経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  鮎川義介(一部付加)

2020-03-31 15:52:19 | Weblog
 経済人列伝  鮎川義介(一部付加)

旧日産コンツエルンの創始者が鮎川義介です。戦後一応財閥が解体されたので判然としませんが、日産の名は日産自動車を通して現在でも残っています。私の記憶では昭和50年代までは自動車業界では日産がトップでした。技術の日産といったものです。知人である修理工場の経営者の話では、技術の日産、サ-ヴィスのトヨタでした。日産は技術に不必要なほどこだわったからトヨタに負けたのだ、とその知人は言っていました。日産と「技術」はその発生の原点において切り離せない関係にあるようです。日産コンツエルンの創始者鮎川義介は1880(明治13)年山口県に生まれました。父親は旧長州(毛利家)藩士で199石の扶持を受けていましたから、れっきとした上士階級に属します。父親は高杉晋作の義挙に加わり2石を加増されています。
義介は旧制山口高校から東大工学部に進学します。母方の遠縁に明治の元勲の一人である井上馨がいました。彼を頼って上京し、井上の家に住み込みます。卒業して普通なら新進気鋭の技術者として官吏になるか民間会社に務めるところですが、彼義介がただものでないところは、東芝の仕上工として現場に入り、現場から何かを学ぼうとしたことです。やがて渡米します。ここでも一職工として働きます。帰国して共立企業という会社を作り持株会社を創始します。戸畑鋳物、安来製鋼所、東亜電気という会社を作り、共立企業の傘下におさめます。
昭和3年親戚の久原房之助から久原鉱業を譲られます。同時に社名も日本産業と改めます。久原は政界に転出したく思っており、またこの会社の成績もよくなかったようです。やがて政府は不況脱出の方策として金本位制を放棄し金の輸出を禁止します。この結果円相場は下落し、反対に金価格は上昇します。日本産業は傘下に鉱業会社を抱えており、日本産金の3割を生産していました。日産の株価は上がります。ここで鮎川がとった戦術が株式売り出しによるプレミアム取得です。傘下の子会社の株式を売り出し、取得したプレミアムでもって他企業の買収・系列化・合併を推し進めます。株式売り出し戦術の参謀本部が持株会社です。こうして昭和12年ごろまでには鉱業・水産・電気・自動車・造船・化学・ゴム・電力・保険などの業種あわせて77社、資本金合計6億2千万円超の一大コンツウエルンに成長します。日産は高橋財政のインフレ軍拡路線に上手く乗ります。昭和12年と言いますと私の父親が野村證券に就職した歳ですが、母親から聞いた話しでは父親の初任給は80円でした。
持株会社は後に財閥の企業支配手段になりますが、初めのうちは銀行から融資を受けられない会社が資本を集める手段でした。当時三井・三菱・住友などの財閥系会社は株式を公開していません。三井系の会社はあくまで三井家のものであり(三井合名)、三菱系の会社は岩崎家のものでした(三菱合資)。旧財閥はそれぞれ自身の機関銀行を持っていました。また彼らの企業は金融、商業、運輸、軽工業などに傾き、重化学工業には自信がなかったのか消極的でした。鮎川はこの壁に挑戦します。自身の進出分野を重化学工業に置き、資本は公開された株式に求めます。直接融資、大衆資本主義の嚆矢と言えるかも知れません。また時代は彼の経営に追い風でした。高橋是清の財政はインフレと軍拡による膨張財政です。鮎川はこの風に上手く乗りました。ただ株式売り出しによる直接融資は、常に売り出された株が上がる事、会社が膨張する事を前提とします。その点ではいささかねずみ講じみた傾向がある事は否定できません。好調である事、好調と予想される事(つまり人気)が資本です。機関銀行を抱える旧財閥より不安定です。日産はやがて満州に進出します。鮎川は積極的に外国技術を導入しました。多分外国資本(特に英米)の導入にも積極的だったのでしょう。事実満州経営を米国と共同でしていれば、面白い結果になったかもしれません。しかし満州経営の実権を握る陸軍が、国民の血で購ったものを、という論理で外資導入には猛反対でした。結果は歴史が証明します。新興財閥の気勢におされ旧財閥も重化学工業に進出を開始します。
日産が代表的ですが、昭和期には、技術畑出身の経営者による、重化学工業を中心とし、株式公開を積極的に行う会社が伸びました。彼らを振興財閥と言います。日窒、理研コンツエルン、日曹、森コンツエルン(日本電工、後昭電)などがあります。中島、川崎、立川、川西などの航空機メーカ-もここにいれていいでしょう。(旧財閥では三菱飛行機のみ)
ちなみに1912年の自動車生産台数は、イギリス20000台、アメリカ15000台、フランス10000台、日本10台です。1930年に入り、日産自動車とトヨタ自動車があいついで設立されます。両者の経営は対照的です。日産は外国技術導入、トヨタは技術国産主義です。なにがなし創始者である鮎川義介と豊田佐吉の差のようにも感じられます。
