日本史短評 荻生徂徠1 「弁道と弁明」
「弁道」
徂徠の主著は先に申した通り、「弁道」、「弁名」、「太平策」、そして「政談」の四つです。他にかなり多くの著作がありますが、それらは意義ありと言えども、この四つの主著で徂徠が言わんとするところの材料であり、中間産物です。よって徂徠学を語るにはこの四著をもってします。私は「徂徠学」という言葉を使いましたが、それは彼の学問が、言語学、形而上学(哲学)、そして経世学(政治経済学)と多岐に渡るからです。加えて彼は詩文作成に熱心で詩人でもあります。後世の人は彼の学問を一括して「古文辞学」と言いましたが、この言い回しでは彼の学問は誤解されます。そこで私は(私だけではありませんが)「徂徠学」という語を使用します。
四つの著作がいつ書かれたかは判然としません。「弁道」「弁名」は彼50歳台の前半ごろ、「太平策」「政談」は50歳代後半から死のほぼ直前に書かれたものと推量されます。後二者は吉宗の諮問に答えたもので、一種の機密文書でもあります。また特に「政談」は彼自身の著作か、他の人が加筆訂正あるいは捏造したものか判然としません。ここでは「政談」は徂徠自筆のものとして考察します。
弁道は極めて短い文章です。岩波版で20数ペ-ジで本というより論文に近いものです。弁道が言わんとすることは一言です。「道」を建てる、です。ここでまず「道」と言い、「仁」とは言いません。繰り返しますがまず「道」です。ついで「仁」が来ます。「仁」は「道」と同格に扱われていますが、あくまで「道」の後方に書かれ「道」の異名のような取り扱われ方をしてあります。「道」に比べて「仁」の取り扱いは控えめです。私には徂徠が孔子に遠慮してやむなく「仁」を自己の哲学の首位に「道」と並べて置いたように見えます。「仁」は儒教の根本概念です。徂徠が儒学者であると自認するかぎり(私には徂徠は儒学の範囲を大きく超えていると思いますが)「仁」を自らの学問のトップに据えざるを得ませんでしょう。下世話な言い方ですが、会社経営で代表権のない社長の座に孔子を据えた観があります。
ところで「道」とは何でしょうか。端的に言えば「制度、作られた制度」です。徂徠はこれを「先王の道」と言います。「先王」とは具体的には堯、舜、夏のウ王、殷の湯王、周の文王・武王そして周公旦です。そしてそれに孔子が続きます。前八名は実際政治を行い従って具体的な制度を創った人です。対して孔子は制度を変えようとして失敗した、ありていに言えば失業インテリです。前八者とは比較できません。徂徠は無理して孔子を先王の仲間に入れ込みます。理由は先王の道を文書として集大成し道の在り方を後世に明示したからだと言います。道を実際に造る事とそれを単に記述する事は大違いですが、徂徠はこの無理を押し切ります。現在で言えば一国の総理の事績を一介の学者教授の意見と同等視するようなものです。仁の立ち位置と言い、孔子の取り扱いと言い、徂徠は無理して儒者であろうとしているように思えます。
ここまで前置きして徂徠の学から「仁」を外します。私は儒者でないのでその点遠慮はありません。そうなると徂徠が「弁道」で言わんとするところは、学問で肝要な事は「個人の修養」ではなく、「政治経済の制度を創る」事だとなります。彼はこれを「道の作成」と言いまた「礼楽刑制(れいらくけいせい)の創出」だと言いました。
礼楽と刑制は原則的には同じものですが、かなり違う点もあります。「礼」とは対人間の共感的相互行為です。自らの欲するところを人に施し、欲しないところは施さない、という相互行為です。「楽」は極めて狭義に取れば音楽ですが、広義には礼の身体化された表現です。我々は不知不識の内にある種の音楽性に従って行動しています。礼が上記のようなものである限り楽は必至です。楽つまりリズムとある種の高揚感のないところに礼はありえません。幼稚園小中学校の教育から音楽という科目を除いたら、生徒の団体行動はありえなくなるでしょう。また祭礼や盆踊りなども音楽教育も始めです。
