goo blog サービス終了のお知らせ 

本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

九代林家正蔵襲名披露興行(末廣亭)

2005年04月10日 | 落語
前月に続き、林家こぶ平改メ九代林家正蔵襲名披露興行へ行った。

先月の襲名披露興行は上野の鈴本演芸場で行われたが、今回は、新宿末廣亭である。
上野鈴本演芸場を皮切りに、10日間ごとに東京の各寄席を回るのだ。
末廣亭での襲名披露は今日までで、この後は浅草演芸ホール(4月11日~4月20日)、池袋演芸場(4月21日~4月30日)で行われる。

鈴本演芸場での興行も連日満員だったが、今回の末廣亭も、連日満員のようだ。
幸い、前売券を買っていたのだが、それもすぐに売り切れてしまったらしく、開場前には当日券を求める人で長蛇の列ができていた。

末廣亭での襲名披露興行には、「お楽しみ」が設けられていた。
上方から、桂春團治師匠、桂三枝師匠、笑福亭鶴瓶師匠が、交替でゲスト出演するというのだ。

私は、上方落語が大好きで、この3人の師匠はどなたも好きだが、なかでも特に春團治師匠が好きである。毎年東京で開催される一門会にも、必ず足を運んでいるくらいだ。
その春團治師匠が末廣亭の高座に上がるというのだから、これはぜひ聴きたい! と思っていたのだが、前売りを買っていたのと別の日で、しかも平日だったので、残念ながら行かれなかった。
友人は、2回足を運んだらしい。

春團治師匠も、末廣亭という、東京の歴史のある寄席に出演されたことをとても喜んでおられたようだ。
近年、落語界の東西交流が盛んになってきているが、これを機に、東京の寄席にももっともっと上方の師匠をあげていただきたいなと思う。

私が行った日は、桂三枝師匠がゲスト出演されていた。
三枝師匠は、ご自身による「創作落語」に長年取り組んでおられるが、創作された噺の数は大変多く、完成度も高い。
三枝師匠の独演会にも足を運んだことがあるが、とても面白かったことを今でも覚えている。
ホールとは勝手がちがう末廣亭の高座に、さすがの三枝師匠もいささか緊張気味のようだったが、得意の創作落語で盛り上げておられた。

トリの九代林家正蔵師匠も、上方のベテラン師匠に負けじとがんばっていた。
この日の噺は「一文笛」。
この噺は、桂米朝師匠の作によるもので、米朝師匠の一番弟子の桂ざこば師匠も得意とされている。
東京では、故・桂三木助師匠がよく高座でかけておられた。

正蔵師匠も、こぶ平時代からこの噺を高座でかけておられた。
米朝師匠じきじきに稽古をつけていただいたこともあるそうだが、そのときのエピソードを、笑いをまじえて語っておられた。

ただうまくやろうとするだけではなく、気持ちの入った落語をやるのが、正蔵師匠のよいところだと思う。以前の記事でも述べたが、それはこぶ平時代から言えたことだ。
ただ、気持ちが先走ってしまうと、空回りしてしまうおそれがある。
そのあたりの緩急・強弱をつけられるようになるには、経験も必要なのだろう。「気持ち」と「技術」がほどよいバランスで融合されてこそ、名人芸ができあがるのだと思う。
前にも述べたとおりだが、新正蔵師匠には、その素質は十分にあると思う。
あとは、寄席の高座を大切にしながら、大きな名前に甘んじることなくその素質を磨いていってもらいたいと思う。
10年後の正蔵師匠が楽しみである。


