marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(733回) (その3)自由とは欲望を満たすことだったのか

2020-09-13 20:24:42 | 日記

◆開拓者たちは、確かに「大草原の小さな家」という人ばかりではありませんでした。一攫千金を狙う荒くれ者も沢山いたわけです。新大陸は、聖書の神の与えたもう乳と蜜の流れる土地であり、同時にアブラハムに神が示された行く先を知らずしてのその土地であった訳です。良い面の考えでは。しかし、メソジストのウェスレーは、アメリカ大陸での伝道に落胆してイギリスへの帰路についた程に、粗野な人間がほとんどだったと思います。というか、人間のすべての束縛から解放された、何しろ行く手にあるものは、所有できるという欲求を満たすであろう対象が広がっていたわけですから。金や石油が産出されれば、いっそう我先にということになる。話は一足飛びに現代になりますと、一攫千金のアメリカンドリーム、個人主義、人権などの確立などの中で、やはり銀貨30枚でキリストを売ったユダがいつも背後について来るということに心しないといけないということになるのでしょう。自由の獲得の手段はお金が一番てっとりばやい。同時にお金の流れはわたしたちの生活を豊かにすると同時に、その手段が目的になればもう周りはどうでもよくなるという具合です。日本の側の「硫黄島からの手紙」という映画に対して、対のように同時に作られた「父親たちの星条旗」はなぜそんなに見られなかったか。戦争を糧にもうけをもくろむやからが沢山いたことは昔もいまも変わりはなくアメリカは当時からそうだったのが露骨に描かれているからです。問題は、それが個人の自由の保障として守られ、政府が道徳などとして規制は、個人の欲求に介入することは伝統的にありうべからざることとなっていたからです。消費は善である。起業することは奨励される。それは、わたしの喜びはあなたの喜びである。それが変質してわたしの欲望はみんなの欲望でもある。と起業するものが考えても推奨されることとなっています。いまは行き過ぎて、自分の欲望のためには他は排除する、あるいは利用する、あるいはそのように気がつかないうちに人々は欲望の被害者になっているという具合です。未来に向かわしめる欲求は、いかなるイメージがあるかと考えてみた場合、信仰による希望と呼ばれるものは実に困難な道であると言わねばなりません。結局、暖簾に腕押しかのように、手段と目的が逆転すると思えてくるものです。パウロは、わたしは空を打つようなボクシングはしないというようなことを述べています。目標ははっきりしていたにも関わらず、わたしたちはその光の享楽に闇の中の十字架を忘れやすくなっているといえます。あるいはまったくの勘違いが起こってしまっています。・・・続く



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