武士道の考察(64) 武士+僧侶=菩薩
(武士+僧侶=菩薩)
武士と僧侶は死に直面し死を生きねばなりません。死を生きることにより死を肯定し死を無化します。両者の唯一の違いは私有財産への対処です。同時にそれは両者の共通点です。武士は私富を肯定し、僧侶は否定します。私有財産に対して両者の態度は対極にあります。生と死の境界に位置して僧侶は常に死の方向へ自己のヴェクトルを向け、反転して私富の世界に舞い戻ります。簡単に死んではいけないし、そのためには食わなければならないからです。武士は生の方向へおのれのヴェクトルを向け私富に執着し、転じて倫理の世界に憧れます。経済行為の極北である略奪の向こうには虚無の世界しかありません。
両者はその社会的実態において相同です。両者一体で生と死は架橋されます。ここで私(著者)は再び菩薩道に考え至ります。菩薩とは成道の可能性を持ちつつ、それを否定しあえて俗塵にまじる者であり、上求菩薩、下化衆生がモット-です。菩薩により死においてのみ得られるはずの、生の世界に展開可能になります。僧と武士を一体のものとして考えてみましょう。僧は死のむこうに成道を求め、武士は死のこちらに倫理を追求します。両者の生は死を焦点として展開します。武士には求法者の面影があり、僧には戦士の趣があります。そして武士と僧という二つの身分はほぼ併行しつつ日本の歴史に登場します。武士団が発生するころ寺院は国家の給付から独立し、両者は相争い相携えて戦国乱世を形成しPAX TOKUGAWANA(徳川将軍治世下の平和)には共同して統治します。
64
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社
(武士+僧侶=菩薩)
武士と僧侶は死に直面し死を生きねばなりません。死を生きることにより死を肯定し死を無化します。両者の唯一の違いは私有財産への対処です。同時にそれは両者の共通点です。武士は私富を肯定し、僧侶は否定します。私有財産に対して両者の態度は対極にあります。生と死の境界に位置して僧侶は常に死の方向へ自己のヴェクトルを向け、反転して私富の世界に舞い戻ります。簡単に死んではいけないし、そのためには食わなければならないからです。武士は生の方向へおのれのヴェクトルを向け私富に執着し、転じて倫理の世界に憧れます。経済行為の極北である略奪の向こうには虚無の世界しかありません。
両者はその社会的実態において相同です。両者一体で生と死は架橋されます。ここで私(著者)は再び菩薩道に考え至ります。菩薩とは成道の可能性を持ちつつ、それを否定しあえて俗塵にまじる者であり、上求菩薩、下化衆生がモット-です。菩薩により死においてのみ得られるはずの、生の世界に展開可能になります。僧と武士を一体のものとして考えてみましょう。僧は死のむこうに成道を求め、武士は死のこちらに倫理を追求します。両者の生は死を焦点として展開します。武士には求法者の面影があり、僧には戦士の趣があります。そして武士と僧という二つの身分はほぼ併行しつつ日本の歴史に登場します。武士団が発生するころ寺院は国家の給付から独立し、両者は相争い相携えて戦国乱世を形成しPAX TOKUGAWANA(徳川将軍治世下の平和)には共同して統治します。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社
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