<本日のキモノ>
結城紬に有職模様の名古屋帯

以前、インターネットのバーゲンで買った結城紬が仕立て上がったので、さっそく着て出かけた。
写真ではかなり白っぽく見えるが、実際はもっと緑がかっている「薄柳色」である。
八掛も同じ色の紬地のものをインターネットの共同購入で買ったのだが、この八掛にはワンポイントの柄が染められているので、無地の着物の裾からワンポイント柄がのぞく。
軽いので着心地もよくとても気に入ったのだが、ショックなことが。
仕立ておろしたその日だというのに、ソースのシミがついてしまったのだ。
食べているときについたシミではあり得ないようなシミの付き方(左の袖や肩のところに、点々とソースのシミがついている)から考えて、料理が運ばれてきた際、皿の上のものが倒れた拍子にソースが飛んだらしい。
食事の途中で気が付き、あわてて洗面所へ行ったのだが、とれなかった。現在、呉服屋さんに頼んでシミ抜きに出してもらっているところだ。
いちおうレストランに言ってみたのだが、とりあってもらえなかった。
こちらもその瞬間に気づかなかったので、レストランに費用を出してもらおうとは思わないが、レストランの店長(料理を運んで来た人)の言い分が、いかにもとってつけたようで的を射ていなかったのが、腹立たしかった。なので、その店には二度と行かない。
襲名披露興行なので少し改まった感じが出るよう、織りの着物だが帯は染め帯ではなく、金糸の入っていない織りの名古屋帯にした。
根付は「大入」の額をかたどったもの(写真では裏返ってしまっているが、「大入」の文字が額に書かれている)。何とこの根付、何かの「おまけ」でついていたのだ。最近の「おまけ」は進化している。



九代林家正蔵襲名披露興行

2005年03月21日 | 落語
3月21日、「林家こぶ平改メ九代林家正蔵襲名披露興行」の初日に、鈴本演芸場へ。

前日の「中村勘三郎襲名披露興行チケット日付かんちがい事件」の教訓から(?)、今度はチケットの日にちを間違えず、無事に出かけることができた(笑)。
といっても、寄席の場合は、毎月1日~10日(上席:かみせき)、11日~20日(中席:なかせき)、21日~30日(下席:しもせき)の10日間ずつの興行と決まっているので、「3月下席の初日」とおぼえておけば日付を間違いようがないのだけれど……。

こちらの襲名披露興行も、あっというまにチケットが売り切れたようだ。当日券は立ち見のみらしい。
初日は、後ろにマスコミが入るため、立ち見も用意されていなかったようだ。
テレビ局や新聞社など、たくさんの報道陣がつめかけていた。

鈴本演芸場へ到着すると、「林家正蔵賛江」と書かれたのぼりが立っていたり(冒頭写真)、お祝いの酒樽が積まれていたりと、襲名披露興行の雰囲気が漂っていた。
入口横の番組案内板には、「正蔵」と書かれた真新しい「まねき」がかけられていた。

新正蔵の「まねき」


寄席では、襲名披露や真打昇進披露の興行のとき、各方面から贈られたお祝いの品を高座の両端に並べる。
新・正蔵師匠にも、歌舞伎俳優や有名タレントから様々な品が贈られたようで、華やかな高座になっていた。
また、贔屓(ひいき)などから贈られる後ろ幕もたくさんあった。後ろ幕は重ねてかけておき、頃合いのよいところで、前座さんが上の幕を手早く外していくという仕組み。
松嶋屋さん(片岡仁左衛門丈・片岡孝太郎さん)から贈られた後ろ幕もあり、正蔵師匠の交友範囲の広さをうかがわせた。

仲入(なかいり。寄席では休憩時間のこと)の後、いよいよ襲名披露の口上。
幕があくと、黒紋付に袴で正装した噺家さんが、深々と頭を下げて座っている。
真ん中に、九代正蔵師匠。

落語の世界の場合、歌舞伎とはちがって、本人は口上を述べない。ほかの師匠が口上を述べる間、ずっと手をついて頭を下げているのだ。
口上は、義兄である春風亭小朝師匠、先代の正蔵師匠(林家彦六師匠)の弟子である林家木久蔵師匠、橘家圓蔵師匠、落語協会会長の三遊亭圓歌師匠がつとめた。
どの師匠の口上もとてもすばらしかったが、なかでも特に印象に残ったのは、木久蔵師匠の口上である。
木久蔵師匠は、新・正蔵師匠のお父さんである林家三平師匠にいただいた袴の話を、なつかしそうに語っていた。

圓歌師匠の口上が終わったところで、客席へ手ぬぐいがまかれた。
寄席では、節分の日に客席へ豆や手ぬぐいをまくのだが、襲名披露興行でまくのはめずらしいかも。
まるで豆まきのときのように観客が殺到していた。
私は、たまたま近くに落ちてきた手ぬぐいをゲット。ラッキーだった。
手ぬぐいまきが終わったあと、恒例の三本締め。

