本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

河内音頭in錦糸町

2005年08月31日 | 伝統文化あれこれ
8月30日、31日に、東京の錦糸町で「河内音頭大盆踊り大会」が行われた。

大阪では知らない人はいないと言っても過言ではない「河内音頭(かわちおんど)」は、「エ~、さても~、一座の皆さまへ~」という唄いだしで有名。
以前、河内家菊水丸という人が、某アルバイト情報誌のCMソングで唄っていて、全国的に知られるようになった。
河内音頭の前身については諸説あるようだが、「やんれ節」や「江州音頭(ごうしゅうおんど)」をはじめ、河内地方に伝わっていた様々な音頭の影響を受けているようだ。
現在のような形になったのは、割と最近のことだという。

「音頭」といっても、いわゆる民謡のような短い唄ではなく、仁侠(にんきょう)物や歴史物などのストーリーを、節をつけて語っていくのだ。ちょうど「浪花節(浪曲)」のようなものである。しかし、浪曲に比べて節が明るく、テンポも速い。そのため、唄に合わせて盆踊りも行われる。
普通の盆踊りと同様、やぐらが組まれ、その上で唄い手が唄う。伴奏は、三味線、太鼓のほかに、エレキギターも加わったりする。

普通の盆踊りと異なるのは、やぐらの周りにいるのが踊り手だけではないということ。
踊り手のほかに、音頭を「聴いている人」が大勢いるのだ。先に述べたように、河内音頭が「語り物」であるゆえんだろう。

私は、この河内音頭の小気味よい節回しが大好きなので、踊りはせず、いつも聴き手に回ることにしている。
踊り手には若い人も多いが、聴き手のなかには若い人は少なく、オッチャンやオバチャンが多い。片手にワンカップを持ったオッチャンもいるが、みんなじっくりと聴いているのだ。しかもなかなか「聴く耳」を持っている。
以前、河内音頭を聴きに、大阪の八尾市まではるばる出かけて行ったことがある。近くにいたオッチャンが、私を町内の人だと思ったらしく、いろいろと話しかけてきてくれた。こちらも町内の人のふりをして何となく話を聞いていると、河内音頭の唄い手のことなど、さまざまな話をしてくれた。河内音頭に精通している感じで、オッチャンの話を聞いてなかなか勉強になった(お酒を飲んで上機嫌になっているオッチャンからは同じ話が何度も繰り返されたので、そのうちさりげなく逃げてしまったけれど……笑)。

河内音頭の盆踊り大会が、東京の錦糸町でも毎年開催されている。
おそらく大阪から錦糸町に出て来た人が始めたのだと思うが、今ではすっかり錦糸町の夏の行事の一つとして定着したようで、毎年多くの人が集まっている。唄い手もすべて大阪から呼んだ方々ばかりで、なかなか本格的なイベントである。

今年は平日の開催だったので最初から参加することはできなかったが、31日に仕事が終わってから錦糸町へ駆けつけた。
着いた時にはだいぶ終わりのほうにさしかかってはいたが、小一時間ほど聴くことができた。
軽快な節に合わせて聴き手も「イヤコラセ~、ドッコイセ」「ソラヨイトッコッサ、サノヨイヤサッサ」という合の手を打ち、大いに盛り上がった。
聴き終わった後もしばらく河内音頭の軽快な節が耳に残っていて、なかなか楽しい気分だった。仕事の疲れも一気にとれた気がした。唄や踊りや祭りの力というのはすごいと思う。



観劇のキモノ

2005年08月28日 | 着物
最近、古典芸能ブームと着物ブームのためか、歌舞伎座で着物姿の若い女性を多く見かけるようになりました。
それはとても良いことだと思うのですが、この夏、歌舞伎座で「ちょっとどうかなぁ……」と思う着こなしが多く見られ、少し複雑な気分です。
半衿・襦袢つきの着物を着ているのに、足元は素足に下駄など、全体のバランスがちぐはぐになっていたり(綿紅梅や綿絽も含めて、半衿つきで着物を着た場合は、足袋を履きます)。
あるいは、浴衣に半幅帯・素足に下駄ばきなど、TPOにかなっていなかったり。(浴衣は基本的に「寝間着兼部屋着」という位置づけのものです。浴衣を「カジュアルな夏キモノ」として着る方法については、6月24日の記事「浴衣の着こなし」をご参照ください)
着物の世界だけの常識ではなく、一般的な基準から考えてもちょっと疑問に思ってしまう着こなしが、残念ながら増えてきた気がするのです。

