marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

今度は、他の方の病院付き添いに

2024-01-17 10:41:03 | 日記

  昨年末より、正月にかけてのプチ入院は、ちょっとホテル気分?であったけれど、これはこのための予行であったのかなぁ。

おひとりでお住まいで好意にしていただいている101歳のお婆さんの心臓の具合が悪いとショートスティから連絡があり、看護師と共に病院へ付き添うことになった。

しばらくぶりでの再会に、にっこり手を握りよく来てくださったと一瞬、満面の笑み。けれどだいぶ心臓が弱まっておられるようで看護師さんから、耳も遠くなっているので普段のようにお話は負担が掛かるので少し控えていただいて、とアドバイスされる。
 
先に病院で待ち合わせすることになった。病院は大繁盛。同じ循環器でも僕の入院した専門機関センターではなく、街なかの大病院。僕より歳上のだいぶご高齢者に大人気。車椅子の大渋滞。ここは、人気があるからなぁ。周辺の駐車場はいたるところどこも満杯。それで、道路を隔てた広い駐車場のコンビニをお借りして止めさせていただき少し歩く。
 
雪交じりの小雨が降ってきた。
 
午前の様々な検診を行い。午後から医師の診察。午後から医師の診察を行って、診察室にお入りくださいと、看護師と共にもちろん、本人も共に診断結果を聞く。
 
胸のレントゲン。心不全とのことでレントゲンを見て医師の話。心臓のあたりが、だいぶ白く広がって左の肺が1/3程になって縮小していた。血中酸素濃度も低いのでかなりシンドイのは予想どおり。白くなって広がっているのは、胸水がたまっているのでしょうと・・・。心臓が悪いと(前天皇での心臓術後でもこれがあったことを覚えていたが)こうなるので、と・・・医師。
 
施設に戻られて夜にでも緊急に来られても、なかなか対応ができない場合がありますから、一度入院されて様子を見られた方がいつでも対応できますから安心でしょう、ということですぐ入院となった。
 
それで、病院は異なるが、一通りの入院手続きは僕の時と同じで、諸々の書類手続きは施設の方から東京の姪御さんに書類を送付していただくことにした。
 
************
 
昨年度から、初年度かけて多くの著名人が亡くなられたなぁ。災害や事故、世界的にもろもろ戦争や天災があり、世界中のこの地球に住む人々の痛みが、本当に多く押し寄せてきたけれどしばらく続くのだろうか。
 
この地に居る知人の実家が石川県で地震後すぐにメールを出した。心痛察しますと。
 
すると、親は避難所に待避と連絡がついたが、25km手前で道路が寸断され先に進めない、と大きく地割れに入った道路の写真が送られたきた。本当に心が痛む。
 
***********
 
このお婆さんは、僕の所属する教会の戦時中も教会と付属の幼稚園を家族で守られた来た基督教会の牧師の娘さんである。四人姉妹の三番めで、100歳を迎えた時、私が最後に一人残ってしまったわ、と話されていたが、なかなかこれが信仰というものか、たいそう気丈な方で変わらずお元気そうであったのだけれど。
 
秋田犬(いぬ)が太平洋を越えて、貰われていったのはヘレンケラーがこの地に来たためである。10年ちかくも飼い主を待ち続けたことに感動したヘレンケラーの希望したことだった。その来日に際しこの秋田で通訳を務めたのが、このお婆さんの父親の牧師であった。昭和12年のことである。
 
***********
 
秋田でもっとも歴史のあるプロテスタント基督教会である。付属幼稚園も最も長い歴史がある。この教会の歴史に『みちのく秋田の赤い靴』で映画や小説にもなった宣教師のお話がある。(YouTubeでもう見れないかしら)
 
この宣教師と共にアメリカに渡った女子の像が、公園となっているお城の登り口にある図書館の入り口の脇に建っている。
 
***********
 
それと初代二人の宣教師の内、お一人の婦人も教会の墓地にお子さんと共に眠っている。
 
その後、初代宣教師のお一人は秋田や山形で、さらに東京に行かれて伝道し、今は青山墓地の外人墓地エリアに眠っている。国民が困っていること、第一に地方の貧困。子供の栄養補給にと山羊のミルクを得るため、その餌に秋田の田舎に沢山咲くクローバーはこの方の尽力により広がったものだそうだ。あのマッカーサーが出たウエストポイント士官学校のエリートだったらしい。
 
