経済人列伝 本田宗一郎(一部付加)
本田宗一郎は、1906年(明治39年)静岡県磐田郡光明村(現天竜市)生れます。宗一郎の生誕にはちょっとした伝説があります。彼が生まれたのは雷の凄まじい日でした。生れた宗一郎が開いた手には針が一本握られていたと言われています。彼はこうして雷様の申し子だと、少なくとも家内では言われていました。父親は儀平、腕のいい鍛冶屋であり、厳父でもあります。儀平は長男である宗一郎に、時間を守れ、約束を守れ、嘘をつくな、の三つの道徳のみを教え込みました。もっともこれ以上教えるべき倫理も道徳も他にありません。儀平という人は、単に腕のいい職人というに留まらず、彼が鍛える包丁や鋏には、必ず改良が加えられていました。当時としては珍しかった自転車を、上京して何十台も買い求め、分解修理して新品とし、郷里で売ります。のみならず自転車の車体を改良して、見栄えをよくし、女性でも乗れるように改良します。儀平はこのように積極的経営をしたので、家計は比較的裕福であったようです。儀平の自転車改良の話を聴くと、後年の宗一郎が想起され、蛙の子は蛙、この親にしてこの子あり、と思わされます。
大変な腕白坊主でした。金魚の色が単調で退屈だと言っては、金魚にペンキを塗ったり、よその畑のスイカを食って、わからないように裏返しにしておいたり、地蔵の顔が気にいらないと言って、地蔵の鼻をけずったり、しています。ある日、村に電燈がつけられました。電気会社の職員が電柱に昇り、スイッチをひねると村中の電燈が点灯します。スイッチを切ると電燈は一斉に消えます。偶然この職員の頭は禿げていました。禿の人が電柱に登れば電燈が点くのか、などと周囲に質問します。結局宗一郎自身が電柱に登り、スイッチをひねって、村中の電燈をつけ、納得します。これが宗一郎の電気初体験です。同時に後年の、何事も経験、という彼の技術者としての格律の一端でもあります。栴檀は双葉より芳し、です。
小学校時代特に勉強家ではありませんが、理科と図工の成績は優秀でした。ある日、浜松の近くで外国人の航空実演がありました。宗一郎は無断で遠出し、見物して帰ります。父親が烈火のごとく怒るかと、覚悟して帰宅しましたが、案に相違して儀平は、事実を聴いただけでした。大正11年15歳時、高等小学校を卒業、上京してア-ト商会に丁稚として就職します。月給は5円、当時の盛そばが10銭、現在なら600円、ここから換算すると現在の貨幣価値で、月給3万円というところでしょうか。そのころ商人でも職人でも職業を覚えようと思えば、丁稚小僧としてしかるべき店に奉公するのが常でした。なお儀平は宗一郎の希望次第では中学校に進学させてやろうと考えていました。しかし宗一郎は自動車が好きで好きでたまりません。宗一郎の希望を容れて、儀平は自動車修理店勤務の方を選ばせました。
宗一郎の修理の腕はめきめき上昇します。2年足らずで店の親方榊原ユウ三から習うものは習いました。ある時盛岡の消防車の修理を依頼されます。宗一郎が派遣されます。消防署員はまだ童顔の残る宗一郎を見て、彼を軽視し、粗末な宿に通します。宗一郎は消防車をとことん分解し、見ている者をひやひやさせます。故障箇所を修理した後、宗一郎は車を完全に組み立てます。周囲の評価は一変し、先生と呼ばれます。親方榊原はレ-スが好きで、レ-スに出場するための、オートバイの作成を始めます。アメリカの中古飛行機エンジンを、やはりアメリカの中古車の車体に取り付けます。この作業に一番熱心に取り組んだ宗一郎は自らオ-トバイに乗り、第五回日本自動車競技大会に出場し優勝します。17歳の時のことです。以後レ-スは彼の生甲斐の一つになります。この時点で宗一郎は榊原から、自動車修理工としての腕を完全に信頼されていました。1928年(昭和3年)21歳時、榊原の勧めで独立します。浜松にア-ト商会浜松支店を開きます。自動車修理店です。時代は日本の自動車産業の勃興期、フォ-ドやGMが日本に上陸する一方、日産やトヨタが始動します。こういう時代であり、また宗一郎の腕が極めて良かったので店は繁盛します。宗一郎は芸者遊びを覚えます。こちらの方でも相当に没頭したようです。この間幸子夫人と結婚しています。
