合する点にあります。現在では3種類どころではないのですが、当時彼のような販売法をする人間は皆無でした。しかしなかなか得意先がつかめません。一時商売を辞めようかとも、思います。秋田県に商用で行ったとき、港にあった漁船に眼をつけます。当時漁船は帆船から焼玉エンジンに変りつつありました。門司の、海を挟んだ眼と鼻の先に下関港があります。ここは漁船の一大集結地です。佐三は売り込みます。努力の甲斐があって、ある大手の漁業会社の売り込みに成功しますが、すぐ同業者からの圧力を受けます。佐三の商法の方が優れているのですが、漁業会社も大手の石油販売会社の圧力にはかないません。こういう時大手の会社はカルテルに近い同盟を結び、新規の参入者を阻止しようとします。佐三はその裏をかきます。海上でなら規約には抵触しません。小船に乗って、会場で漁船に油を売ります。同業者は佐三を海賊と呼びました。彼らから見れば佐三は、既成の縄張りを荒らす獅子身中の虫でした。佐三の人生は、既成の業界への挑戦の連続になります。既成業者はすべて外国石油会社の傘下にありますから、佐三は終生外国石油会社(外油)に挑戦し続けたことになります。この間世界大戦で油の値段が上がります。しかし佐三は暴利をむさぼらず、仕入価格に適正な利潤を上乗せするのみで油を販売します。これで出光は信用を獲得しました。
 大正3年(1914年)大戦のさ中、佐三は満州に進出します。日本内地では関税による保護がありました。満州ではありません。外油とじかに対決することになります。満鉄所有の車両の軸に塗る油をみて、外油を言うがままに使っていればやがて車軸が焼けると、佐三は予言します。関係者は一笑に付します。ある年、例年にない寒波がやってきました。満州の寒さは内地の比ではありません。満鉄の車両に事故が続出し、輸送に重大な支障がでます。満鉄から門司の出光商会に電報がきました。事故多発、すぐ来い、と。こうして出光は満州に進出し、販売網を広げます。この時点、そして終戦までの出光の仕事は、石油の販売のみでした。
佐三は独特の商法を繰り広げます。社員に徹底的に権限委譲をしました。融資のみならず、不動産の購入も現地の支店長の独断でできました。出勤簿もありません。社員個々人の自覚に任せます。多くの販売店を作り、その運営は現地に任せます。これを、大地域小売主義と佐三は言いました。これで社業は盛んになりますが、このやり方では当然大きな在庫を抱えます。その資金繰りに佐三は苦労しました。また佐三は株式経営を嫌いました。利益は、内部留保、社員の俸給、顧客への還元と三等分するのだと佐三は主張します。昭和15年株式会社組織にしましたが、非公開を貫きます。(現在は上場)
 昭和10年出光は上海に進出します。外地である上海では、外油の支配が徹底していました。どうして販売するか、倉庫を建てるに際して妨害が入ります。陸軍に頼んでかろうじて倉庫建設の地を確保します。割り込んできた新規参入者が営業する時、大資本である外油は新規業者の販売地のみに限定して、販売価格を下げます。こうして新規業者の資本が尽き、撤退すると値段を元に戻します。佐三はこの隙を突きます。ある地で販売を始める、外油がそこで廉売を開始すると、出光はすぐ他の地に移り、販売開始、というやり方です。外油もそうそう各地で廉売はできません。こうして出光は鉄鎖の一部を食いちぎります。出光の販売は消費者に歓迎されます。上海のみならず、奥地の武漢や重慶でも出光の商品が転売されてゆきました。
 ここで外油、外国石油会社に関して若干の説明をいたしましょう。19世紀末頃から内燃機関が発展し、その燃料である石油は多くの土地で掘り出されました。一番輸出用の石油が出た地が中近東です。そしてこの地の石油の発掘と販売は主としてアングロサクソンを中心とする10内外の資本により、独占されました。彼らは相互に同盟を結んで、利権を護ります。生産地では安く買い叩き、消費地では高く売ります。スタンダ-ド、カルラックス、シェル、ユニオンなどが代表です。彼らをメジャ-と呼びます。日本政府は太平洋戦争に敗北するまで、このメジャ-の(裏取引の)存在を知らなかったそうです。このメジャ-の一つが、戦後出光が挑戦するアングロイラニアン石油会社(AI)です。ちなみにアングロサクソン、つまり英米両国の強みは、石油と金融資本(というより操作)と情報の独占でした。この傾向は現在でも強く残っています。もう一つ彼らが世界制覇の武器にするものが、英語という国際語です。第二次大戦前において科学論文に使われる言語は英語とドイツ語が半々を占めました。私(中本)が専門とする精神医学や心理学ではむしろドイツ語が英語を圧倒していました。大戦後、つまりドイツの敗北後、アングロサクソンは着実にドイツ語の国際的地位を剥奪したといわれています。ドイツ憎しで、協力したフランス語の運命も同様の結果をたどります。
 出光に帰りましょう。戦争に備えて政府は各種産業の統制を始めます。政府の主導で石油連盟ができます。こういう時、割り込み屋であり秩序破壊者である出光は必ず、締め出される運命に遭遇します。佐三はこの統制に猛烈に反対します。当時彼は多額納税者で貴族院議員でもありました。そして第二次大戦勃発。出光は南方(東南アジア)に進出した軍隊や企業に石油を配給し管理する仕事を積極的に引き受けます。後に社長になる石田正実を団長として、97名の出光社員がこの仕事に従事しました。なにしろ危険な仕事なので他の会社は引き受けたがらなかったのです。内27名が戦病死しました。
