本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

いかだ

2005年04月30日 | つれづれ
花もいいけど、やっぱり「団子」もね!
……というわけで、向島百花園を出た後、少し早めの夕食をとるべく、浅草へ。
お目当ては、とあるうなぎ店の「いかだ重」。

「いかだ」とは、脂が乗りきる前の少し小ぶりのうなぎを、半分の長さに切らず一本の状態で蒲焼きにし、それを何本も並べたもの。その様子が「いかだ」に似ているところからこう呼ばれている。

天然のうなぎの場合、関東近辺でとれるものは、これからしだいに脂が乗ってくる。
その前の、いわゆる「はしり」の状態にあたるうなぎで作ったのが「いかだ」である。
この時期ならではの味、といったところであろう。
(もっとも、今は天然もののうなぎは稀少なので、季節を問わず「いかだ」が供給されていることも多いようだ)

店に着くと、いかだ重のほかに、今が旬のそら豆、ホタルイカの沖づけと、ビールを注文。

関東では、うなぎは白焼きの後、いったん蒸してから本焼きをする。一方、関西では蒸さずに焼く。
この理由については諸説あるようだが、関東ではうなぎを「背開き」にするので、腹の部分に残った脂を落とすために一度蒸してから焼くのだ、とする説が有力のようだ。
これに対して関西では「腹開き」にするため、腹に脂が残らないので蒸さないのだと言われている。

関東のやり方の場合、蒸す時間が必要なので、うなぎが出てくるまでには通常、かなりの時間がかかる。
そのため客は、一品料理と酒を注文し、それで時間をつなぎながらうなぎが焼き上がってくるのを待つのが一般的だ。
まちがっても、うなぎ店で「料理が出てくるのが遅い」などと文句をつけてはいけない。そんなことを言おうものなら、少なくとも東京のうなぎ店においては野暮な客だと思われてしまうだろう。
逆に、注文してからあまりにも早くうなぎが出て来る店は、ちょっと考えてみたほうがよいかもしれない。なぜなら、「注文を受けてから割く、蒸す、焼く」というスタンスをとっていない可能性があるからだ。

話がそれたが、そら豆とホタルイカをのんびりと食べ、ビールを1本飲み終わるころ、いかだ重が運ばれてきた。
だいぶ脂は乗ってきていたが、それでも通常のうなぎより軽い口当たりで、ペロリとたいらげてしまった。


その昔、江戸の町人たちは競って「初物」を食べようとしていたという。
初物を食べると寿命が伸びると考えられていたというのもあるが、季節感を大切にし、誰よりも早く旬の素材を味わおうとする江戸っ子の「見栄」もあったのだろう。
とくに「初鰹」などは珍重された。歌舞伎の「髪結新三(かみゆいしんざ)」などでも、初鰹がアクセントとして描かれている。

もちろん、初物は相場が高いので、庶民にとっては「高嶺の花」である。
しかしそれでも、「女房を質に入れてでも」……というのはちょっと大げさかもしれないが、初物のために出費をすることは厭わなかったようだ。

人によって価値観は様々かもしれないが、私は、この江戸の町人の考えが何となくわかる。
実際私も、「いかだ」だの何だのと、いつも後先を考えずに食べてしまうので、悲しきかな、貯金がない。貯金がないくらいならいいが、給料日前になって「泣く子もだまる倹約生活」を強いられることもザラだ。
でも、たとえお金がたまらなくても、たとえ給料日前に壮絶なる日々が待ち受けていようとも、旬の素材を味わうひとときは大切にしたいと思う。

季節感を大切にした食事というのは、ただ食欲を満たしてくれるだけではなく、様々なことを感じさせてくれる。
当たり前のように食べ物がある現代において、食に対する感謝の心も思い出させてくれる。
そして、旬の素材を味わったひとときのことは、その味、その時期の気候、食事の光景とともに、心のなかに残るのだ。
大げさかもしれないが、それは自分の人生の糧にもなっていくのだと思う。

生まれたときからファストフードやコンビ二フードが氾濫している世代の人々にも、「旬を知り、旬を楽しむ」ことを忘れないでいてもらいたいと願う。



向島百花園

2005年04月30日 | つれづれ
西新井大師を出て、今度は向島百花園へ。

向島百花園は、文化2年(1805年頃)に北野屋平兵衛という人によってつくられた「新梅屋敷」が起源といわれる日本庭園。
四季折々の様々な花を随所に配した、いわゆる「江戸庭(えどにわ)」と呼ばれる形式の庭園である。

