経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、井植歳男

2010-09-21 02:58:09 | Weblog

   井植歳男
 
 三洋電機の創立者です。歳男は松下幸之助の妻の弟、つまり義弟になります。松下を助けて30年、独立して22年の人生を送ります。歳男は1902年(明治35年)、日露戦争の直前、兵庫県淡路島の浦村に生まれました。家は農家ですが、父親の清太郎は農事を好まず、汽船を買って、九州や大陸方面を相手とする運送業と仲買業を営んでいました。歳男の上に姉が4人、下に弟二人(祐朗、薫)と妹一人がいます。歳の瀬に授かった待望の男子なので歳男と命名されました。父親は歳男を可愛がりました。しつけは厳しく、海に放り込まれて泳ぎを覚えさせられ、また畑で取れた野菜を町に売りに行かされました。物を売る事の難しさを覚えさせるためです。父親の仕事は順調で羽振りも良かったのですが、歳男13歳の時に死去します。短い縁でしたが、歳男は父親の印象を強烈に保持しており、誇りに思っていました。勉強は嫌いで、大変な腕拍小僧でした。1917年(大正6年)尋常高等小学校を卒業して、遠縁の船に乗り、運送業に励みます。母親こまつは歳男が船に乗ることには反対のようでした。仕事に就いて3ヵ月後、船が大阪安治川を遡っている時、河畔にあった東京倉庫が突然爆発します。死者43名の大事故です。そのあおりで歳男の乗っている船(20トンの帆船)は焼亡します。歳男と船長は危機一髪水の中に飛び込んで免れます。歳男はすごすごと淡路の家に帰ります。
 同年1917年、歳男14歳時、次女うめのが嫁いでいる松下幸之助が大阪西成の猪飼野で新しく、電気製品の製作販売を始める、というので、松下の会社に入ります。会社・工場と言っても、5-6坪の超零細企業でした。松下は自分の直感に自信をもって周囲の反対を押しきり、それまでの安定した地位(関西電力の検査員)を捨てて、しかもほとんど資金を準備せずに独立しました。松下が自信をもって制作したソケットは全く売れません。二人の社員はやむなく辞職します。松下の親族である歳男はそうもゆきません。内心、とんでもないところに就職した、とほぞをかみます。幸い、というより奇蹟ともいうべきでしょう、ソケットの一部に使用していた煉物が、扇風機の硝盤の材料として最適であることが解り、この煉物だけが大量注文されます。こうして松下は危機を乗り切りました。神風としか言いようがありません。歳男の仕事は材料を鍋に入れて攪拌する事と、丁稚車(大八車?)に荷を載せて運ぶ作業です。私が知る限りでは松下の経営危機は敗戦後の一時期を除けば、これだけで後はすべて上り調子です。
 こうして歳男は松下の片腕になってゆきます。二人の性格とおい育ちは全く対照的です。歳男は親兄弟に恵まれました。父親と早く死別されたとはいえ、父親の薫陶と愛情は身にしみています。母親は長命で、歳男の危機には常に側にいて励ましてくれました。歳男も母親思いで母親を大事にします。兄弟もすべて長命で二人の弟は歳男が三洋電機を立ち上げる時には協力してくれました。松下は30歳までにほとんどすべての親兄弟を失い、天蓋孤独でした。父親は賭博狂であり、母親との連絡も乏しく、松下は自分の家族のことをほとんど語ることはありません。松下は食うに困って9歳で奉公しましたが、歳男にはこの種の生活の危機はありません。当時としては普通水準の教育を受けて、長男の自覚の下に仕事に就きます。松下は体が弱く、時として半年間ほとんど寝たきりの生活もあったようですが、反対に歳男は頑健で、松下の実務面はすべて彼の采配に任されました。松下は秋霜烈日、観念が先走りがちな理想主義者ですが、歳男は春風駘蕩で現実を無視する事のない性格でした。松下の立場からすれば、歳男は実の弟のようなものです。二人の性格は全く違いますが、これが良かったのかも知れません。