経済人列伝 本多光太郎(一部付加)
本多光太郎は超強力磁鉄KS鋼の発明で有名ですが、この件は彼の業績の一部であって、彼の日本産業への貢献は、製鉄冶金の技術の確立にあります。江戸時代まではたたら製鉄という原始的な製鋼法がすべてでした。ペリ-来航により刺激を受けて、江川秀龍や大島高任などの有志が新しい西洋方式の製鉄に挑戦します。維新になり政府は釜石製鉄所を作りますが、上手く行きません。大阪造兵工廠、東京海軍兵器局、横須賀造兵工廠などは兵器生産の関係から、上質の鉄を必要としていましたが、結局その需要はクルップなどの外国からの輸入で賄われていました。
本多光太郎は1870年愛知県矢作町の豪農の家に三男として生まれます。父親は早く死に長兄が家督を継ぎます。光太郎は小学校時代、成績はあまりよくありません。高等学校卒業後3年間農業に従事します。本来なら進学できないところ、次兄の世話で東京にのぼり、神田駿河台の成立学舎に通い、一高に合格し東大理学部物理学科に進みます。これが24歳の時の事です。東大では長岡半太郎の指導を受けます。光太郎の関心事は磁気歪と地球物理学でした。37歳、東北大学設立予定と同時に、東北大学理学部教授に内定され、ドイツに留学します。ドイツでは主としてゲッティンゲン大学で研究しました。この間当地で「元素の磁気係数と温度との関係」という論文を発表しています。この研究テ-マは彼の後年の仕事の方向を決定したといえます。41歳帰国して予定通り東北大学理学部教授に就任します。
この時から光太郎の本格的活動が始まります。彼は徹底した頑張りやでした。深夜におよぶ研究はざらでした。(本来研究とはそういうものだと思いますが)ために他の研究室から土方仕事と言われ研究員が悔しい思いをした事もあります。もっとも研究の機軸は努力です。そいう活動の成果が実り、1916年、彼46歳の時、KS磁石鋼を発明します。これは世界で一番強力な磁性を持つ鉄鋼でした。合金です。その構成は、
タングステン 6-8%
クロム 1-3%
コバルト 20-30%
炭素 0.7-1.5%
鉄 残りすべて
です。この間東北大学に臨時研究所が設けられ、光太郎は所長になります。この研究所は後に、鉄鋼研究所、さらに金属材料研究所になります。当時帝国大学で研究所を持っていたのは東北大学だけ、それもこの研究所だけでした。学会誌も発行します。講演会も行います。特に講演会は好評でした。というのは、当時の製鉄製鋼技術の水準は低く、経験と勘に頼るところが多く、製品の出来具合はまちまちで信頼できないものが多かったのです。
光太郎は偶然にKS鋼を発明したのではありません。鉄を熱したり冷却したりすると、磁力が急増した急減したりします。また発熱したり吸熱したりもします。さらにまた熱膨張の程度が急変することもあります。磁力、発熱、膨張などの現象は、鉄の内部における分子配列の変化を意味します。それまでの製鉄では、手で触ったり、せいぜい顕微鏡で表面を見て、鉄の内部構造を推定するくらいが関の山でした。鉄の磁性、発熱量、膨張を実験的に観察すすることにより、鉄分子の配列をより詳しく推定し、用途に応じた鉄を作りやすくなります。鉄の焼入れや焼き直しなども、科学的に行えるようになります。つまり光太郎の研究は、一素材を開発するだけでなく、当時の技術と理論の範囲内で体系的に、新たな性能を持つ鉄鋼を製造する事が、より可能になったことを意味します。
光太郎が帰国し教授になった1911年(明治44年)は日本の産業の展開にとって重要な画期でした。日露戦争が終わった頃から、日本の産業革命は第二期に入り、重化学工業が発展し始めます。重化学工業の基軸は鉄鋼生産です。そして重化学工業の発展を一番熱望したのは軍部でした。ですから本多光太郎は日本の重工業と軍需工業の発展に極めて重要な貢献をした事になります。KS鋼発明前後から、新しい工業技術が開発されて行きます。以下の通りです。
1914年 猪苗代湖に水力発電所完成 長距離強電送電技術開発
1916年 黒田式コ-クス製造法の開発
1921年 梅津常三郎 満州大弧山の貧鉱処理法開発
1929年 増本量 超不変鋼発明
1932年 松前・篠原 無装荷ケ-ブル発明 長距離通信が可能に
1933年 本多光太郎 新KS鋼発明
1938年 住友金属 ESO合金(超超ジュラルミン)開発
このようにして日本の重工業と軍事技術は短期間に欧米の水準に迫るところまで行きます。ただし鉄鋼生産力は欧米に比べてなお貧弱でした。1940年の時点で、
アメリカ 6000万トン
ドイツ 1700万トン
イギリス 1200万トン
日本 700万トン
でした。これで戦争に踏み切ったのですから大したものです(?)