早春の梅の時期や秋の観月会のときなどは、園内もかなり混み合うのだが、今の時期は比較的人も少ないようで、のんびりと散策できた。

「百花園」というだけあって、今が盛りの花がたくさん咲いていた。

冒頭の写真は、赤のツツジと、「アイヅシモツケ(会津下野)」という白い花。
アイヅシモツケは園内のあちらこちらで咲いていたが、本当に真っ白できれいだった。

今の時期、園内で最もよく見られた花は、やはりツツジであった。
また、アヤメも咲いていた。

ツツジとアヤメ


これからまさに咲こうとしている花もあった。
シャクヤク(芍薬)である。

シャクヤクのつぼみ


園内には、花だけでなく、樹木もたくさん植えられている。
先日の記事でも紹介した「竹の秋」の光景も見られた。黄色く見えるのが、枯れた竹の葉である。

春になり葉が枯れて黄色くなった竹


咲き競う花を見ながら、晩春ののどかな昼下がりを満喫できた。



西新井大師

2005年04月30日 | つれづれ
亀戸天神を後にして、次は西新井大師へ。

西新井大師は、川崎大師、佐野厄よけ大師とともに「関東の三大師」と呼ばれている。
厄よけや交通安全の祈願で訪れる人も多いが、この時期は境内の牡丹園を見に訪れる人も多い。

牡丹は「百花の王」と称されるが、堂々とした美しい姿は、その形容にふさわしい。
園内には、丹精込めて育てられた色とりどりの牡丹が咲き競っていた。

西新井大師にも、見事な藤棚があった。

西新井大師の鐘楼と藤

牡丹と藤を愛でた後、後厄の厄よけ祈願もしていただいた。
ご祈祷はもちろんありがたいが、美しい花を愛でて気分をリフレッシュできたことも、何よりの厄落としになった感じだ。



亀戸天神

2005年04月30日 | つれづれ
ゴールデンウイーク2日目。

今日も天気がよいので、朝早く起きていそいそと遊びにゆく。遊びに行くときは早起きを厭わず、寝起きもよくなるのが不思議である(笑)。

初めに向かったのは亀戸天神。東京の藤の名所である。
すでに人が集まって来ていたが、まだ早い時間だったため大混雑にはなっておらず、ゆったりと見ることができた。

私は藤の花が好きなので、この時期は必ず藤を見に行くのだが、藤は桜と同様、満開になってからの見頃の期間が短いため、ベストの時期をとらえるのが意外と難しい。
今回は、花の色がまだ褪せていない、ちょうど見頃の時期にあたったのでよかった。
藤棚の下を通ると、花房から甘い香りが漂ってきた。
藤の花の栽培は結構難しく、房の長い、色の濃い花を咲かせるには、かなり手をかけなければならないようだ。虫がつきやすく、そのために花が咲かなくなってしまうおそれもある。

実家の庭にもその昔、藤が植えられていたが、花が咲かなくなってしまい、残念ながら今はない。

面倒くさがりで虫も苦手で、鉢植えの花の栽培さえもおぼつかない私は、混雑を覚悟で花の名所を訪れることにしている……。



根津神社

2005年04月29日 | つれづれ
今日からゴールデンウイーク。

10連休になる方も多いようだが、私は、仕事の関係で残念ながらカレンダーどおりの休みである。
それでも、3連休が2回あってそのあと土日が来るので、十分うれしい。

4月初めの京都旅行で出費してしまったので、ゴールデンウイークはおとなしく東京もしくは東京近郊で遊ぶことに……。

その第一弾として、根津神社へ。
根津神社はツツジの名所。ちょうど見ごろになっており、天気もよかったので、多くの人が訪れていた。

ツツジを見た後、有楽町へ出て映画「オペラ座の怪人」を鑑賞。
以前にも観たのだが、音楽聴きたさに再度足を運んでみた。
この作品は、1月の公開以来、上映館は順次変わっているもののロングランとなっている。

ミュージカル「オペラ座の怪人」は、劇団四季の公演で観たことがある(本場ブロードウェイのは、残念ながらまだ観たことがない)。
ミュージカルとして非常に完成度の高いこの作品を、映画ならではの手法をうまく取り入れて昇華させていると思う。
ミュージカルの世界を壊さず、かつ「映画でしか表現できないもの」を存分に出しており、個人的には、映画のほうがさらに楽しめた感じだ。

