経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、太田垣士郎

2011-02-21 02:53:19 | Weblog
      太田垣士郎

 関西電力社長として会社経営を立て直し、関西財界の大御所となった太田垣士郎の、歴史的存在意義は、戦後の労働攻勢に対処する中で経営者の主体性を回復させた点にあるようです。この視点を強調しつつ彼の生涯を振り返ってみましょう。士郎は1894年(明治27年)兵庫県北、湯の町城崎で生まれました。父親は医師でした。生来健康でやんちゃな性でしたが、11歳の時、ふとしたはずみで割びょう(押しピン)を飲み込みます。びょうは気管の中にひっかかった状態で停まります。当時の医学ではこのびょうを取り出すことはできません。士郎は始終発熱に悩まされる、多病な虚弱児になります。豊岡中学に進学しますが、学校も休み勝ちで3年遅れます。17歳の時、これもふとしたはずみで咳き込み、びょうを吐き出します。こうして比較的健康になりました。しかし血痰には以後30年悩まされます。熊本五高そして、京都大学経済学部に進みます。あまり勉強する方ではなかったようです。茶屋や遊郭が好きで、そこから通学することもあり、明朗で快活、ガキ大将と仇名されます。
 1920年(大正9年)京大を卒業し、日本信託会社に入社します。後の同名の会社と異なり、この会社は株式や債権の売買をする会社でした。あまり仕事に身が入らなかったらしく大正14年31歳時、電鉄会社阪急に入ります。阪急という会社は大学卒社員の教育の一環として、現場の体験をさせます。実地に電車を動かし、車掌として勤務します。調査課、そして庶務課、さらに宝塚劇場などを勤務させられます。宝塚時代、小林一三に、劇場勤務なら宝塚の女優の名前と顔は全部知っておいて当然、と叱られます。小林という人は今太閤といわれた智恵者で精力にあふれた経営者でした。46歳百貨店営業部長、ついで運輸部長、50歳京阪電車と合併した新会社の取締役営業局長になり、戦後の公職追放で、幹部役員総退陣の中、1946年(昭和21年)に53歳で京阪神急行(阪急)の社長になります。
 阪急の社長として最大の仕事は、戦後の混乱からの立ち直り、特に組合対策でした。戦後のインフレで組合からの賃金上昇圧力は日増しに強くなります。ストは頻発します。一時期全支出の80%が賃金になりました。ここで戦後の労働組合について概観してみましょう。GHQは戦前の日本の政治経済はすべて封建的であり軍国主義的であると断じ、そのすべてを否定しようとしました。戦争放棄、2200名におよぶ公職追放、財閥解体、産業の非工業化などです。アメリカにもあてはまる現象に対して、日本のそれを一方的に非難します。報道統制も厳しく、忠臣蔵などは昭和26年まで公演が禁止されていました。そういうわけでGHQは左翼、共産党を民主主義勢力と信じ込みます。共産党もGKQを解放勢力と規定し、司令部の前で歓迎のデモを行いました。GHQと日本共産党がお互いを誤認した結果の滑稽な蜜月です。ですからGHQは、ソ連が東欧諸国を衛星国化する1948年くらいまで、日本の左翼と労働組合を徹底的に支持する態度を貫きました。最強の権力であるGHQ(駐留軍最高司令部)の後押しがあるので、労働組合は強気です。特にGHQ内部のニュ-ディ-ル派は左翼に好意的でした。戦時中の抑圧への反動、戦後の生活難もあり、労組の要求は過激でした。賃上げ、労働条件の改善、経営への参加、ユニオンショップ制、などが要求されます。特に左翼は経営参加を実現して、日本の産業を乗っ取り、国制を社会主義化するか、あるいは企業を全滅させて、マルクスが説く暴力革命を実現させようとしました。そういうわけですから話し合いができません。団体交渉も暴力的になります。怒号が飛ぶなどはましな方です。役員がつるし上げられ、殴られ、頭にタバコの火を押し付けられることもありました。工場施設は占拠されます。施設の一部が勝手に売却されたこともあります。士郎の家の中に女子組合員が入り込んできて、味噌のふたをとってまでして、その生活ぶりをチェックするようなこともありました。役員は怖くて組合に手が出せず、逃げ回っていました。特に読売新聞、東芝、東宝の争議が有名です。この時期争議に襲われなかった大企業はありません。
