経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  日本史短評、宮座と一揆

2020-05-14 13:48:43 | Weblog
日本史短評、宮座と一揆

僧団をモデルとして「一揆」の原理は民間にも浸透します。一揆と言えばすぐ農民の一揆を想起しますが、一揆は武士社会でも行われました。むしろ武士社会の方が早かったようです。武士社会はどんどん変化します。新規の兵力が参加してきます。今までの血縁集団中心の結合原理だけでは持ちません。血縁以外の原理を求めます。それが「一揆」です。「一揆」とは「同じ目的をもって結合する」ことです。例えば先祖を平氏に仰ぐ武士たちは平氏一揆、源氏なら白旗一揆などにまとまります。藤原を姓とする貴族は藤氏一揆を作ります。先陣で勇猛邁進するために、武士たちは兜の先に梅桜卯の花などの表象をつけ、例えば卯の花一揆などをつくりました。このような武士集団の一揆は続々出現しました。新しい大戦力を確保維持するための結合原理が「一揆」です。そして一揆ではなによりも集団への帰属が要求されます。ですから旧来の自力救済は認められません。誰が何が正しく誰が誰を裁くかは集団が決める事になります。「喧嘩両成敗」になります。この原理習慣は戦国大名の家法に採用されます。
(一揆、郷村、座)
この「一揆」という結合原理が一番効果的に用いられた社会が農村です。農村の経済が発展すると従来の家中心の血縁だけでは結合できません。農民には多くの課題がありました。まず耕作労働の合理化です。稲作は労働の夏季における短期集中を必要としますから労働は共同化組織化されねばなりません。水の分配などにも協議が必要です。他村との水や共有地をめぐっての争いも頻発します。なによりも領主の収取に抵抗し減税を勝ち取る必要があります。こうなると従来の荘園の地割(これは領主の都合で決められたものです)は不合理になり、農村は農民の営農作業中心に作り変えられます。こうしてできた村を「郷村」と言います。農民は自分たちの利害中心に新しい村を作りました。そしてこの郷村の結合原理に「一揆、目的を同じくして結合する」が用いられます。村の鎮守の森の宮で神水を一同が飲み、一味同心を誓います。郷村内部も制度化されます。乙名(おとな、老)、中老、若者と年齢別に三段階の年齢別階層が作られ、すべて衆議で決められます。村の掟に反した者は村の名において処罰されます。この村掟には領主も不介入でした。村掟は時として領主の刑罰より厳しい場合がありました。なお「座」は農村だけに限りません。商工業民も座を作りました。
農村の衆議は宮の前で座って行われます。座るから「座」あるいわ「宮座」と言います。ですから「一揆」と「座」は同じ意味です。「共にする」が原意で、行為を表すか、場所を表すかの違いだけです。
(土一揆、徳政一揆)
農民は(そこには武士に相当する名主階層・侍分も含まれます)領主に対しては減税闘争を、金融業者に対しては借金帳消しを求めて立ち上がります。土一揆あるいは徳政一揆です。徳政は永仁の徳政令(1297年、これは本来御家人救済のためですが)が有名です。一揆はだんだん大規模になります。正長の徳政一揆(1428年)、嘉吉の土一揆(1443年)、更に山城の国一揆(1485年)では当地の守護畠山氏を追い出し、加賀の一向一揆(1473年初発)では守護大名富樫氏を滅亡させ、100年間浄土真宗(一向宗)が加賀国を支配しました。極め付きが天文北法華の乱(1436年)と石山本願寺戦争(1570年-1580年)です。ここでは一揆に鎌倉新仏教が結びつきました。室町時代の一揆は結構陽気でチャッカリしています。債務減額の割合は事前に借り手貸し手が談合で決めました。談合が敗れたら闘争です。この闘争には領主、農民、金融業者、幕府、大名などが入り乱れます。
(足軽)
農民の一揆は農民が武装可能だったからです。農村は武力の培養地でした。ここから出てくるのが足軽です。文字通り敏速な軽兵です。従来の重装備の騎馬武者に代わり戦争の主役になります。集団戦、ゲリラ戦、攻城戦など何にでも使用可能です。重い鎧兜を着て攻城はできません。一騎の武者より三人の足軽歩兵の方が強いに決まっています。槍の使用さらに鉄砲の採用は足軽を戦力の主力中心にしました。足軽はまた略奪もします。村に帰れば戦力の軸ですから、農民は落ち武者狩りで儲けます。農民一般も含めて彼らは悪党です。後には戦国大名さらに幕藩大名に正式に抱えられ武士になります。足軽と一揆は同根です。
(本来幕府自身が悪党ではないのか?)
私は鎌倉初期、評定衆と貞永式目のころから説き初めて悪党に言及しましたが、そもそも幕府自体それを構成する御家人そのものが「悪党」なのです。幕府以前武士たちは私戦に明け暮れ、農民を収奪し、荘園領主には面従腹背していました。彼らが結集して幕府を創りましたが、そのことによって自信をつけた武士は非法に走り悪党化し、その影響が本来武士になりうる農民に影響し、社会全体が「悪党」になったわけです。源義経などは典型的な悪党です。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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