日本の古典芸能でも、異なるジャンルの作品をうまくアレンジしながら自分たちの世界を作り上げていく、ということが古くから行われてきた。
ブロードウェイとハリウッドの関係も、同様なのかもしれない。



竹の秋

2005年04月28日 | つれづれ
「竹の秋」とは、俳句の世界で春を表す季語である。

なぜ、「秋」なのに春の季語なのかというと……。

竹は、春になると、筍(たけのこ)に養分を与えるため葉が枯れてしまう。その様子を、多くの木々が紅葉・落葉する秋になぞらえているのだ。

近所の竹も、葉を落としていた(写真)。
竹の葉が枯れ落ちてまもなく、地中から筍が伸びてくる。新しい生命の誕生である。
ちなみに、ほかの多くの木々とは異なり、竹は秋になると、地中の水分を葉にたくわえてみずみずしくなる。

「竹の秋」。何と美しい響きだろう。生命の息吹を感じる春と、哀愁をおびた秋とをこれほど見事に融合させるとは、何と研ぎ澄まされた感性だろう。
昔の人の感性と表現力には、脱帽してしまう。

こういった美しい言葉が、日本にはたくさんある。
ぜひ後世に伝えていきたいものだ。

今日付けの産経新聞で、俳句の世界に起こっている新しい動きについて述べられていた。
季語と季節の関係を見直そうとする動きや、新しい季語を作ろうとする動きが出て、議論を呼んでいるのだという。

季語と季節の関係については、旧暦(大陰暦)のころとは季節の感覚が異なっている今、一考の余地があるのかもしれないが、「新しい季語」として挙げられている語のなかには、残念ながら、「竹の秋」に匹敵するような卓越した言葉は見られなかった。






大惨事

2005年04月25日 | つれづれ
JR福知山線(現地では「宝塚線」の通称で呼ばれることが多い)の脱線事故に関する報道が続いている。

JR発足以来最悪の結果となったこの事故。
犠牲となった方々、遺族の方々、けがをされた方々のことを考えると、悲しみは筆舌に尽くしがたい。

事故発生から1時間ほど経ったころ、インターネットのニュースで事故のことを知り、とても驚いた。
事故発生当初、マスコミ各社の情報は錯綜しており、有事の際の情報伝達の難しさをあらためて感じた。有事の時だからこそ、正確な報道、責任ある報道を心がけてもらいたいものだが……。

非常に悲しい事故であるが、せめてもの救いだったのは、事故発生当初、現場周辺にいた人や助かった乗客の皆さんが、協力してけが人の救助にあたられたということである。
現場付近にある工場の方々は、事故発生に気づき、すぐさま従業員総出で現場にかけつけ、けが人の救出を続けながら救急隊の到着を待ったという。
助かった乗客の方も、自分もけがをしているのにもかかわらず、「自分は動けるから」と、ほかの乗客の救出を続けたという。
こういった方々の勇気と行動力に、敬意を表さずにはいられない。

これとは対照的に、JR西日本社長の会見には、いささか失望せざるを得なかった。
おわびのコメントの時くらい、紙を見ずにしゃべれないものだろうか。
もちろん、企業のトップとして、いかなる時も冷静かつ迅速な対応が重要なのだろうが、事態の深刻さや、犠牲となった方々のことを考えたら、おのずと態度や言葉に表れると思うのだが……。誠意ある姿勢が、会社に対する信頼を回復していくための第一歩として不可欠なのではないだろうか。

最後にあらためて、この事故でご家族やご友人、かけがえのない人を亡くされた方々に心よりお悔やみを申し上げますとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。




歌舞伎座四月大歌舞伎(昼の部)

2005年04月24日 | 歌舞伎
先週に引き続き、またぞろ歌舞伎座へ。
十八代目中村勘三郎襲名披露興行である。

今回は、3階席。
3階席は、舞台から遠いというイメージがあるかもしれないが、実は結構舞台がよく見える。
近くで見ている時よりも、却って芝居の良し悪しがよくわかるくらいだ。

昼の部の1幕目は、「ひらかな盛衰記 源太勘當(げんたかんどう)」。
時代物の狂言だが、ユーモアも交えられているので楽しめる。
中村勘太郎さんの源太、市川海老蔵さんの平次、中村芝のぶさんの腰元千鳥という、若々しい配役。そこに大ベテラン片岡秀太郎丈が加わり、芝居を締めてくれていた。