刑制とは制度を創り違反した者を処罰する行為です。礼楽とはかなり違います。しかし根本的なところでは同一です。礼楽も刑制も基本的には創られ定められる事です。孔子は礼楽の自然性(あるいは身体性)の方を重視し、徂徠は礼楽の作為性(造られたという側面を)を重視したと言えます。ここで孔子と徂徠の間には深い亀裂が走ります。
徂徠の哲学的言明の根本は「道の創出、制度の創立、礼楽刑制の制定」に極まります。ここで重要な事は「創られた「という事は新たに「創りうる」事だということです。ここから一気に政治経済への積極的関与の可能性が開けてきます。徂徠の最大の貢献はそこにあります。
徂徠が重視する「道」ですが、これは明らかに老子に結びつきます。老子は道家という学派の祖となりました。道家は後に韓非子などの法家に結びつきます。また制度創造と言う点では墨子、荀子、韓非子、管子(管子という政治経済の実践書の著者、斉の名宰相管仲に擬せられている)などの影響を受けています。儒教は戦国時代百年の百家争鳴の競争の中で他の学派と競争し影響を受けていることは事実です。なお堯舜ウから周公旦にいたる八名の事績は十八史略を参照してください。あくまでお話であって歴史的事実ではありません。ここでは説明は省きます。なおここに挙げる四冊の書はすべて岩波書店発行の「日本思想史体系、荻生徂徠」から取りました。
「弁名」
弁名は上下二巻からなります。上巻は個々の徳目の定義です。下巻も定義集ですが内容は上巻と異なります。上巻の主題は徳目それ自身ですが、下巻のそれは徳目の働き方・機能になっています。いわば上下両巻で主語と述語を使い分けている観があります。あるいは宋学的立場から言えば、上巻の主題は「理」の種々相であり、下巻のそれは「気」の展開過程とも言えます。上下両巻で主述の関係を構成しています。
上巻で描かれる徳目のトップは「道」です。次に「道」の同義反復とも言える「徳」「仁」「智」「聖」が来てその次が「礼」そして「義」になります。以下は徳目の個別的各論です。記載される徳目の総数は約40ですが、上記のように考えると「道」「礼」そして「義」が主要なる命題になります。「道」と「礼」の関係についてはすでに弁道のところで述べました。従ってここでは「義」が焦点となります。「義」は「礼」の変容、外在化、為された事、事実とされ「礼は以って心を制し、義は以って事を制す。礼は以って常を守り、義は以って変に応ず」と述べられます。そして「義なるものは道の分なり。千差万別、おのおのよろしき所か。「故に義たるものは宜なり」と外在化された道・礼の変容である義から宜という物質的世俗的価値を見出します。経済行為(従って政治的行為)は「宜」の交換ですから、徂徠が「義」そして「宜」を「道」「礼」から導出した事は非常に重要な意義を持つことになります。
また徂徠は「礼」の項目の箇所で「礼は物なり、衆議の包塞するところなり」と非常に異端的で刺激的でやや困惑させるような発言もしています。礼が物なら、礼の外在化された形態である義(宜)と同じになります。つまりみんながよってたかって何とかした物が礼という訳です。またこの発言は礼という行為の主宰者である人間の主体性、ひいては政治への参加可能性に言及したものであるとも言えます。
下巻の項目定義のトップは「元享利貞(げんこうりてい)です。この語彙は易からとったようで「元」は春、物事の始まり・起源、享(こう)は夏、作物一般に物事が盛んに成長し機能するさま、利(り)は益・成功して得られる物、貞(てい)とは恒にして変わらないものとされます。宇宙は春夏秋冬のように元享利貞という具合にぐるぐる回るものとされます。弁名における以下の記述は人間の機能の各論的叙述ですから、哲学・形而上学としては下巻では「元享利貞」が眼目になります。