店は繁盛しましたが、宗一郎には修理だけの毎日は物足りません。自動車のピストンリングの製造に取り掛かります。従業員は猛反対します。修理で儲かっているのに、リスクのあるピストンリング製造なんかとんでもないと。悩んだ宗一郎は、従来の修理工場とピストンリング研究製造を分離する形で、妥協します。ピストンリングとは自動車エンジンの燃焼と車軸への圧力伝導の間にあって、燃焼ガスと油が混在しないように、両者を遮断するためのリングです。色々研究しましたが、失敗します。浜松高等工業専門学校の先生に相談したら、シリコンが足りないとの事でした。材質への知識不足を知った宗一郎は高等工業の聴講生として二年通学します。学ぶものは学びますが、試験は受けず、興味のない科目には出席せずで、退学になります。この頃から学問の大切さを体験し、書物に興味を示し始めます。
苦労に苦労を重ねて、なんとかピストンリングの製造販売に成功します。そして1939年(昭和14年)、東海精機重工業株式会社を設立し、ピストンリング製造に専念するようになります。修理工場は他の人に経営を委譲します。戦時中は軍の命令で、トヨタの傘下に入ります。終戦時約2000名の従業員を擁していました。命令による軍需生産をしていたのでしょう。
1945年(昭和20年)敗戦。宗一郎は1年間尺八を抱えて、ぼんやり過ごします。時代の急変で、何から手を付けるべきか解らなかったのだと想像されます。翌21年に本田技術研究所を設立します。ある日電気店で無線用のエンジンを見つけ、それを自転車に装着する事を思いつきます。ガソリンを入れた湯たんぽと無線用エンジンを載せた、自転車を妻に試運転させます。このアイデアは成功し、無線機用エンジン搭載の自転車は完売されます。
宗一郎は自社製のエンジンを自ら作ろうと思います。ここで彼らしい奮闘が始まります。一般に使われていた砂の金型ではなく、金属製の金型を採用します。もっとも最初はなかなか思うようなものが作れません。エンジン用の金属には細かい穴が空いており、油漏れを防ぐために、漆を塗ってごまかしたりしました。こうしてA型エンジンがなんとか完成し、このエンジンを載せた自転車もよく売れました。
この間藤沢武夫が入社します。藤沢は宗一郎より4歳年少で、かなり苦労した後鉄鋼材販売会社のトップセ-ルスになり、後独立しています。中島飛行機の竹島弘に仲介されて藤沢は本田に入社します。入社と言うより、企業の合同という感じです。藤沢が営業と内勤、宗一郎が技術開発担当と役割分担が決まります。この分業は二人が同時に辞職する日まで、きちっと守られました。両者の関係は、森永太一朗と松崎半三のそれに似ています。
A型成功後開発されたB型は失敗、C型は日米対抗オ-トレ-スで優勝するほどの成績を挙げます。画期的なのはD型です。昭和24年、宗一郎はエンジンと車体をすべて自社で作ろうと決心します。特に車体の設計には凝ります。従来の鋼管を組み合わせた車体から、鋼板で作る車体に切り替えます。こうして重量感のあるオ-トバイができます。車体の造形には神経を凝らします。京都や奈良の寺院を訪れては、そこからヒントを得ます。仏像の鼻の稜線から大きな示唆を得たと言われます。
昭和27年東京に本社を移します。この時宗一郎は経営上の大改革を断行しています。同族の役員の一斉辞職です。別に彼ら同族が何か失敗したのではありません。ただ、将来会社が大きく発展するためには、同族経営は障害になると判断されたのですが、何よりも藤沢を専務に昇格させ、彼に営業の実権を集中させたかったからです。これも森永の場合と似ています。藤沢はまず販売網の確立に努めます。5万軒の自転車店に手紙を送り、前払制に応じるか否かの返答を求めます。藤沢は宗一郎の技術者としての天才性を見抜き、それに将来をかけ、商品優位の販売をしようと思います。賭けは成功し、即5000軒の応募がありました。