経済人列伝 鮎川義介(一部付加)
旧日産コンツエルンの創始者が鮎川義介です。戦後一応財閥が解体されたので判然としませんが、日産の名は日産自動車を通して現在でも残っています。私の記憶では昭和50年代までは自動車業界では日産がトップでした。技術の日産といったものです。知人である修理工場の経営者の話では、技術の日産、サ-ヴィスのトヨタでした。日産は技術に不必要なほどこだわったからトヨタに負けたのだ、とその知人は言っていました。日産と「技術」はその発生の原点において切り離せない関係にあるようです。日産コンツエルンの創始者鮎川義介は1880(明治13)年山口県に生まれました。父親は旧長州(毛利家)藩士で199石の扶持を受けていましたから、れっきとした上士階級に属します。父親は高杉晋作の義挙に加わり2石を加増されています。
義介は旧制山口高校から東大工学部に進学します。母方の遠縁に明治の元勲の一人である井上馨がいました。彼を頼って上京し、井上の家に住み込みます。卒業して普通なら新進気鋭の技術者として官吏になるか民間会社に務めるところですが、彼義介がただものでないところは、東芝の仕上工として現場に入り、現場から何かを学ぼうとしたことです。やがて渡米します。ここでも一職工として働きます。帰国して共立企業という会社を作り持株会社を創始します。戸畑鋳物、安来製鋼所、東亜電気という会社を作り、共立企業の傘下におさめます。
昭和3年親戚の久原房之助から久原鉱業を譲られます。同時に社名も日本産業と改めます。久原は政界に転出したく思っており、またこの会社の成績もよくなかったようです。やがて政府は不況脱出の方策として金本位制を放棄し金の輸出を禁止します。この結果円相場は下落し、反対に金価格は上昇します。日本産業は傘下に鉱業会社を抱えており、日本産金の3割を生産していました。日産の株価は上がります。ここで鮎川がとった戦術が株式売り出しによるプレミアム取得です。傘下の子会社の株式を売り出し、取得したプレミアムでもって他企業の買収・系列化・合併を推し進めます。株式売り出し戦術の参謀本部が持株会社です。こうして昭和12年ごろまでには鉱業・水産・電気・自動車・造船・化学・ゴム・電力・保険などの業種あわせて77社、資本金合計6億2千万円超の一大コンツウエルンに成長します。日産は高橋財政のインフレ軍拡路線に上手く乗ります。昭和12年と言いますと私の父親が野村證券に就職した歳ですが、母親から聞いた話しでは父親の初任給は80円でした。
持株会社は後に財閥の企業支配手段になりますが、初めのうちは銀行から融資を受けられない会社が資本を集める手段でした。当時三井・三菱・住友などの財閥系会社は株式を公開していません。三井系の会社はあくまで三井家のものであり(三井合名)、三菱系の会社は岩崎家のものでした(三菱合資)。旧財閥はそれぞれ自身の機関銀行を持っていました。また彼らの企業は金融、商業、運輸、軽工業などに傾き、重化学工業には自信がなかったのか消極的でした。鮎川はこの壁に挑戦します。自身の進出分野を重化学工業に置き、資本は公開された株式に求めます。直接融資、大衆資本主義の嚆矢と言えるかも知れません。また時代は彼の経営に追い風でした。高橋是清の財政はインフレと軍拡による膨張財政です。鮎川はこの風に上手く乗りました。ただ株式売り出しによる直接融資は、常に売り出された株が上がる事、会社が膨張する事を前提とします。その点ではいささかねずみ講じみた傾向がある事は否定できません。好調である事、好調と予想される事(つまり人気)が資本です。機関銀行を抱える旧財閥より不安定です。日産はやがて満州に進出します。鮎川は積極的に外国技術を導入しました。多分外国資本(特に英米)の導入にも積極的だったのでしょう。事実満州経営を米国と共同でしていれば、面白い結果になったかもしれません。しかし満州経営の実権を握る陸軍が、国民の血で購ったものを、という論理で外資導入には猛反対でした。結果は歴史が証明します。新興財閥の気勢におされ旧財閥も重化学工業に進出を開始します。
日産が代表的ですが、昭和期には、技術畑出身の経営者による、重化学工業を中心とし、株式公開を積極的に行う会社が伸びました。彼らを振興財閥と言います。日窒、理研コンツエルン、日曹、森コンツエルン(日本電工、後昭電)などがあります。中島、川崎、立川、川西などの航空機メーカ-もここにいれていいでしょう。(旧財閥では三菱飛行機のみ)
ちなみに1912年の自動車生産台数は、イギリス20000台、アメリカ15000台、フランス10000台、日本10台です。1930年に入り、日産自動車とトヨタ自動車があいついで設立されます。両者の経営は対照的です。日産は外国技術導入、トヨタは技術国産主義です。なにがなし創始者である鮎川義介と豊田佐吉の差のようにも感じられます。
鮎川義介は1967年死去します。享年86歳。戦後2年間巣鴨プリズンに入っています。私がこの人の名を記憶したのは、彼の親族が国会議員に立候補して派手な選挙違反をやらかした時です。
(参考文献 鮎川義介伝・小島直記著、日本産業史、昭和経済史----後二者は日経文庫)
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
