花もいいけど、やっぱり「団子」もね!
……というわけで、向島百花園を出た後、少し早めの夕食をとるべく、浅草へ。
お目当ては、とあるうなぎ店の「いかだ重」。
「いかだ」とは、脂が乗りきる前の少し小ぶりのうなぎを、半分の長さに切らず一本の状態で蒲焼きにし、それを何本も並べたもの。その様子が「いかだ」に似ているところからこう呼ばれている。
天然のうなぎの場合、関東近辺でとれるものは、これからしだいに脂が乗ってくる。
その前の、いわゆる「はしり」の状態にあたるうなぎで作ったのが「いかだ」である。
この時期ならではの味、といったところであろう。
(もっとも、今は天然もののうなぎは稀少なので、季節を問わず「いかだ」が供給されていることも多いようだ)
店に着くと、いかだ重のほかに、今が旬のそら豆、ホタルイカの沖づけと、ビールを注文。
関東では、うなぎは白焼きの後、いったん蒸してから本焼きをする。一方、関西では蒸さずに焼く。
この理由については諸説あるようだが、関東ではうなぎを「背開き」にするので、腹の部分に残った脂を落とすために一度蒸してから焼くのだ、とする説が有力のようだ。
これに対して関西では「腹開き」にするため、腹に脂が残らないので蒸さないのだと言われている。
関東のやり方の場合、蒸す時間が必要なので、うなぎが出てくるまでには通常、かなりの時間がかかる。
そのため客は、一品料理と酒を注文し、それで時間をつなぎながらうなぎが焼き上がってくるのを待つのが一般的だ。
まちがっても、うなぎ店で「料理が出てくるのが遅い」などと文句をつけてはいけない。そんなことを言おうものなら、少なくとも東京のうなぎ店においては野暮な客だと思われてしまうだろう。
逆に、注文してからあまりにも早くうなぎが出て来る店は、ちょっと考えてみたほうがよいかもしれない。なぜなら、「注文を受けてから割く、蒸す、焼く」というスタンスをとっていない可能性があるからだ。
話がそれたが、そら豆とホタルイカをのんびりと食べ、ビールを1本飲み終わるころ、いかだ重が運ばれてきた。
だいぶ脂は乗ってきていたが、それでも通常のうなぎより軽い口当たりで、ペロリとたいらげてしまった。
その昔、江戸の町人たちは競って「初物」を食べようとしていたという。
初物を食べると寿命が伸びると考えられていたというのもあるが、季節感を大切にし、誰よりも早く旬の素材を味わおうとする江戸っ子の「見栄」もあったのだろう。
とくに「初鰹」などは珍重された。歌舞伎の「髪結新三(かみゆいしんざ)」などでも、初鰹がアクセントとして描かれている。
もちろん、初物は相場が高いので、庶民にとっては「高嶺の花」である。
しかしそれでも、「女房を質に入れてでも」……というのはちょっと大げさかもしれないが、初物のために出費をすることは厭わなかったようだ。
人によって価値観は様々かもしれないが、私は、この江戸の町人の考えが何となくわかる。
実際私も、「いかだ」だの何だのと、いつも後先を考えずに食べてしまうので、悲しきかな、貯金がない。貯金がないくらいならいいが、給料日前になって「泣く子もだまる倹約生活」を強いられることもザラだ。
でも、たとえお金がたまらなくても、たとえ給料日前に壮絶なる日々が待ち受けていようとも、旬の素材を味わうひとときは大切にしたいと思う。
季節感を大切にした食事というのは、ただ食欲を満たしてくれるだけではなく、様々なことを感じさせてくれる。
当たり前のように食べ物がある現代において、食に対する感謝の心も思い出させてくれる。
そして、旬の素材を味わったひとときのことは、その味、その時期の気候、食事の光景とともに、心のなかに残るのだ。
大げさかもしれないが、それは自分の人生の糧にもなっていくのだと思う。
生まれたときからファストフードやコンビ二フードが氾濫している世代の人々にも、「旬を知り、旬を楽しむ」ことを忘れないでいてもらいたいと願う。
