marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

〈Ⅳ〉不思議なこの国の礎は黒子の存在を暗示する:親愛なるSへ(その20)

2022-03-17 16:43:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  親愛なるSへ、先日書きたらなかったことを追伸します。

◆鎌倉殿の背後で暗躍した黒子の正体のヒントはこの写真にあります。東国武士が歴史上に現れて、歴史を動かしたのは、集団的相違がありながらも黒子たちが、祈祷によって啓示された国の時勢を先んじて大いに活躍したからなのだ。この地は筆頭であって、東北の各地には今も様々な信仰の形が残されている。「いざ、鎌倉へ」と参じた多くの僧兵はこの当時の聖地に最も多くいて関東、東北の各地の仲間に声を掛けたのだ。彼らの謂れといえば、これもこの国の古代にさかのぼる。古代神聖な神の宿るところは山であり、岩であり、巨木などであった訳で、今も山の頂上ばかりか、登り口に異界を感ずる気配を感ずるところがところどころにあるのを感じるね、少なくとも僕は。神社という社(やしろ)が出来てきたのは、言葉や文字を駆使する渡来人が国に同化して日本人になった神々と称した彼らがいたからなのだということ。しかし、都の天皇を背景にしたこれ見よがしの政治にまとわりつく御殿のような社(やしろ)に彼らは、神の啓示に対する謀反と感じていたのだな。東国武士は初め東北制定に用いられたのだけれど、根は大和や北九州の政権の歴史にたいして自己を守っていくためにも(この地にはさらに古代の同根である帰化人たちがいた)一致団結すべく反乱を起こしていくわけだ。

◆この国の山々は登りに程よい高さだし、第一清める川の流れがきれいじゃないか、太陽が昇るこの島国、山でご来光を拝むことができるこの国は素晴らしい国ではないか、という彼らは第一に思った訳なのさ。政の中間に立つ彼らは、神からのご神託を受けて、決して名前があがらずとも実際にこの世に神のご神託のあるべき姿にしようと行動したのだな。

◆人生の2/3くらい生きて来てようやく僕はこの国に精神的基底を発見したように思っているんだ。そう、今も厳然と流れているね。この正月もBS放送で、世界の民衆の宗教を少しく観た。必ずというほど、正月にはまず、お寺の除夜の鐘をはじめ神社詣で、由緒ある神社や今も行われている荒行や修行僧などの映像を見るだろ。高野山の空海に毎朝供物を捧げることや延暦寺の千日回峰、永平寺の修行僧、それからスペインの聖地巡礼、エチオピアの地下教会、インドのヒンズー教の寺院の人々の祈り、今年の正月は興味深々だったな。

◆雪がいつもながらに多かった東北は、朝目覚めたとき、えらく寒いわけ。ただ、永平寺の僧は4時半にに起床して5時から座禅を組む、150名ほどが息を白くさせながら道場にはいる。マイナス10であると。御粥とたくあんとゴマとみそ汁など、些細な食事。道元禅師はお経など何も隣国などから持ってこなかった。「只管打坐」と。言葉や文字を超越している所作の中に求める物があると・・・。当時の仏教界へのもの言いで、延暦寺の僧は永平寺をつぶそうとかかるが、波多野という豪族が助けるんだな。仏教界の陶冶、宗教界ではいつの時代も起こりうる。歳末助け合いで、雪の中、お坊さんが編み笠をかぶって杖を片手に五人ほどで街を歩く。僕の町では曹洞宗が多いからなのか。少なくとも、太陽が昇る東の果てのこの島国でこのような形而上学的、精神性の継承が行われていることにこの国は決して亡びることはないだろうと思ってしまう訳です。

◆結構、知られる渡来して帰化した秦一族は何故、歴史上に殆ど出て来ないのだろう?聖徳太子のブレーンとして働いた秦河勝の出た秦一族は、まさにとても神の御心に沿った良心的な黒子だったろうと思うのだけれど。今も名前を継承するとか変化して、秦、羽田、畑、波多野、畠山とか・・・優秀な方が多いように思うな。僕が多くの渡来人が日本に来て帰化して、日本人になってこの国の民意が隣国などに比べて高いように思うのは、まさに彼らが日本中の各地にレビ(根が旧約聖書の民という設定をすると、記紀などで海から来た神々が同根のように書かれているように読める、国譲りとかね)が、自分たちのもって生まれた神からの使命をこの国に広めようとこの東北の山々にも修行して歩いたからではないだろうか、と時折、思う。ハレ、ケガレ「我清ければ、汝らも清かるべし(聖書)」と。それが民衆に根付いているように思う。