 士郎が1946年(昭和21年)に阪急の経営を受けついだとき、状況はこんな具合でした。ともかく全支出の80%が賃金では経営は不可能です。士郎の対処はまず、とことん話し合う、です。できる事はできる、できない事はできない、出せるものは出す、出せないものは出せない、です。こうしてあくまで合理主義の筋を通します。組合の高圧的態度に怒らず、交渉の結果を焦らず、組合員の暴力を恐れず、で通します。ついで組合の分断を計ります。当時阪急電車と阪急百貨店は同じ会社でした。両社を別会社にします。あまりにストが多く、電車が停まるのみならず、デパ-トも休業になるので、顧客の不満は溜まっていました。ついで京阪電車を阪急から切り離し別会社にします。国鉄と競争しなければならない阪急と、そうではない京阪では資本投下の必要度が違います。いずれにせよ組合は大きくなり、全国的規模になるほど強くなります。士郎は対して、経営の合理化を訴えて、会社の規模を適正にして、組合の規模も小さくなるようにしました。経営の合理化を訴え、組合の規模を縮小させると、話し合いも円滑になります。組合員のほとんどは非政治的であり、生活難から組合を支持しているのであり、会社が潰れればたちまち生活に困る事は知っていました。こうして組合の過激分子(上部団体から派遣されてきた活動家に指導された)と一般組合員を分断します。阪急電鉄は私鉄総連という上部団体に属していましたが、私鉄総連は過激な団体として有名で、ストは日常茶飯でした。私も春になれば電車が停まったのを覚えています。士郎の仕事の最大のものは組合への対処でしょう。こういう中(労働攻勢への対処は経営者にとってはストレスに満ちたものです)士郎の長男と長女は亡くなります。士郎は、子供の分まで働くと決意します。
 1951年(昭和26年)57歳時、士郎は請われて関西電力の社長に就任します。周囲の人は、火中の栗を拾いにゆくようなものだ、やめときなさい、と言いました。電力会社の労働者は全日本電気産業労働組合(通称電産)に組織されており、この組合は国労と並んで、全国一強力な労組として有名でした。電力業界は、日本一強い労組と日本一弱い経営者だ、と言われていました。士郎はやむなく関西電力に赴いたのではありません。そこには彼の決意のようなものがあります。就任当時関電の労組はストを頻発させ、停電はしょっちゅうでした。関西停電KKと言われ揶揄されていました。
 電力会社の歴史を必要な事項に限って概観してみましょう。昭和16年、全国の電力会社は日本発送電に統一され、その配下に各配電会社が組織されていました。つまり発電送電は国営、配電は民営ということになります。すこし荒っぽい言い方ですが。戦後昭和26年九ブロックの電力会社に分割され民営化されます。民営化とブロック化をめぐって士郎は昭和25年の参院電力特別委員会で公述人として特に次のように意見をのべています。この意見は彼の関電経営の骨旨をなすものです。士郎は電力会社の問題点として、責任の帰属があいまいであることと、経営のプ-ル制を批判します。発電と配電の関係が分離されていました。配電会社が電力を欲しいと思っても、自力で資源を開発できません。上部組織である日本発送電の仕事になります。ですから電力の需給は常に不安定です。経営プ-ル制なので、赤字でも他の会社の黒字を回してもらえると期待します。自ら黒字を生もうという努力は薄れます。
 電力会社の社会的任務は安定した電力供給です。士郎は需要者重視に徹しました。電力を安定して供給しようとすれば、電源の開発が必要です。労務対策も同様です。電源開発のためには、使用料金の値上げも必要になります。賃金も経営可能範囲でしか支払えません。昭和26年の着任早々に、丸山発電所などを造ります。資本金17億円の会社が110億円の電源開発事業を行います。電気料金値上げは世間の猛反対に会いましたが、押し進めます。足らないところは世界銀行からの融資で賄います。当時の日本の経済は外資を導入するには不安定で規模も小さかったのですが。開発の圧巻が1956年(昭和31年)に着手された黒部川渓谷の黒部第四発電所(25万KW)です。発電所建設の資材を麓か運ぶのではなく、山の中に3500mのトンネルをぶち抜いて一気に現場まで資材を運ぶ計画を士郎は推進しました。トンネル工事中80mに及ぶ破砕帯にぶつかります。そこに至ると岩石は崩れており、砂混じりの土質で水が間断なく流れてきて工事ははかどりません。関電も士郎ももうおしまいだなと言われました。士郎はあらゆる専門家の知識を動員して切り抜けようとします。太い鉄管を破砕帯に押し込み、それを繋げて、工事を進めました。この鉄管だけで、8億円かかったといわれています。この難工事は社会のロマンをかき立て、「黒部の太陽」という映画ができました。多分石原裕次郎主演のはずです。