かくして上下二巻で「道(その変容としての礼と義)」宇宙の運動としての「元享利貞」がそろいました。この両項はどう関係するのでしょうか?項目の意義、その配列からしてとても無関係とは思えません。そのことに関して徂徠は黙っています。私が両項を関係させてみます。「元享利貞」というのは自然な運動です。そこに「道」の制作者としての聖人が介入します。聖人がこの過程を起動させ動かすわけです。自然の生成過程に聖人が介入しそこから利益を得る、そしてこの過程は永久に展開して行く。となると聖人が動かすこの過程とはすなわち「経済」であり、またその上に成り立つ「政治」でもあります。「聖人」はいつでも「人一般」置き換えられます。政治経済は宋学が説くように、人が個人として修養すれば自然に行われるようなものではなく、人が一定の意志をもって作為(さくい、つくりなす)ものであることになります。徂徠の学問の達成点はここにあります。以下時節で徂徠はこの原則に従っていかなる現実の政策を徳川吉宗に具申したのかを見てみましょう。結論を先に言いますと、反動と進歩の交雑する極めて矛盾に富む、意見であり政策です。まさしく徂徠は時代と学問の進化の分水嶺に立っています。
なおここで付言すべきことは徂徠の「鬼神論」です。彼は天と地の間に鬼神をして活動させようとしています。弁名下で「仰いで以って天文を知り、附して以って地理を察す。このゆえに幽明を知る。初めを訪ね終わりに返す。故に死生の説を知る。精気物となり、遊魂変を為す。」「幽明のゆえなる者は、鬼神と人の礼を言う。と述べています。ここでは鬼神が聖人の代理をしています。その延長上に「人」が来るのでしょう。はきりと「人が為す」と言えないところが徂徠の限界かもしれません。この曖昧さは彼の経世学にも及びます。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
「弁道」
徂徠の主著は先に申した通り、「弁道」、「弁名」、「太平策」、そして「政談」の四つです。他にかなり多くの著作がありますが、それらは意義ありと言えども、この四つの主著で徂徠が言わんとするところの材料であり、中間産物です。よって徂徠学を語るにはこの四著をもってします。私は「徂徠学」という言葉を使いましたが、それは彼の学問が、言語学、形而上学(哲学)、そして経世学(政治経済学)と多岐に渡るからです。加えて彼は詩文作成に熱心で詩人でもあります。後世の人は彼の学問を一括して「古文辞学」と言いましたが、この言い回しでは彼の学問は誤解されます。そこで私は(私だけではありませんが)「徂徠学」という語を使用します。
四つの著作がいつ書かれたかは判然としません。「弁道」「弁名」は彼50歳台の前半ごろ、「太平策」「政談」は50歳代後半から死のほぼ直前に書かれたものと推量されます。後二者は吉宗の諮問に答えたもので、一種の機密文書でもあります。また特に「政談」は彼自身の著作か、他の人が加筆訂正あるいは捏造したものか判然としません。ここでは「政談」は徂徠自筆のものとして考察します。
弁道は極めて短い文章です。岩波版で20数ペ-ジで本というより論文に近いものです。弁道が言わんとすることは一言です。「道」を建てる、です。ここでまず「道」と言い、「仁」とは言いません。繰り返しますがまず「道」です。ついで「仁」が来ます。「仁」は「道」と同格に扱われていますが、あくまで「道」の後方に書かれ「道」の異名のような取り扱われ方をしてあります。「道」に比べて「仁」の取り扱いは控えめです。私には徂徠が孔子に遠慮してやむなく「仁」を自己の哲学の首位に「道」と並べて置いたように見えます。「仁」は儒教の根本概念です。徂徠が儒学者であると自認するかぎり(私には徂徠は儒学の範囲を大きく超えていると思いますが)「仁」を自らの学問のトップに据えざるを得ませんでしょう。下世話な言い方ですが、会社経営で代表権のない社長の座に孔子を据えた観があります。