口上の後、紙切りの師匠の高座があって、それが終わるといよいよ林家こぶ平改メ林家正蔵師匠の登場。

ネタは、人情噺の「子は鎹(かすがい)」であった。
「子は鎹(かすがい)」のストーリーについては、このブログの2004年11月1日の記事でも紹介しているので、そちらをご参照ください。

以前の記事でも少し述べたとおり、新・正蔵師匠は、「こぶ平」時代から古典落語の下地はできていた。
今回の高座も、噺の下地はしっかりとできていたと思うが、まだまだ改善の余地はあるかなという感じ。
人情噺の場合、どうしても情に訴えるような描写をしがちなのだが、それをやりすぎると、却って噺の本質が伝わりにくくなってしまう場合がある。
「言い過ぎる」と却って核心からはずれてしまうのだ。
今回の正蔵師匠の高座も、残念ながらそう感じられるところが少々あった。
逆に、「ここはこの噺の人物の心情を押さえるのに肝心なところ」という場面では、描写が足りなかったように思われる。

個人的には、当代の噺家さんのなかでは、「子は鎹」をやらせたら三遊亭圓彌(さんゆうていえんや)師匠の右に出る人はいないと思う。
以前にも書いたとおり、三遊亭圓彌師匠は故・三遊亭圓生師匠の弟子である。
「子は鎹」は圓生師匠の十八番だったが、その圓生師匠の芸を忠実に受け継いでいながら、それでいて、圓生師匠を超えているのだ。
とにかく、噺に「過不足」がないのだ。
無駄を省いていながら、なおかつ、噺の本質と登場人物の心理を見事に突いているのだ。

新・正蔵師匠には、持ち前の熱心さを生かして、いろいろな師匠の噺を聴き、いろいろな師匠に稽古をつけていただいて、研究を重ねていってもらいたいな、と思う。

何はともあれ、九代林家正蔵師匠の誕生、本当におめでとうございます。


<本日のキモノ>

紺の江戸小紋に白の長羽織

紺の江戸小紋に、松の柄の織り名古屋帯、白地に四季の花模様の長羽織。
襲名披露興行なので、長羽織を脱げばきっちりとした格好になるようにした。
家を出てバス停に立っていると、年配のご婦人がこのコーディネートをほめてくださったので、とてもうれしかった。
羽織と着物の色合わせだけでなく、江戸小紋をとても喜んでくださったのが印象的だった。
東京では、江戸小紋を着ていると年配の女性が喜んでくださることが多い。若い人が地味めの色を着ていても割に好意的に受け止めてくれる。
白の長羽織は、仕立て上がりで結構安かったのだが、いろいろな着物に合わせやすい色柄の「万能羽織」なので重宝。道行コートを着ないこれからの時期に活躍しそうである。
そういえば、上野の山(上野公園)の入口にある「エドヒガンザクラ」が満開になっていた。「エドヒガンザクラ」は早咲きの品種なので、ソメイヨシノよりも一足先に咲く。
これからいよいよ春本番。着物を着てお花見に出かけるのも楽しみである。



「林家こぶ平下町感謝の日」

2005年03月13日 | 落語
3月21日に迫った、林家こぶ平さん(本当は、真打だから「こぶ平師匠」と書くべきところなのだが、雰囲気としてここはやはり「さん」づけとしたいところ)の九代林家正蔵襲名にさきがけ、「林家こぶ平下町感謝の日」として、パレードと「お練り」が行われた。

午前10時半すぎに上野鈴本演芸場前を出発し、上野駅前から、寛永寺、こぶ平さんの地元根岸を通って浅草までパレード。浅草に到着後は、仲見世を通って浅草演芸ホール前まで、「お練り」が繰り広げられた。
「お練り」というのは、もともと、歌舞伎役者の襲名の際に行われるもの。
役者やひいき連、芸者衆などが、その役者にゆかりの地を練り歩き、襲名披露興行の成功を祈願する。
この「お練り」を、噺家であるこぶ平さんがやったのだ。
こぶ平さんの弟であるいっ平さんも、真打昇進の際に「お練り」をやっていたが、噺家さんで「お練り」をやる人はまだ少ない。

私は、国立劇場へ佐渡の伝統芸能公演を観に行く予定があったので、その前に上野に立ち寄って、パレードに出発するところを見た。
鈴本演芸場の前は、テレビカメラが何台も来ていて、黒山の人だかりだったので、少し離れたところで待っていたのだが、鈴本演芸場から上野駅までの沿道には、ずっと人が並んでいた。

