経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 本多光太郎(一部付加)

2020-03-19 16:54:33 | Weblog
経済人列伝 本多光太郎(一部付加)

本多光太郎は超強力磁鉄KS鋼の発明で有名ですが、この件は彼の業績の一部であって、彼の日本産業への貢献は、製鉄冶金の技術の確立にあります。江戸時代まではたたら製鉄という原始的な製鋼法がすべてでした。ペリ-来航により刺激を受けて、江川秀龍や大島高任などの有志が新しい西洋方式の製鉄に挑戦します。維新になり政府は釜石製鉄所を作りますが、上手く行きません。大阪造兵工廠、東京海軍兵器局、横須賀造兵工廠などは兵器生産の関係から、上質の鉄を必要としていましたが、結局その需要はクルップなどの外国からの輸入で賄われていました。
 本多光太郎は1870年愛知県矢作町の豪農の家に三男として生まれます。父親は早く死に長兄が家督を継ぎます。光太郎は小学校時代、成績はあまりよくありません。高等学校卒業後3年間農業に従事します。本来なら進学できないところ、次兄の世話で東京にのぼり、神田駿河台の成立学舎に通い、一高に合格し東大理学部物理学科に進みます。これが24歳の時の事です。東大では長岡半太郎の指導を受けます。光太郎の関心事は磁気歪と地球物理学でした。37歳、東北大学設立予定と同時に、東北大学理学部教授に内定され、ドイツに留学します。ドイツでは主としてゲッティンゲン大学で研究しました。この間当地で「元素の磁気係数と温度との関係」という論文を発表しています。この研究テ-マは彼の後年の仕事の方向を決定したといえます。41歳帰国して予定通り東北大学理学部教授に就任します。
 この時から光太郎の本格的活動が始まります。彼は徹底した頑張りやでした。深夜におよぶ研究はざらでした。(本来研究とはそういうものだと思いますが)ために他の研究室から土方仕事と言われ研究員が悔しい思いをした事もあります。もっとも研究の機軸は努力です。そいう活動の成果が実り、1916年、彼46歳の時、KS磁石鋼を発明します。これは世界で一番強力な磁性を持つ鉄鋼でした。合金です。その構成は、
   タングステン 6-8%
   クロム    1-3%
   コバルト   20-30%
   炭素     0.7-1.5%
   鉄      残りすべて
です。この間東北大学に臨時研究所が設けられ、光太郎は所長になります。この研究所は後に、鉄鋼研究所、さらに金属材料研究所になります。当時帝国大学で研究所を持っていたのは東北大学だけ、それもこの研究所だけでした。学会誌も発行します。講演会も行います。特に講演会は好評でした。というのは、当時の製鉄製鋼技術の水準は低く、経験と勘に頼るところが多く、製品の出来具合はまちまちで信頼できないものが多かったのです。
 光太郎は偶然にKS鋼を発明したのではありません。鉄を熱したり冷却したりすると、磁力が急増した急減したりします。また発熱したり吸熱したりもします。さらにまた熱膨張の程度が急変することもあります。磁力、発熱、膨張などの現象は、鉄の内部における分子配列の変化を意味します。それまでの製鉄では、手で触ったり、せいぜい顕微鏡で表面を見て、鉄の内部構造を推定するくらいが関の山でした。鉄の磁性、発熱量、膨張を実験的に観察すすることにより、鉄分子の配列をより詳しく推定し、用途に応じた鉄を作りやすくなります。鉄の焼入れや焼き直しなども、科学的に行えるようになります。つまり光太郎の研究は、一素材を開発するだけでなく、当時の技術と理論の範囲内で体系的に、新たな性能を持つ鉄鋼を製造する事が、より可能になったことを意味します。