松下はこの義弟を信頼し可愛がり、自分にない長所を認めて、歳男の行動を認めます。歳男は松下と、唇歯輔車、異体同心の関係を為し、形影相接するような形で、松下と行動を共にします。最初歳男は、としやん、としやん、と呼ばれていましたが、松下が店員から大将と呼ばれるのに対して、若大将と呼ばれるようになります。歳男は松下電器の当初からずっと、松下に次ぐNO2の地位にありました。この間歳男は学問の必要性を痛感し、西野田工業専門学校の夜学に通い卒業しています。歳男と松下の関係が極めて良好であった理由の一つには、次姉うめのの良妻ぶりもあるでしょう。兄と弟・義弟の良好な関係は歴史上多々あります。平清盛と妻時子の弟時忠、足利尊氏と実弟直義、豊臣秀吉と異父弟秀長あるいは妻北政所の弟浅野長政などです。しかし兄弟はいずれどこかでなんらかの形で別れます。
 17歳時、歳男は販路拡張のために東京に駐在します。この間、松下の了解を得て、松下電器の販売に従事する一方、自分の裁量で取引して(松下関係以外の製品を)自分の収入にする事を試みます。例えば東京で売れ筋の商品を自分が販売代理店となって、大阪の商人に取り次ぐとかの行為です。独立したかったようです。商売はかなりな成功をおさめたようですが、関東大震災に見舞われ、大阪に帰ります。しばらくして、兵役に就きます。頑健な身体なので、甲種合格の上に、旅順の重砲隊に配属されます。重い大砲や砲弾を扱う部門ですから、特に体格の良い兵隊が選抜されて、この隊に配属されました。軍隊生活は楽しかったようです。頑健な身体、気さくで楽天的な性格ですので軍隊仲間とすぐ仲良しになりました。二つの逸話があります。旅順小町と呼ばれた女性と相思の仲になり、娘の親から養子縁組を申し込まれたこと。初年兵の時、チフスの予防注射を受けます。しばらく発熱があるので安静臥床を命じられます。初年兵が食事を運ぶ当番でした。やむなく歳男が運びましたが、微熱のためふらふらします。それを二年兵にとがめられ殴られます。倒れるわけにはゆかないので、振り払うと、反抗したとして集団暴行を受けそうになります。歳男は上半身裸になって大の字に寝転び、好きなようにせいと開き直ります。二年兵達は非が自分達の方にあり、もし歳男がチフスを発病すれば大問題になるので、そのまま引き下がります。歳男の勤務成績は非常に優秀で、半年で上等兵の勤務するところに配属されます。加えて除隊に際し上司から、職業軍人になる事を熱心に勧められます。勧めに従っていたら、少佐くらいには成れたでしょう。もっとも正規の士官学校を出ずに少佐になるのは大変なことなのですが。
 除隊後、歳男は松下のために東奔西走します。松下の健康が優れず、実務面は歳男の裁量下にありました。支店の新規開設などはすべて彼が陣頭指揮をします。そのため妻と子供は方々を転々とする生活を送るはめになります。歳男は25歳で結婚しましたが最初の妻は結婚直後急死します。26歳、再び結婚します。名はひで子、松下の妻うめのと同じく糟糠の妻として夫を支えます。松下と歳男の親族は他に多くの婚姻関係を作っています。
 松下時代の歳男の仕事で特記する事が二つあります。まず中尾哲二郎とコンビで作成した、ラヂオです。この分野では松下は後発メ-カ-でした。当時のラヂオは故障するのが普通でした。歳男の作ったラヂオは、価格は少し高いが、滅多に故障しないのが売り物でした。事実よく売れました。この商品で松下の電気機械製造業者としての地位が確立します。つまり高度の技術性を持つ製品を作り出す能力が承認されたわけです。もう一つが船の流れ作業による製造です。戦時に急造の船が大量に要ります。堺と秋田県能代の浜に、レ-ルを引き、下から船を組み立てます。一部できたら前に移動して、その上の構造をさらに組み立てます。それまでの造船の作業は、出来上がるまですべて固定し、出来上がったらそこで綱を離して、一気に進水させるというドック方式でした。歳男は電気製品と同じように船を造ったわけです。松下造船という会社を立ち上げ、社長におさまります。流れ作業による造船という情報はいつの間にか敵の米国でも噂になりました。公職追放まちがいなしの情報です。突然作業が止まります。全院うろうろする中、歳男は上着を脱いで寒中水の中に入り、故障箇所を点検します。周囲の者も社長自らそうするのでやむなく同じようにして水の中に入ります。裸になることが好きな人のようです。
