経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

ウィスキ-考

2012-12-08 02:24:52 | Weblog
   ウィスキ-考

 一昨日の新聞で、日本産のウィスキ-が好評で、年間10億円以上の輸出をあげていると報道されました。特にワインの本場のフランスやウィスキ-の本家イギリスでの販売が伸びています。あのうるさくて口の悪いイギリス人が日本産のウィスキ-を飲むのだから、品質は特上なのでしょう。国際的な品評会からも表彰されています。まあ日本産のウィスキ-は品質世界一ということです。10億円強の輸出額は日本の総輸出額の0.003%にしか過ぎませんが、ウィスキ-の輸出ということは、日本の産業と日本人を考える上で貴重な示唆を与えます。
 日本以外で英国人の国民酒といわれる、それも彼らが誇りとし、また世界が名酒と認めるスコッチを本家以上の品質で造った国があるのでしょうか?(注)TVや自動車あるいは繊維製品ならわかります。必要性は万国共通であり、好みの問題もそう重大ではありません。しかしこと酒となると事情は違います。各国々に各国々が誇りとする酒があります。フランス・イタリア・スペインなど南欧諸国ではではワイン(フランスならブランデ―を付け加えなくてはいけませんね)、イギリスではウィスキ-、ロシアならウオッカ、ドイツならビ-ル、中国なら老酒、日本なら酒(英語に翻訳すればライスワインとか)などなどです。それぞれ好みがあり、この好みがそのままブランドになります。ですから日本人が本格的なウィスキ-を作ろうとしたら、イギリス人の味覚や好み、大きくいえばイギリスの文化全体を取り入れるくらいの覚悟が必要です。そこまでして異国の酒を造る必要があるのでしょうか?あるといえばあるし、ないといえばありません。ウィスキ-が欲しければ輸入すればいいのですから、それで済ませればいっこうに痛痒はないといえます。この無用ともいえる試み、外国人が誇りとするその国民酒の製造にとりかかって成功したのは日本だけではないでしょうか?以下にウィスき-の作り方を簡単に要約しますが、ウィスキ-(多分ブランデ-もそうなのでしょう)の製造は極めて複雑で、好みと伝統というややこしい事情に左右され、そして長期間かかるものです。この試みに挑戦した二人の人物がいます。サントリ-の鳥井信治郎とニッカの竹鶴政孝です。
 鳥井は大阪の銭換商の子として生まれ、生来の商才を生かして、赤玉ポ-トワインを作り大いにあてました。この酒は一応ワインといっていますが、本場のワインから見るとワインといえるほどのものではありません。この鳥井信治郎が営業方針を転換して、本場のウィスキ-を製造しようと思い立ちます。周囲の誰も猛反対でした。成功するとはとても思えませんので。鳥井は英国留学帰りの竹鶴を雇い、彼にウィスキ-の製造を全面的に任せます。鳥井が竹鶴の要求で唯一承諾しなかったことは、工場をスコットランドと似た北海道に造ることだけでした。工場は大阪と京都の境ある山崎の地に造られます。かなり上質のウィスキ-が販売されだしたのは、工場ができてから10年後でした。10年間資本が眠らされます。ウィスキ-造りは金食い虫だと、他の部門の連中からは白眼視されました。しかも当時の酒税法では、蔵に眠っている酒にも税金がかかります。鳥井は大蔵省と掛け合い、製品完成までは無税であることを勝ち取ります。当時の主税局長が池田隼人(後の首相)で大の酒好きでした。ちなみにワインやビ-ルは一年で製造できます。短期間に資本を回収できます。
 竹鶴政孝は広島県出身、大阪高等工業学校(後の阪大工学部)醸造科を出て、摂津酒造に入社、イギリスに2年間留学します。大学で講義など聴いても意味ありません。ひたすらグラスゴ-近辺のウィスキ-製造工場を見てまわりました。当然技術は、その工場の秘密ですし、職人も同様です。なによりも経験と勘が必要です。竹鶴は苦労をします。まあ学び盗み考え云々のくりかえしであったのでしょう。竹鶴の実家は酒造業なので、秘伝の麹を提供することを見返りとして、知識伝授にあずかったこともあります。苦労したせいか、それともイギリスの風土に溶け込みすぎたのか、現地の医師の娘リタと結婚して日本に帰ります。竹鶴の両親も、リタの父母も結婚には反対でした。竹鶴はリタと日本で添い遂げます。その竹鶴が伝授されたウィスキ-造りの方法は以下の通りです。
 まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒(モルト)ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 竹鶴は帰国後しばしらく浪人しますが、前記のように鳥井に見出されウィスキ-製造を一任されました。この間どうしても解らない事があり、再度スコットランドに留学しています。山崎でのウィスキ-製造が成功して後、しばらくして竹鶴は鳥井の工場をやめます。鳥井とはウィスキ-の製造に関して意見が違いました。鳥井は基本的には商人です。ほどほどの品質でいいやないか、なにも本場のスコッチそのもののようにする必要はない、というのが基本方針です。対して竹鶴は徹底した職人でした。竹鶴は鳥井のもとを去って北海道の余市に本格的なウィスキ-製造工場を造ります。本業は大日本果汁というりんごジュ-スの製造でした。竹鶴の保護者の株主が死ぬ時、この株主は竹鶴の後見をアサヒビ-ルの山本為三郎に依頼します。戦後鳥井は大衆用のウィスキ-としてトリスウィスキ-を販売します。竹鶴はあくまで本場のスコッチ製造を目指します。苦難20年(この間税務署からも経営方針転換の忠告をうけています)1966年、ブラックニッカという名酒が発売されます。ちなみにサントリ-は赤球ポ-トワインを太陽(サン)に見立てて、それに「鳥井」をつけて造られた商号です。ニッカは日本果汁からとりました。
 竹鶴は根っからの職人気質ですが、鳥井もなかなかのものです。10年多額の資本を投資し寝かせ、それでできたものが必ずしも成功する・日本人の口にあう・売れるとは限らないのですから。鳥井も竹鶴も有能で努力家で独創的です。同時に両者はロマンチックでいささかマンガチックなところもあります。
 鳥井と竹鶴という二人の人物により、英国産ウィスキ-と同等あるいはそれ以上のものができ、現在に及んでいます。最初に申しましたとおり、日本以外でスコッチの名品を造った国があるのでしょうか?必ずしも造る必要のない、芸術品ともいえる異国の醸造酒を、精魂こめて造り、本場の製品を凌駕する、ところに日本人の独自性、物作りの精神を、同時に遊びの精神をも看取します。日本人とはおもしろい民族ではあります。そして日本では製造業に関する限りほぼ何でも造れます。
(注)終戦後占領軍が日本に進駐します。大阪も同様でした。鳥井は進駐軍(ほぼ米軍)の将校を阪急宝塚線ひばりヶ丘の別荘に招待してウィスキ-で歓迎します。将校たちにはこのウィスキ-が大人気で、アメリカにはこんな美味いものはないと、いうことでした。文化的には米英はアングロサクソン同志で似ているのですが、アメリカ人にもスコッチは造れなかったようです。さらに余談があります。将校ばかりウィスキ-を楽しむのはけしからん、ということで米兵がピストルで脅しウィスキ-を要求します。ただちに鳥井は兵卒要の安価なウィスキ-を提供します。

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