 光太郎が帰国し教授になった1911年(明治44年)は日本の産業の展開にとって重要な画期でした。日露戦争が終わった頃から、日本の産業革命は第二期に入り、重化学工業が発展し始めます。重化学工業の基軸は鉄鋼生産です。そして重化学工業の発展を一番熱望したのは軍部でした。ですから本多光太郎は日本の重工業と軍需工業の発展に極めて重要な貢献をした事になります。KS鋼発明前後から、新しい工業技術が開発されて行きます。以下の通りです。
  1914年 猪苗代湖に水力発電所完成 長距離強電送電技術開発
  1916年 黒田式コ-クス製造法の開発
  1921年 梅津常三郎 満州大弧山の貧鉱処理法開発
  1929年 増本量 超不変鋼発明
  1932年 松前・篠原 無装荷ケ-ブル発明 長距離通信が可能に  
1933年 本多光太郎 新KS鋼発明
  1938年 住友金属 ESO合金(超超ジュラルミン)開発 
このようにして日本の重工業と軍事技術は短期間に欧米の水準に迫るところまで行きます。ただし鉄鋼生産力は欧米に比べてなお貧弱でした。1940年の時点で、
  アメリカ 6000万トン
  ドイツ  1700万トン
  イギリス 1200万トン
  日本    700万トン
でした。これで戦争に踏み切ったのですから大したものです(?)
 光太郎の研究所設立には住友財閥が大きく貢献しています。1915年それまで銅一筋でやってきた住友は、新たに住友鋳鋼所を設立し特殊合金製造に進出します。その時住友は光太郎に接近し助言と指導を請うとともに、30万円を研究所に寄付しています。KSとは住友財閥の当主である住友吉左衛門のイニシアルを取ってそう名づけたとのことです。
 またトヨタは自動車製造に踏み切るときに、日本国内で必要な素材が集まるか否かを光太郎に相談しています。光太郎は大丈夫と答えています。
 光太郎の性格は頑張りやで人情家でした。研究室を見て周り、研究者の指導にいそしみ、多くの弟子を育てました。もっとも家では専制君主であり、この傾向は教室運営にも反映され独善的な傾向もありました。
 本多光太郎の冶金学は古典物理学の成果の結集の結果だと言えます。彼がドイツに留学した頃には、すでに量子力学の主要概念は出始めていました。ボ-アの原子模型、プランク定数、ハイゼンベルクの不確定性原理などなどです。磁気一つをとっても、分子内磁気を認めるか否かの問題があります。光太郎は、磁気は分子間の摩擦によるという考えを捨てず、仁科芳雄と激論になりました。私は物理も工学も素人ですが、マックスウエルの電磁方程式を素直に解すると分子の内外を問わず磁気も電気も存在する、という結論は容易に出るとは思いますが。
 61歳東北大学総長になり10年間務めます。戦後公職を追放されます。1949年79歳の時、東京理科大学学長を委嘱され、これを受けます。1954年84歳死去。