パレードには、「九代林家正蔵襲名記念」という大きな文字とこぶ平さんの似顔絵が書かれたトラックが使われていた。

正蔵襲名記念パレードのトラック

上野駅近くの歩道で待っていると、鈴本演芸場を出発したトラックが目の前を走っていった。
トラックには、こぶ平さんほか、一門の噺家さんやこぶ平さんと懇意にしている噺家さんが乗っており、沿道の人に手を振っていた。こぶ平さんも、みんなに一生懸命手を振っていた。

トラックが目の前を通り過ぎた後、私はそそくさと地下鉄に乗って、半蔵門の国立劇場へ向かった。
国立劇場の公演が終わったのが1時半ちょっと前。それから行けば浅草の「お練り」に何とか間に合いそうだったので、国立劇場の前からバスに乗って銀座まで行き、また銀座線に乗って浅草へ。
朝は晴れていたのに、国立劇場を出たときには何と雪が舞っていた。
しかし、浅草に着くと、雪は止んでまた晴れていた。

仲見世に掲げられたお練りの横断幕

仲見世に着くと、どうやらもうお練りが始まっているらしく、ものすごい人だかりができていて、みんなカメラを上のほうに掲げて一生懸命写真を撮ろうとしていた。
仲見世では人だかりがすごくて見えなかったので、少し離れた浅草公会堂前に行って行列が来るのを待っていた。
ここでもやはりすごい人だかりだったが、少しだけ見えた。

その後、浅草演芸ホールの前へ行ってみると、まもなく一行が到着した。
到着後、演芸ホールの前の仮設舞台で、あいさつが行われた。
林家木久蔵師匠をはじめ、春風亭小朝師匠、笑福亭鶴瓶師匠、立川志の輔師匠や、春風亭昇太師匠、柳家花緑師匠があいさつをしていた。
下町のほうでも、途中雪が降ったらしいが、木久蔵師匠が「初めは晴れていて、途中雪が降ってきて、そのあとまた晴れて、驚きましたが、これも三平師匠(こぶ平さんのお父さん)が天国で喜んでいて、ちょっといたずらをしてくれたのかなと思います」と言っていたのが印象的だった。

パレードとお練りにはとても多くの人が集まっていて、何と14万5000人の人出だったという(どうやって調べたのかわからないが……)。
たくさんの人に集まってもらえて、集まった人たちに祝福と激励の言葉をもらえたこぶ平さんは、感極まって涙をこぼしていた。
鶴瓶師匠も、「あんたたくさんの人に愛されてるんやなあ」と、感激していたようだった。
最後に三本締めをして、おひらきとなった。
その後、浅草公会堂で落語会が行われたらしい。

こぶ平さんは、テレビなどでよく「古典落語ができない」と自分でネタにして言っているが、実はそんなことはない。寄席での高座を何度も聴いたことがあるが、特に正蔵襲名が決まってからは、熱心に古典落語に取り組んでいた。
ネタの振り幅もわりと広く、軽い滑稽噺から人情噺まで手がけている。人情噺もなかなかよく語っているのではないかと思う。
滑稽噺にしろ人情噺にしろ、こぶ平さんは古典落語をやるとき、一生懸命にやっているのがよくわかる。「気持ちで演じる落語」といった感じだ。しかし、気持ちばかりが先走るわけでもなく、結構きれいにまとまっている。

寄席というのは、たくさんの芸人さんが入れ替わりたちかわり出てきて、いろいろな噺をするところだ。
だから、「全体の流れをこわさず、しかもお客さんを飽きさせないようにする」ことが求められる。そんななかで重要なのは、「軽い噺でお客さんをひきつけられること」だ。
軽い噺というのは便利だが、お客さんのほうでもよく聴く噺だったりするので、ややもすると退屈してしまう。それをいかに退屈させずに聴かせられるか、というのが、腕の見せどころである。そして、現在の寄席では、これができる人が残念ながら意外に少ないのだ。
しかし近年のこぶ平さんの高座を見ていると、ひょっとしたらこの人は、それができる人になれるのかもしれない、と思った。
トリをとって人情噺をみっちりやったり、間に入って着実に滑稽噺をやったり、自在に噺を操れる人になってくれればいいなと思う。
人気におごることなく、寄席の高座を大切にしながら、これからも芸を磨いていってほしい。

