@幕張日記

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再び、靖国問題について考える

2005-10-20 22:26:54 | @幕張の主張
 小泉首相が靖国神社を参拝した事が周辺の国々に波紋を広げている。
相変わらず「来るなら来い!」式に挑発をするのが好きな首相殿、今度も外相の訪韓直前に噛ましてくれた。まあ、靖国神社参拝に賛成な@幕張としては韓国や中国がどうのと騒いでも気にする必要はないと思っているが、台湾の李元総統が靖国参拝賛成を打ち出したことで逆に心配になってきた。

   首相殿。ヤッパ、靖国はもう少し整理しといた方が良くないか?

「靖国神社参拝の是非」が、本来の“問われる”部分を離れ、中韓両国によって「外交の道具」にされている、という問題は以前に書いた。問題にされているのはA級戦犯の合祀。以前この問題に触れたことで、A級戦犯についてその後いろいろ調べていて気付いたことがある。それは、戦時中の兵士達を呪縛した「戦陣訓」が実は昭和16(1941)年1月に東條陸相の名前で全軍に示達されたものであったということ。

戦陣訓は兵士達の道徳を戒めるもので、現代でも通用する内容のものが幾つかある。しかし、その中の第8項の「名を惜しむ」の項はまったく不合理なもので、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」つまり、捕虜になることは恥辱であるという思想を日本陸海軍の将兵達に刷り込み、全将兵に死を強制したことは戦争末期に多くの将兵が行なった“弾が尽きた銃”や銃剣、中には“竹やりもどきの武器”や“徒手空拳”で連合国の機関銃の前に突撃した万歳突撃による玉砕を生み、また沖縄やサイパンなどで多くの民間人が岬から身を投げ、互いの喉を突いての集団自殺を選んだ元凶がこの戦陣訓だった。

「玉砕」と書くと何かしら高貴で美しいものが失われたように思われるが、早い話が犬死で、戦争論から言っても貴重な将兵という人的資源の浪費である。そして後に残るは、3日も経つと遺体の身体全体に蛆が湧くような南国の自然環境の中で、占領した連合国の将兵たちが足を踏み入れるのも戸惑うほどの、日本軍、もとい、日本国民の地面を覆うばかりの腐乱死体の山なのである。

故に、この「生きて凌辱の辱めを受けず」を作成した元首相、東条英機の日本国民に対する罪はどう裁かれたのか?

         彼の日本国民に対する贖罪は?

靖国問題が論議される時、東条元首相はA級戦犯の象徴としてよく俎上に挙げられるが、それらに常に反論する東条家の長女、東条由布子氏の言う「東条元首相も戦争の被害者である。また東条元首相等A級戦犯を裁いた東京裁判は戦勝国の一方的な私刑である。云々…」という主張については、ある一面においては正しいのかもしれない。ただし、それはあくまでも一面的な、「連合国 vs 東条元首相」という角度から見た場合の主張なのであって、もう一方の大多数の戦死者、戦没者を出した日本国民側から見れば「なぜ我々を死に追いやった彼が、我々と一緒に祀られなくてはならんのだ」という疑問が湧いてきても何ら不思議ではない。

この際、東条家のアイデンティティーは横に置いておいて、日本とドイツ、つまりと東条英機とアドルフ・ヒトラーを比較して論じた場合、あるいはムッソリーニと比較した場合、自国民を苦しめ、単に戦争で…という理由では推し量れないほどの理不尽な死を同胞に強いた、時には自身の主義主張を通すが為に同胞を処刑してきた…という点ではヒトラーやムッソリーニは東条英機と非常に似通った存在である。なのにドイツやイタリアでは戦後から未だに同胞から忌み嫌われ、名前を唱えるのも不吉とされる彼等と違い、東条英機は絞首刑によってすべての罪は贖ったとされるのは何故か。敢えて言うなら東条英機自らの手で死に追いやったとも言える他の戦没者と共に靖国で祀られているということはある意味、異質であり、海外ばかりでなく日本国民から見ても違和感があるのではないか。