中村芝のぶさんは、七之助さんの代役として抜てきされた。
千鳥の初々しさとかわいらしさ、そこはかとない品がよく表れた好演であった。丁寧に芝居をしているのがよく伝わってきた。
千鳥は腰元であって、町娘ではないので、ただかわいらしいだけではいけない。行儀作法を身に付けた腰元ならではの落ち着いた物腰が必要である。
芝のぶさんの千鳥では、それがよく表現されていたと思う。

秀太郎丈は、やはりさすがの貫禄。常に理論的に役を考え、見事に役を表現しているのが、とても素晴らしいと思う。


2幕目は、ご存じ「京鹿子娘道成寺」。踊るのは、十八代目中村勘三郎丈。
勘三郎丈は、日本舞踊・猿若流の家元である。

道成寺は、紀州(現在の和歌山県)に実在する寺。
そこに伝わる「安珍・清姫」の伝説をもとにした曲で、もともとは能の演目であった。
鐘供養の日、どこからともなく白拍子が現れ、鐘を拝ませてほしいという。
鐘の前で舞を舞ううちに、白拍子(実は清姫の亡霊)は本性を現し、恨みを言いながら、落ちてくる鐘の中へ入っていく。
鐘を引き上げると、中からは、怨念のために蛇体となった清姫の亡霊が出てくる……。

という内容であるが、歌舞伎舞踊の場合は、鐘が落ち、本性を現した白拍子が鐘に巻き付くようにして鐘の上に乗り、型をきめたところで終わる、というのが一般的である。
ところが今回の演出では、能と同様に「鐘入り」をし、鐘の中で蛇体の化粧や衣装にかえて出てくるのである。(能の場合は、もちろん化粧はしないので、面と衣装をかえるのであるが。能の場合は、暗い鐘の中で、鏡も見ずに一人で着替えなければならない)

蛇体となった清姫の亡霊が鐘の中から出て来ると、揚幕からは、團十郎丈扮する大館左馬五郎が登場し、亡霊を退治しようとする。
最後で、清姫の亡霊と左馬五郎がにらみ合う場面は、緊張感がありながら華やかで、見ているほうも気分が昂揚してくる感じだった。

前半の(というよりも、この曲のほとんどの部分を占めているが)白拍子の舞については、いささか見解が分かれるところかもしれない。
抽象的な表現で恐縮だが、端的に言うと、「舞」ではなく「芝居」に見えてしまったという感じだ。良くも悪くも。
どちらがいいのかというのは、観客の好みの問題もあるのかもしれないが、私個人としては、やはり「舞」として魅せてもらいたいところだ。
「道成寺」が終わって、休憩中に、近くの席に座っておられた年配の女性とふとしたきっかけで雑談をしたのだが、芝居をよくご覧になっていると思われるその女性がおっしゃった言葉が、的を射ていて印象的だった。
「残念ながら、『白拍子の舞』に見えなかったのよねえ……。『町娘の踊り』になってしまった感じかしら……」


3幕目は、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」。
歌舞伎をご覧になったことがない方でも、「お富さん」の話と言えばおわかりになるかもしれない。
仁左衛門丈の与三郎、玉三郎さんのお富という、「色男にイイ女」の組み合わせであるから、ビジュアルだけでも十分楽しめる芝居であろう。

途中、仁左衛門さんと勘三郎さんが1階客席の通路を歩く一場面があるのだが(浜辺を散歩する様子になぞらえている)、1階席からは歓声があがっていた。

余談だが、私はこの芝居を観る時、「源氏店(げんじだな)」(通称「玄冶店(げんやだな)」ともいう)の場面で、いつも、春日八郎さんの「お富さん」が頭の中を回ってしまう。
「いきな黒塀見越しの松に……」という、あの曲である。
この芝居の場面を歌ったものだが、私はこの曲は、昭和の名曲の一つだと思っている。
昭和の作詞家・作曲家には、センスと幅広い素養があったんだなあ……と思う。


<本日のキモノ>

緑地に花の丸の飛び柄小紋、丸に四季の花模様の織り名古屋帯

緑色に四季の花の丸模様の飛び柄小紋。
帯は、金糸を織り込んだ淡いクリーム地の織り名古屋帯。
この帯の柄も、「花の丸」の文様とはちょっと異なるが、円の中に四季の花が描かれている。
せっかくなので、バッグも花の丸をあしらったものにした。
トータルコーディネートである(笑)。