東京に行かれてから税金に関する提言を政府におこなって、当時の伊藤博文にかなり感化を与えて「単税太郎」と呼ばれたそうだ。これも本になっている。宣教師らの働きは、東京で大きく広がり、今、幼稚園から女子聖学院や聖学院大学、大学院までと大きな広がりとなった。
 
この地においても、小牧近江という名で知られる人らの運動の『種蒔く人』という雑誌の創刊があった。その仲間の一人、今野賢三は教会の洗礼者名簿に載っている。市内から外れた土崎という当時の部落になぜ、近代的な思想が目覚めたのかというその原因の推測は、その地に初代宣教師たちが、伝道所を建てていた(記録にある)からなのだと思われる。
 
封建的な当時の考えに、宣教師らが語るフランスの人権宣言のような語りは、大いに教会に通う若者らに感化を与えたことだろう。現に秋田の文学に、フランスにも遊学した小牧近江らの活動は今も必ず秋田の文学として語り継がれる話となっている。
 
***********
 
基督教会の歴史は、いづこでも霊の救済(永遠の命)を目指すための礎の働きとして、その歴史を持っている。
 
さて、長くなりそうな教会の話はいつか又、書くことにしよう。彼らは異国の地にまで来て命をかけて、福音なるものを伝えようとしたのだろう。今回は、戦争時代を家族で教会を守られた来たお婆さんの入院の話から、外れてしまったが霊の救済を伝える人々の一生の意味合いはいかなる形においても天における栄光ある記録になっていくことだろう。
 
青山墓地に眠っている国政にも影響を与えた初代宣教師の何か言い残すことは無いか、という返答への最後の言葉を残し天に帰って行かれた。
 
『私の人生がわたしのメッセージです』・・・

2024年入院生活終わり、元旦、解放、新年序説(で、一体どこが悪かったの?)

2024-01-05 18:11:17 | 日記

2024年新年が明け、院内はとても静かで何も変わらないルーチンの生活が続くようだった。

当番の看護師も交代制の方々が、毎日、挨拶がてら名前を言いい、bedに近づき、血圧、オキシメーターで血中酸素量を測定、それから両腕をあげ、手のひらを開いて目を閉じてバランスを見、手のぶらぶら、指折りなどをさせて動きを見る。最後にE.Tの映画にあったように看護師の指先をタッチ、左右に動かしその位置でタッチと。ペンライトで瞳孔を確認。これは毎日の確認事項だった。

前回書いたが、午前に最後のMRIをおこない、残念ながら画像を見ることができたのは、入院した当初の画像のみ。午後に突然、元旦の担当医が回ってきて、今までの診断から退院できますがいかがされますか。・・・それはもう喜んで、という具合で、いろいろ簡単な書類を書いて、静かな院内をエレベーターでおりる。

静かな病院、一階の受付にはひとり。

元旦は青空も見えて雪も無く、少し寒かったが晴れ晴れとした気分だった。道路のお堀を挟んで城跡にある神社がある。病院の門の向かいにそこにのぼる坂があり、参拝する多くの家族が行き来していた。そういえば新年だったな、人生初めての入院生活、実に大きな曲がり角となった。・・・・(まさに、帰宅後、石川県の震度7以上の地震被害、羽田上でのJAL炎上事故が立て続けに起こった今である。)

*************

スマホの画像検索で脳の断面を見ていた。いろいろあるけれど、ここに表示したのが一番分かりやすそうだった。

初日、MRIを見ながら医師と会話した言葉に、かんのう、という言葉がでてきたので、おいおい、脳みその真ん中かよ~と思ったが、脳幹だった。そこの延髄を通る血管が細くなっている、とうことだった。

太い血管もあるけでずいぶんボコボコですねぇ、というと若干脂肪がついているような話。コレステロール?? とういうような応対に、個人差がありますから、いやそこではなくで、その横の細い血管です。ここが詰まり気味。・・・・そうすると、今のような症状がでます。ひどくなると右半身が動かなくなります、と。

