経済(学)あれこれ

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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch6摂関政治 注4

2022-02-13 15:06:47 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch6 摂関政治 注4

(内邸政治)
平安時代つまり摂関政治の確立の過程で政治形態も変化します。政治の基本、生産と徴税の源泉である、田畑の支配・管理の方式が変化します。すでに奈良時代から土地の私有は始まっていました。すでに述べた事ですが、公地公民・班田制度は徐々に崩壊して行きます。地方には自力で開墾し土地を集積した富豪の輩が輩出します。政府も彼らの土地私有を認め、所有地ごとに課税します。課税の対象となる土地に所有者の名前をつけ、彼らを納税の責任者にします。納税責任者としての「名」を負わされた人物が「名主(みょうしゅ)」と呼ばれ、この制度を「負名制」と言います。彼ら富豪の輩あるいは名主はなるべく課税を回避しようとします。中央の権門有力者である「院宮王臣」、つまり皇族・貴族・大寺院などに名目上は土地を寄進し、自分は土地の管理者になります。事実としては課税されるはずの額の一部を中央の有力者に与え、残りは自分のものにします。中央の有力者はその力で名主を保護し、課税官である国司を抑えつけます。こうして中央と地方の有力者が結託して課税を回避できた土地を「荘園」と言います。もちろんこの過程は徐々に展開されたもので、荘園と言う名称は後に付けられたものです。墾田つまり私有された土地が増えるとそこからはじき出された農民は、この墾田あるいわ荘園で働くようになります。彼らは始め浮浪民とか呼ばれましたが、荘園制が発展する中で、荘園の民つまり「荘民」あるいは「作人」などと呼ばれるようになります。こう言うと何か農民が貧困化したように聞こえますが、全体としての生産性は上がっているのです。だいたい律令制の公地公民制自身がかなり怪しい。建前としては家族・個人単位に土地を与えて耕させるようですが、現実には氏族的な原始共同制に法律の概念を当てはめただけのものであった可能性があります。この共同性の中から個人的耕作者が出現したというのが真実のようです。単純に言えばこの名主が武装して「武士」が出現したと言えます。荘園制の発展は政府の治安維持能力を減退させますから、自力自衛は必至です。
荘園制が発展すると、中央の政府は困ります。租税が入ってこなくなるからです。しかし荘園制の発展を促進しているのは中央の権門です。だから政府は一種の二重人格を持つことになります。荘園領主でありつつ、また政府の高官でもあります。だから政府は一方では国司を督励して租税徴収に励むよう、尻を叩きます。少なくなった租税の徴収を厳格にします。まず租税徴収、他のことは後回し、しなくても良い、大げさに言えばそうなります。そして国単位に責任徴税額を決め、超過した分は国司の収入とみなしてもいいとなります。またそれまで四等官であった制度も長官の守に権限を集中します。こうして出現してきた地方官の在り方を受領(ずりょう)と言います。徴税請負人です。後には(院政期から)一国の徴税と武力を握る力を国から勲功として与えられた知行国主という存在が現れます。知行国主は一族の中から受領を選び、受領もさらに目代を現地に派遣して徴税を行うようになります。
こうして荘園と政府管理の公領という二重体制が現れます。公領の方も怪しいもので、その根っ子には地方の有力者が地方官庁の下級官人として食らいつき、その権力と勢威を利用して公領の中に一種の私有地を作って行きます。彼らを在庁の官人と言います。
単純に言えば中央と地方の有力者が結託して、縦に連なり土地の生産物を分有し利益を分配していたことになります。縦に連なってそれぞれ本所、領家、荘官地頭下司などと名前が付けられます。土地を各級の領主が分担して支配します。
こうなると、つまり政府の公的収入が少なくなると政府の機構も縮小されます。八省のほとんどは形骸化します。公的収入は上級貴族と皇族を養うに足るだけになります。官庁が生き延びて機能するためには、官庁自ら地方の田畑の収入を直接(民部省とか本来の機構を介せずに)取るようになります。政治は天皇と一部の皇族貴族を養うためにだけ存在するようになります。本来大極殿で行われていた政治は、紫宸殿更に天皇が私生活を営む私室である清涼殿で行われるようになります。清涼殿の南庇を殿上と言いますがここまで入れる人(貴族)を殿上人と言い特権階級でした。約50人内外で天皇の代替わりごとに入れ替えられます。政府官庁も天皇の衣服を作る場所、天皇の食料を確保する機関、天皇の食事を作る役所、天皇の動産を管理する役所等が作られます。これら天皇の私生活を維持し支える諸官庁諸機関を内邸と言い、天皇の私生活中心に作られた政治機構を内邸政治と言います。極めて単純に言えば、政治は律令制から内邸政治に変貌しました。
内邸政治を執行する機関が新たにもうけられます。令外官(りょうげのかん、律令の外に作られた官職)と言います。代表が蔵人所と検非違使です。前者は楠子の変に際して作られました。天皇の側近であり、台閣と天皇の連絡役であり、また同時に防諜機関です。蔵人の官位は6位か5位くらいですが、仕事が仕事なので実権は集中します。蔵人所の長官である蔵人頭は官職官位昇進の基幹になりました。蔵人頭と近衛中将を兼ねた役職を頭中将といい、蔵人頭と左右大弁を兼ねた役職を弁の頭といい、このどちらかに就くと次は参議さらに中納言として台閣(議定官)の一員になります。蔵人頭とはそれほどの栄職でした。
検非違使(けびいし)は、非違を検察する機関ですから、都の治安維持・警察の任務に当たります。政府の軍事(従って警察)力はないも等しい状態ですから、検非違使を創りました。実際は地方の武士を上京させ彼らに左右衛門府の下級官職を与え、同時に都の治安維持に当たらせました。仕事が仕事ですから実権は持ちます。長官である検非違使別当は大納言クラスの役職でした、検非違使は治安のみならず市政一般をも担当しました。
当時の東アジアの情勢故に外交と国防の必要性はほぼありません。地方の治安は豪族武士に任せ、国司は徴税のみに専念し殖産などは行いません。単純に言えば政府の仕事は徴税と官職任命だけ、受領の成績判定と叙位任官だけになります。貴族は完全な消費階級になりました。


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