私が歌舞伎座に通い始めたのは、着物ブームが始まるずっと前のことでした。
そのころは、着物を着た人の割合こそ少なかったものの、素敵な着こなしをした人がたくさんいました。
ここでいう「素敵な着こなし」とは、色柄が上品で質の良い着物を着て、帯や小物との取り合わせも洗練されていて、TPOもきちんとわきまえられていて、着付けもきちんとしていて、着姿が自然で、そこはかとない品がある……ということです。

歌舞伎座のロビーや客席、特に1階席にはそういった人が何人もいて、思わず見とれてしまったものです。
そして「私もああいうふうに着物を着て歌舞伎を観たい」と思ったのが、私の「キモノ好きへの道」への第一歩でもありました。

もちろん今でも、そういった「素敵な着こなし」をしている方はいらっしゃいます。
しかし、歌舞伎座における着物人口の増加に伴い、そういった人の密度が低くなってきているのも事実です。

自由な感性で着物を着るのはとても良いことだと思いますが、そうはいってもやはり「時と場所に合っていること」「周囲と調和していること」「相手に対して失礼のないこと」は、着物を着るうえでとても重要なことです。これらを包括的に捉えることができてはじめて、着物を「着こなしている」と言えるのだと思います。

「じゃあどうすればそういった着こなしができるの?」と思われるかもしれませんが、これはもう、「素敵な着こなし」を数多く見て目を肥やしていくしかありません。私にとって、お手本にしたい方がたくさんいたのが、歌舞伎座でした。
あとは、最低限の着物の決まり事を、身をもって覚えておくことだと思います。常に、「この場にこの格好でよいだろうか」「この組み合わせで全体のバランスはおかしくないだろうか」と考えて周囲と自分とを比較し、もしも「失敗したかな、変かな」と思えば、それを教訓にしていけばよいのです。

私は、これまで歌舞伎座でたくさんの先達を見てきて、とてもよい勉強になりました。着物を着て歌舞伎を観に行って、最初は気おくれして落ち着かないこともありました。しかし今では、着物姿の人に混じってそれなりに堂々と、落ち着いて構えていられるようになりました。
この「気おくれせずに堂々としていられる」というのは、お芝居を楽しむためにとても重要なことです。
仮に、どんなにちぐはぐな格好をしていても自信たっぷりでいられる人がいたとしても、周囲の視線は正直です。同じ注目されるのでも、「あら素敵」という視線と「何あれ?」という視線はちがいます。後者の視線で見続けられたら、さすがに居心地の悪さを感じることでしょう。
せっかく着物を着てお芝居を観に行くのですから、お芝居を存分に楽しむために、「どこに出ても恥ずかしくない着こなし」を心得ておく必要があると思います。

「今度歌舞伎を観に行くことになって、着物を着ようと思うけれど、どんなものを着て行けばいいの?」と迷う方は多いと思います。
そこで、これまでの経験と観察から、観劇の時の着物についてまとめてみました。
「面倒くさいなあ」と思うかもしれませんが、せっかく「キモノで観劇」を志すなら、周りの人をよく見て着こなしのワザを磨き、いずれ自分が人からお手本とされるようになれば素敵だと思います。


■季節に合った装いを

観劇の場では、着物を着慣れた人、着物を見慣れた人がたくさんいますので、季節に合ったものを着ることは大変重要です。

まず、単(ひとえ)、袷、薄物の着用時期を守ることが大切です。
特に、単(ひとえ)の時期に袷(あわせ)を着ることは絶対に避けましょう。
真夏は、6月や9月に着るような単ではなく、きちんと夏物=薄物を着ましょう。
単の着物や薄物を持っていないならば、思いきって洋服にすればよいのです。

5月下旬は、本来は袷の時期ではありますが、着慣れた雰囲気の人はほとんど単を着ています。
10月の初めも、着慣れた雰囲気の人のなかには単を着ている人がいます(ただしこれは、当日の気候などさまざまな条件による判断が必要となりますので、初心者は10月になったらとにかく袷を着るのがよいと思います)。

着物や帯の柄が、季節を限定するようなものである場合は、それに合った季節に着用するようにします。
東京の場合だと、半月か1か月くらい季節を先取りした柄選びをすることが多いです。ただし先取りと言っても、たとえば2月に桜の柄など、あまりにも早すぎるものは似つかわしくないので、避けたほうがよいでしょう。
ただし、ひいきの役者さんの紋を意匠化した柄や、ひいきの役者さんにゆかりの柄などの場合は、必ずしも季節と合っていなくても構いません(ただし、ひいきの役者さんがらみの着物や帯を身にまとうのは、その役者さんが出演されている時だけにするのが演者への礼儀だと思います)。


■座席や興行内容によって着分ける

歌舞伎座の客席は、グレードの高いほうから順に桟敷席、1階席、2階席、3階席、一幕見席となります(2階席の前列が「1等席」で1階席後部が「2等席」になる場合もありますが)。