◆太秦(うずまさ)は映画村。タイプで”うずまさ”と打つと大秦(だいしん)と漢字が出るでしょう。これは元はおなじで古代ローマのことなのね。僕が聞いているところによるとあの中国を統一した秦(しん)という国が漢に惨敗し、日本に渡ってきた秦氏(はたし)が大変な技術集団だったらしいので、機織(hataori)は秦(hata)からきているらしいし、お酒や漆や製鉄や芸能(能などはまったくそうである)、所謂、何からなにまでという感じで技術をもたらしたらしい。で、彼が元は西からきた失われたイスラエルの10部族の一族だったろうと言われているのは、youtubeでもよく見ることができる。それどころか、僕は古事記などに出てくる神々は海から来たと所どころ書かれているでしょう。彼らは時代を経て順次、来ていたんだな。当時の後発でこの国にたどりついた秦氏らは、当時の天皇に機織物をうずたかく献上したので、その場所が太秦と付けられたらしいのね。

◆神道大辞典などで八幡神社と調べるとね、八幡神社は渡来し帰化した秦氏が日本にもたらしたものだと出ている訳。太陽の昇る今の利根川の東先端部にある鹿島、香取神社は、もっと古くから来ていたわけで。八幡は九州の宇佐八幡が基と言われているけど、部族の中で秦氏は後発で大陸にいる間に(旧約の民だったから)、出て来た故郷に自分達の先祖が将来現れるであろうといわれた救い主、つまりイエス・キリストが誕生したと西からの頼りをを聞き及ぶわけだ。ネストリウス派(景教)と言われて、マリアは聖母といわれるが、カミの母とは言えない、と分離された東ローマから東へ伝道をするだな。当時宗教に寛大だった隣国中国では大変流行したらしい。空海が唐へ行ったとき師の恵果和尚から景教の寺も見るようにと言われ、影響を受けたんだと思うよ。当時、「大秦景教流行碑」が建てられ、そのレプリカが高野山にある。高野山大学では一般教養で聖書も学ぶらしいから。

◆で、秦一族はキリスト教に改宗したんだな。それで、政治の面舞台には日本でキリスト者が0.1%にも満たないといわれるように顔をださない、そう思われてならないのだ。キリストを信じた秦氏は、日本の民衆に神を伝えよとしたんだよ。だから、日本のあちらこちらに八幡(yahataとかhatiman)という地名や神社が多数あるんだな。近江八幡、代々木八幡、僕の近くの住所にも多数ある。秦剛平とかいう聖書学者もいるからね。

◆この国は、テルマロマロエの漫画で、平たい顔の種族がもともとだった訳だが、曰く、順次彼らが、この国に同化してまあ、優秀なというか、深層では同根の唯一のカミ、天地創造のあの神様を信じていた部族が、生命の基であろうとそこの地を目指して東へ東へ来た訳なのだ。んで、鹿島や香取のその先は、もう太平洋だからそこに古代ユダヤ人のレビ(日本では神官)達が礼拝所を設けたというわけなのだね。そういうDNAが多く入り始めたので、活躍する東国武士の源頼朝が鼻が高く、細おもてのうりざね顔のイケメンであったというのは、遺伝学的にも確かなことなのね。

◆後発で大和や北九州の古代の物語が記紀として著されるけれど、本来の関東には先んじて部族、それぞれは来ていたのだな。そこで、まさにユダヤ的に(彼らは旧約読むと神の御心であれば殲滅するでしょ。怖いことに。始祖ヤコブのように現生的に欲を満たすこともやるといえばいいか。)本来、自らの神の取次をし啓示を知らしめる立場にある預言者が、政治に恣意的に入り込み、自らのこの世の地位と権威を永遠なるものにしようと天皇の地位を利用し、しかも黒子たる地位をあくまで隠し、政治的天才の素質を笑わし影響を及ぼしていくのが、中臣(のちの藤原)なのであった訳。(この発見は僕にとっては大事件なのさ。まったく政治的天才だよ。)金の湧き出た東北、平泉、馬の供給地でもあり、北の日本海での広域にまで支配が及んでいたが、仏教による安寧な国を築こうとしたが時代のヒーロー義経を作ろうと画策してきた藤原氏、東北の地に藤を佐(たすける)と名字を多く与えた佐藤が多いのはいかに盛大な権力であったかは、NHKの「日本人のお名前」でも知りうるところではあるなぁ。・・・長くなった。続きは次回・・・