経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  コロナ対策、徹底して金をばらまけ

2020-03-02 17:27:28 | Weblog
コロナ対策、徹底して金をばらまけ
 いささか下卑た表現だが、今回のコロナヴィ-ルスに対してはこの表現しかない。コロナ肺炎の災禍は単なる防疫作業の次元に留まらない。国内における、また国際間の人間の交流が一時(それも月単位で)ストップする。これは経済交流への重大な阻害だ。経済低迷は必至であり、通商問題は外交問題につながる。
 この事実を勘考すれば日本の経済を賦活しておくことは当然だ。経済活動で支障をきたした部分には、充分に手当てをし補償し援助しよう。つまり金をばらまくことだ。
 病気は国民の心理を暗くする。それを防ぐためにはなるべく景気の良い事を言い、国民を楽観させて明るい気持ちにすることだ。明るい気持ちはストレスを弱める。つまり病気にかかりにくくする。その為には金をばらまき、補償支援を手厚くし、国民を安心させることだ。貨幣の供給緩和と減税が必須になる。考えても見よ。減税(消費増税の中止ないし撤廃)と聴いただけで国民の気持ちは晴れる。
 政府の措置は迅速で大胆なのが望ましい。必要と政府が考えたら即実行せよ。次々に対策を打ち出す。こうして国民を領導し安心させる。政策が間違っていてもいい。政府が政策を打ち出すことに意味がある。それが政治だ。政治を官僚から政府の手に取り換えそう。
 繰り返す。コロナ対策には金をばらまこう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
  日本の良いところをもっともっと良く知ろう。

経済人列伝  土光敏夫(一部付加)

2020-03-02 15:09:26 | Weblog
経済人列伝 土光敏夫(一部付加)

 土光敏夫といえば、昭和56年(1981年)、鈴木内閣の中曽根行政管理庁長官から依頼され、臨時行政調査会会長(通称臨調)に就任し、行政改革に携わった人として、多くの人の記憶残っています。毎日の食膳がめざしとひじき、とか記憶しています。土光敏夫の真骨頂は企業再建と猛烈経営です。
 土光敏夫は明治29年(1896年)岡山県御津郡大野村(現岡山市)に中堅農家の次男として生まれました。長男は夭折していますから、敏夫は事実上の長男です。岡山県の南部は、備前法華といい、日蓮宗の盛んな土地です。日蓮宗をこの地に広めたのは、室町から戦国期にかけて活躍した、松田氏です。敏夫の自伝に拠れば土光家は松田氏の分流ということです。従って敏夫一族はみな熱心な日蓮門徒です。敏夫の生き方にも、この宗派の始祖である日蓮のそれが濃厚に反映しています。
 敏夫は子供時代、体技や運動が大好きで、活発に遊ぶ毎日を過ごします。そのために県立中学受験に失敗し、私立関西(かんぜい)中学に入ります。ここで校長山内佐太郎の薫陶を受けます。山内は生徒に常に、至誠、勤労、徳操、用智能、報国、国士魂を説いていました。敏夫の精神に大きな影響を与えた要因は、母親登美、この山内校長、そして彼が入った蔵前工業高等学校の職人根性でしょう。中学に入った頃から向学心に目覚めます。勉学における競争が面白くなり、同時に勉学への興味も出てきます。田舎の商家や農家という中産階級の子弟の成育はそんなものです。石坂泰三や山本為三郎の生育期と比較してください。
 ここで敏夫の母登美を紹介しておくべきでしょう。登美は夫と並んで熱心な日蓮門徒ですが、向学心が旺盛で、気宇壮大(女性にはあまり適当な言葉ではありませんが)で、陽気で勝気な、そして熱烈な日蓮門徒でした。そこまでは普通の母親並みなのですが、登美は70歳になり、女学校設立を思い立ちます。勤労を通じての女性の教育がモット-でした。資金はありません。敏夫始め一族はみな反対します。登美は寄付金を募り、地主や農民を説得して神奈川県に土地を買い込み、とうとう橘学苑という学校を立ち上げます。73歳登美死去。以後の運営は敏夫がしたようです。敏夫の地位が上がり、高給をもらうようになってからは、給料の過半はこの学園の運営資金になったようです。登美の行為を一概に好意をもってのみ見ることはできませんが、彼女はやはり猛女というべきでしょう。敏夫の自伝にはこの母のことが、不必要なくらい多くのペ-ジを裂いて、語られています。
