経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

    経済人列伝  平清盛(一部付加)

2020-03-16 15:45:13 | Weblog
経済人列伝 平清盛(一部付加)

 平家物語の主人公である平清盛を経済人とする事に抵抗感を抱く人は、経済というものが解っていない人でしょう。清盛の履歴に関しては真偽取り混ぜ、人工に膾炙しているので、ここでは簡単にのみ述べ、力点は彼の経済活動に置きたいと思います。ただ何分にも精確な、特に数量的な資料を欠くために、叙述にはどうしても推量が入ってしまいます。
清盛の略歴を簡単に述べます。清盛は1118年(元永1年)に伊勢平氏の棟梁、正四位上刑部卿忠盛の長男として京の都で生まれました。白河法皇の院政の絶頂期です。清盛の出生に関しては、白河法皇が祇園女御に産ませたのを、忠盛に払い下げた、という白河落胤説があります。この件に関しては現在でも賛否両論あり、定かではありません。
 父親忠盛は白河・鳥羽二代にわたり、法皇の近臣でした。院の近臣は、単に独裁者法皇の側近として発言力が強いのみならず、受領や知行国主に任じられることが多く、非常に富裕でした。忠盛も例外ではありません。加えて彼は武士の棟梁です。西国・瀬戸内の海賊討伐に功があり、出世します。彼が武士として始めて院の昇殿を許された事に対する嫉妬から、殿上闇打ち事件があったと、平家物語では語られています。海賊と言いましたが、海賊は現在我々が連想するような、単なる賊徒ではありません。彼らは瀬戸内などの沿岸地帯を本拠とする豪族か有力農民で、運輸を本業としまた通行税も取っていました。時として盗賊になります。西国の荘園などが都に運ばれる時、その財貨を奪います。海賊討伐の目的は彼らを逮捕殺害する事ではなく、彼らを自らの配下に置く事でした。こうして忠盛は西国の海賊を支配し、彼らを自己の武力に組み込みます。清盛もその跡に習います。播磨、備前、讃岐、安芸、などの瀬戸内沿岸の富裕な国の受領に、彼ら二人は相継いで任命されています。
 こういう武力と財力をもって、保元平治の乱を勝ち抜き清盛は朝廷・院政の中でトップに上り詰めます。10歳左兵衛尉、18歳従四位下、43歳従三位、48歳大納言、49歳内大臣、同年太政大臣、と位階を登り、辞任し、やがて出家します。法名は静海(じょうかい)です。後白河院政とは上手くやっていましたが、対立し(鹿ケ谷の変など)1179年(治承3年)ク-デタ-を起こして全権を握り(注)、福原に遷都し、畿内西国の軍事力を掌握します。都の貴族層、寺社勢力、そして源氏などの反対勢力が蜂起する中、1981年(養和1年)に死去します。その4年後に彼の一族は壇ノ浦に亡びます。この辺の事は平家物語を主とする諸々の小説の類に、真偽取り混ぜ詳しく描かれています。
 清盛の経済への貢献は、日宋貿易の振興にあります。960年大陸に宋王朝が出現します。内乱を克服してできたこの王朝は文治主義政策をとります。経済と文化はこの王朝のもとで栄えます。併行してそれまで日本で細々と発行されていた皇朝十二銭の発行は停止されます。代って宋銭が輸入されます。宋銭の輸入は日本の経済を賦活しました。活発になるべき条件が日本の土壌の中に出現していました。それは何でしょうか?
10世紀の半ば頃から受領という階層が現れます。受領は、律令制の国司の長官ですが、それ以前の国司と異なり、徴税請負人でした。つまり任国の租税を規定どおり徴収してそれを中央政府に納めると、後は自分の収入としてかまいません。ですから有能な受領は富を貯えます。この富、例えば米と絹や麻とか、鉄や馬とか、金銀とか、などなどを都に持ち帰り倉庫に貯えます。これらの財貨の一部、特に米は既に手形で売買されていました。こうして全国的規模での交易活動が盛んになります。また受領の任地では、一国規模での交易が始まります。受領が京から持ってきた物は、任地で産物と交換されます。任地の有力者は、在庁官人として国府を中心に勢力を貯え、受領と対立しつつまた提携する関係になります。
