marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(522回目)(その1)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める

2018-07-16 10:17:40 | 日記
 掲載したかったメッセージの抜粋を以下に記します(以下◆の以降となります)。これは、日本基督教団出版局『信徒の友』『こころの友』編集長の林牧人牧師の地方教会での130周年記念礼拝にて話された内容の抜粋です。そしてこの内容は、全くそのレールに乗っかっている人びとを相手に語られたメッセージでありますが、又、未信者の方でもその語られた内容の背後にある真実は何かという問いかけに耳を傾けて貰いたいと思います。生きることは、死を思いその痛みを持って善くその個人に与えられた時を生きる事であることが総じて語られています。確かなる自己を生きるとは、誠の人なる方を相手としての対話が無ければ(このところはまさに信者向けではありますが)おそらく確かな自己の基軸を持つことはできないであろうと、その訓練が与えられた人生にあるのであると語られています。
◇しかし、僕が今、これと対立するような人間の不条理を言うアルベルト・カミュの考えに思いを寄せてきたのは、まさにその対立するが故に自己の足場がよく確認できると考えているからです。デリートになるその隙間、列車に乗り込むかどうか、乗り込んでしまったら行き先が分からなくなるのではないかという不安(かのマルクスは宗教は阿片であると言った。かのニーチェは、キリスト教は弱者の強者に対するルサンチマン(奴隷根性)であると言ったことはよく考えてみることです)、まさにそういうような自己が見失わぬようなその点にあの人の痛みもあったということ、ここには全く逆に足下を見れば、自分には手に負えない生まれつきの天上に向かうにも昇華しきれない気質を持つ自分の姿があり(私はなんと哀れな人間なのだろうとパウロは書いた)その痛みに同期することによって、精進しつつ上昇していかねばならないことの意味が深く埋め込まれているのです。今、この西日本豪雨における災害、まさに全ての財産、命が流される被災。これはまさに心痛む不条理です。カミュは小説『ペスト』を天災としてその不条理を著したのです。
◇その、自分も気づかぬ”しがらみ”から脱却しつつ、まさにありとあらゆる全ての生物の命とその場(今という全世界)を感じつつ、その中の一人であること、そして又、生命のエネルギーというようなものも感じて、今という時に同化して前進すること、そこには現存する目に見える不完全(聖職者といえども地上には完全者は存在しません)な人間の言葉(文字を含む)ではなく、まったく、かの方と対話する真底の自分の言葉が求められていると僕は思うのです。他の心安まる本も沢山あろうにと言う中で何故イエスなのかと言えば、彼は先に述べたこの全世界、この世もあの世も、そして過去、現在、未来に渡って世界を創造されて今を生きているというこの措定があるからなのです。それさえも”しがらみ”ではないかと言われれば、もうどこにもぼくらには存在する意味も場所も無くなるのではないでしょうか。
◇さて、前置きが長くなりました。列車に乗ってさらに、その中におけるキリスト者の目的に向かっての生き方、プロテスタントも様々な教派に別れてきましたが、それぞれの時代に必要な語り掛けがあったということになります。沢山の説教や話があり、そこから入るとどれがどれやらですが、どうか、どこからでもいいのですが、”しがらみ”にまとわり憑かれて、かの方が問うているのは、人の言葉を媒介にするのではなくて、第一は、あなたは私をどう思うのかと、今、生きていると言われる彼へのあなたの返答の言葉を第一に求めているのだということは決して揺らいで忘れてはいけないことなのです。
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◆「潔めを受けつつ、栄えに進み」  (2018年2月11日) <日本基督教団西新井境界主任牧師 林 牧人>
 キリスト者は暦を生きています。この世とは異なる暦、カレンダーを生きているのです。教会は、今週の水曜日、灰の水曜日から、レント、四旬節に入ります。特に1年の季節の間、十字架を見上げて自らのことを省みつつ歩む時を過ごします。礼拝のたびごとに私たちは高く掲げられた十字架を仰いでいます。主の苦しみが、十字架が、一体この私とどう関わるのか、そのことを特に心の内に覚えるひとときです。
 「私を誰というか」この問いについて、今十字架を見上げて歩んでいる私たちはすでに、この告白を自分自身が獲得したものとして歩んでいます。主イエスをキリストと告白して、洗礼を受けて教会の枝に連なる者とされているからです。にもかかわらず、この告白について黙っていなさいと主イエスが強く命じておられるのは、イエスをキリストとする者とは誰か、どの様に生きるべきか、という問いに導かれなければならないことを語っておられるのです。 ・・・ 続く