経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  武士道の考察(78)

2021-06-03 15:10:04 | Weblog
 武士道の考察(78)

(田沼意次 商人資本との連携))
 田沼意次の政策は斬新です。軽率なくらい斬新です。彼は幕府の財政再建のために商人資本を利用します。新田開発、鉱山開発、治山治水における商人資本の導入、一部産業の幕府独占、大商人への営業課税の設定(大資本だけではありますまい、非合法な娼婦個々人からも税金をとっていますから)などなどです。鉱山開発はあまり成果が上がりません。新田開発では印旛沼の干拓が有名ですが、技術上の理由で失敗します。彼は税制に従来の年貢の限界を感じて流通税つまり間接税を主たる収入源にしようとしました。
 しかし産業独占や営業税設置は幕府の手にあまります。現在の税務署がするように、各個人の収入を追跡して確実に把握することは当時の幕府には不可能です。戸籍さえもあやしいものでした。やむなく幕府は各業界の大商人連に株仲間を作らせ、彼らに徴税の義務を負わせました。株仲間は田沼政治の汚職源になったように言われ事実その通りなのですが、この方式は吉宗の時代に始まり、田沼の次の寛永の改革以後にも受け継がれて行きます。慣れない武士が商業に手を出すと、士族の商法か汚職に行き着いてしまいます。加えてこういう政策にはたいてい貨幣量増大が伴うので物価が高騰し、飢饉が頻発し、浅間山の大噴火で関東一円の農村は荒廃し、江戸の打ちこわしという大衆蜂起の前に田沼政権は崩壊します。田沼意次は以後江戸時代を通して最大の悪役になり、田沼と言えばワイロといわれるようになります。実際どの程度ワイロが真実であったのかは解りません。意次個人は美男子で誰にでも愛想のいい美男子であったと言われています。ですから大奥のお局がたには人気がありました。
意次失脚の前後に相模国(神奈川県)の二宮尊徳が小地主の長男として生まれています。尊徳の苦学は有名ですが彼の経済学は破産した家政の立て直しが動機ですから、浅間山の大噴火による財産喪失の可能性もあり得ます。浅間山の噴火はものすごいものでその煙と灰が上空に上がり地球を半周して欧州上空に達し、太陽光を遮って農業不作を招き1789年のフランス大革命の動機になったと言われています。
 最近意次の政治が見直されつつあります。商業資本の導入、間接税の設置などは経済が繁栄するとどうしても必要なものです。農民のみに負担を推しつけるわけにはゆきません。意次が政権に着く前の郡上一揆で幕府は懲りています。また田沼時代に勘定奉行所の役人の数は飛躍的に増加し、以後幕府官僚の養成源になるとともに下級幕臣の昇進過程にもなりました。蘭学が勃興するのもこのころです。北方からのロシア人(赤蝦夷)に備え調査団を派遣します。それによるとエトロフ以南は日本人在住、シムシル島以北はロシア人在住、中間のウルップ島は日露混住でした。意次は北海道の本格的開発を企てます。鎖国を止め各国と通商する計画もあったとも言われております。
(寛政の改革 社会福祉政策への着手)
 田沼意次に代わったのが松平定信です。意次が小納戸役人上がりなら、定信は八代吉宗の嫡孫で将軍職を継ぐところを、意次の陰謀で白河松平の養子に出され、将軍になれなかったとかで、意次には個人的な恨みを持っていたようです。勢力の背景も違います。意次は中下級幕臣を支持基盤とし、定信は溜まりの間詰め大名つまり上級譜代大名をバックとします。あえて言えば革新派対守旧派の構造です。政策も違い二人は天敵です。
 定信が幕府政治において初めて大規模にしたことは社会福祉政策です。江戸の打ちこわしという民衆蜂起を幕府は極度に恐れました。この打ちこわしで死罪は一人も出ていません。本来なら四人や五人の獄門くらい出てもいい反政府的行動です。それができなかったのは、幕府が民衆蜂起を恐れた事と、責任の所在は自分たち為政者がわにあると認識していたからです。だから定信の政治は、清き白河には魚住まず(元の田沼の濁りぞ恋しき)、と皮肉られるほど清廉潔白を看板としました。江戸の零細市民のために幕府と町人双方が資金を出し合い、生活難に備えて福祉資金を作ります。同時に彼は意次の政策の一部を取り入れ、株仲間を保護育成します。業種ごとに大商人(職人も入ります)に団体を作らせ、彼らに物価と物資流通に責任を持たせる制度です。見返りは営業の独占も含む特権です。しかし当時の産業は江戸だけではもちろん、大坂を加えても全国の流通を統制できるには大きくなりすぎていました。株仲間商人は次第に特権団体になり幕府にとってはむしろ邪魔になります。
 定信は北方領土問題を事実上無視しました。意次の命を受けて蝦夷地から帰ってきた使者はその場で免職になり後処罰されています。定信は蝦夷地なぞ開発できるはずがない、放置して自然の防壁とすればいい、と考えていました。
 定信の政策に、寛政異学の禁、があります。異学とは幕府公認の朱子学以外の学問です。特に荻生徂徠の学問は狙い撃ちされた感があります。徂徠学は農地売買の自由・流通貨幣の増大など幕府政治の根幹に当たる部分を突いて批判していますし、徂徠学は詩文も重視し享楽的傾向を持っているのです。意次の時代に活躍した万能の文人、大田南浦(蜀山人)は定信政権になるとすぐ狂歌作成を辞め実直な幕府官僚生活に帰りました。福祉も結構ですがやり過ぎると、パンとサ-カス、思想統制、挙句の果ては独裁政治を招きます。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


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