こぶ平師匠、改め九代林家正蔵師匠、がんばってください。



桂文枝師匠死去

2005年03月12日 | 落語
関西落語界の重鎮、桂文枝(かつらぶんし)師匠が、肺がんのため亡くなった。

文枝師匠は、笑福亭松鶴師匠、桂米朝師匠、桂春団治師匠とともに「上方落語の四天王」と呼ばれ、衰退していた上方落語の復興に尽力された人だ。

現在、東京の落語に残っている噺のなかには、上方落語の噺をもとにしたものも数多くある。
また、落語家が出てくるときの「出囃子(でばやし)」も、今では東京ですっかり定着しているが、もともとは上方での風習だった。
そんなすばらしい伝統のある上方落語が、戦後は衰退の一途をたどっていた。
それをここまで復興させるのには、並々ならぬ苦労があったと思う。

近年、上方落語の復興はめざましく、大阪には落語専門の寄席が建設中である。
その寄席の完成を待たずに亡くなられてしまったのが、惜しまれてならない。

昨年の夏、神戸の落語会で文枝師匠の噺を聴いたのが、私にとっては最後となった。
文枝師匠は、古典落語もさることながら、新作落語の創作にも意欲的で、そのときも「熊野詣(くまのもうで)」という新作落語を熱演していた。
新作とはいえ、古典落語にもひけをとらない完成度の高さだった。新作落語と知らずに聴いてもまったく違和感がないほどだろう。あらためて、文枝師匠の才能と実力を感じさせられた瞬間だった。

落語界の貴重な人材が、また一人消えてしまった。  合掌



東宝名人会「さよなら芸術座 お名残り公演」

2005年02月10日 | 落語
東京・日比谷の「芸術座」が、老朽化による建て替えのため3月をもって閉鎖される。

3月に上演される森光子さんの「放浪記」が「芸術座さよなら公演」となるのだが、それに先立ち、「さよなら芸術座 お名残り公演」と冠して、芸術座最後の「東宝名人会」が行われた。

「芸術座お名残り公演 東宝名人会」パンフレット


「東宝名人会」は、落語をはじめとする演芸界の「名人」たちを集めた公演である。
その歴史は長く、今回の公演で何と1260回を数える。
日本で最初に「名人会」と名のつけられた公演で、芸人さんたちにとって、この「東宝名人会」に出演することは、一つのステータスとされていたほど、由緒ある公演なのである。

誤解のないように言っておくが、「東宝名人会」自体が終わってしまうということではなく、今回の公演は、あくまでも「現在の芸術座では最後の『東宝名人会』」ということらしい。
芸術座が建て替えられて新規オープンするまでの間の「小休止」に入るといったところか。

仕事が終わってからだと開演時刻に間に合わないので、あらかじめ午後半休をとっておいた。
午後半休をとったといっても、何やかやで結局4時すぎに会社を出ることになってしまい、そそくさと日比谷へ。軽く食事をすませてから芸術座へ向かった。

芸術座の向かいにある東京宝塚劇場の公演が終わったところだったらしく、いわゆる「出待ち」の人たちがたくさんいた。
ひいきの役者ごとに色わけされたマフラーやセーターなどを身に付けて、若い女性がたくさん並んでいた。

こっちは、同じ若い女性でも(といっても、もうそんなに若くもないので、同じにしたらそのお嬢さんたちに怒られてしまうかもしれないが)「若年寄り」なので(笑)、「出待ち」でにぎわうタカラヅカの脇を抜けて、「東宝名人会」へ。
「東宝名人会」の看板は、芸術座のビルの玄関を入ったところにひっそりと立てられていたので、こっちからタカラヅカの「出待ち」の人たちを見て「ああ、タカラヅカの公演がハネた(終わった)んだな」というのはわかっても、向こうからこっちを見て、これから「東宝名人会」なるものが行われようとしているということはわからなかっただろう……。