次に宗一郎の希望をいれて、総額4億5千万円の工作機械を、アメリカ、ドイツ、スイスから購入します。優秀な部品を作るためには、やはり優秀な工作機械が必要です。藤沢はここでも宗一郎の天才にかけました。資本金はたったの600万円でした。一種の技術導入ですが、この時期ソニ-も松下電器も東洋レ-ヨンも同じように外国技術の導入をしています。彼らだけではなく、日本の企業全体がそうしました。この時期を経て日本の製造業のbreak throughが行われ、高度成長が始まります。なおソニ-も松下も東レも資本金の数倍の技術導入を行っています。工作機械に関していえば、現在日独がほぼ併走しつつ、トップを争っています。
この直後に本田は大きな危機を迎えます。朝鮮半島の動乱が止み、反動不況が訪れます。(昭和29年)製品は同じような物が他社でも生産されるために、落ち込みます。新たに開発された220ccD型エンジンは不調でクレ-ムが多く、また新製品であるスク-タ-「ジュノオ」は人気が悪く、販売成績がおちます。工作機械購入に使った4・5億円の手形返済の時期が迫ります。藤沢はこの危機を乗り切るために、イギリスのマン島TTレ-ス出場を宣言します。このレ-スはバイクのレ-スとしては世界的に有名でした。世界の知能を集めた輪の中に入ってゆかないと日本の工業には明日が無いと、ホンダは未だ大企業ではないにも関わらず、日本の製造業を啓蒙します。同時に部品取引メーカ-に対して、必ず手形は落とし、新たな手形は発行しないから、手形を所持しておいてくれ、と請願します。宗一郎の嫌いな生産調整も敢行します。宗一郎は220ccD型のエンジンの不良をなくします。こうして売上を促進する一方、現金回収に務めます。危機を乗り切ります。以上の過程でやはり目立つのはTTレースへの出場宣言です。ホンダは健在なり、というアドバル-ンを上げておいたからこそ、他の処置も生きてきます。逆境には強気で対した次第です。藤沢のモット-は、人生そのものが賭け、サイコロや花札なんか小さい小さい、でした。
危機を乗り越えた後、藤沢は超小型50ccのバイク製造を発案します。スカ-トを着た女性でも乗れ、そば屋の兄ちゃんが片手で運転できるようなバイクの開発を、宗一郎に要請します。バイクの需要層を増やす為です。自動遠心クラッチ、4ストロ-ク、大径タイヤを採用し、フロントカヴァ-は樹脂製にし、燃料タンクを前方において、女性がゆっくり座れる余地を確保します。ス-パ-カブS33の誕生です。画期的なバイクです。販売方法も変えます。自転車店のみならず、材木商や乾物店にも販売を依頼します。
1960年(昭和35年)本田技術研究所が本社から分離されて設置されます。昭和34年アメリカ、36年西ドイツ、37年ベルギ-、39年タイ、と海外の販売網を広げてゆきます。2007年現在で海外の販売店は、34カ国、100店以上になります。宗一郎の戦略は、その国での販売実績が上がれば、生産設備もその国に移す、にあります。需要のあるべき所に生産を、利益を需要者に還元、が彼の方針です。TTレ-スの方では昭和34年初出場し、35年には初優勝します。前後して通産省は自動車産業保護の観点から、実績のある数社のみに国内での生産を許可する方針を打ち出します。ホンダは、実績がないので、自動車生産から締め出されかねません。佐橋次官との激論のすえ、宗一郎は急遽、四輪車の緊急開発を指示し、ホンダスポ-ツS360、同じくS500、更に軽トラックT260などの製造に取り組みます。また鈴鹿サ-キットを作りました。自動車の性能を試すには、試走する場所が必要です。鈴鹿サ-キットやレースは、彼にとって実験場であり宣伝媒体であり、そして彼の趣味・生甲斐でした。昭和39年F1出場宣言をします。昭和42年、イタリアのグランプリでジョン・サ-ティスの運転する、ホンダRA300が優勝します。しかし翌43年フランスで行われたF1では車が壁に激突して、ドライヴァ-が死亡する事故があらい、この年をもってホンダはF1から撤退します。