松下電器産業の発展の鍵の一つは代理店の統制に成功したことです。松下の製品を扱う代理店は一店一小売店を原則とさせられます。つまり一つの小売店に複数の代理店が品物を卸すことはできません。歳男はこの代理店統制にも辣腕を振るいます。
 敗戦、時代の状況はがらりと変わります。歳男は松下に継ぐNO2の専務ですから、公職追放に会います。松下電器産業全体として受けた制裁は次のようなものです。財閥家族指定、この措置に会うと自らの所持する資産はGHQの許可なく、使えません。賠償工場指定、アメリカ特にマッカッサ-は日本の製造業の優秀な部分をすべて東南アジアに運び、そこの産業を振興しようとしました。賠償としてこれらの優秀部分は保管され、企業としてはそれらを使えなくなります。軍需補償の打ち切り、政府は戦時中企業の軍需品生産を奨励というより強制し、そのための費用と利潤は補償するつもりでした。GHQはこれらすべてを打ち切りにします。戦争では儲からない事を日本人に教えるためとかの由です。両度の大戦で一番稼いだのはアメリカなんですが。最後が公職追放です。公職といえば公務員のように見えますが、この場合は民間企業の上級職も入ります。戦時中ほとんどの企業は軍需品製造に狩り出されました。また製造業の基礎的部分はなんらかの形で共通点がありますから、軍需品製造だといえばそういう因縁はつけられるわけです。さらにいざ戦争になると、普通な人なら、お国のため、と思い協力します。軍需補償打ち切りで、1/10以上の減資を余儀なくされます。つまり日本の企業規模は1/10以下になったわけです。さすがに松下では戦犯の指定はありません。ちなみに戦犯として処刑された人はA級7名、死刑判決を受けたBC級は1000名に上ります。
 私は、戦争は政治の延長であり、利害計算の最終的調整過程と理解しているので、戦犯という概念自体を否定します。あえて戦犯という言葉を使うなら、それは勝者にとって都合の悪い存在の別名です。歴史において正義の戦争なんかありません。アメリカが日本に科した、上記五種の制裁は、明らかに日本の製造業を壊滅させ、日本(とドイツ)を農業国家にするプランでした。もしその通りになっておれば日本人の生存可能人数は3000万人くらいですから、5000万人は飢え死にしたことでしょう。特に公職追放は日本人エリ-トを根こそぎ壊滅させる作戦でした。アメリカの最大の誤算は、両国の社会体制の違いです。アメリカでは一部のエリ-トが、圧倒的多数の大衆に上に立って威を振るい、トップダウンで指導します。日本は平安鎌倉の時代から、衆議制です。上から下までなだらかに連なる諸階層の衆議と連携で事が運ばれます。ですから一部のエリ-トを排除しても、すぐ下から人材は這い登ってきます。野村證券の奥村綱雄、川崎製鉄の西山弥太郎、日清紡績の桜田武などが好例です。
ちなみにGHQの公職追放の理由はかなり曖昧でありご都合主義です。占領直下の日本では、GHQの出先機関や部隊は、日本の中央及び地方財政から7-8%程度の金額を、直に使用する権限が与えられていました。簡単に言えば、出先の部隊が現地で料亭を借り切り、日本人客を追い出し、芸者を挙げてどんちゃん騒ぎをして、その支払いを例えば大阪府に請求する事ができました。尉官級の軍人でもこの権限を有していました。悲鳴をあげた地方の声に応じて、時の蔵相石橋湛山はGHQに強硬に申し入れ、この制度を一方的に廃止します。湛山和尚の理由は、そんな事をされたら日本人は飢え死にするほかない、です。GHQが石橋を公職追放にしたのはそのせいもあります。