歌舞伎座はジーンズでも入場可能ですので、本来は1階席でカジュアルな格好をしていても構わないのですが、着物の場合はやはり目立ちますし、ほかの人の着物とバランスが合わないとどうしても浮いてしまいますので、なるべく座席にあった装いをすることが望ましいです。

以下に、座席別に装いの目安をまとめました。
ただしこれはあくまでも目安ですので、「大勢で、ドレスコードを決めていくことになった」など趣向のある場合は、それに合わせるのがよいでしょう。

<1階席>

普段の興行ならば、格の高い着物は却って大げさになってしまいます。小紋か、紋なしの色無地が最適です。
ただし桟敷席の場合は、客席からも見られる位置にありますので、付け下げ、飛び柄の上品な小紋などで、少しあらたまった感じを出すのが望ましいです。
お正月興行や襲名披露興行の場合は、平場(ひらば:桟敷以外の席)でも訪問着や付け下げ、紋付の色無地を着ている人が多くなります。そのため小紋も、飛び柄の上品なものか総柄の華やかなものにするとよいでしょう。

観劇には本来、染めの着物が適しているといわれますが、最近は織りの着物を着ている人も多く見られます。ただし1階席の場合は、格子や絣(かすり)などカジュアルな柄の紬は避け、無地紬など少しあらたまった感じのものにしたほうがよいです。
桟敷席の場合は、染めの着物のほうがよいです。

夏は、絽の小紋・色無地・付け下げ、紗などが適しています。平場なら、絹紅梅でもよいと思います。
木綿や麻の着物は、1階席では適しませんが、麻でも「上布(じょうふ)」など高級感のあるものなら、あまり違和感がないと思います。ただし、紬と同様、柄ゆきによります。桟敷席では避けたほうがよいでしょう。平場でも、襲名披露興行の時は避けたほうがよいでしょう。

<2階席>

基本的には、1階席の平場と同じです。
ただ、お正月興行や襲名披露興行などの場合でも、訪問着や付け下げを着ている人はやや少なめになります。

夏は、絽の小紋・色無地、紗、絹紅梅などが適していると思いますが、麻の着物でも違和感はないと思います。
麻の場合、上布だけでなく縮(ちぢみ)でも構わないと思いますが、やはり格子や絣などカジュアルな柄は避け、無地に近いものにしたほうがよいです。1階席と同様、襲名披露の場合は避けたほうがよいでしょう。

<3階席>

1階席や2階席に比べると着物を着ている人も少なくなりますが、着物を着た人が「ちらほら」とでもいると、やはり場が華やぎます。
3階席は、とにかく「気軽に歌舞伎を観る」ための場所なので、あらたまったものにする必要はありません。紬、小紋などがちょうどよいでしょう。
3階席は座席も狭くなりますし、床もじゅうたん敷きではありませんので、汚れて困るものは着て行かないほうがよいと思います。

夏は、絽の小紋や夏紬のほか、麻の着物や木綿ものでも構いません。縮(ちぢみ)や綿紅梅、綿絽を、半衿・襦袢・名古屋帯・足袋・草履とあわせて着ます。
襲名披露興行の時は、麻や木綿は避けたほうがよいです。

浴衣(この場合、綿コーマの浴衣に素足に下駄履きという、いわゆる「浴衣姿」のこと)は、あまり適しません。1階席や2階席では当然避けるべきですが、3階席の場合、夜の部ならばさほど違和感がないかもしれません(ただし、襲名披露興行などの場合は、3階席でも浴衣は避けるべきです)。ただ、客席だけでなくロビーや食堂も利用しますから、やはりなるべく避けたほうが無難です。
半幅帯を締める場合は、文庫結びは避けたほうがよいです。椅子の背もたれにぴったりと背中をつけられないからです(3階席の場合、かなり上のほうから舞台を見下ろす形になりますので、前かがみになると後ろの人が見づらくなってしまいます)。貝の口や吉弥(きちや)などに結ぶのがよいでしょう。歩く時に大きな音が立たないよう、下駄も、裏にゴムの貼られたものにします(本来、劇場では下駄履きは避けたほうがよいです)。



歌舞伎座八月納涼歌舞伎(第3部)

2005年08月27日 | 歌舞伎
8月の歌舞伎座は、毎年恒例の「納涼歌舞伎」。
普段の興行は昼の部、夜の部の2部制だが、納涼歌舞伎の時には3部制となり、1部ごとの上演時間が少し短くなる。
そのぶん入場料も普段より少し安くなるので、若い人の姿も普段より多く見られ、客席もにぎわっている。