宗一郎が作ったレ-スカ-はすべて空冷式でした。しかし技術陣は将来を見据えれば水冷式だと、主張し、対立します。副社長であった藤沢が仲に立ち、若いエンジニ-アの意見が通り、将来の自動車生産は水冷式を主軸とする事に決まります。そろそろ宗一郎の引退が近づいてきました。
昭和44年アメリカで欠陥車が云々され、ホンダも27万台をリコ-ルします。1970年(昭和45年)、自動車による公害防止のため、アメリカでマスキ-法が施行されます。二酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を従来の1/10に下げるという、当時としては非常に厳しい内容でした。宗一郎はこの試練に積極的に取り組みます。むしろこの試練を喜び、飛躍の機会にしました。と言いますのは、後発メ-カ-としてのホンダは、この試練で先発他社と横一線に並び、条件は平等になった、と宗一郎は理解します。宗一郎は副燃焼室という構想でもってこの問題に取り組みます。つまり一度燃焼して、その後に余る炭化水素などを、もう一度燃焼させる試みです。この方針の下に、CVCC(複合過流調速燃焼装置)を完成し、マスキ-法合格の第一号になります。車はシヴィックと名づけられて販売されました。またこのCVCCの技術はホンダが独占すべきものではないとして、すべてのメ-カ-に公開され、技術供与がなされています。
1973年(昭和48年)宗一郎は社長を引退し顧問になります。66歳でした。同時に副社長である藤沢武夫も辞職します。
1983年(昭和58年)、ホンダはF1に再登場します。昭和62年、アイルトン・セナをドライヴァ-とするホンダの車は、ワ-ルドチャンピオンとコントラクタ-ズチャンピオンの両方で優勝します。
1991年(平成3年)宗一郎死去、享年84歳、死因は糖尿病悪化による肝不全でした。藤沢はそれ以前に死去しています。
宗一郎の逸話には事欠きません。社長を退いて後、宗一郎は全国の販売店を一見づつ訪問し、それまでの尽力に感謝の意を述べて回ります。九州鹿児島からこの行脚を始めます。若干演技、そして茶目も混じる行為ですが、彼がそれをすると様になります。
彼は油の臭いが大好き、というほどの仕事人間でした。昭和7年、まだ彼の工場が修理専門だった頃、浜松の海軍飛行場で遠洋飛行の訓練が行われました。爆撃機5機が編隊を組んで、台湾を目指します。1機だけエンジン不調で飛べません。整備課将校の顔は真っ青になります。宗一郎が呼ばれます。短時間で故障箇所を発見し、飛べるようにしました。
仕事大好き人間ですが、遊ぶ方も盛んでした。浜松に工場を持ち、繁盛すると、芸者遊びを覚えます。どんちゃん騒ぎが大好きです。こうして、小唄、長唄、都都逸、俗曲、舞踊りなどをたちまち覚えます。大変な芸達者です。女遊びも盛んでした。ある師匠に踊りを習います。師匠から、踊りに色気が無い、と批判されます。宗一郎は師匠に、恋愛の経験はあるか、と尋ねます。師匠の答えはNoです。恋愛の経験もなくて、どうして人に色気を教えるのか、と腹を立て、宗一郎は師匠に手切れ金を渡して、師弟の契約を解除します。綺麗に儲けて綺麗に使うが、宗一郎の方針でした。人の間に溶け込むのが上手く、人生を楽しむ事を大切にしました。
仕事は厳しく、皆に自分で考える事を要求します。彼の思うように部下が動かないと、怒鳴り、時としては殴る事もありました。この行為は彼の性格、彼が若い頃鍛えられた町工場での体験、そして彼と部下との間の能力の差によります。怒鳴り、殴ったあとは、反省をするのですが。
最後に宗一郎は時間の使い方に関しては厳格だったことを申しておきましょう。ある日40度近い高熱に襲われます。しかし約束のゴルフに出かけます。約束違反は他人の時間を奪う事だという、彼の信念に基づく行動です。これは父儀平の厳しい薫陶によるものです。
参考文献
評伝、本田宗一郎 (青月社)
人間・本田宗一郎の素顔 (ごま書房)
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
