経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

武士道の考察(53)

2021-05-09 16:51:53 | Weblog
       武士道の考察(53)

(縁起無我)
 釈迦の教えの根本原則である「縁起無我」は、人間の苦悩は生老病死であり、それは人間が存在すること自体により、さらに、存在することに伴う愛執怨嫉の感情に、生存や存在を感受し意識することに、この感情や感性に従って行動することにあり、そして突き詰めれば苦悩・生存・感情・意識・行為に巻き込まれて肝心なことに無知であること、にあると説きます。この種の無知を仏教では、無明、と言います。だから我々は無明という無知から脱却しなければいけません。そのためには心身を構成し行為に駈りたてる要因が自明当然不動のものとしては存在しないことを知る必要があると釈迦は説きます。これらの要因を「我」と称し、この我は本来存在しない、我は自律的存在ではないのだ、「無我」なのだ、一切は無我と悟った時人間は救われるのだ、と釈迦は言います。苦悩-存在-感情-感性-意識-行為-無明というつながりを理解し、無明を自覚することにより、逆に苦悩は消滅すると言うのです。繋がりを、縁、と言い、一切の現象は縁により起こると洞察し、縁は無我の自覚により断ち切られ、苦悩からの解放が起こる、が釈迦の説くところです。以上の論理の過程を簡約総括して「縁起無我」と言います。釈迦の教えの核心は、無明を知でもって自覚しきること、にあります。仏教はこのように極めて知的な営為です。同時に釈迦は教団を作り、統御のための戒律を定め、仏教の修行法として禅定を勧めました。釈迦の仏教は、無明の自覚、教団形成、禅定の習練からなります。
 釈迦の後継者たちは二つの方向を執ります。一つは知的理解の方向です。一切の現象を構成する要因である「我」を「法」と置き換え、この法の分析に力を注ぎます。五位七十五法に法を分析し、その一つ一つを理解することにより、無明を自覚し洞察して解脱の境地に至ろうとします。この部派仏教と言われる諸学派の成果がアビダルマ論です。後年小乗仏教と貶称されましたが、彼らの貢献は決して小さいものではありません。他の方向をとる人たちは崇敬する釈迦との直接の出会いを求めます。自己を変容させ、自己を他者との境界を消去することにより、自己の限界を乗り越えて、釈迦の存在に迫ります。救済へのこの態度を「般若(はんにゃ)」と言います。アビダルマ論は「有」的存在であるいわば原子である法を承認します。対して般若を求める人たちは自己の存在を他者との関係へ解消しつつ、自己をも他者をも包括して「空」と自覚します。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


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