 電源開発は電源開発として重要ですが、この事業には組合対策の意味もあります。電産(日本電気産業労組)は全国組織として強力でした。団体交渉は経営者総体と電産が一括して行い、各電力会社はそれを傍観するだけでした。統一交渉、統一賃金です。士郎は、自分の会社の賃金を自分で決められないのはおかしいと主張し、関西電力KK独自で、会社と関電労組の個別交渉に持ち込みました。当然猛烈な反対が起こりますが、士郎は強行します。この企てが成功するためには、関電一家という一族意識・連帯感が必要です。このロマンを醸成するためには、黒部開発のような積極的姿勢が必要であったと思います。また電源開発に成功することにより、社内での士郎の像をカリスマ化できます。労組問題を離れても、電力会社の人事構成は複雑でした。こうして士郎は電産という強力な労組の全国組織を割ります。他の会社もそれに続きます。ちなみに電産はこの事態を恐れて、電力会社の九ブロック案には猛反対でした。この案を強力に推し進めたのは松永安左衛門と木川田一隆でした。各列伝を参照してください。士郎の就任には松永の意向も強く反映されています。
 士郎が会社の不用品を調査したら79億円分ありました。交通が発達しつつある当時でも各発電所は独自に資材を貯蓄していたのです。人員整理も行います。向こう4年間は大学卒を除いて採用は中止になります。多すぎる部と課を整理し減らします。余った部下長は地方の支店や発電所に派遣されます。実態を調査し、報告は社長にのみなされるようにします。社長じきじきの監察組織、一種の隠密、お庭番です。顔パスと盗電を廃止します。顔パスとは、電力会社の従業員の電車料金はただという慣行です。電鉄会社は電力の大手需要者なので電力会社とは密な関係にあります。盗電は、電力会社の従業員は一定の値段で、無限に電力を消費できる慣行です。士郎はこの二つの慣例をともに、不正と断じて廃止しました。これも労組対策が成功したからできたのです。労組とはやっかいなもので、従業員の意思発出と生活擁護のためには必要ですが、闘争すると企業破壊的になり、おさまっていると利権を擁護してマフィア的になります。尼崎市のとなりに日本第二の大都市がありますが、そこの労組が典型です。
 昭和31年関経連(関西経済連合会)の会長に就任します。34年関電社長を退いて会長になります。以後関西財界の大御所として、幾多の公職を歴任します。特に近畿の繁栄は彼の念願でした。彼の経営姿勢には他に二つの特徴があります。彼は常務会を設置して、常務以上の役員の会議に事実上の決定権を持たします。経営は社長や一部役員のかんと経験によるのではなく、衆議を聞いて衆議を集め、経営するべきだと、士郎はこの合理主義を主張します。この経営姿勢は彼の師匠ともいえる小林一三の姿勢への批判になります。もう一つが経済運営に与える、政治の影響力の重視です。公共投資など政治は経済に深刻な影響力を持ちます。東京の財界人と比べて大阪の財界人は、この政治の影響を嫌い排除する傾向がありました。小林一三はその典型で、徹底した自由経済主義者でした。ここでも士郎は小林の方針と異なる道を歩みます。政治の重視にはもう一つの意味があります。戦後大阪財界の地盤沈下が言われます。戦後のみならず戦前から地盤は沈下しつつありました。なにしろ統制経済ですから、首都東京にいないと情報がつかめません。政府の意向を素早くキャッチしてそれに対応する必要があります。戦後はGHQ万能です。佐官級の中堅将校の意向一つで大会社はふっとびかねません。下手をすると投獄されます。そこまでゆかなくても、GHQの意向に反する者は容赦なく追放されます。戦前から戦争に反対して小日本主義を主張してきた石橋湛山が追放されたのが格好の例です。官僚そしてGHQと権力が東京に集中する中、相対的に大阪の地盤は沈下します。戦前では大阪の方が経済力は優れていました。そういう事情を知悉していた米軍は東京より大阪に爆弾の雨を多く降らせました。士郎の政治力重視には、そういう思いもあります。
彼の経営姿勢を表現するに相応しい彼自身の言葉があります。労組対策に際して「怒らず、焦らず、恐れず」があります。関電の社長になった時、ボロ会社に入ってといわれる中、「危機を乗り越えることによって、会社は成長する」といいました。黒部開発で破砕帯にぶつかった時、「リスクのない仕事はない」と言っています。
 太田垣士郎という人の経営を見ていますと、冷静で沈着な(沈鬱とさえいえる)抑えられた情熱と攻撃性を感じさせられます。日本窒素の野口遵やオムロンの立石一真のように表にあらわれたものではありませんが、彼の攻撃的情熱には大きいものがあります。小林の意向を排して、関電に自ら赴いたのはその典型でしょう。これは小児期にびょうを飲んで多病な時期を送ったこと、さらに戦後の経営危機を乗り切るとき二人の子女を失ったことも関連しているようです。1964年(昭和39年)71歳で死去、脳出血でした。

 参考文献 怒らず、焦らず、恐れず  太田垣士郎伝    ぺりかん社

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