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日本人のための政治思想史(7) 勅撰和歌集

2014-06-27 02:01:39 | Weblog
(7) 勅撰和歌集
 日本で最初に編集された和歌集は万葉集です。総計4500首余、元明天皇の要請とも言われ、正式には753年橘諸兄が孝謙天皇に命ぜられて編纂に着手したともいわれております。実質的な編者は大伴家持です。政変がからみ万葉集が実際に出来上がったのは9世紀前半です。万葉集は準勅撰集とされています。9世紀後半には菅原道真編集の新撰万葉集が作られます。新撰万葉集は万葉仮名から現在我々が使用している仮名への進化途上の作品です。
 905年に醍醐天皇の勅命で古今和歌集が編纂されました。天皇の勅命による編纂ですので作られた歌集は勅撰集と呼ばれます。編者は紀貫之以下の4名です。以後1205年に後鳥羽上皇の命で編纂された新古今集までの歌集は和歌の最盛期を体現しており、八代集といわれます。古今集、後撰集(村上天皇)、拾遺集(花山法皇)、後拾遺集(白河天皇)、金葉集(白河法皇)、詞歌集(崇徳上皇)、千載集(後白河法皇)新古今集(後鳥羽上皇)です。括弧内の名称は編纂を命じた君主の名前です。以後新勅撰和歌集、続後撰集、続古今集、続拾遺集、新後撰集、玉葉集、続千載集、続後拾遺集、風雅集(花園法皇)、新千載集、新拾遺集、新後拾遺集、そして1439年、後花園天皇の時代の新続古今集でもって、勅撰集編纂の幕は閉じられます。また1381年宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が編纂した新葉集があります。この新葉集は、風雅集以後の歌集に採録される歌が圧倒的に北朝側の歌人の作品で占められていることへの、宗良親王の反撃そして政治的自己主張です。新葉集を勅撰集に入れても構いません。宗良親王の新葉集編纂の目的は明らかに、南朝の正統性の主張です。
 古今和歌集は醍醐天皇の勅命で作られました。その序に、歌でもって天地の神に訴え、人の心を動かすとあります。序は歌集政策の意図の表明です。勅撰そしてこの序文の意を考えますと、古今集編纂は極めて政治的な行為になります。和歌あるいわ言葉でもって帝王は人心と天地万物を支配しようということです。換言すると神としての天皇の統治を正当化し普延するための文化事業として勅撰和歌集が作られました。
 古今和歌集ができた頃、日本語の表記法が確立します。漢文あるいはより面妖な万葉仮名を借りなくても、日本人の心情を言語で表現できるようになりました。古今集ができる20年前に歌教標識という本ができています。これは漢文で書かれた和歌の作り方です。併行して物語が作られてゆきます。竹取物語や伊勢物語は仮名書き文です。古今集の編集者の一人である紀貫之は仮名書きで日記をつけました。自民族固有の言語を持つという事は、政治支配の正統性と政治への帰属意識を確立するための重要な基盤です。このような意義を持った日本語表記発展の画期に古今集の作成があります。
 醍醐天皇の父親である宇多天皇の御代から政治や貴族の生活が儀礼化してきます。儀礼化には政治の形式化という負の側面もありますが、同時に儀礼を共にする共同体形成、そこでの人心交流の円滑化という正の側面もあります。村上天皇の御代から大規模な歌合せが施行されるようになります。これは王権の示威であり、人情の交互応酬であり、男女の協和であり、美意識と言語能力の切磋琢磨でもあります。和歌はこうして、貴族のみならず一般庶民も含めて、文化と儀礼のもっとも重要な手段になりました。和歌作成は貴族の必須の教養になります。後続する武士達も自分達が野蛮人でないことを証明する為に和歌を学びました。
 古今集で歌われる内容は案外単純です。というより一般に詩というものが、表現できる内容はそんなものです。春夏秋冬の四季、恋、別れ、旅、祝いくらいになります。歌詞、歌枕など定型化された言語が作られます。こうして和歌を介して感情の円滑な交流が可能になりました。なによりも詩作能力は言語能力であり同時に論理形成能力であります。