こんな話をしたのはMRI画像を横から見ながらの会話で、ここに掲載、無論できないが、顎から脳天にしたから見た輪切りの断面画像には、ちょうど延髄あたりは、くだものの桃の断面の種のような部分に見えて、その箇所の片側にうっすらと白い線が入っていた。

本来なら、ここは全部暗く映るんですが、発祥の起因はここです、と。

          

************

で、現象はどういう症状になるかと言えば、多少、右手と右足のしびれがある。それと、歩くと右足の腿からすね、足首に沿って突っ張る感覚である。歩く時、注意しないと右側にふらつく。聞けば、杖をついても(僕はまったくそういうことはないが、将来わからんけれど)歩くように心がける人を時折見かけるが、あれは、不具合状態を脳の他の部位が、平衡を補填するように働き通常に戻す機能を助長するように、いわば訓練しているということらしい。

薬以外は、リハビリ(といっても毎日4000歩くらいは歩くとか)、生活の心がけ、いつも言われる塩分引け目、水を1.7L飲むとか、日常生活に注意心がけていただく、という最終アドバイスだった。いずれこういう神経系は、結論から言えば完治はない。電気の細い配線が、焼け焦げて芯の細線が電流を流しているようなものだ。それで、これ以上、悪化しないように心がけること、と僕は解釈した。

************

具合が悪くなって吐き気がし始めたのが、25日のクリスマスの次の朝方からだった。朝の礼拝、午後から他教会の礼拝にも出て、夕方からのイブ礼拝にも参加して、夕食はクリスマスプレゼントで頂いたお土産のお菓子、どら焼きなどを帰りの茶店でコヒーで流し込んだ。これが原因なのか、一日外出して動き回った疲れなのか。

26日、体調が良くならない。ちょと右手、右足がわずかにしびれる。一日様子を見たが、ひどくはならないが、FACTだからなぁ。これはFace(顔が歪む)、Arm(腕と足にちからが入らない)、Speech(言葉がもつれる)、Time(時間が大事!)と何故か頭の隅にあったので。

27日、さっそく専門機関があるので訪れた訳。カルテを今後の為に作っておくのもいいだろうと。・・・その場で、入院です、とすぐ言われ、病衣に着替えられ、入院キットなるものを購入し、一歩も外に出られなくなった。

人生で初めて入院し、初めて新年を入院生活で過ごすことになった訳であった。・・・27日から一週間。

************

最後に、ここから僕のオタクジャンルに入るかもしれない。・・・・27日は病院でお袋を天に送った日であった。25日、クリスマス夜にお袋の居たデイサービスから教会に電話があり、救急車で急患として運ばれたのでそこに行ってくださいと慌てた電話があり。26日、一日、病院でひとり見守って、27日の午前お袋が天に帰っていった。

退院した外観は、まったく僕は変わらない。お袋が気をつけなさいよ、と教えてくれたんだろう。波乱万丈の人生を送った人だったからなぁ、などと書き始めると、話がとまらなくなるので、一週間の入院生活(食レポ)の話をおしまいにします。 ・・・・


入院先で新年を迎える(その9:突然の食レポ終焉)

2024-01-03 19:43:17 | 日記
結論を先に書きましょう。ただ今は2024年元旦の昼。実際は、入院中は初めてのスマホでのタッチペンなしでの作成、配信で同時中継のような具合でしたが、実際、今は正月三が日の3日というブランクが開いたのは、下記の理由によります。
 
(それで、最後の食レポは、自宅のPCからです。やりやすいなぁ。)
 
元旦2024年1月1日、午前のMRI、血液検査の結果が出たのでと、担当医が回診されてきて(元旦の当番だったもよう)、で、いままでの経過から退院はできますが、いかがされますか、と。
 
突然かよ~、と思いましたが、いろいろやらねばいけないこともあったので、是非、即、了解して午後にでもと喜んでお願いした。
 
それでは、昼食後に退院の準備をされてください。あとは看護師のお話を聞いていただいてお大事にと。担当看護師は、多々親密なお話もしたが(ちなみの若い男性ですが)、この期間、お休みを取っているので、突然、挨拶もなく退去することになった。
 
~~~~~~~~~~~~~~
 
昼食後、看護師から退院後の話を聞き、午後2時頃、6日間の患者生活から解放された。(元旦午後)。診察受けたのは捕囚されたのは27日からなので、実質1週間だが、レポは途中からの配信となった。

それで配信入院6日目の最後の昼食。  元旦の昼食。(わ~、スマホの写真はサイズ大だとPCでとても拡大サイズになった。)

なんと、赤飯でした。鯛の粕漬け、タケノコ、キノコ、人参、レンコン、エンドウのお煮染め。なます。ミカンの入った寒天。茶碗むし。今日は雪も殆ど溶け、晴れやかのいい天気。