芸術座最後の東宝名人会の看板
↑東宝名人会の看板。「芸術座4階」と書かれた案内の横に立てられている様子も、これで見納め。


今回の出演者は、落語協会会長の三遊亭圓歌師匠、落語芸術協会会長の桂歌丸師匠、漫才協団会長の内海桂子師匠、奇術協会会長の北見マキ師匠と、演芸各協会の会長がそろった豪華なメンバー。
あざやかなマジックや円熟の話芸で、「芸術座お名残り公演」にふさわしい華やかな高座となっていた。
客席も大いに盛り上がり、大盛況のうちに幕を閉じた。
トリの圓歌師匠が、往年の東宝名人会のエピソードを語ってくれたのも、興味深かった。

新しい芸術座で「東宝名人会」が再開される日を楽しみに待ちたい。
できれば、それまでの間にも何らかの形で開催されるとよいのだけれど。



鈴本演芸場初席

2005年01月08日 | 落語
3連休初日。

髪結いの時に使った道具を美容院に返しに行った後、上野の鈴本演芸場へ。

七草を過ぎたが、寄席では一月いっぱいが「お正月」。
とくにその最初の10日間の興行は「初席」と呼ばれ、お正月ムード満点である。
まだまだお正月興行なので、客席もほとんど埋まってにぎわっていた。

例によって着物を着て行ったのだが、松の内も過ぎたし寄席なので、あらたまった装いではなく縞の着物にした。
ただし、せっかくのお正月興行なので、帯を松竹梅の柄の染め帯にした。

縞の小紋に松竹梅の塩瀬染め帯

客席には、着物を着ている人は数えるほどしかいなかったが、一人、振袖を着ている女性がいた。
若い女性がお正月に振袖を着ているのは、やはり華やかで、見ているほうも心地よい。



無事、千秋楽

2004年11月09日 | 落語
今日は、上野鈴本演芸場・三遊亭圓彌師匠のトリの楽日(らくび=千秋楽、最終日)。
今日のトリの演目は「淀五郎」。

昨日も書いたとおり、この噺は今回の公演で最も楽しみにしていたものの一つなので、何としても聴き逃すまいと、朝から必死でしたよ、ええ(笑)。

まず、朝5時に起床。6時すぎに家を出て、7時半すぎに会社へ到着。
着くとともに仕事を始め、途中、ミーティングに出たりしながら着々と作業を進行。
大きめのものを一つ無事に片付けて、よし、あとは細々とした仕事をやりながら定時を待とう、と思っていた矢先に、仕事の依頼を持って来た人が。
しかも、なるべく早めに欲しいと言っている。
急いでるのはわかるんですけどね、だったらもっと早く依頼を出してくださいよ……という感じだが、明日の午前中までで大丈夫とのことだったので、急いで作業をして、明日の朝戻すだけ、というところまで進めておいた。

よし帰ろうと思ったその時、相談に来た人がいたのでそれに返事をしているうちに、大変だ、もう7時! 急いで帰り支度を整えて会社を出た。

現地に到着したら、もう休憩時間が終わっていたので、ゆっくりと物を食べる間もなく座った。

団体の人たちも含めて、けっこうお客さんが入っていた。

「淀五郎」は、歌舞伎を題材とした「芝居噺」である。
沢村淀五郎という役者が、大抜てきされて「忠臣蔵」の塩冶判官を演じることになったのだが、自分のことを引き抜いてくれた師匠である4代目市川團蔵に、なかなか自分の演技を認めてもらえない。
判官切腹の場で、駆け付けた大星由良之助役が判官の元に駆け寄り、判官が由良之助に向かって「由良之助か、待ちかねたあ」という場面があるのだが、由良之助役の團蔵は、なぜか淀五郎の判官のところへ来ず、花道の七三で止まったままである。
初日の芝居が終わり、團蔵にその理由をたずねてみたところ、あのようなひどい判官ではそばに駆け寄ってひれふすことはできないという返事。
翌日もまた同じことであった。
意気消沈した淀五郎は、次の日の芝居の最中に團蔵を殺して自分も死のうとまで思いつめる。
その前に、子どもの頃から世話になった中村仲蔵のところへ最期の挨拶に行く。
中村仲蔵は、大部屋俳優から大出世して大看板になった実力派である。

旅に出ることになったという淀五郎の様子がおかしいのに気づき、わけをたずねる仲蔵。わけを聞いて驚き、團蔵はお前を見込んで大抜てきしたのだから、まずいところを直してもっと良くなってほしいと考えているのだ、と淀五郎を諭す。
仲蔵は、淀五郎の演技を見てアドバイスをし、それを聞いた淀五郎は寝ずに稽古した。