ところで「道」とは何でしょうか。端的に言えば「制度、作られた制度」です。徂徠はこれを「先王の道」と言います。「先王」とは具体的には堯、舜、夏のウ王、殷の湯王、周の文王・武王そして周公旦です。そしてそれに孔子が続きます。前八名は実際政治を行い従って具体的な制度を創った人です。対して孔子は制度を変えようとして失敗した、ありていに言えば失業インテリです。前八者とは比較できません。徂徠は無理して孔子を先王の仲間に入れ込みます。理由は先王の道を文書として集大成し道の在り方を後世に明示したからだと言います。道を実際に造る事とそれを単に記述する事は大違いですが、徂徠はこの無理を押し切ります。現在で言えば一国の総理の事績を一介の学者教授の意見と同等視するようなものです。仁の立ち位置と言い、孔子の取り扱いと言い、徂徠は無理して儒者であろうとしているように思えます。
ここまで前置きして徂徠の学から「仁」を外します。私は儒者でないのでその点遠慮はありません。そうなると徂徠が「弁道」で言わんとするところは、学問で肝要な事は「個人の修養」ではなく、「政治経済の制度を創る」事だとなります。彼はこれを「道の作成」と言いまた「礼楽刑制(れいらくけいせい)の創出」だと言いました。
礼楽と刑制は原則的には同じものですが、かなり違う点もあります。「礼」とは対人間の共感的相互行為です。自らの欲するところを人に施し、欲しないところは施さない、という相互行為です。「楽」は極めて狭義に取れば音楽ですが、広義には礼の身体化された表現です。我々は不知不識の内にある種の音楽性に従って行動しています。礼が上記のようなものである限り楽は必至です。楽つまりリズムとある種の高揚感のないところに礼はありえません。幼稚園小中学校の教育から音楽という科目を除いたら、生徒の団体行動はありえなくなるでしょう。また祭礼や盆踊りなども音楽教育も始めです。
刑制とは制度を創り違反した者を処罰する行為です。礼楽とはかなり違います。しかし根本的なところでは同一です。礼楽も刑制も基本的には創られ定められる事です。孔子は礼楽の自然性(あるいは身体性)の方を重視し、徂徠は礼楽の作為性(造られたという側面を)を重視したと言えます。ここで孔子と徂徠の間には深い亀裂が走ります。
徂徠の哲学的言明の根本は「道の創出、制度の創立、礼楽刑制の制定」に極まります。ここで重要な事は「創られた「という事は新たに「創りうる」事だということです。ここから一気に政治経済への積極的関与の可能性が開けてきます。徂徠の最大の貢献はそこにあります。
徂徠が重視する「道」ですが、これは明らかに老子に結びつきます。老子は道家という学派の祖となりました。道家は後に韓非子などの法家に結びつきます。また制度創造と言う点では墨子、荀子、韓非子、管子(管子という政治経済の実践書の著者、斉の名宰相管仲に擬せられている)などの影響を受けています。儒教は戦国時代百年の百家争鳴の競争の中で他の学派と競争し影響を受けていることは事実です。なお堯舜ウから周公旦にいたる八名の事績は十八史略を参照してください。あくまでお話であって歴史的事実ではありません。ここでは説明は省きます。なおここに挙げる四冊の書はすべて岩波書店発行の「日本思想史体系、荻生徂徠」から取りました。
「弁名」
弁名は上下二巻からなります。上巻は個々の徳目の定義です。下巻も定義集ですが内容は上巻と異なります。上巻の主題は徳目それ自身ですが、下巻のそれは徳目の働き方・機能になっています。いわば上下両巻で主語と述語を使い分けている観があります。あるいは宋学的立場から言えば、上巻の主題は「理」の種々相であり、下巻のそれは「気」の展開過程とも言えます。上下両巻で主述の関係を構成しています。