光太郎の研究所設立には住友財閥が大きく貢献しています。1915年それまで銅一筋でやってきた住友は、新たに住友鋳鋼所を設立し特殊合金製造に進出します。その時住友は光太郎に接近し助言と指導を請うとともに、30万円を研究所に寄付しています。KSとは住友財閥の当主である住友吉左衛門のイニシアルを取ってそう名づけたとのことです。
またトヨタは自動車製造に踏み切るときに、日本国内で必要な素材が集まるか否かを光太郎に相談しています。光太郎は大丈夫と答えています。
光太郎の性格は頑張りやで人情家でした。研究室を見て周り、研究者の指導にいそしみ、多くの弟子を育てました。もっとも家では専制君主であり、この傾向は教室運営にも反映され独善的な傾向もありました。
本多光太郎の冶金学は古典物理学の成果の結集の結果だと言えます。彼がドイツに留学した頃には、すでに量子力学の主要概念は出始めていました。ボ-アの原子模型、プランク定数、ハイゼンベルクの不確定性原理などなどです。磁気一つをとっても、分子内磁気を認めるか否かの問題があります。光太郎は、磁気は分子間の摩擦によるという考えを捨てず、仁科芳雄と激論になりました。私は物理も工学も素人ですが、マックスウエルの電磁方程式を素直に解すると分子の内外を問わず磁気も電気も存在する、という結論は容易に出るとは思いますが。
61歳東北大学総長になり10年間務めます。戦後公職を追放されます。1949年79歳の時、東京理科大学学長を委嘱され、これを受けます。1954年84歳死去。
参考文献 本多光太郎 吉川弘文館
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
本多光太郎は超強力磁鉄KS鋼の発明で有名ですが、この件は彼の業績の一部であって、彼の日本産業への貢献は、製鉄冶金の技術の確立にあります。江戸時代まではたたら製鉄という原始的な製鋼法がすべてでした。ペリ-来航により刺激を受けて、江川秀龍や大島高任などの有志が新しい西洋方式の製鉄に挑戦します。維新になり政府は釜石製鉄所を作りますが、上手く行きません。大阪造兵工廠、東京海軍兵器局、横須賀造兵工廠などは兵器生産の関係から、上質の鉄を必要としていましたが、結局その需要はクルップなどの外国からの輸入で賄われていました。
本多光太郎は1870年愛知県矢作町の豪農の家に三男として生まれます。父親は早く死に長兄が家督を継ぎます。光太郎は小学校時代、成績はあまりよくありません。高等学校卒業後3年間農業に従事します。本来なら進学できないところ、次兄の世話で東京にのぼり、神田駿河台の成立学舎に通い、一高に合格し東大理学部物理学科に進みます。これが24歳の時の事です。東大では長岡半太郎の指導を受けます。光太郎の関心事は磁気歪と地球物理学でした。37歳、東北大学設立予定と同時に、東北大学理学部教授に内定され、ドイツに留学します。ドイツでは主としてゲッティンゲン大学で研究しました。この間当地で「元素の磁気係数と温度との関係」という論文を発表しています。この研究テ-マは彼の後年の仕事の方向を決定したといえます。41歳帰国して予定通り東北大学理学部教授に就任します。
この時から光太郎の本格的活動が始まります。彼は徹底した頑張りやでした。深夜におよぶ研究はざらでした。(本来研究とはそういうものだと思いますが)ために他の研究室から土方仕事と言われ研究員が悔しい思いをした事もあります。もっとも研究の機軸は努力です。そいう活動の成果が実り、1916年、彼46歳の時、KS磁石鋼を発明します。これは世界で一番強力な磁性を持つ鉄鋼でした。合金です。その構成は、
タングステン 6-8%
クロム 1-3%
コバルト 20-30%
炭素 0.7-1.5%
鉄 残りすべて
です。この間東北大学に臨時研究所が設けられ、光太郎は所長になります。この研究所は後に、鉄鋼研究所、さらに金属材料研究所になります。当時帝国大学で研究所を持っていたのは東北大学だけ、それもこの研究所だけでした。学会誌も発行します。講演会も行います。特に講演会は好評でした。というのは、当時の製鉄製鋼技術の水準は低く、経験と勘に頼るところが多く、製品の出来具合はまちまちで信頼できないものが多かったのです。