歌語つまり勅撰集に入る和歌に用いられる言葉は厳密に洗練されて作られ、その数は約2000です。この2000という数字には意味があります。米国の中学生が覚えなければいけない単語は2000と言われます。わが国の中等教育で習得する当用漢字の字数は1800弱です。また和製漢語というものがあります。維新以後日本人は外国語特に英語を翻訳して新しい言語を作りました。現在我々が使っている漢語はそのほとんどが和製漢語です。シナの新聞などもこの和製漢語を使用することなく記事は書けません。以上いろいろな側面から検討しますと、2000の歌語が作られることにより歌作従って日本人の情念の表現に必要かつ充分な言語空間、文化空間が作り上げられたと言えましょう。 
 こういう勅撰和歌集が万葉集から新続古今集まで、753年から1439年まで連綿として作られてゆきます。王権の確立期、全盛期のみならずその衰退期においても作られ続けられます。南北朝分裂に際しても相互の側で和歌編纂和歌作成は尊重されます。勅撰集が700年の長きにわたって作られ続けられるということは、その主催者である天皇家の王統の正統性が訴えられ、またそれが承認されていることの証左です。簡潔にいえば、勅撰和歌集の作成は万世一系の天皇制の明確な証であります。南北朝合同に際して、後小松天皇と後亀山天皇の間の血統は玄孫間以上の隔たりがありますが、両統とも和歌集の作成という文化価値を共有し、ですから同族意識を持ち合いました。南北朝の合同など世界の他の歴史にはありません。
 最後の新続古今集以後和歌は衰退したのでしょうか。そうは言えますまい。連歌あるいわ俳諧俳句は和歌の後身です。宗祇も芭蕉も蕪村も一方では和歌に熟達していました。連歌は千載集にすでに載せられています。新古今和歌集の編者藤原定家は晩年連歌を楽しんだそうです。和歌、連歌、俳句の間には密接な連続性があります。
 江戸時代に入り禁中公卿諸法度が幕府により作成されます。幕府としては、公卿朝廷は学問技芸に専念されたらよろしいということだったのでしょうが、幕府により設定された公卿家職は江戸時代の庶民文化に甚大な影響をあたえております。このことについては後に取り上げるでしょう。二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が和歌伝授の家として公認されています。民間にも多くの歌人がいました。代表を挙げると、良寛と橘アケミです。むしろ江戸時代になって実際に歌を作る人口は増えたのかもしれません。俳句があれほど庶民間で流行したのですから。本居宣長、さらに明治に入って、正岡子規などは和歌の復興改革を強く主張しました。現在でも歌壇があり、毎年正月には宮中でお歌会が開催されています。お歌会は王朝時代の歌合せそして勅撰集編纂の延長上にあります。
 和歌、連歌、俳句に関して言うべき重要なことは、詩作が簡単にできることです。一定の教養があれば(多分なくても)和歌や俳句は作れます。5と7の平仮名でもって字句を作り、それをくっつければいいのですから。私も和歌俳句なら、そのできばえはともかくとして作れます。数度遊びで連歌の会を持ったことがありますが、非常にに楽しいものでした。和歌の伝統確立により日本人の詩作、したがって言語能力は飛躍的に向上したといえましょう。勅撰集の意義はそこにもあります。
 なお国歌「君が代は千代に八千代にさざれいしの巌となりてこけのむすまで」は古今集の詠み人知らずから取られています。もっとも古今集では「君が代」は「わが君は」となっており、時代の変遷の中で歌詞が少し変わったようです。
勅撰集編纂の意義は天皇が文化の帝王であり、その帝王が文化を介して天の摂理に訴えかけるという意味では神である事の示威であり証しです。天皇の支配の正統性の主張です。また文化の帝王という形象は天皇像を女性化します。勅撰和歌集は男女の共同統治の暗喩でもあります。和歌の頻繁な使用は民族言語の形成、感情交流の円滑化、民度教養の向上に寄与します。

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