GHQ内部のすべてが、日本産業壊滅を方針としたのではありません。戦時中の大統領は民主党のF・ルーズベルトです。彼は1929年の大不況に応じて、いわゆるニュ-ディ-ル政策を展開します。日本の高橋財政とそれに継ぐ国家統制経済、ナチスドイツのシャハト財政も同工異曲です。これらの政策全体に共通するのは、何らかの形での、経済への国家介入です。いきおいそこには社会主義的傾向があります。アメリカでは社会主義思想は表に出る事が少なく、ニュウディ-ル派がその感情を代表する傾向にありました。民主党政権下、こういう連中が日本にやってきます。彼等は故国でできなかった理想的政策を日本に強要し実験しようとします。彼らの態度は性急で極端で理想主義的で、そして容共的でもあります。戦前日米独の三国は似たような政策を取った、と私は言いました。このうちで一番成果が上がらなかったのが、ニュウディ-ルです。日本にやってきた連中には欲求不満を日本で晴らすという心情があったかもしれません。いずれにせよ民主党政権は日本にとって鬼門です。開戦、原爆投下、敗戦、占領、そして反日的洗脳などすべて米国民主党政権のもとで行われました。現在のオバマ政権も民主党です。
 井植歳男は公職追放で松下を去ります。この時借金が350万円ありました。資産の大部分を占めていた松下電器産業の株が暴落して、ゼロ同然になったからです。主たる貸主は住友銀行です。住友から呼び出しを受けます。覚悟して銀行にゆくと、後に頭取になる鈴木剛から、50万円融資するから何か事業をしないかと提案されます。歳男はこの提案を受け入れ、自分の土地財産を処分して得た70万円を足して、計120万円で新会社を設立します。住友としても350万円不払いで両者ともに損をするより、信用のある歳男に事業をやらせて稼いでもらい、利子ともども返してもらう方が得です。
 歳男は昭和22年、大阪府守口市に6畳ほどの事務所を開きます。三洋電機産業の立ち上げです。「三洋」の名は、太平洋、大西洋、インド洋、の三つの大陸間海洋の名を意味し、歳男が、将来輸出に全力を置く意志の表明でした。守口と兵庫県北条に工場を造ります。北条工場では主力製品として、発電ランプ、を製造します。自転車につけて、自転車をこぐ時出る運動エネルギ-を電気そして光に変えるのです。簡単にできたのではありません。ランプを覆う外側は真鍮で作るのですが、なかなか思うようには整形できません。苦心して作った発電ランプは性能がよく、売れて海外に輸出されました。ほっとしていると朝鮮動乱、軍需品として重要なニッケル地金の輸出をカナダが禁止します。ニッケル鉱石の輸入は可能なので、歳男は国内でのニッケル地金生産を開始します。発電ランプの販売まで時間がかかります。その間無収入ではやって行けません。歳男は当座の資金繰りのためにきわ物も作ります。停電燈は懐中電灯の電力を大きくしたものです。当時停電はしょっちゅうだったので、重宝がられました。もう一つが進駐軍相手の電気スタンドです。落下傘の生地などを利用して笠を作りました。ニッケル輸出禁止で危機に立たされた歳男は単品生産に賭ける事の危険性を身にしみて感じ、家電総合メ-カ-の方向を目指します。