鮎川義介は1967年死去します。享年86歳。戦後2年間巣鴨プリズンに入っています。私がこの人の名を記憶したのは、彼の親族が国会議員に立候補して派手な選挙違反をやらかした時です。
(参考文献 鮎川義介伝・小島直記著、日本産業史、昭和経済史----後二者は日経文庫)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

小林一三-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-31 13:30:07 | Weblog
(小林一三)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

小林一三は阪急電鉄と宝塚少女歌劇の創始者として有名です。一三は1873年山梨県の豪商の家に生まれました。生母は一三の幼児期に死去します。父親は養子ですので離縁され実家に帰されます。そういうわけで一三は姉と共に大叔父に育てられる事になります。この大叔父は一三に極めて寛大で、甘やかしたきらいがあります。一三はのびのびと、そしてかなりわがままに育てられました。1892年慶応義塾大学卒業、翌年三井銀行入社。大阪支店に転勤、ここで当時の支店長岩下清周と知り合います。これは一三にとって大きな機縁になりました。しかし銀行勤務時代は、あまりやる気がなく、小説家になる事を夢みて、紙屑籠と言われた調査部でうだつの上がらない生活を送ります。この間結婚しますが、同時に恋人もいたようで、家庭と愛情関係の二重生活を平然と送ります。後者の方がどうなったかは解りません。一三は子煩悩でした。
 1907年、34歳岩下の強い引きで三井銀行を辞め、阪鶴鉄道の経営に従事する事になります。この鉄道は国有化され現在の福知山線になるので、一三の最初の仕事は阪鶴鉄道の会社解体と処理でした。この鉄道に代って、私鉄として箕面有馬電気軌道という会社が設立されます。社長は岩下清周、一三はその下で専務を務めます。箕面有馬電気軌道は現在の箕面-石橋間をちょろっと走る短い鉄道で、しいて言えば大阪から福知山線で乗り換えて、当時の観光名所である箕面や有馬にお客を運ぶくらいがせいぜいの、今から見てよく経営できたものだと思われるような企業でした。関西にはすでに、大阪神戸間を走る阪神電車や大阪奈良を結ぶ近鉄電車がありました。岩下はこれらすべてに関係していて、ゆくゆくは、関西の私鉄を合同させ一つに資本の下に統合しようと考えていました。それで箕面有馬電気軌道に小林一三をひっぱりこんだわけです。岩下は、一三はサラリ-マンとしてはだめだが、経営者創業者としての才能はあると、見込みました。
 現在では阪急電鉄は関西の私鉄の雄ですが、創業当時は最も危ない会社でした。ともかく一三は資金を工面して1910年、梅田宝塚間を開通させます。しかしこの沿線は田園が多く、運ぶもの(乗客)が無い。大阪市内部の野江に線路を拡張しようとして、大阪市議会を通じて大阪市に工作し、結果贈賄容疑で友人の松永安左衛門とともに収監されます。徹底して容疑は否認し、上部の方からの工作の結果でしょう、20日で釈放されます。
阪神電鉄と合併するという話が出ます。極秘事項のはずが簡単にもれてこの話は頓挫します。一三がリ-クしたと疑われました。証拠はありませんが、一三が合併に反対で会った事は事実です。阪急電鉄も創業当時はこのようにいろいろ苦労があったわけです。合併話に懲りた一三は北浜銀行から、会社の株を買い取ります。
 田園以外には何も無い梅田宝塚間にどうして乗客を運ぶか、一三は考えました。イギリス人ハワ-ドの「田園都市論」に彼はヒントを見つけます。そのころ都市庶民の住居と言えばうなぎの寝床のような長屋と相場は決まっていました。当時と言えば明治末期、日本も第二次産業革命に突入し、産業構造が高度化します。ブル-カラ-あるいは職工とは違う、ホワイトカラ-のサラリ-マンが出現しつつありました。一三はここに目をつけます。田園で快適な生活を送ろうと宣伝します。そのために大阪市民に「如何なる土地に住むべきか、如何なる家屋を持つべきか」というパンフレットを配ります。そして特に池田箕面方面に郊外住宅を建設します。緑の環境に恵まれた土地に住んで、そこから成長しつつあった大阪市内に通う生活様式を進めます。電鉄だけではなく、住宅建築も同時並行して進めます。
