武士道の考察(15)
(蝦夷人との戦闘)
律令の軍制と武士の戦闘習慣は全く違います。律令の兵制は歩兵中心です。農民から徴募して鍛えます。しかし無理やりに兵隊にされるから、戦意は乏しく強くない。数のみ負い。欠点は蝦夷との戦闘でいやというほど体験させられます。蝦夷人は騎兵を駆使します。武士の戦闘技術は彼らから学ばされました。頭数のみ多い軍団制に代わり、地方の有力者である郡司の子弟を中心に少数精鋭の部隊が作られます。軍事は富裕だから、訓練に専念でき装備の心配はありません。しかし数が少ない。一国でせいぜい100から20の数をそろえられるという程度です。彼らは富裕だから馬を飼えます。騎兵になる資格は充分にあります。739年の藤原弘嗣の乱では、西国の郡司子弟からなる騎兵集団が勝敗を決めました。
日本の国の版図が津軽海峡まで進出したのは、12世紀後半源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時です。それまで奥州、白河以北の地は半分以上外国でした。律令政府は七世紀中頃の阿部比羅夫をかわきりとし、何度も蝦夷へ征討軍を派遣します。709年巨勢麻呂、720年多治比県守、724年藤原宇合、737年藤原麻呂を奥州に征討使として派遣します。特に八世紀後半から九世紀前半の光仁桓武朝は危機的状況で、780年藤原継縄、782年大伴家持、788年紀古佐美、791年と794年には大伴弟麻呂、801年坂上田村麻呂、811年文屋綿麻呂、と30年間に六人の大将軍が七回派遣されています。すべて苦戦難戦でした。従軍の主力は奥州に隣接する関東地方の兵士です。彼ら特に指揮官クラスの郡司層は蝦夷人との闘いで多くの戦術を学びます。ところで我々は蝦夷蝦夷と言いますが、蝦夷人は当時の畿内西国の人間と同じなのか、全く別のたとえばアイヌ人のような人種なのかは不明です。律令体制から逃げ出して現地に土着した連中も多かったようです。
(注)「蝦夷」を「えみし」と称するのか「えぞ」というのかも曖昧です。古代には「えみし」という呼称が主流でした。なお江戸時代初期には津軽藩や南部藩には蝦夷人がまだいたようですが、次第に主流である日本人に同化されたということです。
(騎射戦術)
日本人が蝦夷人から学んだ最も重要な戦術は騎射です。馬に乗るだけなら少しの練習でなんとかなります。馬上太刀を振りまわすのもやればできる。しかし馬に乗り走りまわりながら矢を放つとなれば、これは難しい。目標に命中させるのは非常に難しい。逆にこの戦術をマスタ-すれば敵には非常な脅威になる。馬は人の三倍以上の速度で走ります。弓矢の実効射程は10メ-トルから20メ-トル。歩兵は刀槍を持って接近する間に射殺されます。騎馬は走り廻るから相手からは狙いにくい。側面や背面にまわりこみ、近づいたり遠のいたりも自由自在。騎兵は移動能力が高く、好きな地点に部隊を集結でき、騎馬の突進力を利しての密集突撃も可能です。軍の機動力が飛躍的に増大するこの戦術に、朝廷の軍隊は翻弄されます。騎兵を大規模に駆使してユ-ラシア大陸を制覇したのがジンギスカン率いるモンゴル軍でした。古代日本には騎兵はいない。五世紀半ば倭国の軍隊は朝鮮半島の北部にまで進攻し、高句麗の広開土王の率いる騎馬軍に大敗を喫します。
(騎馬と封建制)
朝廷は服属した蝦夷人を内地(白河関以南)に分散して集住させました。現地での反乱を防ぐためです。彼らを俘囚と言います。俘囚もよく反乱を起こしましたが、内地の日本人は彼らから騎射を習いました。なぜ日本で騎兵あるいわ騎馬武者が兵制として発達したのかには、一考を要します。同じ農耕民族で北方の遊牧民族に散々やられ何度も侵入占領された、漢民族ではそういう事は起こっていません。中国の地形の方が騎馬には向いているのですが。日本で騎兵が主力となったことは、武士の成長による封建体制と密接なかかわりがあります。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社
(蝦夷人との戦闘)