本田宗一郎は、1906年(明治39年)静岡県磐田郡光明村(現天竜市)生れます。宗一郎の生誕にはちょっとした伝説があります。彼が生まれたのは雷の凄まじい日でした。生れた宗一郎が開いた手には針が一本握られていたと言われています。彼はこうして雷様の申し子だと、少なくとも家内では言われていました。父親は儀平、腕のいい鍛冶屋であり、厳父でもあります。儀平は長男である宗一郎に、時間を守れ、約束を守れ、嘘をつくな、の三つの道徳のみを教え込みました。もっともこれ以上教えるべき倫理も道徳も他にありません。儀平という人は、単に腕のいい職人というに留まらず、彼が鍛える包丁や鋏には、必ず改良が加えられていました。当時としては珍しかった自転車を、上京して何十台も買い求め、分解修理して新品とし、郷里で売ります。のみならず自転車の車体を改良して、見栄えをよくし、女性でも乗れるように改良します。儀平はこのように積極的経営をしたので、家計は比較的裕福であったようです。儀平の自転車改良の話を聴くと、後年の宗一郎が想起され、蛙の子は蛙、この親にしてこの子あり、と思わされます。
大変な腕白坊主でした。金魚の色が単調で退屈だと言っては、金魚にペンキを塗ったり、よその畑のスイカを食って、わからないように裏返しにしておいたり、地蔵の顔が気にいらないと言って、地蔵の鼻をけずったり、しています。ある日、村に電燈がつけられました。電気会社の職員が電柱に昇り、スイッチをひねると村中の電燈が点灯します。スイッチを切ると電燈は一斉に消えます。偶然この職員の頭は禿げていました。禿の人が電柱に登れば電燈が点くのか、などと周囲に質問します。結局宗一郎自身が電柱に登り、スイッチをひねって、村中の電燈をつけ、納得します。これが宗一郎の電気初体験です。同時に後年の、何事も経験、という彼の技術者としての格律の一端でもあります。栴檀は双葉より芳し、です。
小学校時代特に勉強家ではありませんが、理科と図工の成績は優秀でした。ある日、浜松の近くで外国人の航空実演がありました。宗一郎は無断で遠出し、見物して帰ります。父親が烈火のごとく怒るかと、覚悟して帰宅しましたが、案に相違して儀平は、事実を聴いただけでした。大正11年15歳時、高等小学校を卒業、上京してア-ト商会に丁稚として就職します。月給は5円、当時の盛そばが10銭、現在なら600円、ここから換算すると現在の貨幣価値で、月給3万円というところでしょうか。そのころ商人でも職人でも職業を覚えようと思えば、丁稚小僧としてしかるべき店に奉公するのが常でした。なお儀平は宗一郎の希望次第では中学校に進学させてやろうと考えていました。しかし宗一郎は自動車が好きで好きでたまりません。宗一郎の希望を容れて、儀平は自動車修理店勤務の方を選ばせました。
宗一郎の修理の腕はめきめき上昇します。2年足らずで店の親方榊原ユウ三から習うものは習いました。ある時盛岡の消防車の修理を依頼されます。宗一郎が派遣されます。消防署員はまだ童顔の残る宗一郎を見て、彼を軽視し、粗末な宿に通します。宗一郎は消防車をとことん分解し、見ている者をひやひやさせます。故障箇所を修理した後、宗一郎は車を完全に組み立てます。周囲の評価は一変し、先生と呼ばれます。親方榊原はレ-スが好きで、レ-スに出場するための、オートバイの作成を始めます。アメリカの中古飛行機エンジンを、やはりアメリカの中古車の車体に取り付けます。この作業に一番熱心に取り組んだ宗一郎は自らオ-トバイに乗り、第五回日本自動車競技大会に出場し優勝します。17歳の時のことです。以後レ-スは彼の生甲斐の一つになります。この時点で宗一郎は榊原から、自動車修理工としての腕を完全に信頼されていました。1928年(昭和3年)21歳時、榊原の勧めで独立します。浜松にア-ト商会浜松支店を開きます。自動車修理店です。時代は日本の自動車産業の勃興期、フォ-ドやGMが日本に上陸する一方、日産やトヨタが始動します。こういう時代であり、また宗一郎の腕が極めて良かったので店は繁盛します。宗一郎は芸者遊びを覚えます。こちらの方でも相当に没頭したようです。この間幸子夫人と結婚しています。