そして翌日。淀五郎の見違えるような演技に、團蔵は3日目で初めて花道から判官のところへやって来る。
それを見た淀五郎は、「待ちかねたあ」。


芝居噺なので、芝居の台詞や型も交えながらの口演である。
圓彌師匠は、「忠臣蔵が上演される時には必ず観に行く」というだけあって、芝居の型もとても決まっている。
もちろん、噺もとてもすばらしかった。
万難を排して駆け付けてよかった、と思った。

それにしても、間にあってよかった。もしも間にあわなかったら、私が大星由良之助よろしく噺の途中で花道(通路)をツカツカと歩いて行かなければならなくなるところだった。
そうなると圓彌師匠が「待ちかねたあ」(笑)。



今日も鈴本!

2004年11月08日 | 落語
今日も、がんばって会社を定時そこそこで出て、一目散に鈴本演芸場へ行った(笑)。

こんなことを書くと、「お前は一体、まじめに仕事をやっているのか!?」と思われるかもしれないが、一応、ちゃんとやってます(笑)。

今日だって、早く帰れるようにと、朝早くに会社へ行って仕事を始めたのだ!
お昼休みだって、30分そこそこしかとっていない。

その甲斐あって(?)、今日やるべきことはとりあえず片付いたので、そそくさと鈴本へ駆け付けた。
今日も、着いたらちょうど休憩時間だった。

今日の三遊亭圓彌師匠の演目は「掛け取り」。
大みそかに、たまったツケの支払いから逃れようとする男が、あの手この手で取り立てを追い返そうとする噺なのだが、途中、義太夫の節や芝居の口調を交えながら小気味よいテンポで噺が展開していく。
義太夫や芝居の形も決まっていて、すばらしかった。
客席の反応も良く、聴き終わった後、とても心地よい感じがした。

今日は、小さなことで腹が立ったりしてすっきりしない気分で会社を出たのだが、寄席を出る時には爽快な気分だった。

やはり、良い落語は最良の精神安定剤である。

明日は、いよいよ、今回の圓彌師匠のトリの楽日(最終日)で、私が最も楽しみにしている噺の一つ「淀五郎」が口演される。
何としてでも仕事をとっとと終えて、鈴本演芸場へ駆け付けなければ!

というわけで、明日は早く起きて会社へ行こう。


今日も……

2004年11月07日 | 落語
昨日に引き続き、鈴本演芸場へ行った。
当然、三遊亭圓彌師匠目当てである。

今日は「肝つぶし」という噺だったが、やはり格調高く演じられており、完璧な話芸だった。

天気もよかったので、着物を着て出かけた。

紺の江戸小紋に白地の織りの名古屋帯、灰藤色の長羽織という組み合わせだった。
長羽織は、以前このブログでも書いたとおりインターネットで購入したものである。
江戸小紋はとても細かな柄なので遠目だと無地に見えるうえ、私が持っているのは色も紺色なので地味な印象になってしまうのだが、この長羽織を合わせると華やかになる。
また、偶然だが、江戸小紋の八掛の色と長羽織の地色が同じで、まるでセットで誂えたように見える。

羽織を合わせることで、手持ちの着物の着こなしの幅が広がってうれしい。


2週間ぶりの更新……

2004年11月01日 | 落語
2週間ぶりのブログ更新……。

忙しかったせいもあるのだが、新潟の地震があったりして、何となく気持ちがふさぎこんでいたため、ついつい筆不精になってしまっていた。

知人の実家が、今回の地震で被害の大きかった小千谷市にある。幸い、ご家族は無事だったそうだが、避難生活を余儀なくされているという。最初のうちは、食糧の不足で食事をとれなかった時もあったようだ。家の中は家具などが散乱してしまっており、余震もあるため片付けもままならなかったという。

私も、微力ながら何らかの形で被災者のみなさんに支援をしたいと思っている。

話は変わって、今日は、健康診断に行ってきた。
初めてバリウムなるものを飲んだが、やはり、快適なものではない。
最近は、飲みやすいようにイチゴ味やバニラ味のバリウムもあると聞いたが、私が受診した病院では普通の味(?)だった。
思っていたより飲みやすかったが、飲んだ後、撮影のため上下左右にグルグルと回ったのと、お腹が張ってしまったのとで、ゲンナリしている。
一日だけの簡単な人間ドックという感じの健康診断だったのだが、終わった後、ランチが支給されたので少し得した気分だった。朝から飲まず食わずで検査へ行かないといけなかったからなあ……。