トータルコーディネートと言えば、幕間に歌舞伎座の中のおそば屋さんへ行ったら、着物と帯を同柄・色ちがいで誂えている方を見かけた。
粋な雰囲気の柄で、着物は白めの色、帯は黒めの色と、モノトーンで決めておられた。
着物と帯の柄を同じにするというのは、下手をすると野暮に見えてしまうので避けられる傾向にあるようだが、全然違和感がなく、むしろ粋な感じになっていた。
50代前半くらいの女性とお見受けしたが、そのくらいの世代の方だからこそ、自然に着こなせるのだと思う。たぶん、同じことをそれより下の世代がやってしまうと、野暮に見えてしまうに違いない。本当に、着物の着こなしは不思議である。
なので私などは、似た雰囲気の柄をそれなりにバランスよく組み合わせるくらいが、身の丈に合っているのだろう。

帯締めは、白地に赤の模様を織り込んだもの。白地に赤の飛び絞りの帯揚げと合わせてみた。
この帯締め、両端の、通常は房になっている部分が、玉状になっているのだ。玉の部分は赤になっていてかわいらしいので、気に入っている。
あまり見えないところではあるが、ちょっとした時に袂の間から見えると、おしゃれ感が出てよいかも。



ケータイの進化

2005年04月23日 | つれづれ
数年ぶりに携帯電話の機種変更をした。

夕食をとろうと出かけた際、ふらりと立ち寄った大型電器店で、期間限定の特別割引をしていた機種があったのだ。
テレビ電話に対応しており、当然のことながらカメラ付きで、動画も撮影できる。
これまで、カメラのついていないケータイを持っていた私にとっては、ありがたすぎる機能である。

これが何と5,000円を切る価格で機種変更できるというのだ。
しかも、携帯電話会社のポイントがたまっていたので、それを使えるという。
ポイントを使ったら、付属品(充電用アダプタ)を購入しても合計1,000円ちょっとの出費ですんでしまったのだ!

前回機種変更した際には考えられなかったような価格破壊である。
やはり、せまりくる「ナンバーポータビリティー」(他社の携帯電話に乗り換えても電話番号が変わらないシステム)の導入に備えて、各社ともしのぎを削っているのだろうか。
いずれにしても、利用者にとって便利になるのは、よいことである。

それに、カメラ付きなので、これからはケータイから画像と記事を投稿して、マメにブログを更新できる……かも!?



桂文朝師匠死去

2005年04月19日 | 落語
ショックだ……。

桂文朝師匠が、逝去されてしまった。

文朝師匠は、わずか10歳で二代目桂小南(当時・山遊亭金太郎)師匠に弟子入りした、芸歴50年の大ベテランであった。

マスコミに露出することはあまりなかったので、ご存じでない方も多いかもしれないが、東京の寄席では、なくてはならない存在だった。寄席で、文朝師匠の姿を見ない日はなかったと言っても過言ではないだろう。

正統派の古典落語をやり、しかもうまい。
トリで聴いてももちろんいいのだが、間にはさまった時や、仲入り(ここでは、休憩時間の前の出番のこと)の時に聴くのが、私はとても好きだった。
とにかく、どんな出番の時でも、寄席の流れをくずさず、噺を自在に操り、しかも客を惹き付けるのだ。
軽い噺をしていても存在感があり、絶妙の語り口で客を惹き付けることのできる、たぐいまれな噺家さんだったと思う。

以前にも少し書いたが、現在の寄席で、このように「間にはさまったところできっちりとやれる」人は、意外に少ない。
「きっちりとやる」というのは、ただ丁寧にやるとか気合いを入れてやるとか、そういうことではない。
「悪目立ちせず、しかし客を退屈させず、存在感がある、しかもおもしろい(または心地よい)」ということだ。
こういう人がいるからこそ、寄席が「締まる」のだ。
歌舞伎が主役だけでは成り立たないのと同様、寄席も、決して「トリ」だけで成り立つものではない。

中堅や若手と呼ばれる噺家さんのなかにも、きちんと古典落語をやる人は大勢いるが、この域まで達している人は残念ながら少ないと思う。

私にとって、「トリで聴きたい噺家」は結構いるけれど、「間にはさまったところや仲入りのところで聴きたい噺家」は、数えるほどしかいない。
その貴重な一人がいなくなってしまったことは、落語界にとって大きな損失だと思う。

中堅や若手の噺家さんのなかから、この後を継げるような人材が早く出て来てくれることを、祈るばかりである。