店は繁盛しましたが、宗一郎には修理だけの毎日は物足りません。自動車のピストンリングの製造に取り掛かります。従業員は猛反対します。修理で儲かっているのに、リスクのあるピストンリング製造なんかとんでもないと。悩んだ宗一郎は、従来の修理工場とピストンリング研究製造を分離する形で、妥協します。ピストンリングとは自動車エンジンの燃焼と車軸への圧力伝導の間にあって、燃焼ガスと油が混在しないように、両者を遮断するためのリングです。色々研究しましたが、失敗します。浜松高等工業専門学校の先生に相談したら、シリコンが足りないとの事でした。材質への知識不足を知った宗一郎は高等工業の聴講生として二年通学します。学ぶものは学びますが、試験は受けず、興味のない科目には出席せずで、退学になります。この頃から学問の大切さを体験し、書物に興味を示し始めます。
苦労に苦労を重ねて、なんとかピストンリングの製造販売に成功します。そして1939年(昭和14年)、東海精機重工業株式会社を設立し、ピストンリング製造に専念するようになります。修理工場は他の人に経営を委譲します。戦時中は軍の命令で、トヨタの傘下に入ります。終戦時約2000名の従業員を擁していました。命令による軍需生産をしていたのでしょう。
1945年(昭和20年)敗戦。宗一郎は1年間尺八を抱えて、ぼんやり過ごします。時代の急変で、何から手を付けるべきか解らなかったのだと想像されます。翌21年に本田技術研究所を設立します。ある日電気店で無線用のエンジンを見つけ、それを自転車に装着する事を思いつきます。ガソリンを入れた湯たんぽと無線用エンジンを載せた、自転車を妻に試運転させます。このアイデアは成功し、無線機用エンジン搭載の自転車は完売されます。
宗一郎は自社製のエンジンを自ら作ろうと思います。ここで彼らしい奮闘が始まります。一般に使われていた砂の金型ではなく、金属製の金型を採用します。もっとも最初はなかなか思うようなものが作れません。エンジン用の金属には細かい穴が空いており、油漏れを防ぐために、漆を塗ってごまかしたりしました。こうしてA型エンジンがなんとか完成し、このエンジンを載せた自転車もよく売れました。
この間藤沢武夫が入社します。藤沢は宗一郎より4歳年少で、かなり苦労した後鉄鋼材販売会社のトップセ-ルスになり、後独立しています。中島飛行機の竹島弘に仲介されて藤沢は本田に入社します。入社と言うより、企業の合同という感じです。藤沢が営業と内勤、宗一郎が技術開発担当と役割分担が決まります。この分業は二人が同時に辞職する日まで、きちっと守られました。両者の関係は、森永太一朗と松崎半三のそれに似ています。
A型成功後開発されたB型は失敗、C型は日米対抗オ-トレ-スで優勝するほどの成績を挙げます。画期的なのはD型です。昭和24年、宗一郎はエンジンと車体をすべて自社で作ろうと決心します。特に車体の設計には凝ります。従来の鋼管を組み合わせた車体から、鋼板で作る車体に切り替えます。こうして重量感のあるオ-トバイができます。車体の造形には神経を凝らします。京都や奈良の寺院を訪れては、そこからヒントを得ます。仏像の鼻の稜線から大きな示唆を得たと言われます。
昭和27年東京に本社を移します。この時宗一郎は経営上の大改革を断行しています。同族の役員の一斉辞職です。別に彼ら同族が何か失敗したのではありません。ただ、将来会社が大きく発展するためには、同族経営は障害になると判断されたのですが、何よりも藤沢を専務に昇格させ、彼に営業の実権を集中させたかったからです。これも森永の場合と似ています。藤沢はまず販売網の確立に努めます。5万軒の自転車店に手紙を送り、前払制に応じるか否かの返答を求めます。藤沢は宗一郎の技術者としての天才性を見抜き、それに将来をかけ、商品優位の販売をしようと思います。賭けは成功し、即5000軒の応募がありました。