 その上に知行国主という制度が加わります。中央政府に一定の功績があると、その人物に特定の国を期限付きで与えられます。その期間内での国の租税はこの人物のものになります。これは売官制度です。この人物を知行国主といいますが、彼らは任地に赴く受領には近親者を任命するのが常でした。さらに受領も任地に行かず、代理の者を派遣します。この代理を目代と言います。
 こういうと一般農民は徴税請負と売官という悪政の下で徹底的に搾取され貧窮のどん底にあえいでいたように聞こえますが、実際はそうでもなく、むしろ富裕になったようです。実証はできませんが傍証はあります。ともかく受領や知行国主のもとに富が集まる。この富は当然交換されるべきです。ちょうどその頃宋王朝が大陸に現れて、信頼できる貨幣である宋銭を大量に発行します。こうして日本には大量の宋銭が輸入されます。日本が輸入しすぎて、本国の宋で銭が足らず(銭荒)、一時輸出を禁止になったこともあります。(1155年)銭が輸入されるのは、それが必要だからです。もし日本国内にそれを受け入れる余地がなければ、結果はインフレだけですから、銭の輸入は止まるはずです。
 伊勢平氏は忠盛の代から日宋貿易を積極的に行います。院の昇殿を許された翌年の1133年、忠盛は九州の任地、神崎庄の飛び領である、博多の津で宋商と直接交易します。のみならず日宋貿易を独占します。この神崎庄は法皇の荘園であったので、法皇の権威を借りて、交易を独占します。こうして日宋貿易の中心は古代以来の大宰府から博多に移ります。福岡市民は忠盛に感謝しなければなりません。
 清盛も父に習います。一族を受領や知行国主に任じます。治承のクーデタ-の後には、知行国は32カ国になりましたから、平氏は国富の半分を独占したことになります。これらの資本を清盛は日宋貿易振興につぎ込みます。彼はそれまでせいぜい博多までしかこなかった宋商人を都の近くにまで引き入れます。そのために大輪田泊(おおわたのとまり、現在の神戸港)を、大型の商船が入港できるように、何度も修築します。厳島神社を改築し、氏神とします。音戸の瀬戸を切り開いて船の往来の便宜を計ります。厳島参詣の途上にある、室、児島、尾道は海港として整備されます。後白河法皇を福原の別荘に招き、宋人を拝謁させます。それまで都の貴族は天皇や法皇が異人と会うことには猛反対でした。こうして清盛は外人アレルギ-を取り除きます。1164年周囲の(公卿官人層)の反対を押し切って、組織的に宋銭を輸入するようにします。1179年宋銭を輸入しすぎたのか猛烈なインフレになります。当時はやっていた悪疫もそのせいにされて、銭の病と言われました。平氏政権の不人気の一因になりました。
 ここまでが実証できる内容です。以下傍証を提示します。当時から畿内には悪党と呼ばれる新興勢力がありました。彼らは小名主であり有力農民ですが、なんらかの商交易に従事し、同時に武力を貯えて活動する、従って経済行為に最もアクティヴな階層でした。彼らは受領や知行国主あるいは院政自身の商業活動と呼応します。平氏政権を挟んで、この悪党勢力が急伸したと推測させるものがあります。それは源平両軍が動員した戦闘員の数です。保元平治の乱やそれ以前の戦乱では数百騎かせいぜい千人内外でした。源平合戦、治承寿永の内乱では、動員される武士の数は一桁上がります。そして彼らの戦法も変わります。それまでの騎射戦法から、太刀打ち・組み討ちに変わります。つまり長年の修行をしなくてはならない技術から、体力さえあればなんとかなる戦術に切り替わったわけです。歩兵も増えます。工兵も出現します。