 もう一つ目玉商品を作ります。宝塚新温泉です。日帰りで行ける簡便な大衆的リゾ-トです。プ-ルも作りました。男女が一緒に泳げるようにしましたが、公序良俗に反するということで警察から、男女を別々に泳がすように指示されます。温泉だけでは物足りません。新しい西洋音楽の中からオペラに眼を付けます。大阪市内の劇場でオペラが上演された時、一三は舞台を見ず、観客席それも天上桟敷と言われる一番安い席の客の反応を見ていたそうです。このオペラをモデルにして1913年、宝塚少女歌劇団が作られ、それが宝塚で上演されます。一三もせっせと脚本を書きました。彼の作品が当たったかどうかは知りません。10年後の1924年、4000人収容できる宝塚大劇場が完成します。この劇団で最初に大当たりした演目は「モンパリ」です。歌舞伎を見るためには当時5円
は要りました。宝塚の観劇料は20銭でした。
 この間、関西の私鉄で最も儲かる路線である大阪神戸間の路線拡充に努めます。灘循環電機軌道というほぼペ-パ-カンパニ-に近い会社がありました。この鉄道あるいは鉄道の敷設権を阪神電鉄と競合しつつ、買い取ります。阪神電鉄の経営は順調でしたから、一三ほど熱心ではなかったようです。こうして大阪神戸間というドル箱路線が開通します。現在私が住んでいる尼崎の園田もこの路線にあります。
 小林一三のもう一つの事業が阪急百貨店経営です。百貨店経営は素人では無理と言われていました。白木屋や大丸のように呉服店経営から出発した店が大部分です。ただ梅田は阪急電鉄という交通機関の終点で、それに国鉄大阪駅も同じ位置にありましたから、集客力には自信を持てました。一三の商法は「引き算商法」と言われます。これこれの費用がかかるから、これこれの値段にする、と言うのではなく、これこれのの値段で売りたいから、これこれの費用にする、という商法です。大衆がほどほどに金を持ち出した時、それに併せて需要を開発するやり方です。ともかくお客のニ-ヅに答えよ、お客が欲しそうなものを揃えよ、が彼のモット-です。今のコンビに商法です。特に食料品と雑貨を店頭に置きました。商法は当たります。始め阪急マ-ケット、現在の阪急百貨店です。ターミナルデパ-トの第一号です。
逸話として有名なのは、ライスカレ-です。食堂を作り特にライスカレ-に力をいれました。水と米と熱の配合でどんな味、どれだけの量ができるか、熱心に実験し、安価に売り出します。当時ライスカレ-は洋食でハイカラそして贅沢な物とされていました。もう一つ逸話があります。やはり食べ物関係の事です。カレ-ライスにも手がでない人もいました。少なくとも毎日は。そこで阪急百貨店の食堂ではソーライスというメニュ-を作りました。客は皿に盛った飯のみを注文します。テ-ブルの上にはソ-ス瓶があります。飯にソ-スをかけて食べます。大当たりしました。ソ-ス自体がハイカラで高級品というイメ-ジがあったのです。ちなみに私も自分でこのソーライスを作って食べましたが、結構美味しい、ただし栄養の方は保障できませんし、むやみと水が欲しくなります。
 東京でも同じ発想の計画がありました。田園都市会社です。この会社が上手く行きません。大阪で成功した一三が招聘されます。この会社の傘下にあった武蔵鉄道の支線である蒲田支線を五島慶太に経営させます。そこから現在の東急の事業が発展しました。五島の話では、自分のやり方はすべて小林一三のやり方をなぞらえた、そうです。
 事業者として成功した一三は三井関係の縁で、電力業にも関係させられます。当時日本には東京電燈、宇治川電気、東邦電力など数社の有力電力会社がありました。合同問題が持ち上がります。加えて時局の変化で(満州事変など)国営論が持ち上がります。一三は一時期東京電燈(東京電力の前身)の社長を務めました。彼は国家統制を嫌う自由主義経営論者でした。銀行主導、株主への配当金の制限、設備投資の増加、生産能力の増加、経営の向上が彼の持論でした。戦後日本の高度成長期の方針とほぼ一致します。一三は人間の利己心を認め、そこから来る夢(コモディティの増大の可能性)が無ければ経済に明日はないと、語ります。
 1940年、一三は第二次近衛内閣の商工大臣になります。この時の次官が岸信介、統制経済の旗頭で商工官僚のボスでした。一三と岸は意見が違い衝突します。結局岸は辞任させられますが、官僚の巻き返しか、一三は機密漏洩事件に巻き込まれ翌年辞職します。一三と岸の論争を聞いていると、どっちがどっちともいえません。私個人は自由経済が好きですが、岸の統制経済論にも一理はあります。なお岸の統制経済論の背景には軍部との提携があったことは事実です。一三は岸の論旨をアカ(左翼)の思想だと弾劾します。事実岸等の革新官僚には当時成功しつつ見えたソ連の計画経済は魅力的に写っていました。一三はこの間、東京宝塚劇場を建設し、また東宝映画や日本軽金属を設立します。戦後は幣原内閣の国務大臣になりますが、やがて公職を追放されます。(5年後解除)1956年新宿・梅田の両コマスタディアムを造ります。1957年、84歳で死去します。
 小林一三は非常な読書家でした。そして調査好きでした。食堂や料亭の料理の原価を聞くなどは朝飯前。ぶっきらぼうで不必要な挨拶よりは仕事に没頭しました。岸信介との初対面も同様で誇り高い岸を怒らせたと言われています。