次に宗一郎の希望をいれて、総額4億5千万円の工作機械を、アメリカ、ドイツ、スイスから購入します。優秀な部品を作るためには、やはり優秀な工作機械が必要です。藤沢はここでも宗一郎の天才にかけました。資本金はたったの600万円でした。一種の技術導入ですが、この時期ソニ-も松下電器も東洋レ-ヨンも同じように外国技術の導入をしています。彼らだけではなく、日本の企業全体がそうしました。この時期を経て日本の製造業のbreak throughが行われ、高度成長が始まります。なおソニ-も松下も東レも資本金の数倍の技術導入を行っています。工作機械に関していえば、現在日独がほぼ併走しつつ、トップを争っています。
この直後に本田は大きな危機を迎えます。朝鮮半島の動乱が止み、反動不況が訪れます。(昭和29年)製品は同じような物が他社でも生産されるために、落ち込みます。新たに開発された220ccD型エンジンは不調でクレ-ムが多く、また新製品であるスク-タ-「ジュノオ」は人気が悪く、販売成績がおちます。工作機械購入に使った4・5億円の手形返済の時期が迫ります。藤沢はこの危機を乗り切るために、イギリスのマン島TTレ-ス出場を宣言します。このレ-スはバイクのレ-スとしては世界的に有名でした。世界の知能を集めた輪の中に入ってゆかないと日本の工業には明日が無いと、ホンダは未だ大企業ではないにも関わらず、日本の製造業を啓蒙します。同時に部品取引メーカ-に対して、必ず手形は落とし、新たな手形は発行しないから、手形を所持しておいてくれ、と請願します。宗一郎の嫌いな生産調整も敢行します。宗一郎は220ccD型のエンジンの不良をなくします。こうして売上を促進する一方、現金回収に務めます。危機を乗り切ります。以上の過程でやはり目立つのはTTレースへの出場宣言です。ホンダは健在なり、というアドバル-ンを上げておいたからこそ、他の処置も生きてきます。逆境には強気で対した次第です。藤沢のモット-は、人生そのものが賭け、サイコロや花札なんか小さい小さい、でした。
危機を乗り越えた後、藤沢は超小型50ccのバイク製造を発案します。スカ-トを着た女性でも乗れ、そば屋の兄ちゃんが片手で運転できるようなバイクの開発を、宗一郎に要請します。バイクの需要層を増やす為です。自動遠心クラッチ、4ストロ-ク、大径タイヤを採用し、フロントカヴァ-は樹脂製にし、燃料タンクを前方において、女性がゆっくり座れる余地を確保します。ス-パ-カブS33の誕生です。画期的なバイクです。販売方法も変えます。自転車店のみならず、材木商や乾物店にも販売を依頼します。
1960年(昭和35年)本田技術研究所が本社から分離されて設置されます。昭和34年アメリカ、36年西ドイツ、37年ベルギ-、39年タイ、と海外の販売網を広げてゆきます。2007年現在で海外の販売店は、34カ国、100店以上になります。宗一郎の戦略は、その国での販売実績が上がれば、生産設備もその国に移す、にあります。需要のあるべき所に生産を、利益を需要者に還元、が彼の方針です。TTレ-スの方では昭和34年初出場し、35年には初優勝します。前後して通産省は自動車産業保護の観点から、実績のある数社のみに国内での生産を許可する方針を打ち出します。ホンダは、実績がないので、自動車生産から締め出されかねません。佐橋次官との激論のすえ、宗一郎は急遽、四輪車の緊急開発を指示し、ホンダスポ-ツS360、同じくS500、更に軽トラックT260などの製造に取り組みます。また鈴鹿サ-キットを作りました。自動車の性能を試すには、試走する場所が必要です。鈴鹿サ-キットやレースは、彼にとって実験場であり宣伝媒体であり、そして彼の趣味・生甲斐でした。昭和39年F1出場宣言をします。昭和42年、イタリアのグランプリでジョン・サ-ティスの運転する、ホンダRA300が優勝します。しかし翌43年フランスで行われたF1では車が壁に激突して、ドライヴァ-が死亡する事故があらい、この年をもってホンダはF1から撤退します。
