marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(269回目)ローマ書講義 Ⅴ 「信仰義認」(M・ルター)

2017-02-21 18:25:49 | 日記
◆キリスト教における(パウロにおける)信仰とは、地における人間の下から上(神)への信じて仰ぐばかりの行為ではなく、その行為は神(上)から下(人間)への行為(キリストの事実、聖霊としての今も現存するという行為)でもあり一体となっているものであるということになります。したがって、信仰を持つとは、その人間が(無意識であろうけれど)そもそもが神の行為と一体となることであるとなります。これは、キリスト教(僕個人的には宗教ジャンルの一つに分類されるようなこの言い方を好ましく思わないのですが)が他の宗教と断然に異なるところだと強調しておかなくてはなりません。それは、第一のやはり、イエスが地上に人の形をとって来られたという事実につきるように思います。神と人が一体となるところ・・・ 従って、「信仰義認」とは、神が人に対しての承認と同時に神ご自身がご自身に対して存在証明なる事実の言葉でもあるのです。「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる」(ローマ 1:17)ここに極まれりです。
◆パウロは言います。「生きることはキリスト。死もまた益なり」「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない。キリストが私の内にあって生きるのである。私が今このように生きているのは信仰によって生きているのである」と。この言葉は、パウロの人生上の究極のことばであったろう。
◆神が地上に人間を創造した時、神は非常に喜ばれた。しかし、その後、離反する。地上の人は、犠牲を捧げて神に許しを請う。長い歴史を通して、神はその犠牲に自分の独り子を地上に遣わされた。滅び行く地球からの人類の脱出、すべての障害、人間一人一人の中にある障害をも含めて、彼はすべてのそれらを担って父の元に帰って行かれた。聖霊を送り、信ずる者に声を今もかけられている。それは、独り一人の内なる霊に。罪の払う値は死なり。死はすべての人は必然のこと。彼を信ずる者は、肉体がこの地上で死んでもかの世で永遠に生きると。
◆歴史の中で確かに、たくさんの宗教組織がキリスト教に生まれ、多くの人から誤解や嫌気や確かに歴史において人間は失敗も犯してきました。しかし、今やひとりひとりが自分に語りかける神の声に帰る時だと思います。
◇ここまで来て、以上のようにキリスト教の信仰とは、他の宗教で普通言われる「信仰」と言われるものと異なるのではないかと思われきました。それは、言葉を発する際のその人の先理解の内面を考える際に、おそらく普段の何気ない会話「客観的対象について情報を伝達する言葉」と呼ばれる以外の言葉の要求がキリスト教において求めらているように思われるからです。それは、例えば、聖書を読むとか祈りをするとかの場合です。何とはなくとか、お題目を唱えるとかということは、キリスト教ではまずあり得ないからです。自分が常に確認されるのです。プロテスタントの場合の祈りは、自分の今の言葉を要求するからです。それは、何も困難なことではあません。普段、生活でいいのす。そこに「信仰」あるのです。
◇僕がいつも励まされる言葉:復活した朝にイエスがいなくなった墓の前で主の使い(マルコでは若者となっている)が、こういうところ。
 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』(マタイ28:7、マルコ16:7)
 福音はガリラヤから始まった。弟子たちが漁をする普段の日常生活のあった場所から始まったのです。復活したイエスには、そこで会えると言っているのです。それは、今日も私、そしてあなたのいるその場所・・・ 

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