健康診断が終わって会社へ行ったら、また急ぎの仕事が舞い込んでいた。
今日は何が何でも早く帰りたかったので、とっとと仕事を片付けて、ほぼ定時で会社を出た。

そんなに急いでどこへ向かったかというと……上野の鈴本演芸場である。
今日から9日まで、私の好きな三遊亭圓彌さんという落語家さんがトリをとっているのである。今回の公演は、圓彌師匠が故・三遊亭圓生師匠の十八番を演じるという趣旨で、あらかじめ、いつ何の演目をやるかという「ネタ出し」がされている。
今日は、私の好きな「子は鎹(かすがい)」という噺だったので、何はさておき駆け付けた、というわけである。
7時に会社を出て、急いで上野へ。7時半ちょっと前に到着したら、ちょうど休憩時間だった。
先に入っていた友人が前のほうの席をとっていてくれた。
圓彌師匠の「子は鎹(かすがい)」は何度か聞いたことがあり、何度も感銘を受けたが、今日の噺はまた格別だった。

夫の酒癖・女癖の悪さが原因で離縁した夫婦。一人息子は妻が女手一つで育てている。貧しいなかにも愛情と厳しさを持って育てられた子どもは、まっすぐに成長している。
夫のほうはというと、後妻に逃げられて一人になってしまった今、心を入れ替え、酒も断って真面目に働いている。もともと腕はいいので、「棟梁」としてあちらこちらから仕事の声がかかる。
仕事を頼んでくれている旦那のところへ呼ばれ、使いで来た番頭さんと連れ立って木場へ向かっていたところ、一人息子と出会う。
久々に会った息子の成長の嬉しさに、「おっ母さんには、今日お父っつぁんと会ったことは言うんじゃないぞ」と言って小遣いを与え、明日、うなぎを食べに連れて行ってやると約束をする父。
家に帰った息子が母の仕事の手伝いをしていると、母は息子が持っているお金に気づく。
そのお金はどうしたのだと聞いても、息子はただ「知らないおじさんにもらった」と言うばかり。
息子がお金を盗んで来たのだと思った母は、息子を叱り、「これはお父っつぁんと別れる時に持ってきた玄能だ。これでぶつということは、お父っつぁんがぶつのと同じだ。どうしても嘘をつくのなら、この玄能でお前の頭を叩き割る!」と涙ながらに言う。
さすがにこらえかねた息子は、「盗んだんじゃないや、お父っつぁんにもらったんだ」と言い、父に会ったこと、明日うなぎを食べに連れて行ってもらう約束をしたことを話す。
母は喜んで翌日息子を送り出し、自分も気になってうなぎ屋へ行く。
そこで別れた夫と再会し、二人はよりを戻すことになる。
「こうやってまたお前さんと再会できて、親子三人で暮らせるようになるなんて、この子がいればこそ。本当に、子どもは夫婦の鎹(かすがい)ですね」という母の言葉を聞いて、息子が言う。
「あたいが鎹? どうりでおっ母さんが、あたいの頭を玄能で打つと言った」

サゲ(落ち)もさることながら、この噺には随所に良いフレーズが出てくる。父親や母親、子どものちょっとした台詞に、細やかな心情描写がなされていて、微笑ましい場面やついつい涙ぐんでしまう場面がたくさんある。
それらを、登場人物を細やかに演じ分けながら巧みに描写していく圓彌師匠の話芸は、本当にすばらしいと思う。
まさに正統派の落語といった趣がある。

客席には、落語を聴きに来たのは初めてという感じの団体のお客さんもいたが、みんな聴き入っていた。
かつて三遊亭圓生師匠のファンだったと思われるような老紳士もいた。
噺が終わった後、客席に向かってお辞儀をする圓彌師匠に、みんな幕が降りるまで拍手をし続けていた。

久々に、聴いた後すがすがしい気分になる落語にめぐりあえたと思う。

明日もがんばって仕事をしよう……(笑)。

今日早く帰ったぶん、明日は朝早く会社に行って仕事をせねば……。