律令の軍制と武士の戦闘習慣は全く違います。律令の兵制は歩兵中心です。農民から徴募して鍛えます。しかし無理やりに兵隊にされるから、戦意は乏しく強くない。数のみ負い。欠点は蝦夷との戦闘でいやというほど体験させられます。蝦夷人は騎兵を駆使します。武士の戦闘技術は彼らから学ばされました。頭数のみ多い軍団制に代わり、地方の有力者である郡司の子弟を中心に少数精鋭の部隊が作られます。軍事は富裕だから、訓練に専念でき装備の心配はありません。しかし数が少ない。一国でせいぜい100から20の数をそろえられるという程度です。彼らは富裕だから馬を飼えます。騎兵になる資格は充分にあります。739年の藤原弘嗣の乱では、西国の郡司子弟からなる騎兵集団が勝敗を決めました。
日本の国の版図が津軽海峡まで進出したのは、12世紀後半源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時です。それまで奥州、白河以北の地は半分以上外国でした。律令政府は七世紀中頃の阿部比羅夫をかわきりとし、何度も蝦夷へ征討軍を派遣します。709年巨勢麻呂、720年多治比県守、724年藤原宇合、737年藤原麻呂を奥州に征討使として派遣します。特に八世紀後半から九世紀前半の光仁桓武朝は危機的状況で、780年藤原継縄、782年大伴家持、788年紀古佐美、791年と794年には大伴弟麻呂、801年坂上田村麻呂、811年文屋綿麻呂、と30年間に六人の大将軍が七回派遣されています。すべて苦戦難戦でした。従軍の主力は奥州に隣接する関東地方の兵士です。彼ら特に指揮官クラスの郡司層は蝦夷人との闘いで多くの戦術を学びます。ところで我々は蝦夷蝦夷と言いますが、蝦夷人は当時の畿内西国の人間と同じなのか、全く別のたとえばアイヌ人のような人種なのかは不明です。律令体制から逃げ出して現地に土着した連中も多かったようです。
(注)「蝦夷」を「えみし」と称するのか「えぞ」というのかも曖昧です。古代には「えみし」という呼称が主流でした。なお江戸時代初期には津軽藩や南部藩には蝦夷人がまだいたようですが、次第に主流である日本人に同化されたということです。
(騎射戦術)
日本人が蝦夷人から学んだ最も重要な戦術は騎射です。馬に乗るだけなら少しの練習でなんとかなります。馬上太刀を振りまわすのもやればできる。しかし馬に乗り走りまわりながら矢を放つとなれば、これは難しい。目標に命中させるのは非常に難しい。逆にこの戦術をマスタ-すれば敵には非常な脅威になる。馬は人の三倍以上の速度で走ります。弓矢の実効射程は10メ-トルから20メ-トル。歩兵は刀槍を持って接近する間に射殺されます。騎馬は走り廻るから相手からは狙いにくい。側面や背面にまわりこみ、近づいたり遠のいたりも自由自在。騎兵は移動能力が高く、好きな地点に部隊を集結でき、騎馬の突進力を利しての密集突撃も可能です。軍の機動力が飛躍的に増大するこの戦術に、朝廷の軍隊は翻弄されます。騎兵を大規模に駆使してユ-ラシア大陸を制覇したのがジンギスカン率いるモンゴル軍でした。古代日本には騎兵はいない。五世紀半ば倭国の軍隊は朝鮮半島の北部にまで進攻し、高句麗の広開土王の率いる騎馬軍に大敗を喫します。
(騎馬と封建制)
朝廷は服属した蝦夷人を内地(白河関以南)に分散して集住させました。現地での反乱を防ぐためです。彼らを俘囚と言います。俘囚もよく反乱を起こしましたが、内地の日本人は彼らから騎射を習いました。なぜ日本で騎兵あるいわ騎馬武者が兵制として発達したのかには、一考を要します。同じ農耕民族で北方の遊牧民族に散々やられ何度も侵入占領された、漢民族ではそういう事は起こっていません。中国の地形の方が騎馬には向いているのですが。日本で騎兵が主力となったことは、武士の成長による封建体制と密接なかかわりがあります。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社
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