宗一郎が作ったレ-スカ-はすべて空冷式でした。しかし技術陣は将来を見据えれば水冷式だと、主張し、対立します。副社長であった藤沢が仲に立ち、若いエンジニ-アの意見が通り、将来の自動車生産は水冷式を主軸とする事に決まります。そろそろ宗一郎の引退が近づいてきました。
昭和44年アメリカで欠陥車が云々され、ホンダも27万台をリコ-ルします。1970年(昭和45年)、自動車による公害防止のため、アメリカでマスキ-法が施行されます。二酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を従来の1/10に下げるという、当時としては非常に厳しい内容でした。宗一郎はこの試練に積極的に取り組みます。むしろこの試練を喜び、飛躍の機会にしました。と言いますのは、後発メ-カ-としてのホンダは、この試練で先発他社と横一線に並び、条件は平等になった、と宗一郎は理解します。宗一郎は副燃焼室という構想でもってこの問題に取り組みます。つまり一度燃焼して、その後に余る炭化水素などを、もう一度燃焼させる試みです。この方針の下に、CVCC(複合過流調速燃焼装置)を完成し、マスキ-法合格の第一号になります。車はシヴィックと名づけられて販売されました。またこのCVCCの技術はホンダが独占すべきものではないとして、すべてのメ-カ-に公開され、技術供与がなされています。
1973年(昭和48年)宗一郎は社長を引退し顧問になります。66歳でした。同時に副社長である藤沢武夫も辞職します。
1983年(昭和58年)、ホンダはF1に再登場します。昭和62年、アイルトン・セナをドライヴァ-とするホンダの車は、ワ-ルドチャンピオンとコントラクタ-ズチャンピオンの両方で優勝します。
1991年(平成3年)宗一郎死去、享年84歳、死因は糖尿病悪化による肝不全でした。藤沢はそれ以前に死去しています。
宗一郎の逸話には事欠きません。社長を退いて後、宗一郎は全国の販売店を一見づつ訪問し、それまでの尽力に感謝の意を述べて回ります。九州鹿児島からこの行脚を始めます。若干演技、そして茶目も混じる行為ですが、彼がそれをすると様になります。
彼は油の臭いが大好き、というほどの仕事人間でした。昭和7年、まだ彼の工場が修理専門だった頃、浜松の海軍飛行場で遠洋飛行の訓練が行われました。爆撃機5機が編隊を組んで、台湾を目指します。1機だけエンジン不調で飛べません。整備課将校の顔は真っ青になります。宗一郎が呼ばれます。短時間で故障箇所を発見し、飛べるようにしました。
仕事大好き人間ですが、遊ぶ方も盛んでした。浜松に工場を持ち、繁盛すると、芸者遊びを覚えます。どんちゃん騒ぎが大好きです。こうして、小唄、長唄、都都逸、俗曲、舞踊りなどをたちまち覚えます。大変な芸達者です。女遊びも盛んでした。ある師匠に踊りを習います。師匠から、踊りに色気が無い、と批判されます。宗一郎は師匠に、恋愛の経験はあるか、と尋ねます。師匠の答えはNoです。恋愛の経験もなくて、どうして人に色気を教えるのか、と腹を立て、宗一郎は師匠に手切れ金を渡して、師弟の契約を解除します。綺麗に儲けて綺麗に使うが、宗一郎の方針でした。人の間に溶け込むのが上手く、人生を楽しむ事を大切にしました。
仕事は厳しく、皆に自分で考える事を要求します。彼の思うように部下が動かないと、怒鳴り、時としては殴る事もありました。この行為は彼の性格、彼が若い頃鍛えられた町工場での体験、そして彼と部下との間の能力の差によります。怒鳴り、殴ったあとは、反省をするのですが。
最後に宗一郎は時間の使い方に関しては厳格だったことを申しておきましょう。ある日40度近い高熱に襲われます。しかし約束のゴルフに出かけます。約束違反は他人の時間を奪う事だという、彼の信念に基づく行動です。これは父儀平の厳しい薫陶によるものです。
参考文献
評伝、本田宗一郎 (青月社)
人間・本田宗一郎の素顔 (ごま書房)
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行