経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本史短評、大岡忠相と徳川吉宗

2020-05-31 13:50:20 | Weblog
日本史短評、大岡忠相は徳川吉宗

大岡忠相は41歳で町奉行に就任しています。吉宗将軍就任1年後の事です。以後20年間町奉行を続けています。本文にも書きましたようにこの長さは異常です。寺社奉行は大名職なので町奉行は旗本の就く行政官では最高位です。吉宗は自分を将軍に建ててくれた老中たちに遠慮して、綱吉家宣政権で実力者であった側用人(大名職)を置かず、旗本職の御用取次(側衆)に替え、紀州から連れてきた有馬氏倫と加納久通を側衆に任じました。吉宗は実際の政治をこの二人の側衆と三奉行でやりました。三奉行の内寺社奉行は形式的で譜代大名の出世コ-スでしかありませんし、当時も勘定奉行は一格下に見られていましたから、町奉行は実務官僚の中で最高官になります。ということは、大岡忠相は最初から吉宗政権に深く関係していたと言えましょう。町奉行は重職です。単に江戸市内の治安警備だけでなく、本文に述べたように江戸の物価政策にも関与します。簡単に言えば江戸の物価が上がれば打ちこわし(暴動)が起きます。だから江戸の治安に責任を持つ町奉行は当然経済政策に関与してきます。こういう重職を20年大岡は務めました。
 特に元文の貨幣新鋳は幕府の貨幣政策で成功した初めてものです。この新貨幣鋳造は金貨の中の金含有量を減らし、そしてそのことを公開します。また新旧の貨幣を金の量目でもって価値を計り交換しました。この措置は二つの事を結果します。まず貨幣量が増大します。次に金に対する銀の価格が安くなります。前者は好景気を結果し、後者は米価を引き下げます。米は大坂から江戸に搬入されていました。金高銀安になると大阪からのコメの値段は下がります。吉宗政権は始め、年貢増徴、通貨改良(小判等の金銀含有量を増やすこと)などをやってことごとく失敗してきました。そしてこの元文の新鋳です。この政策を大岡は主導しました。彼の器量と将軍の信頼の篤さが解るというものです。
 吉宗は1745年に引退し将軍職を長子家重に譲りますが、その際大岡は吉宗から重大なそして内密の相談を受けています。家重相続には多くの反対がありました。家重には言語障害という重大なハンディがありました。ですから多くの関係者は吉宗の次男田安宗武を押しました。この宗武は極めて優秀な人物で国学や狂歌の世界でも一派をなすほどの文化人でした。しかし吉宗は家重という不肖の息子が可愛くてたまりません。加えて嫡庶長幼の順というものがあります。吉宗は家重後継の事と、自分が30年間に敷いてきた政策の一貫性を引退の後にも保持したく思います。ここで邪魔者が出てきます。勝手係老中(従って老中首座)の松平乗サトです。彼が勘定奉行神尾春央(百姓と胡麻の油は搾れば絞るほど云々、の名文句を吐いた能吏です)と組んで次第に幕府を牛耳り始めていました。二人とも有能ででした。別に乗サトが反逆を企てたと言うのでもありません。ただ乗サトも宗武擁立派でした。家重襲封となると、乗サトの専権はいよいよ強化されます。ここで吉宗は乗サトを罷免します。そして安心して家重に将軍職を譲ります。この陰謀と言っても良い相談、吉宗死後の事、などなど内密の件に関して大岡はすべて吉宗の相談にあずかっています。こうなると大岡は一介の実務官僚ではありません。れっきとした懐刀謀臣です。初代家康の謀臣本多正信のような存在です。
 大岡忠相の幕政における主要な仕事は、財政具体的には物価の安定でした。前記したごとく大岡の主敵は大坂の両替商(金融資本)でした。20年間大岡は戦い、最後には寺社奉行という閑職に追いやられます。1751年吉宗と忠相はほぼ同時に亡くなります。運命ですがこれを君臣水魚の契りと言うのでしょう。
 吉宗は名君です。徳川将軍15人の中で一番人気が高い将軍です。理由はいろいろあります。まず武勇を愛する武断派でありつつ荻生徂徠の極めて先進的な政見に興味を示し、公事方御定書という日本最初の民法法典」(ひょっとすると世界で初めての)を制定します。政策の施行は柔軟です。吉宗が怒った言葉を吐いたのを見た人はいないというくらい性格の安定した人物でした。そして長男家重への愛情も深かった。これには事情があります。家重を産んだ側室お須磨の方は早く死にます。吉宗はこのお須磨の方が忘れられず、側室に彼女の有縁のものを探すように言います。有縁の女性はいましたが、御面相は良くありません。側近がその旨告げると、女は器量などどうでもいいい・温和で嫉妬深くなければ良い、と言います。その新たな側室との間にできたのが次男の宗武です。かく愛情深い反面、松平乗サトにしたような謀略も平気で行います。だいたい紀州徳川家の三男で美濃の小大名だった吉宗が兄二人の頓死にめぐり合わせて将軍になれたのも不思議と言えば不思議です。吉宗は将軍直属の諜報機関「御庭番」を作りました。吉宗の時代は元禄から田沼時代に移行する過渡期でした。だから政策も試行錯誤の連続です。吉宗のような人物だからこそ時代の危機を乗り越え得たのでしょう。
 ちなみに吉宗は自分の子供(将軍家重以外)の子供に田安と一ツ橋の両家を作り与え、将軍家嫡流の血統が絶えた時この両家(加えて9代家重の子供の清水家)から出すように指示しています。御三卿と言います。田安宗武の子供が松平定信です。
 大岡忠相と田沼意次を比較した時面白い事にきづかされます。大岡はせいぜい1万石の大名、寺社奉行と奏者番に留まりました。意次は次に述べるように老中と側用人を兼ね実質的に専権を行使します。時代の差もありましょうが、主君である将軍の違いもあります。吉宗は強い自己の意志と政見をもった君主でした。意次の主君は身障者家重そして坊ちゃんである家治でした。主君の違いが大岡と田沼の位置の違いに反映されています。
 なお大岡忠相の裁判をドラマ化したお話が以後出回りました。名奉行大岡越前守の裁判を舞台にしたお話です。代表的なものに、「天一坊」、「白子屋お熊」、「髪結い新左」、「煙草屋喜八」、「村井長庵」などがあります。そのほとんどは能吏大岡忠相に仮託した作り話です。
 吉宗の治世で忘れてはいけないのは「「江戸城御庭番」の設置です。監察期間としては目付・大目付がありましたが、彼らは行政官僚化し本来の監視機能は衰退していました。吉宗は紀州以来の武士を登用し、彼らの一部を「御庭番」とします。簡単に言えば新たな諜報機関です。彼らは単なるスパイではありません。御庭番を務めた人には栄進の道が開かれています。幕末渡米し日米通商条約の締結に努力した使節の一人には御庭番出身の人もいます。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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