経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 小佐野賢治

2021-05-08 22:58:33 | Weblog
経済人列伝  小佐野賢治

小佐野賢治といえば、1976年(昭和51年)世間を驚かしたロッキ-ド事件の黒幕、昭和の政商として有名です。いや厳密には有名でした。政商とは政治の機微につけこみとりいり、経済の表道より裏の方で莫大な利益を手にする商人あるいは経済人で、この言葉にあまり芳しい響きはありません。事実、賢治の能力はともかくとしてその素行には感心できないものが多々あります。福沢諭吉や豊田佐吉は小学生にも理解しえ、またモデルとしての格好の人材ですが、今回取り上げる賢治と次回予定の横井英樹は、あまりそうなってほしくないタイプの人です。しかし彼らがものすごい努力家であることは確かです。
賢治は1917年(大正6年)山梨県山梨郡山村(現甲州市)に6人兄弟の長男として生まれました。父親は5反の田畑を耕作する小作農でした。無学で文字が読めなかったといわれています。父親は賢治に「勉強しろ」と口うるさく言い、賢治の反発を買っていました。賢治はクラスで一番体格のいい、長身のガキ大将でした。商売の才能も子どもの頃からありました。高等小学校を卒業後、一旗あげるために、郷里の知人が経営する本郷商会に奉公します。賢治は常に、社長と客の対話に耳を傾け、彼らの言動から得られるものを貪欲に吸収します。経営というものにどうしてもからむ軋轢とそれに対する経営者の対応、一言で言えば社長術を胸に叩き込みます。彼は始めから経営で才能を発揮しようと勤め、一度そう決心すると、すべてをそこに集中します。3年で本郷商会をやめます。ついで商工社という自動車部品販売店に入ります。賢治の有能さが買われてスカウトされました。賢治はがんばり、この会社の営業成績は上がりますが、なぜか倒産します。
20歳徴兵検査、甲種合格です。すぐ支那駐屯部隊に派遣されます。二等兵でした。賢治は徹底した怠業戦術を取ります。どんな命令にもぐずぐずといやそうに振舞います。怒った上官から殴られどうしですが、賢治はこの態度を崩しません。彼は軍務に耐えずとされ、機関銃班から担架兵に回されます。一番戦死ぬ確率が高い役から一番低い役に左遷(?)されました。こうして徐州作戦という、日本軍に多大な犠牲がでた戦闘への参加を免れます。詐病(意図して病気であると偽る事)をして軍の病院に入院し、そこでも徹底的に症状を演じて、あきれた軍医から退院させられます。同時に兵役も免除されました。お国のために死ぬなんて馬鹿のする事、俺は生きて帰る、を賢治は徹底して遂行します。
昭和16年24歳、賢治は第一商会という自動車部品の販売会社を作ります。2年後郷里の代議士を通じて海軍省に食い込み、軍需省機材課の嘱託になります。中佐待遇でした。この辺の変身と上昇の早さには、驚かされます。謎の倒産をした会社の経営にたずさわっていた時、相当の資産を貯めこんでいたようです。会社の社長未亡人とも関係があったとか言われました。多分そうなのでしょう。軍需省の嘱託となった賢治はここで大儲けします。自動車部品は戦争には必需品です。軍部独裁とは恐ろしいもので、権限は軍に集中しますから、佐官クラスの署名で莫大な商売が可能になりました。当時、臨時軍事費(臨軍)というシステムがありました。正規の軍事費の足りない部分を補う財源ですが、この裏の財源は正規の予算とほぼ同額でした。裏金ですから担当官の胸一つでどうにでもなります。賢治はここに食い込みます。終戦時点で彼は800万-900万円の資産を持っていたといわれています。現在の貨幣価値で50億円くらいです。
終戦の昭和20年、賢治は国際自動車という会社の株を買占め専務におさまります。これが後の国際興業に発展します。賢治の営業内容は大体ホテルと交通会社です。もてる資産で三つのホテルの株を買います。そのうちの一つが強羅ホテルです。これは五島慶太から譲ってもらいます。以後賢治は五島の手先として、株の買占めや会社乗っ取りに活躍します。やはり五島から東都乗合自動車という会社を譲られます。ここで譲るというのはただでもらうのではありません。株式取得を許してもらうという事です。この会社のバスを米兵輸送用に使います。米兵をキャンプから歓楽地のホテルに移送します。こうして旧軍にかわり米軍に食い込みます。入っていた北陸館ビルを詐欺同然の手段で略取します。賢治は旧憲兵、検事、公取委員、右翼、やくざなどを社員として積極的に採用します。彼らはその職業柄、いろいろなところに顔がききます。この前後結婚しています。賢治は、華族で美人を条件に選びます。堀田伯爵家の子女英子と結婚します。賢治はこと家庭では、どけちで守銭奴に近い暮らしをし、妻に家計を任さず、小遣いも渡さなかったといわれています。
昭和23年、ガソリン不正使用で米軍に逮捕され、重労働1年、罰金74200円の刑に服します。