旧日産コンツエルンの創始者が鮎川義介です。戦後一応財閥が解体されたので判然としませんが、日産の名は日産自動車を通して現在でも残っています。私の記憶では昭和50年代までは自動車業界では日産がトップでした。技術の日産といったものです。知人である修理工場の経営者の話では、技術の日産、サ-ヴィスのトヨタでした。日産は技術に不必要なほどこだわったからトヨタに負けたのだ、とその知人は言っていました。日産と「技術」はその発生の原点において切り離せない関係にあるようです。日産コンツエルンの創始者鮎川義介は1880(明治13)年山口県に生まれました。父親は旧長州(毛利家)藩士で199石の扶持を受けていましたから、れっきとした上士階級に属します。父親は高杉晋作の義挙に加わり2石を加増されています。
義介は旧制山口高校から東大工学部に進学します。母方の遠縁に明治の元勲の一人である井上馨がいました。彼を頼って上京し、井上の家に住み込みます。卒業して普通なら新進気鋭の技術者として官吏になるか民間会社に務めるところですが、彼義介がただものでないところは、東芝の仕上工として現場に入り、現場から何かを学ぼうとしたことです。やがて渡米します。ここでも一職工として働きます。帰国して共立企業という会社を作り持株会社を創始します。戸畑鋳物、安来製鋼所、東亜電気という会社を作り、共立企業の傘下におさめます。
昭和3年親戚の久原房之助から久原鉱業を譲られます。同時に社名も日本産業と改めます。久原は政界に転出したく思っており、またこの会社の成績もよくなかったようです。やがて政府は不況脱出の方策として金本位制を放棄し金の輸出を禁止します。この結果円相場は下落し、反対に金価格は上昇します。日本産業は傘下に鉱業会社を抱えており、日本産金の3割を生産していました。日産の株価は上がります。ここで鮎川がとった戦術が株式売り出しによるプレミアム取得です。傘下の子会社の株式を売り出し、取得したプレミアムでもって他企業の買収・系列化・合併を推し進めます。株式売り出し戦術の参謀本部が持株会社です。こうして昭和12年ごろまでには鉱業・水産・電気・自動車・造船・化学・ゴム・電力・保険などの業種あわせて77社、資本金合計6億2千万円超の一大コンツウエルンに成長します。日産は高橋財政のインフレ軍拡路線に上手く乗ります。昭和12年と言いますと私の父親が野村證券に就職した歳ですが、母親から聞いた話しでは父親の初任給は80円でした。
持株会社は後に財閥の企業支配手段になりますが、初めのうちは銀行から融資を受けられない会社が資本を集める手段でした。当時三井・三菱・住友などの財閥系会社は株式を公開していません。三井系の会社はあくまで三井家のものであり(三井合名)、三菱系の会社は岩崎家のものでした(三菱合資)。旧財閥はそれぞれ自身の機関銀行を持っていました。また彼らの企業は金融、商業、運輸、軽工業などに傾き、重化学工業には自信がなかったのか消極的でした。鮎川はこの壁に挑戦します。自身の進出分野を重化学工業に置き、資本は公開された株式に求めます。直接融資、大衆資本主義の嚆矢と言えるかも知れません。また時代は彼の経営に追い風でした。高橋是清の財政はインフレと軍拡による膨張財政です。鮎川はこの風に上手く乗りました。ただ株式売り出しによる直接融資は、常に売り出された株が上がる事、会社が膨張する事を前提とします。その点ではいささかねずみ講じみた傾向がある事は否定できません。好調である事、好調と予想される事(つまり人気)が資本です。機関銀行を抱える旧財閥より不安定です。日産はやがて満州に進出します。鮎川は積極的に外国技術を導入しました。多分外国資本(特に英米)の導入にも積極的だったのでしょう。事実満州経営を米国と共同でしていれば、面白い結果になったかもしれません。しかし満州経営の実権を握る陸軍が、国民の血で購ったものを、という論理で外資導入には猛反対でした。結果は歴史が証明します。新興財閥の気勢におされ旧財閥も重化学工業に進出を開始します。
日産が代表的ですが、昭和期には、技術畑出身の経営者による、重化学工業を中心とし、株式公開を積極的に行う会社が伸びました。彼らを振興財閥と言います。日窒、理研コンツエルン、日曹、森コンツエルン(日本電工、後昭電)などがあります。中島、川崎、立川、川西などの航空機メーカ-もここにいれていいでしょう。(旧財閥では三菱飛行機のみ)
ちなみに1912年の自動車生産台数は、イギリス20000台、アメリカ15000台、フランス10000台、日本10台です。1930年に入り、日産自動車とトヨタ自動車があいついで設立されます。両者の経営は対照的です。日産は外国技術導入、トヨタは技術国産主義です。なにがなし創始者である鮎川義介と豊田佐吉の差のようにも感じられます。
鮎川義介は1967年死去します。享年86歳。戦後2年間巣鴨プリズンに入っています。私がこの人の名を記憶したのは、彼の親族が国会議員に立候補して派手な選挙違反をやらかした時です。
(参考文献 鮎川義介伝・小島直記著、日本産業史、昭和経済史----後二者は日経文庫)
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行