光太郎は偶然にKS鋼を発明したのではありません。鉄を熱したり冷却したりすると、磁力が急増した急減したりします。また発熱したり吸熱したりもします。さらにまた熱膨張の程度が急変することもあります。磁力、発熱、膨張などの現象は、鉄の内部における分子配列の変化を意味します。それまでの製鉄では、手で触ったり、せいぜい顕微鏡で表面を見て、鉄の内部構造を推定するくらいが関の山でした。鉄の磁性、発熱量、膨張を実験的に観察すすることにより、鉄分子の配列をより詳しく推定し、用途に応じた鉄を作りやすくなります。鉄の焼入れや焼き直しなども、科学的に行えるようになります。つまり光太郎の研究は、一素材を開発するだけでなく、当時の技術と理論の範囲内で体系的に、新たな性能を持つ鉄鋼を製造する事が、より可能になったことを意味します。
光太郎が帰国し教授になった1911年(明治44年)は日本の産業の展開にとって重要な画期でした。日露戦争が終わった頃から、日本の産業革命は第二期に入り、重化学工業が発展し始めます。重化学工業の基軸は鉄鋼生産です。そして重化学工業の発展を一番熱望したのは軍部でした。ですから本多光太郎は日本の重工業と軍需工業の発展に極めて重要な貢献をした事になります。KS鋼発明前後から、新しい工業技術が開発されて行きます。以下の通りです。
1914年 猪苗代湖に水力発電所完成 長距離強電送電技術開発
1916年 黒田式コ-クス製造法の開発
1921年 梅津常三郎 満州大弧山の貧鉱処理法開発
1929年 増本量 超不変鋼発明
1932年 松前・篠原 無装荷ケ-ブル発明 長距離通信が可能に
1933年 本多光太郎 新KS鋼発明
1938年 住友金属 ESO合金(超超ジュラルミン)開発
このようにして日本の重工業と軍事技術は短期間に欧米の水準に迫るところまで行きます。ただし鉄鋼生産力は欧米に比べてなお貧弱でした。1940年の時点で、
アメリカ 6000万トン
ドイツ 1700万トン
イギリス 1200万トン
日本 700万トン
でした。これで戦争に踏み切ったのですから大したものです(?)
光太郎の研究所設立には住友財閥が大きく貢献しています。1915年それまで銅一筋でやってきた住友は、新たに住友鋳鋼所を設立し特殊合金製造に進出します。その時住友は光太郎に接近し助言と指導を請うとともに、30万円を研究所に寄付しています。KSとは住友財閥の当主である住友吉左衛門のイニシアルを取ってそう名づけたとのことです。
またトヨタは自動車製造に踏み切るときに、日本国内で必要な素材が集まるか否かを光太郎に相談しています。光太郎は大丈夫と答えています。
光太郎の性格は頑張りやで人情家でした。研究室を見て周り、研究者の指導にいそしみ、多くの弟子を育てました。もっとも家では専制君主であり、この傾向は教室運営にも反映され独善的な傾向もありました。
本多光太郎の冶金学は古典物理学の成果の結集の結果だと言えます。彼がドイツに留学した頃には、すでに量子力学の主要概念は出始めていました。ボ-アの原子模型、プランク定数、ハイゼンベルクの不確定性原理などなどです。磁気一つをとっても、分子内磁気を認めるか否かの問題があります。光太郎は、磁気は分子間の摩擦によるという考えを捨てず、仁科芳雄と激論になりました。私は物理も工学も素人ですが、マックスウエルの電磁方程式を素直に解すると分子の内外を問わず磁気も電気も存在する、という結論は容易に出るとは思いますが。
61歳東北大学総長になり10年間務めます。戦後公職を追放されます。1949年79歳の時、東京理科大学学長を委嘱され、これを受けます。1954年84歳死去。
参考文献 本多光太郎 吉川弘文館
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行