経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  古川市兵衛

2021-04-14 20:30:39 | Weblog
経済人列伝  古河市兵衛

 旧古河財閥の創業者です。現在活躍している企業で一番知名度の高いのは富士通でしょう。私が今使っているパソコンは富士通製です。古河財閥は鉱山、特に鉱毒事件で有名な足尾鉱山が蓄財の出発点です。
 市兵衛の生涯はかなり屈折に富んでいます。1832年(天保3年)京都黒谷、金戒光明寺の門前で、木村長右衛門と母みよの次男として生まれました。幼名は巳之助と言います。母親は夭折します。当時黒谷は村であり、生家は代々庄屋でしたが、父の放蕩生活で家は零落し、市兵衛生誕当時は豆腐の行商をしていました。京都のある商家に奉公させられますが、待遇が悪くすぐ家に引き取られます。二人目の継母まさの兄である木村理助に従って奥州南部に行きます。この地で幸助と改名します。叔父の斡旋で小野組盛岡支配人古河太郎左衛門の養子になります。この時幸助25歳、古河家代々の由緒ある名、市兵衛を養父から与えられます。小野組と言うのは、当時三井組、島田組と並んで、今で言えば一種の財閥のような全国的企業でした。特に幕府から為替発行権を許されて、金融業、さらに繊維商(主として生糸)、米穀販売などに手広く従事していました。
 小野組の支配人になってから市兵衛はめきめき商才を発揮しだします。開国で生糸貿易は幕府の独占ではなくなり、しかも米欧からの注文が殺到し、値が上がり、どんどん輸出されましたこの機に乗って市兵衛は大商いをして、小野組に稼がせる一方、自分でも一財産作りました。小野組糸方の責任者になります。小野組の事業の半分を担当したようなものです。この間市兵衛は外国商人が、日本産の生糸は太さが不揃いだと、という苦情を聞き、すぐドイツの製糸機械を導入し、築地製糸という会社を立ち上げています。将来の市兵衛のやり方を先取りするものです。小野組は維新政府と密な関係にありました。政府の為替方を担当します。政府の税金を無利子で預かります。政府自身に租税を管理する能力がないので大商人に依頼して代行させていたのです。無利子で預かりそれをあちこちに融資ないし投資します。濡れ手に粟です。この点では三井も島田も同じです。
 明治7年突然特権が剥奪されます。預かった金を数ヶ月以内に返せ、という厳命です。当然そんな事はできないので、小野組は閉店してしまいます。確かに藩閥政府の横暴のように見え、また事実横暴ですが、それまで甘い汁を吸ってきたのも事実です。何よりも当時進行しつつあった地租改正の意味が旧商店には見えていなかったのでしょう。明治政府は必死になって財政制度を確立しようとしていました。結果として小野と島田は潰れます。三井は大番頭の三野村利左衛門の働きでかろうじて生き残り、後の三井財閥の基礎を固めます。島田組は秋田の鉱山問題で長州閥と対立し、潰されます。小野組の本家は潰れましたが、大番頭の古河市兵衛が全くそれまでとは違う新基軸を試みます。この新基軸が鉱山開発です。なお市兵衛は渋沢栄一の第一国立銀行にかなりの額を出資していました。当然それを引き出してもいいのですが、一切手をつけず、渋沢に感謝されています。またこの時、養家の古河家からは絶縁されますが、市兵衛は木村姓には帰らず、従来どおり古河市兵衛で通します。
 明治8年市兵衛43歳時、新潟県の草倉銅山を買います。資本は主として小野組時代に親交のあった家令志賀直道(志賀直哉の祖父)を通じて相馬藩から出してもらいます。やがて渋沢栄一も加わり市兵衛ともで三者の共同経営になります。市兵衛が乗り出すとどういうわけか産出高が増えます。経営はまずまずでした。銅は当時生糸と並んで、日本の輸出品の主力でした。
 明治9年市兵衛に甚大な運命をもたらした足尾銅山を買います。周囲は大反対でした。上杉藩の時代から掘りつくしたと、思われていました。当時足尾銅山だけでもないのでしょうが、銅山経営の実態は各坑夫の請負仕事でした。坑夫が掘ってきた鉱石を坑主が買い取って精錬しています。市兵衛はここを大改革しようとします。従来の掘り方では投下資本量と技術レベルが低すぎます。甥である木村長兵衛を鉱山所長に任命します。基本方針は坑主直轄坑道の開発です。照明は油でとり、手押しポンプを使います。手押しポンプはやがて蒸気ポンプに変わります。坑道にトロッコを引きます。それはインクライン(傾斜鉄道)になります。通風の悪さは坑道を端から端まで貫通する事で解決します。電話を取り付けたのは、ベルが発明した10年後でした。こうしてやっと富鉱である鷹の巣鉱脈を発見します。こうして次々に富鉱を掘り当てますが、増産のためには山を勝手な方向から乱雑に掘るのではなく、一本の基軸となる大坑道(大通洞)を貫通させねばなりません。次々に新技術が導入されます。精錬のためには膨大な薪炭が要ります。その運搬も大変ですが、山が禿山になってしまう可能性もあります。こうして電機製銅法が導入されました。鉱山地区の運搬にはロ-プウエイも設置されました。電力は水力発電所を作って供給します。いずれも当時の日本では新基軸でした。