 まず彼が手がけたのはラジオ製作です。安い製品を作ります。木の枠組みをプラスティックのそれに変え、値段を1万円以下に抑えて製造販売します。この時積水化学の技術陣の全面的な協力がありました。次に洗濯機製造を試みます。先発メ-カ-はすべて攪拌式でした。ここで歳男は住友銀行の頭取鈴木剛から、噴流式というものがあるという、重大な示唆を受けます。攪拌式洗濯機では、大きな羽が洗濯物をかき混ぜて洗います。もみ洗いです。噴流式では、水を激しく洗濯物にぶちあてて洗います。さらし洗いです。洗濯物に傷がつきにくいこと、丸型の攪拌式に比し角型の噴流式は場所を取りません。さらに攪拌式では水が飛び散り、床の上には置けません。歳男はここで噴流式洗濯機製造に舵を切り替えます。必死の努力で、昭和28年、28000円の洗濯機販売に漕ぎつけます。当時洗濯機の価格は5-6万円、庶民には高値の花でした。3万円以下ならなんとか買えます。販売量が上がればコストを切り下げられるので、いよいよ価格は下がります。噴流式洗濯機が発売された昭和28年を、歳男は「家電元年」と名づけます。噴流式洗濯機の発売には、さすがの松下幸之助もショックだったようで、ライヴァルとして断ち現れた三洋にかなりな程度感情的になります。以後すべての家電メ-カ-は噴流式に切り替えます。家電総合メーカ-として、三洋電機は、電気冷蔵庫、電気掃除機、電気炊飯器、ル-ムク-ラ-、電子レンジ、皿洗い機、更にト-スタ-、ジュ-サ-、ミキサ-、ロ-スタ-、電気ポットなどを作り続けます。変ったところでは、左開きの電気冷蔵庫、ろくろ首のような扇風機(上下方向の調節可能)があります。もちろんTVも製造します。1955年(昭和30年)10万円を切るTVを製造してTVの大衆化に貢献します。昭和34年に関東に進出し、利根川河畔の大泉町の旧中島飛行機工場をそのまま買収し、製造拠点のひとつにします。そのとき歳男は中島知久平の家を訪れ、中島の霊前に線香を捧げています。以下に三洋電機の業績発展を数字で示します。
  
          資本金      売上高      従業員数
昭和25年    2000万円      6億円      400名
昭和44年     300億円   2600億円    22000名

 1969年(昭和44年)肺癌で死去、享年66歳。早すぎた死ではあります。虚弱な幸之助が90歳を超えて長命し、頑健で社内の誰にも相撲で負けたことのない歳男が、比較的早く死去するのも運命でしょう。
 歳男が松下から独立した動機はいろいろ憶測されています。私は、歳男が独立したかったからだと思っています。なるほどかれは義兄幸之助に忠実でした。しかし彼の性格は不羈奔放そして機略縦横です。20歳前後ですでに独立を志した事もあります。それ以後は大不況、戦時体制、そしてなによりも松下の業績が下降する事無く一本調子の上り坂なので独立するチャンスがなかったのかもしれません。
 歳男の基本戦略は、庶民が容易に買え利用できる製品の製造にあります。家電はその点では歳男の好みに最もあう品物です。そして三洋が軌道に乗る昭和20年代末から30年代そして40年代前半は、日本経済の高度成長期であり、家電は内需輸出ともにリーディングインダストリ-でありました。歳男が死去した、昭和44年はこの高度成長時代の末期になります。以後40年経ちます。数ヶ月前経営不振に悩んでいた、三洋電機は解体され家電部門は松下に吸収合併されます。以前私は、三洋電機担当の電通営業マンから、三洋の製品は優秀なのに、どうしても安売り家電三洋のレッテルがとれない、ときいたことがあります。また三洋は液晶や太陽電池でも良い技術を持っています。しかしどこかワンポイントタイミングがずれているような気もします。秋霜烈日と春風駘蕩の差でしょうか。

 参考文献
   井植歳男の事業と人生   日本実業出版社

(付)家電は成長産業の座を降りて久しいといわれます。技術的にはもう発展途上国のそれとたいして違わないともいわれます。しかし日本人が買う家電製品はほとんどが日本製品です。どうなっているのでしょうか?中国や韓国あるいはアセアンなどの製品がそれほどのものなら、彼らのブランドで日本で販売できるはずですが。自動車にしても日本では日本車ばかり、現代の車は三桁を越えていません。

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