 蔵前工業高等学校(現東京工業大学)に入ります。1年目の受験は失敗、2年目はトップで入り生長(級長)になります。学費には苦労します。母親は田を1年に1反ずつ売ればいいと言いますが、そうもならず敏夫はアルバイトに精励します。在学中、学校の大学昇格問題がもちあがります。敏夫としては大学になれば在学期間が1年延びるので、内心は反対でしたが、生徒の多数の意見を集約する生長の立場にあり、デモの先頭に立って文部大臣の家に押しかけます。
 大正9年2歳、卒業して東京石川島造船所に入ります。生長として学友の就職の世話をしていたら、人気のいい会社はすべて先約になり、残った石川島造船に入ったとのことです。月給は40円。満鉄なら200円でしたから、やはり割りを食ったとはいえるでしょう。本人にはそう不満もなかったようです。この会社は嘉永6年(1853年)水戸藩が造った造船所が明治初期に平野富二に買い取られ、明治26年代に東京石川島造船所なりました。敏夫が入社した当時、三菱造船や日立造船がトップで、石川島は中小企業レベルの規模でした。しかし技術水準は高く、多角経営で事業は安定していたようです。敏夫の自伝からはそういう雰囲気が伺われます。入社してタ-ビンを担当させられます。1884年に英人により始めて造られたタ-ビンの改良発展はその頃暗中模索の時代でした。スイスのチュ-リッヒにあるエッシャ-ウィス社が新しいタ-ビンを開発したので、そこに留学を命じられます。留学前ドイツ語の文献を渉猟します。彼の語学力と文献の量から推し量れば、睡眠時間は1日5時間しかないと、判断され、以後彼の睡眠時間はこの時間に終生制限されます。スイスでの研修成果は上がります。ただ社交ダンスに誘われるのが嫌で、断る口実にスキ-に励んだそうです。帰国してタ-ビン製造に邁進します。昭和4年秩父セメントに出力7500kwのタ-ビンを売り込みます。秩父セメントの幹部が、製品を保証するかと言います。まだ一現場主任しかなかった敏夫は、私が保証しますと断言し、会社で問題になりました。以後八幡製鉄に25000kw、尼崎発電所に53000kwの上気タ-ビンを売り込んでいます。私はある大企業の技術系役員から話を聴いたことがあります。この人が言うには、プラントが売り込めた時、一番機械屋名利を満喫できる、ということです。
 1936年東芝と石川島造船が合同で石川島芝浦タ-ビンという会社を設立します。敏夫は同社の技術部長になります。この間多くの特許を取得しています。彼の岳父である粟田金太郎も彼の長男である土光陽太郎も石川島で特許を取ります。三代にわたって同じ会社で特許を取る家も少ないだろう、と敏夫は自慢しています。41歳石川島芝浦タ-ビン取締役、終戦後の20年、52歳で社長になります。終戦後は多くの製造業と同じく、鍋や釜を作って糊口をしのぎます。社長として融資に奔走します。銀行には弁当持ちで出かけます。補助金をもらうために、官庁に押しかけます。役人達は、またあの悪僧が来たと、言っていました。後年敏夫が経団連会長になった時、政府に意見や文句を言いに行きます。時の経済企画庁長官の福田赳夫は、毎日土光さんに叱られた、土光さんではなく怒号さんだと、同氏一流の冗談を言いますが、敏夫の地声は大きく、興奮すると机を叩くくせがあり、加えてあの相好は迫力があります。この猛烈さ・一途さが敏夫の持ち味の一つです。
 昭和25年(1950年)経営が破綻しかけた本社石川島重工の社長になります。本社の都合でタ-ビン会社と敏夫の意志とは無関係に、しょっぴかれたそうです。ここで敏夫一流の、合理的で猛烈な改革が始まります。以下要点をかいつまんで説明しましょう。経営とはこんなものか、かくあるべきものかと、と思わされます。
  前役員のうち3名を留任 彼らの希望も入れて役員は社長以外はすべて平の取締役
  役員の給与は部長職給与の上位5人の平均