 戦法と戦闘員の内実の変化は、戦闘員を提供できる産業構造の変化の反映です。飲まず食わずでは戦闘はできません。戦闘員を提供できるという事は、それだけ農村が裕福になった、より具体的に言えば、村落内部により小規模の経営者が育ち始め、彼らが従来の由緒ある武者とは違う、戦闘員になり始めたことを意味します。
 源平の内乱期には、悪党という階層を表す明確な言葉は使われていません。しかし半世紀後に書かれた貞永式目の中には、はっきりと悪党の文字が見え、悪党対策が鎌倉幕府の緊要な課題として認識されています。以後幕府はこの悪党に悩まされ、結局幕府は畿内の悪党勢力に滅ぼされた形になります。貞永式目には悪党の事のみならす、利子の制限も明記されています。悪党の商業活動から御家人を護るためです。つまり源平合戦の半世紀後には、幕府が正式政策の対象として取り上げないといけないほど、商業活動が盛んになったというわけです。
 当時の日宋貿易で取り扱われた商品は次の通りです。
輸出品-金、砂金、水銀、硫黄、真珠、松、杉、檜、蒔絵、螺鈿、檜扇、屏風、日本刀
輸入品-綾、錦、陶磁器、文房具、書籍、絵画、香料、薬物、人参、紅花
 貿易は明らかに出超のはずです。なぜならば日本の最大の輸入品は宋銭でした。宋銭を大量に輸入できるほどの産業構造がすでに日本で出来上がっていたということです。鎌倉時代に入り国内の商工業活動は急伸します。平清盛は悪党勢力に示唆される新興小名主が勃起するちょうどその時期に大量の宋銭を輸入し、流通貨幣量を飛躍的に増大せしめて、日本の経済を賦活し発展させたと言えましょう。
 銭を輸入すると当然物価は上がります。もしそれを支える産業構造がなければインフレだけで終わりです。しかし然るべき生産過程があれば、銭を持った者は物を買い、結果として生産活動は賦活されます。歴史はこの事を間接的にではありますが、証明しているようです。この日本経済発展の画期を作ったのが、平清盛です。
 私は、なぜ平氏が源氏に負けたのかと考える事があります。平家物語に拠れば、平氏が弱かったからだとなりますが、実態は違うようです。私は平氏を打ち負かしたのは、寺社勢力だと思っています。叡山、三井寺、興福寺だけですぐ10000人の戦闘員は動員できます。そして彼らの内実は先に述べた悪党勢力です。この悪党を経済政策を介して平氏政権は育てました。平氏自身もこの勢力を自身の兵力に組み込もうとします。結果として平氏政権は自ら育てた勢力を充分に掌握できないまま滅んだと言えましょう。悪党の戦法を遺憾なく駆使したのが、源義経です。小人数による奇襲、公然たるだまし討ちと虚言などなど、義経は悪党の戦法を使い切っています。頼朝が恐れたのは、義経のこの悪党性にあったと言えるでしょう。

 参考文献  平清盛  吉川弘文館
       日本通史(6、7巻) 岩波書店
       渡来銭の社会史  中央公論社

(付記)
 源平の戦いは周知のように壇ノ浦で決着します。平家物語によると双方数千隻の軍船を動員しています。海戦は基本的には歩兵戦闘です。そして源氏も平家も瀬戸内や九州の海賊を味方につけるべく必死になっています。これだけ多数の歩兵を輩出できる生産力を当時の日本は持っていました。
 源平の戦いで古典的な騎射戦術、馬をかけちがいざまに相手の鎧のサネを射通すという騎射戦術はほとんど用いられていません。橋合戦、山木夜討、倶梨伽羅峠、一の谷、屋島などなどのどのシ-ンを思い出しても基本的な戦闘は歩兵戦です。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行