上巻で描かれる徳目のトップは「道」です。次に「道」の同義反復とも言える「徳」「仁」「智」「聖」が来てその次が「礼」そして「義」になります。以下は徳目の個別的各論です。記載される徳目の総数は約40ですが、上記のように考えると「道」「礼」そして「義」が主要なる命題になります。「道」と「礼」の関係についてはすでに弁道のところで述べました。従ってここでは「義」が焦点となります。「義」は「礼」の変容、外在化、為された事、事実とされ「礼は以って心を制し、義は以って事を制す。礼は以って常を守り、義は以って変に応ず」と述べられます。そして「義なるものは道の分なり。千差万別、おのおのよろしき所か。「故に義たるものは宜なり」と外在化された道・礼の変容である義から宜という物質的世俗的価値を見出します。経済行為(従って政治的行為)は「宜」の交換ですから、徂徠が「義」そして「宜」を「道」「礼」から導出した事は非常に重要な意義を持つことになります。
また徂徠は「礼」の項目の箇所で「礼は物なり、衆議の包塞するところなり」と非常に異端的で刺激的でやや困惑させるような発言もしています。礼が物なら、礼の外在化された形態である義(宜)と同じになります。つまりみんながよってたかって何とかした物が礼という訳です。またこの発言は礼という行為の主宰者である人間の主体性、ひいては政治への参加可能性に言及したものであるとも言えます。
下巻の項目定義のトップは「元享利貞(げんこうりてい)です。この語彙は易からとったようで「元」は春、物事の始まり・起源、享(こう)は夏、作物一般に物事が盛んに成長し機能するさま、利(り)は益・成功して得られる物、貞(てい)とは恒にして変わらないものとされます。宇宙は春夏秋冬のように元享利貞という具合にぐるぐる回るものとされます。弁名における以下の記述は人間の機能の各論的叙述ですから、哲学・形而上学としては下巻では「元享利貞」が眼目になります。
かくして上下二巻で「道(その変容としての礼と義)」宇宙の運動としての「元享利貞」がそろいました。この両項はどう関係するのでしょうか?項目の意義、その配列からしてとても無関係とは思えません。そのことに関して徂徠は黙っています。私が両項を関係させてみます。「元享利貞」というのは自然な運動です。そこに「道」の制作者としての聖人が介入します。聖人がこの過程を起動させ動かすわけです。自然の生成過程に聖人が介入しそこから利益を得る、そしてこの過程は永久に展開して行く。となると聖人が動かすこの過程とはすなわち「経済」であり、またその上に成り立つ「政治」でもあります。「聖人」はいつでも「人一般」置き換えられます。政治経済は宋学が説くように、人が個人として修養すれば自然に行われるようなものではなく、人が一定の意志をもって作為(さくい、つくりなす)ものであることになります。徂徠の学問の達成点はここにあります。以下時節で徂徠はこの原則に従っていかなる現実の政策を徳川吉宗に具申したのかを見てみましょう。結論を先に言いますと、反動と進歩の交雑する極めて矛盾に富む、意見であり政策です。まさしく徂徠は時代と学問の進化の分水嶺に立っています。
なおここで付言すべきことは徂徠の「鬼神論」です。彼は天と地の間に鬼神をして活動させようとしています。弁名下で「仰いで以って天文を知り、附して以って地理を察す。このゆえに幽明を知る。初めを訪ね終わりに返す。故に死生の説を知る。精気物となり、遊魂変を為す。」「幽明のゆえなる者は、鬼神と人の礼を言う。と述べています。ここでは鬼神が聖人の代理をしています。その延長上に「人」が来るのでしょう。はきりと「人が為す」と言えないところが徂徠の限界かもしれません。この曖昧さは彼の経世学にも及びます。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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