  生産管理方式-国家予算のうち何%が鉄鋼造船に廻るかを算定、銀行調査部のデ-タも参考 以上のデータと過去の受注額を根拠に受注可能な額を算出し、それに上乗せした額を受注目標額とする
  製品の機種統一-製造の方向を確定し、無駄な経費と労力を省く
  受注の計画化-以上を参考
  経費削減-敏夫は領収書や書類の不備不合理を見抜く独特の勘があったといわれています もっとも本人は設計図を見ていれば不合理な点はすぐわかる 経理も同じだといいます 彼は担当者を社長室に呼びつけました 本人の話では、現場の意見を聴くためもあったそうです  
  工場別採算制
  社内報の発行-会社の意志を社員に徹底する事と社員の意向を知るためです
 こうして会社は立ち直ります。昭和25年上期で7億弱の売り上げが、27年下期で30億強と5倍に、さらに32年にはそのまた5倍になります。この実績の上に、外国の害術を導入します。技術導入に関して敏夫は、技術を輸入するのは、それだけ日本の技術が高くそれを使いこなせるからだ、外国技術を盲信してはいけない、と言います。ここに敏夫の職人根性あるいは国士魂を感じさせられます。国士つまり侍は本来職人です。
 この間昭和28年造船疑獄で取り調べを受け、拘留されます。20日後シロで放免されます。
 昭和29年頃からブラジルに進出します。リオデジャネイロの近郊に40万坪の土地をブラジル政府から与えられ造船所を造ります。ブラジル海軍工廠とも提携します。ある挿話があります。石川島がブラジル政府から受注した4800トンのの兵員輸送船(2000名乗船可能)が、岸壁にぶつかります。船はどうもなく岸壁が壊れました。やがてブラジルのみならずシンガポ-ルを始め10数社を海外に作ります。
 昭和35年(1960年)石川島重工業は播磨造船所と合併します。前社の陸上部門は80%、後者はほとんど造船オンリ-、トップメ-カ-の三菱造船や日立造船は10万トン級の船を造れるドックがあるのに、両社にはありません。将来のタンカ-需要を見越し、両社が陸と海に特化している長短所を埋め合わせるべく合併します。合併時の両社の規模は以下の通りです。
  石川島重工  資本金52億円  人員9000名  売上総額400億円
  播磨造船      40億円    6000名      200億円
石川島5対播磨3、の比率で合併し、資本金は102億円でした。社名は石川島播磨重工業(略称IHI)です。組織を、産業機械、原動機・化工機、船舶、航空エンジン、汎用機の5部門にわけ完全な事業部制をとります。昭和37年の英誌グラスゴ-ヘラルドではIHIの相生第一工場が造船所進水量で世界一と報告されます。
 昭和40年(1965年)東芝の経営再建を任され社長に就任します。手法は石川島重工業と同様です。特に専務会や常務会を廃止して、組織乱立をやめ、役員はすべて経営幹部会にまとめます。特に曖昧だった事業部制を確立して、事業部長の権限を拡大し、役員の干渉を排除します。事業部ごとに事業部内閣を造ります。冗官を排し、権限を下部に委譲するようにはからいます。現場の意向を知るべく、自己申告と社内公募を通して、人材の移転と流動化を志向します。この時敏夫は彼自身の哲学を披露しています。要旨は
  何を決断するかではなく、決断する事自体が大切 60点主義 即決即行
  102%働くべき 働く事により人間は生きがいを得る 常に能力を拡充させる事
敏夫が役員を任命する時その人物に、家庭生活を犠牲にする覚悟はあるか否か、否なら辞退して欲しいと言いました。
 昭和49年(1974年)第4代経団連会長に就任します。78歳です。その頃石油ショックが日本を襲います。49年から52年にかけての倒産件数は55000件、負債総額は大企業のみで8兆3000億円でした。物価は30%以上上がります。賃金も同様に上がりました。企業は資産を売却してそれをカヴァ-します。敏夫以下の幹部は官庁めぐりして、政府の方針に注文をつけます。福田赳夫から、土光さんではなく怒号さんだ、と言われたのはこの頃です。官民一体になって石油消費量を減らします。この省エネルギ-に関して、日本は大成功を収めます。敏夫は自伝の中で、こんな国民は世界にない、日本人は立派だと感動して語っています。現在単位GDPあたりの石油消費量ではアメリカは日本の2・5倍、中国は8-10倍です。