朝鮮戦争、賢治もこの特需でおおいに潤います。特に韓国内で米軍をのせて走る軍バスでは儲けました。ハワイから中古車を輸入し販売します。もともと自動車部品は専門ですから、中古車を点検し批判しまくって、安く買い叩くのは得意です。米軍基地と東京都心を結ぶバスを走らせます。米兵とその家族の送迎が仕事です。帰国する米軍将校から外車を安く買います。
山梨交通、諏訪自動車 の株を買占め、会社を乗っ取ります。ハワイに進出してシェラトン系ホテルを次々に買い占めてゆきます。こういう行動の過程で右翼の大物、児玉誉士夫と昵懇になります。ホテルの名門富士屋ホテルも賢治の所有になります。また昵懇にし刎頚の友になる田中角栄の依頼で、田中が経営する日本電建の経営改善に乗り出します。この時賢治は、旧役員の全員解雇、支店長クラスを役員に抜擢、労組の幹部を支店長に採用などのやり方で、社員の信望を獲得し、同時に労組を骨抜にします。この会社は田中の経営時代、労組の跳梁で有名な会社でした。さらに秋北バス(秋田県)、十和田観光鉄道(青森)、花巻温泉(岩手)などを買収して東北地方の観光と交通を押さえます。田中角栄とは、正木という有力な弁護士の紹介で、知己になり、気があって刎頚の友となりました。もちろん相互に利用しあっています。
賢治の経営姿勢は独得でした。毎日8時に出勤します。会社での地位が高ければ高いほど、早く出勤しなければならない、が彼の信条でした。いきおい会社幹部も早く出勤するようになります。また賢治は会社のことはすべて自分の目でみないと気がすみませんでした。早く出勤するのもそのため、そして彼は会長室に越をすえることなく、応接室に陣取りました。ここで各役員の動向を観察します。すべてを自分の目でというのは会社が大きくなれば不可能です。会社が成長する時の最大のネックは人材です。200-300人の規模を超える時、部課長クラスにいい人材ほしくなります。2000人を超しますと、役員の人材が必要です。社長会長に代って、会社の経営を分担し、そして会社全体の意見を集約する組織としての常務会が出現します。常務会は今まで陣頭に立って独裁的に経営してきた社長の意見を制約します。集団指導体制になります。常務会が強すぎると、意見は集約できず、決断の機を逸し、衆愚制になります。賢治はあくまでワンマンでした。こういう会社は上昇する時は早く、崩壊する時も早いのです。
賢治は印鑑を自分で管理しました。どういう時も身に着けています。また役員の退職金は分割払いの手形でした。退職金を全額もらえば、会社と縁が切れるので、会社に不利なことも話しかねません。人の顔と名は一度見たら必ず覚えています。人を決して信用しない利用する、最後は金だ、が彼の人生哲学でした。
1976年(昭和51年)ロッキ-ド事件が持ち上がります。ロッキ-ドの社長コ-チャンが児玉誉士夫を通じて、賢治に全日空への自社製品の売り込みを計ります。賢治は全日空の大株主でした。同時に田中-ニクソン会談でロッキ-ドに有利なように、ニクソンに働きかけて欲しいとコ-チャンは賢治を通じて、田中角栄首相に依頼します。昭和51年7月田中角栄は、ロッキ-ドから5億円を受領したとする外為法違反で逮捕されます。その前から賢治は国会で証人喚問に呼び出されています。喚問に際して堅持は狭心症の発作を起こします。昭和59年東京高裁は賢治に懲役10ヶ月、執行猶予3年の刑を言いわたします。2年後の1986年(昭和61年)賢治死去、享年69歳でした。ストレス性の胃出血が死因でした。前後して田中も児玉も死去します。3人とも怪物と言われた人物ですが、司直の追及は大きな心身の負担であったようです。しばらくして平成不況になります。賢治が所有していた不動産は軒並み値下がりします。賢治の資産の多くはアメリカのハゲタカファンド、サ-ベラスに安く買い叩かれて委譲されました。賢治の資産は一時10兆円とかと言われました。
賢治のやり方は、軍需省とか米軍という時の権力に取り入り、賄賂を使って大儲けし、その金でいろいろな会社の株を買占め、傘下の企業を増やすという手法です。この際潰れかけの企業を買うのが一番儲かります。もちろん経営を立て直せばのことですが。経営建直しはなんのかのといっても、国家や社会への貢献です。国家権力への取入り、官有物払い下げ、株の買占めなどは、多くの経済人がしています。岩崎弥太郎も大倉喜八郎も根津嘉一郎もしました。彼らが賄賂を使わなかったとはいえません。しかしどこか違います。三人には国家という観点がありました。賢治にはありません。ただ、金だ、という私利だけです。次の列伝では、賢治の像をもう少し汚くした(ごめんなさい)横井英樹を取り上げえみましょう。

 参考文献  政商  大和書房

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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