 この間日本橋瀬戸物町の旧小野組の東京糸店を買い取り、古川鉱業の本店にします。外国からの銅の注文は殺到します。横浜では1トン200円ちょっとでした。市兵衛はジャ-ディン・マセソン商会と長期契約を結びます。一ヶ月600トンを保障するから1トン366円にしてほしいと、要求します。さらに契約保証金25万円を要求し聞き入れられています。マセソン商会の背後にはフランスの銅シンジケ-トが控えていました。市兵衛はシンジケ-トとの契約は断ります。価格が崩れたときシンジケ-トは崩壊しやすく、取引が不安定だからです。当時日本産の銅は70%以上輸出されていました。多分チリと並ぶ最大の産銅国だったのでしょう。
 明治29年念願の大通洞が貫通します。しかしこの時古河鉱業は未曾有の苦難に遭遇する事になります。足尾鉱毒事件です。明治15年ごろから渡良瀬川の魚が減ったとか、田畑の実りが悪くなった、とかの苦情はちらほら出ていました。しかし月産100トン未満の産出量ならそれほどでなくても年産数千トン時には2万トンという量になると、鉱毒の被害は加速されます。周囲の農民が抗議におしかけ、警官が出動する騒ぎも起こります。明治24年衆議院議員田中正造が国会で足尾銅山の鉱毒を弾劾する演説を行います。田中は終生この弾劾をし続けます。田中は明治30年、足尾銅山操業停止請願運動を起こします。同年政府は「鉱毒事件調査委員会」を作り、現地調査に乗り出します。すぐ予防工事命令が出されます。この命令は当時の水準としては世界でも稀なほど良い(経営者にとっては厳しい)ものでした。命令の要点は、大規模な沈殿地と濾過池を数箇所造る事、脱硫装置の導入(結果として煙突は4-5倍の高さになります)、洪水に際して坑内の土砂が周囲に河川に流れ込まないように護岸工事をしっかりする事などです。ただし足尾のような狭隘な高地に大きな池を造るのは危険でしょう。これらの命令はすべて短い期限付きでした。市兵衛は押しかけた農民に、必要な限り予防工事を行います、と言います。事実政府の予防命令はすべて期限内に遂行されました。政府としては輸出の虎の子である銅の増産も欲しいし、一方農民の力も怖いし、というところでしょう。多くの教科書では日本の農民は温順と書かれていますが、彼らは戦国時代以来なまやさしいものではありません。予防工事の効果は5年後から著明に発揮されました。ちなみに足尾事件は有名ですが、鉱毒の被害は足尾と並ぶ愛媛の別子銅山、秋田の小坂鉱山の方がひどかったとも言われています。
 私が古河市兵衛に興味をもったのは、公害事件の元祖として常に悪者視されるこの人物ってどんな人だろう、と思ったからです。市兵衛は鉱山専一主義で他の事業には一切手を出しませんでした。その辺が三井は三菱と違うところです。彼は新聞もあまり読まず、他のことに関しては無知なことが多かったのですが、こと鉱山のことになるとすべてに関して端から端まで頭に入っていたと言われています。私が感嘆する事は当時の世界の先端技術を大胆に取り入れる度胸と進取の気性です。さらに、43歳で再起し日本有数の大企業を作った覇気と粘り(この点は安藤百徳と同様)、そして約束した事は必ず実行する誠意です。酒は飲まないが、女は大好きで、生涯で三人の妻を娶り、10人近い妾をもっていたそうです。子孫に恵まれたとはいえません。陸奥宗光の子供を養子にしましたが、夭折されています。実の男児は虎之助のみですが、彼には男児が生まれていません。
 市兵衛のブランドは頭の上のちょんまげでした。従五位に叙された時井上馨の要請で断髪式が行われています。なお市兵衛は三つの国立大学を作っています(資金を提供しています)。北海道大学と東北大学と九州大学です。
 市兵衛死後、古河鉱業はやはり多角化経営に移ります。主のところで、古河電気工業、富士電機、富士通(注)、日本軽金属、日本ゼオン、旭電化工業、横浜ゴム、朝日生命などです。現在では社名が変わっているかもしれません。
 古河市兵衛、明治36年(1903年)死去、享年71歳。
 
注 富士(フジ)は古河がドイツの企業ジ-メンスと技術提携した時、フルカワの「フ」とジーメスの「ジ」を取り合わせて作った商標です。

   参考文献  運鈍根の男、古河市兵衛の生涯  晶文社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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