 昭和56年(1981年)85歳中曽根行政管理庁長官の懇請をうけて臨時行政調査会会長になります。私は当時経済にはあまり関心がなかったのですが、めざしの土光さんという印象は強く持っています。なにやら古風で怖いおじいさんという感じを抱きました。無駄な事業と冗員の廃止、国債発行の縮減が、主旨になります。敏夫は民間会社の合理化の厳しさを示し、国家にも同様の覚悟をもって欲しいといいます。行政改革がどの程度成功したかどうかは解りません。しかし一定の問題意識を国民に植え付けた事は事実でしょう。もしこの意識がなかったら、また省エネが成功していなかったら、平成不況への対処はもっと厳しいものになっていたと思います。
 東芝社長と経団連会長への就任はすべて石坂泰三の懇請によるものです。東芝も経団連も石坂が第2代を勤め、中1代おいて敏夫が第4代を勤めています。両者の年齢差は10歳ですから継承としては無理がありません。石坂と敏夫の手法は正反対です。敏夫は目的意識が強く、それに向かって方途と数値を定め、一直線に進みます。猛烈社長です。それに比べると石坂の手法はもう少し茫洋として多面的で曲線的な印象を受けます。視野は石坂の方が広く、敏夫は政治音痴という批判も受けました。直線的とは価値観が明確であるからです。換言すれば行為は道徳により縛られます。敏夫が臨調の責任者になったのは適材適所でしょう。いずれにせよめざしと敏夫のあの迫力のある顔は30歳代の私にとっては印象深く残っています。昭和最後の年になる63年(1988年)死去、享年91歳。
 参考文献 私の履歴書 土光敏夫 日経新聞社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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石田梅岩-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-02 13:11:12 | Weblog
石田梅岩-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 石田梅岩は1685年、丹波国、丹波と山城の国境、現在の京都府亀岡市の一農民の子
として産まれています。当時の習慣に従い京都の商家に奉公に行きます。生来内省的で
学問好きでした。仕事の合間にいろいろな本を読みます。彼の思想は基本的には彼独自の
ものですが、朱子学、陽明学、老荘思想、そして仏教や神道の影響を受けています。45
歳独立して自宅を塾とし彼の思想(後心学と言われるもの)を説き始めます。最初は講衆
が集まらず、辻説法も行いました。1744年死去。以下に梅岩の思想の大綱を述べます。
梅岩は「倹約」を強調しました。しかし彼の言う「倹約」は通常世間で言われる倹約と
は異なります。梅岩は「倹約」を「契約」と解釈します。「約」は「義」を積む事、「義」は「宜」つまり「利」、だから「倹約」とは「相互に便宜をはかること」「利あるいは宜の交換」です。そこから出てくる更なる便宜である経済的価値は、広く社会の役に立つ、と梅岩は主張します。それまで倹約は、ただ物金を惜しんで貯える事だとのみ理解されていました。梅岩は、「倹約は単に物を惜しむ事ではない、天下の物を流通させる契約だ」と主張します。「うまく流通させなければ無駄になり、物を惜しむことにはならないのだ」と言います。
流通経済の意義を主張するために、彼は共感を強調します。「倹約するとはその物が惜しいからだ、自分に惜しい物は人にも惜しい、だから交換が成り立つし、交換によって得る利益は正当なのだ」と言います。
 倹約とは、物を惜しんでその利便性を効率化する契約なのだ、商人は流通過程に参加す
る事により天下社会に奉仕するのだ、と梅岩は言います。武士が命をもって主君に奉仕す
るのと同じなのだ、と言い切ります。
 梅岩は「流通」を将軍・大名・武士・庶民すべてが等しく必要とする過程として承認し
、ともすれば詐欺師まがいにしか見られなかった商人の社会的必要性と地位を承認します。