誤解を懼れずに例えるなら、海外から見た日本の現状は「憎むべきヒトラーやヒムラー達、ナチスの幹部が他の無名戦士と共に国立墓地に埋葬され、それをドイツ大統領や首相を始めとした政権幹部が“英雄”として称え、花を捧げている…」とでも見えるのではないだろうか。このように書けば、違和感がある、とした意味が分かり易いと思う。

また同時に、「軍上層部からの玉砕命令や憲兵隊による理不尽な取り締まりや迫害に苦しめられてきた将兵たちの家族や末裔が、その命令を下したトージョーに何故に日本国民は花を手向けるのだ?」と訝しがっても不思議ではない。

 なぜなら、東条元首相は日本国民に対する贖罪をしていないのだから。

海外の諸国が、もし日本の現状をこのように見ていると仮定するならば、現在の日本の首脳には説明責任があるはずである。靖国は内政問題…と言いつつも、確かに内政だけでは済まされない問題を孕んでいる。なぜなら日本人から見れば「亡くなってしまった人は神様になるのだから、皆平等に祀って当たり前、先祖を拝んで当たり前」と言った常識も、宗教観の違う海外から見れば「ヒトラーやムッソリーニと同じ種類の人間のトージョーを日本人は信奉している」と見えるからである。

もっと分かりやすく言えば「大量殺人犯が死刑になったのだから、死んだ人は皆仏様。だから被害者の家族も彼を拝みなさい。」といっているようなもの。彼が当時の植民地政策地も含む日本国民に課した理不尽な迫害と死は、戦争の遂行とは何ら関係のないものも数多くあったはずで、それは「戦争による非常時の死」ではなく「東条元首相率いる国家による殺人である」とまで言えないだろうか。

そんな形で靖国を見たとき、靖国に祀られたA級戦犯がクローズアップされて、日本が“いつか来た道”を再び歩もうとしているのではないか、と疑心暗鬼になっている海外の反応が過敏に出ているとすれば、それは理解できないこともない。

先の小泉首相の靖国参拝では、相変わらずキャンキャン吼える韓国と違って中国は控えた論調の批判で終始し、春に起きたような反日運動を押さえる傾向にある。春の反日運動の盛り上がりで中国方面への旅行を敬遠し、中国を訪れるツアー客が減ってしまったからだという。
今年は中国ツアーの販売を諦め、やっと昨年の地震と津波の後遺症が癒え始めてきた東南アジア方面のツアーの販売にシフトしていると昔の職場の同僚が言っていた。中国政府としても、一人当たりの客単価が欧米ツアー客の数倍になる大得意様の日本人観光客が激減し、更には中国に進出や投資を考えていた日本企業が躊躇する事態になったことで、やっと中国に対する日本人の反感を和らげようと現実的な対応をし始めたということか。
しかし、中国政府が現実的な対応を始めた、ということは今までの騒ぎは何だったのか。図らずも、中国政府は靖国問題を政治カードとして利用していた事を自ら露呈してしまったわけである。

小泉首相や東条由布子氏は東京裁判の正当性を理由にしたり、または中韓に対する感情的な意地で靖国参拝を正当化する前に、A級戦犯とされた人々が大戦前から戦時中にかけて同胞である日本人に対して行なった罪に対する贖罪について考えてみる必要があるのではないか。たとえそこで東条家のアイデンティティーが問われる結果になったとしても。

         なぜか。

再三、繰り返すが、東京裁判は日本国外に対する罪を問うたもので、日本国民に対する行為については問うてない。故に、彼等は日本国民に対しての贖罪を未だ行なっていないからである。

@幕張的には、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と多くの日本人に犠牲を強いた彼の、逮捕直前の無様な自殺未遂が仮に成功していれば、その後の歴史も少しはマシになったかな…、と思っているのだが。

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