~~~~~~~~~~~~~~

病院食をとおして、けっこう「ご飯」をがっつり食べるものなんだなぁ、と思ったこと。後は、バランスがいいのだろ。薄味で塩分は控えめ。当然のごとく、病院食は何g以下とか、栄養価も考えられているのだろう。

人生初めての入院で、新年元旦まで、そして解放は、よい機会が与えれたと思っている。肝心の車には、書類を免許センターに提出して、許可が降りるまで乗れない、とハンディがついたのだけれど。車を病院において帰らないといけない。今日は3日で、知人に協力をいただき何とか持ってきた。いずれそういう手続きが済むまで乗れない。

~~~~~~~~~~~~~~~

で、すぐに帰宅できたんだから、お前はそもそも、どこも悪くないのではないの、と思われそうだが、これも自分のからだを少しく知りたいと思っていたので、かなり危険予知をして検診を受けたので、大変、良い機会が与えられたと思っている。

①スマホでのブログ配信の方法を覚えた。 ②自分の脳をMRIで見てみたいというのは、ささやかな前々からの望みだった。 ③昔から考えていた自分の体の弱点を、つまり脳内の神経系や血液の流れ、おまけにCTスキャンで心臓を、血流や弁の動きまで心電図と音つきまで観察できたこと。 ④病院食のこと。 ⑤作業療法や理学療法の実際の受審(作業ではもっと様々な方法があるようだが) 

⑥看護師が毎日、定期に行った確認作業は、血圧測定の他、作業確認として横になったまま、映画のE.T のような看護師の指先と自分の指先を合わせられるか、左右の手でおこなう。⑦足は、左右でおこなうが、かかとで他の足の膝をトントン叩きそれを足の甲までずらすという作業。⑧ペンライトと左右の瞳の虹彩、瞳孔確認。 

作業療法も様々な簡単な作業から、高度なテストのようなものまであるらしいが、いずれ、脳に欠陥があると何処かに異常が現れるらしい。

それで次回、結局、何なんだ、ということだが、高齢者になれば多くなる脳欠陥の一つである。次回、紹介します。


2024/01/01入院先で新年を迎える(患者ID163406)

2024-01-01 10:00:10 | 日記
2024年年が明けた。患者ID163406

昨年末27日から身に着けているものは、病衣上下、WiFiで飛ばす心電図装置のみ。Bedに横になりなりながら。

今朝は採血があるので、朝食はその後、と、ここまで書いて採血が。。。

遅ればせの朝食数の子、黒豆、かまぼこ。オフと豆腐にネギお吸いもの。筍ささぎと人参、糸こんの煮付。牛乳。お飾りは掲題写真。

この後 MRI。耳栓してあらゆる音のオンパレードの装置。

血圧と体温と手と足の動きのチェック。
~~~~~~~~~~~~~~~
こういう所に居ると、朝、起きると芋虫になっていた、というカフカの変身という小説を思い出したり、遠い昔、TVで見ていたプリズナーNo.6というドラマを思い出す。

No.6 と名付けられた男が何不自由ない町に閉じ込められ、逃げ出そうとするが、そういう時、大きなオレンジ色のバルーンが追い駆けて脱出を阻もうとする。

マンネリ化した社会から脱出しようとするが、それが出来ない。何か哲学的な感じのするドラマだった。

パトリック·マックグーハンという役者がロータス7という車で快走する場面が気に入ってたんだろうなぁ。
~~~~~~~~~~~~~~~
それにしても、いきなり日常生活から乖離され、情報源にTV、スマホがあるとはいえ、このよう格好で2024年を迎えるとは思わなかった。

家の庭に魚肉ソーセージを食べに来るニャンコはどうしてるかなぁ。

予定パネルを見ると何も予定は組まれていない。早々に脱出したいのだけれど。

~~~~~~~~~~~~~~~~