 梅岩には、潜在的には商人の方が武士より上、という考えがあります。武士はただ主
君に奉仕するだけだが、商人は流通過程に参加する事によって、天下の人みんなに奉仕し
ているからだ、と言います。彼は流通過程の意義を社会の成員相互の契約という命題の上
に成立させます。
 倹約は朱子学が提供しうる唯一の経済政策です。将軍も藩主も、改革といえばすべて
倹約倹約と唱えました。これは主君からの上意下達としての経済対策です。為政者にとっ
て唯一の方策である「倹約」を「契約」と再解釈して、梅岩は経済行為を上から下への管
理統制ではなく、相互に対等な契約関係すなわち「交換」に変換します。これは四民平等
の基礎的前提です。契約説が徂徠の、作為としての政治という考えの延長線上にあるのは
あきらかです。(後章参照)
梅岩の思想の出発点は宋学です。しかし彼は孔孟程朱の言説に自らの解釈を大胆に加
えます。文字の意味を訓詁注釈するのではなく、その意義を取ると言います。宋学で強調するのは性と理、だから朱子学は性理の学とも言われます。性は人間に本来備わっている性情、理は天地万物を貫く理、性と理が一致する境涯が個人としても社会としても最高とされます。では何をするのか?「居敬静座して浩然の気を養い、世界の自然な推移に参加して行く云々」という、いたって観念的で消極的な対処法しか宋学は提示できません。
梅岩は、性理を自性とおき、自性は天地万物を貫いて、そしてここが肝心なところです
が、不断に運動し推移して止まない、と理解します。自性とは自分の本性、自性が変転するとは、自分自身が変転運動することです。
梅岩は宋学における運動の主客をひっくり返します。まず自分が動くのです。単に動い
ているものに巻き込まれる形で参加するのではなく、自らが主体的に起動者の一人と
して参加するという論理を完成するために、梅岩は行為を強調します。「知即行」です。
行とは宜を積むことです。宜あるいは義を積まない聖人は存在しない、聖人とは天の力の及ばないところに、自分の力を加えて作業を完成させることだと言います。梅岩の聖人論は明らかに徂徠のそれを踏襲しています。宋学において、理が自然に人間の性に降りてきて人間が変わるのではなく、人間も自然の過程に積極的に関与し、人間と天地が相互媒介しつつ変化する、と梅岩は説きます。
梅岩は町人道徳あるいは町人の学問を造ったと言われます。身分の上下、お上への服従
を説きます。しかし梅岩の主張はこの次元を超えます。彼の学説は、町人商人の発想に貫ぬかれていてリアルです。理は食わせる事、分別は飢えないようにすること、だと言い切ります。まず食べる事が肝心なのだと。食べて排泄し、それが肥料となり、物が育ち、それを食い-----と人間とそれを取り巻く世界は代謝し循環します。この過程の基盤は食い食わせることにあるのだと。
このような考えは18世紀フランスのフィジオクラ-ト(重農主義者と誤訳されてい
ます)に似ます。フィジオクラ-トより含蓄に富み論理も明晰です。食うとは食い食わ
せる、あるいは養い養われる相互過程だと梅岩は看破しました。だから倹約が重視され
ます。倹約は契約であり、契約に基づく資本蓄積です。人間だれしも食わねばならな
い。「食う」という原点に視野をしぼれば相互性、つまり契約・交換・流通の意義はす
ぐ把握できます。経済行為の根幹である「食う」ことをこれほどあからさまに断言した
思想家はなかなかいません。
梅岩は倹約を契約と解釈して、経済行為を万人共通の道具として解放しました。経済
行為の根幹である交換は「契約と共感」から成ります。彼の思考は18世紀イギリスのヒュ-ムやスミスに先行します。
梅岩の所説は彼の弟子たちに受け継がれます。原則は変わりません。弟子たちがした
ことは、梅岩の思想を庶民にも解りやすくし、道話・教訓話として普及せしめた事です。彼らによって梅岩の思想は心学と言われ庶民さらに武家の間にも広まります。代表的な弟子としては手島堵庵、中沢道二などがいます。心学は庶民の教化に著しく貢献しました。
  梅岩の著作として代表的なものを挙げておきます。「都ヒ問答」「斉家論」「石田先生
語録」などです。