 参考文献  本多光太郎 吉川弘文館

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

(国定忠治)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-19 11:42:44 | Weblog
国定忠治)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 国定忠治という侠客がいます。今風に言えばやくざです。当時彼らは、通り者・無宿者と言われてきました。つまり社会のアウトロ-です。しかし発掘されつつある文献(江戸時代の文献は学者が悲鳴をあげるほど膨大です)によるとそれほど単純な話でもないようです。忠治は1850年処刑(はりつけ)されています。彼の首塚と言われるものがあります。彼のこの首塚はちゃんとしたお寺にあります。彼はこのお寺の筆子(寺子)であり住職は彼の師匠であった可能性があります。彼の直筆は残っていませんが(発見されていませんが)、彼の弟が彼に宛てた借金証文はあります。その文章を読むと漢字が多く使われ極めて簡潔で容量を得た文章になっております。忠治の妾(妻?)おとく(明治以後菊池登久子)は忠治の首を盗み、首塚を作り、更に田畑を買い集め明治の10年代には10町(10ヘクタ-ル)を超える土地を集積しています。彼女はこのように経営の才に恵まれていましたが彼女の経営に関する文書も見つかっています。国定忠治は国定村の忠治という百姓名でちゃんと姓もあり長岡忠次郎と言います。忠治は通り者・無宿者でした。しかし彼の出自は自作農か小地主であり、また先祖は(幕初の兵農分離以前は)武士でもあった可能性があります。侠客ですから刀(長脇差)も使えます。幕府などの為政者から見ればヤクザでアウトロ-だったかも知れませんが、彼のような通り者により関東(この場合は上州上野)の治安は保たれていた可能性があります。ともかく関八州は幕府の政策で譜代の小大名、旗本領、天領(幕府の直轄地)が入り乱れ、その支配領域は大きくて数万石、数千石数百石の領地などが混在し、とても統一的支配のできる状況ではありませんでした。幕藩の統治の極めて不十分だったところを忠治のような反体制的分子が補っていたとも言えましょう。
 文献によりますと上州(群馬県)では桐生を中心に絹織物業が発展し、周辺の農家は米より桑などを中心とする畑作が優位で、その分かなり富裕でした。かなり富裕な自作農・小地主・職人・商人がいて治安の責任を支配者が保証できないとなると、治安の実質的責任者・代行者は幕府が通り者・無宿者というアウトロ-によってなされ、また農村の(実直な)の農民と通り者との差は曖昧になります。この推定を支持する事実が前記した忠治とそれを取り巻く者の教養と剣術です。まず少なくとも上州では寺子屋(別に寺とは限りません、上州では初学を教える場所は筆子中と言いました)は群生していました。数十人から数百人規模の筆子中(筆子という聖とが師匠を中心として作るグル-プ・同窓会)は数百の規模で存在していました。
 もう一つの現象が上州いや関東全体に渡る剣術の流行です。上州では18世紀から真庭念流という剣術が大流行します。この流派の元締めが樋口家ですが、この樋口家は元来百姓身分です。その百姓を師匠とする念流に旗本や大名の家臣が師事します。当然彼ら弟子たちは刀を持ちます。どこの家にも刀はあったようです。刀狩りなんて本当にあったのかなあとも言うべき現象です。剣術の流派は念流だけではありません。他に直新陰流、小野派一刀流、神道一心流、北辰一刀流、法神流、さらに甲源一刀流、新陰流、示現流、神道陽心流、三神荒木流、天然理心流などが関東の地で栄え競い合っていました。有名な事件が千葉周作の北辰一刀流と真庭念流の対決です。千葉周作は1823年上州伊香保神社に額を奉納しようとしました。真庭念流の地元に勢力を扶植しようとする企てです。念流はそれを阻止するために弟子数百人を集めて対決する姿勢を鮮明にしました。結局幕府の関東出役の斡旋で千葉周作が退き喧嘩争乱は回避されました。この事実は関東の農民の中のかなりの部分が剣術を習っていた事を証明します。ちなみに坂本龍馬は北辰一刀流を学び、桂小五郎(木戸孝ヨシ)は神道無念流を学びました。また幕末の政争を彩る新選組の発祥は武蔵三多摩を根拠とする百姓剣法天然理心流です。
 このような農民は剣術は学ぶ、文字も習うの状態は、当時の(少なくとも関東では)武士と農民の格差はあまり無かった事を物語ります。通り者・無宿者はいわゆるヤクザです。バクチもし女も買い、喧嘩出入りもします。「悪い」奴です。しかし博打、地芝居(極めて盛況でした)、飯盛り女(街道沿いの宿に付属し春を売る女たち)の存在は民富を蓄積した民衆の現出させた一大消費社会の反映でもあるのです。
 なお日本では享保のころ(18世紀前半)から芝居は盛んとなり、初めは旅回りの役者が演じていましたが(この興業を仲介するのが通り者・無宿者です)、次第に芝居は農民自身が演じる地芝居となります。この勢いは村役人にも幕藩の官僚にも止められません。芝居の盛行自体が豊かさの産物です。また寺子筆子(文字学習者)の激増は明らかに鎌倉新仏教の興隆によります。先の章でも言いましたが新仏教の祖師たちは(特に浄土真宗と日蓮宗)は易しい文章で弟子たちを教化しました。日蓮・親鸞の手紙が良い例証です。
 国定忠治について付言すると(巷説の部分が多いのですが)関東の代官の暴政に対して農民の側に立ち、赤城の山に立てこもり抵抗し関八州を転々として最後に捕らわれて処刑されたと言われます。講談風に脚色され英雄視されていますが、これまで考察してきた限りでは、彼は小地主か自作農の出身で当時の慣習に従い、統治の代行をしていたことになります。換言すると武士と農民の差はなく、忠治はこのような状況の産物であったことになります。