 昭和20年終戦。どこの企業も同じで食うや食わずやです。出光の社員は約1000名でしたが、佐三は1名も解雇するなと指示し、その方針を履行します。しかし社員に食わせなければなりません。まず佐三所有の書画骨董を売ります。農場経営、醤油生産、定置魚網の製造、印刷業などなんでもしました。特にラジオの修理では助かりました。海軍が作った石油タンクの底油のかき出しをします。かなり危険な作業なので誰も手を出しません。この仕事で出光はGHQの信用を得ます。
 GHQと出光の関係はかなり複雑ですので割愛します。ただ元陸軍諜報将校でGHQに雇われていた手島治雄という人物は重要です。彼の情報のおかげで、商工省の作った販売業者指定要綱で、排除されかけた出光は、なんとか国内の石油元売業者の地位を獲得します。戦前は大規模とはいえ単なる小売業者でした。当時日本の石油はメジャ-から原油で輸入し、それを精製して国内で販売していました。佐三は石油製品つまりガソリンや重油を海外から輸入する事を試みます。メジャ-の独占を破り、販売価格を下げるためです。そのために佐三は18500トンという当時最大のタンカ-を建造しようとします。通産省の異議を廃し、強引に事を進めます。このタンカ-をアメリカに送り、メジャ-の網をくぐって、独立系の石油会社の製品を買い込み日本に持ち帰ります。かって門司で漁船に海上で機械油を売っていた事と同じ流儀です。また上海でメジャ-の眼をくぐって、ゲリラ的に石油を販売したのとも同じ手法です。出光の得意はこのゲリラ戦法にあります。巨大タンカ-は第二日章丸、別称アポロと名づけられました。当時のタンカ-は大型と言ってもせいぜい12000トンが限度でした。出光の巨大タンカ-建設は以後も続きます。
 佐三のメジャ-への挑戦はさらにエスカレイトします。別に彼がメジャ-を眼の仇にしたのでもないでしょうが、彼の事業が伸びてゆくためには、国際石油資本であるメジャ-との衝突は避けられません。私が知る範囲では、メジャ-に挑戦した男は佐三とアラビア石油の山下太郎です。
 昭和27年(1952年)あるイラン人を佐三は紹介されます。イランの石油を買ってほしいと頼まれます。当時中東の石油はそのほとんどがメジャ-の支配下にありました。イランの石油はアングロイラニアン石油会社(AI)の支配下に置かれ、その搾取はひどいものでした。他の中近東諸国や他のメジャ-と比べても、AIの商法はむき出しの略奪に近いものでした。反発した民衆は革命を起こし、モサデク首相の元に団結します。AIおよびその背後にいるイギリス政府はイランの石油の販売を封鎖でもって禁圧します。この禁圧を破る者はAIのみならず、メジャ-全体の報復を覚悟しなければなりません。最初佐三は、時期尚早として、慎重に構えていました。朝鮮動乱で石油の需要は増えます。いろいろ情報を集めた佐三は覚悟を決めます。弟計助と手島治雄を極秘裏にイランに派遣します。モサデク首相と二人は会談しますが、相手はこちらの意図を信じきれず、交渉は宙ぶらりんになります。煮え切らない交渉の末、出光はイランの石油の売買計画を契約します。石油輸送に始めは、直営の日章丸は使うつもりはありませんでした。イギリス海軍に拿捕されれ、下手をすれば没収される可能性があります。そうなると出光の商売は行きづまります。しかし最初石油を運搬してくれるはずの飯野海運は途中で契約をほごにします。佐三の決断で虎の子の日章丸が運搬に投じられます。インド洋からペルシャ湾に入り、湾の奥に位置するアバダンまで20000トン近い巨大な船を送ります。砂の多い河を遡ってアバダンに着き歓迎されます。石油を積んだタンカ-が河底に当たって座礁しないように注意して河を降ります。座礁すれば英軍に拿捕されます。ペルシャ湾に出た時、船長が一番警戒したのは、機雷を前方にまかれることでした。イギリスならやりかねません。帰路はマラッカ海峡を避けて東シナ海に入ります。帰路ここまで日章丸は無電を封止していました。安全域に入り、詳報を本社に打ちます。ここでわざと徳山入港と、示し合わせていたのでしょう、偽情報を流し、船は土佐沖を東進します。この時日本の新聞社の飛行機そして英軍航空機に発見されます。ここで佐三は奇策を考えます。わざと船の速度を落として、土日の週末川崎港に入るように指示します。入港と同時にAIから作業差し止めの告訴がなされますが、その執行は月曜日を待たなければなりません。その間に陸揚げを完了します。AIの提訴は裁判所に持ち越されます。結果は出光に有利な判決になります。出光の行為により、石油産出国であるイランと消費国である日本は共に救われました。以後メジャ-の網の目から解放された(一部)石油の値段は下がり始めます。偶然かそうではないのか、この頃から英国の衰退は速度を増します。
 佐三の仕事は続きます。昭和32年徳山に巨大製油所建設、35年ソ連のバク-油田からの石油輸入、などです。出光はいつも既成秩序に挑戦する割り込み屋なので、同業者の妨害は続きます。昭和37年恩人日田重太郎死去。37年87歳、悪化した眼の手術。この時は最新の技術を用いた手術でしたが、失明か回復か、一かばちかの勝負でした。勝負は吉と出て、佐三は視力の一部を回復します。看護婦の白衣の白さが、今まで見た以上に白くて感動的だったそうです。昭和56年、96歳死去。後継は弟計助で

参考文献
 難にありて人を切らず、快商・出光佐三の生涯  PHP研究所出版  

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


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