marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

『雪国』その後

2024-01-25 16:13:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 TVでは、島村が悲しいほど美しい声と褒めちぎった葉子の方が、見た目、僕なりに好みに思えたんだけれどねぇ。気がふれた様子は見えないし、そもそも突飛なことがなければ現れない普段は隠れている気がふれたような表情をしない、ということもありえるのだが、物語や画面の中では駒子が、葉子のことを嫉妬深い、とうことで決めつけるけれど、それ以上のおかしさは読み取れなかった。

しかし、女性という中にはそれはそれは異常なる向学心や女の虐げられた地位に爆発するような不満をもって生き抜いていた女たちもいたのだろうから、人の気質から見れば、それを抑えたあきらめきれぬ思いで内心気がふれたようになっていた女もいたのであろうことは推察できる。葉子はそういう設定だったのだろうか。

気がふれているというようなことは、特にあからさまに公言することは、まったく村では禁忌事項となっていたものなのであろうか。それが、第三者的にスケベ心で東京から訪れていた島村には、特別に違った意味合いで、その表に現れない異常さが、その女の怪しげな美しさとなって、ことあるごとに美化することになったのであろうと思われないこともないけれど。

駒子にとっても、その鬱屈は、まずが閉鎖的な田舎村であったこと。第一に貧しかったこと。村でいい金を稼ぐにはそれなりに身を落として芸子になる仕事をしなければならなかったこと。芸指導の師匠には、それなりの授業料を上納しなければならなかったことなど。さらに、いいなづけにと考えていた師匠の息子が東京で働きだしたときも、駒子は芸子の上納金の一部を息子の行男に届けに東京まで行っていたことなど。

村に戻って芸者の仕事をするが、同じ村の葉子が、なぜ島村が乗った列車に病気になって回復の見込みのない村に帰って来た行男に看病しながら同乗していたのかなどは、皆目わからない。

葉子も東京にはでて看護婦の仕事をしていた。彼女は行男が東京に行くときに、実は追いかけて行っていたのだろうか。実は行男と生活を共にしていたのだろうか?死の床で行男を下の世話までして看病するが、この辺の関係はさっぱりわからないのであった。

この実は気の触れた女の妖艶な美しさ?! いづれにしろ、島村の女性に対する異常なほどの美化意識は、これも時代の反映というべきなのであろうか。

普段には、美人に見える年ごろの女。しかし、普通の生活においても、一転あることにおいては、急に狂いだす。実は内面、そういう気質を持った女だったというのはどうだろう。

それは、先に述べた村の閉鎖的な環境、貧乏と、閉鎖という村の環境と女という生き物の地位の低さ、その閉塞感が雪深いとう状況設定で、一層、内向的に自己を押し込め、追い込むことになった。そういう困窮とした状況での女のいきものとしてエストロゲン(女性ホルモン)のバランスが崩れると、もう狂うしかない・・・か。

実際にそういう女が存在しているということは、体験的に知らないことではない。。。

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2022の4月のブログに書いたが、川端康成のこの『雪国』の草稿メモが見つかったとのことを書いた。そのメモには。「葉子は、駒子のこと思い、島村を殺した」・・・という設定もあったということだった。

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昨晩からの雪は、あちことに大雪を降らせて道路の渋滞が報じられている。地震のあった能登半島の状況には心が痛む。雪は朝一面、地面を白くしたが僕のいるところは、まだそれほど積もらず、ブーツでも大丈夫。けれど今晩、降り積もるだろう。

毎年、雪が積もると川端康成の『雪国』を思い出すのであった。・・・