……というわけで、向島百花園を出た後、少し早めの夕食をとるべく、浅草へ。
お目当ては、とあるうなぎ店の「いかだ重」。
「いかだ」とは、脂が乗りきる前の少し小ぶりのうなぎを、半分の長さに切らず一本の状態で蒲焼きにし、それを何本も並べたもの。その様子が「いかだ」に似ているところからこう呼ばれている。
天然のうなぎの場合、関東近辺でとれるものは、これからしだいに脂が乗ってくる。
その前の、いわゆる「はしり」の状態にあたるうなぎで作ったのが「いかだ」である。
この時期ならではの味、といったところであろう。
(もっとも、今は天然もののうなぎは稀少なので、季節を問わず「いかだ」が供給されていることも多いようだ)
店に着くと、いかだ重のほかに、今が旬のそら豆、ホタルイカの沖づけと、ビールを注文。
関東では、うなぎは白焼きの後、いったん蒸してから本焼きをする。一方、関西では蒸さずに焼く。
この理由については諸説あるようだが、関東ではうなぎを「背開き」にするので、腹の部分に残った脂を落とすために一度蒸してから焼くのだ、とする説が有力のようだ。
これに対して関西では「腹開き」にするため、腹に脂が残らないので蒸さないのだと言われている。
関東のやり方の場合、蒸す時間が必要なので、うなぎが出てくるまでには通常、かなりの時間がかかる。
そのため客は、一品料理と酒を注文し、それで時間をつなぎながらうなぎが焼き上がってくるのを待つのが一般的だ。
まちがっても、うなぎ店で「料理が出てくるのが遅い」などと文句をつけてはいけない。そんなことを言おうものなら、少なくとも東京のうなぎ店においては野暮な客だと思われてしまうだろう。
逆に、注文してからあまりにも早くうなぎが出て来る店は、ちょっと考えてみたほうがよいかもしれない。なぜなら、「注文を受けてから割く、蒸す、焼く」というスタンスをとっていない可能性があるからだ。
話がそれたが、そら豆とホタルイカをのんびりと食べ、ビールを1本飲み終わるころ、いかだ重が運ばれてきた。
だいぶ脂は乗ってきていたが、それでも通常のうなぎより軽い口当たりで、ペロリとたいらげてしまった。
その昔、江戸の町人たちは競って「初物」を食べようとしていたという。
初物を食べると寿命が伸びると考えられていたというのもあるが、季節感を大切にし、誰よりも早く旬の素材を味わおうとする江戸っ子の「見栄」もあったのだろう。
とくに「初鰹」などは珍重された。歌舞伎の「髪結新三(かみゆいしんざ)」などでも、初鰹がアクセントとして描かれている。
もちろん、初物は相場が高いので、庶民にとっては「高嶺の花」である。
しかしそれでも、「女房を質に入れてでも」……というのはちょっと大げさかもしれないが、初物のために出費をすることは厭わなかったようだ。
人によって価値観は様々かもしれないが、私は、この江戸の町人の考えが何となくわかる。
実際私も、「いかだ」だの何だのと、いつも後先を考えずに食べてしまうので、悲しきかな、貯金がない。貯金がないくらいならいいが、給料日前になって「泣く子もだまる倹約生活」を強いられることもザラだ。
でも、たとえお金がたまらなくても、たとえ給料日前に壮絶なる日々が待ち受けていようとも、旬の素材を味わうひとときは大切にしたいと思う。
季節感を大切にした食事というのは、ただ食欲を満たしてくれるだけではなく、様々なことを感じさせてくれる。
当たり前のように食べ物がある現代において、食に対する感謝の心も思い出させてくれる。
そして、旬の素材を味わったひとときのことは、その味、その時期の気候、食事の光景とともに、心のなかに残るのだ。
大げさかもしれないが、それは自分の人生の糧にもなっていくのだと思う。
生まれたときからファストフードやコンビ二フードが氾濫している世代の人々にも、「旬を知り、旬を楽しむ」ことを忘れないでいてもらいたいと願う。