納涼歌舞伎が始まったのは今から15年前の1990年。当時は「納涼花形歌舞伎」と言った。「花形歌舞伎」というのは、若手俳優による芝居を指す。
主軸となった勘三郎丈(当時・勘九郎)と三津五郎丈(当時・八十助)も、当時はまだ30代だったのだ。
15年の間にお二人とも大看板になったが、現在もなお、「納涼歌舞伎」の主軸となって毎年興行を続けておられる。
納涼歌舞伎は、今や木挽町(こびきちょう:歌舞伎座近辺の昔の町名。現在はこの地名はないが、歌舞伎座の代名詞として使われる)の夏の風物詩として定着した感がある。

納涼歌舞伎での演目は多岐に渡っているが、夏らしく怪談ものが多く上演されてきたのも特徴であろう。「怪談乳房榎」や「怪談牡丹燈籠」など、落語と深い縁を持つ演目も上演されてきた。
また、早変わりや「戸板がえし」などのケレン(大掛かりな仕掛けや派手な演出のこと)が見どころの「東海道四谷怪談」も、すっかりおなじみの演目となった。

今回の納涼歌舞伎では、いわゆる「怪談もの」は上演されなかったが、かつて「平成中村座」でも上演されて話題となった「法界坊」が初めて歌舞伎座で上演されるというので、話題を呼んでいた。
「法界坊」のなかでも怨霊が出る場面があり、納涼にはうってつけといえる。宙乗り(花道を入っていくのではなく、舞台から3階席のところまで宙づりになって上がっていく演出)もあるのでケレン味たっぷりだ。

「法界坊」が上演される第3部を観に行った。しかも3階の左寄りの席だったので、宙乗りで上がってきた勘三郎丈を間近で見ることができた。やはり近くで見ると迫力があり、緊張感が伝わってくる。席のすぐ近くに、宙乗りで上がってきた役者が入っていくスペースが作られていたのだが、幕の中に入った後の勘三郎丈の声も聞こえてきて、普段とはまた違った楽しみ方ができた。

ただ、芝居全体はというと、いささか軽きに流れすぎているきらいがあった。
終盤での緊張感と対比するために前半が喜劇的な進行になっているのはよいと思うのだが、問題はその喜劇の演じようだと思う。

喜劇役者が喜劇を演じるとき、彼らは滑稽なしぐさや台詞を「真剣に」演じる。だから、観客が笑うのだ。
いささかきびしい評かもしれないが、今回の勘三郎丈の芝居には、そういった雰囲気が感じられなかったように思う。
歌舞伎役者がオフザケでちょっと面白おかしいことを言ったりやったりしても、興ざめになってしまうばかりだ。
それはちょうど、安直な「くすぐり」を入れると落語が一気につまらなくなってしまうのに似ている。
喜劇を演じるなら、多くの喜劇役者がそうしているように「マジメに滑稽を演じて」ほしいなあ……と思う。

その点では、今回、片岡亀蔵さんがよくがんばっていたのではないだろうか。
中村扇雀さん扮するお組に迫ろうとする場面で、「リング」の貞子を彷彿とさせるような大胆な動きで鬼気迫る雰囲気をかもし出し、観客は大いに盛り上がっていた。
そのほか、中村橋之助さんの演技も、この芝居を引き締めてくれていてとてもよかったと思う。

随所で面白い趣向がこらされている芝居だっただけに、役者のみなさんがそれを十分に引き立ててくれるとよかったのになあ……と思った。


終演後、観客の拍手が止まずカーテンコールとなった。
どうも「勘九郎最後の舞台」あたりから、勘三郎丈の芝居ではこのカーテンコールがお定まりになってきているようだ。
歌舞伎でのカーテンコールは、いささか興ざめな気がする。芝居の余韻がそこで壊れてしまうからだ。
歌舞伎や落語の場合、最後の幕が閉まると同時に「追い出し太鼓」というのがたたかれる。その名のとおりお客様を出すための太鼓なので、それを聞いたら観客も外に出ていけばよいのだ。
それに残念ながら、今回の芝居はカーテンコールをするほどではなかったかな……と個人的には思う。


<本日のキモノ>

白地に市松と桔梗の綿紅梅

3階席だったので、気軽に綿紅梅にしました。
白地に薄墨色の市松と桔梗の柄です。
観劇なので、半衿と襦袢をつけ、足袋を履き、履き物も草履にしています。
帯は博多織の八寸名古屋帯。



麻布十番納涼まつり

2005年08月21日 | つれづれ
麻布十番商店街近辺で行われた「麻布十番納涼まつり」へ行ってきました。

お祭り自体は比較的新しいものですが、とにかく屋台がたくさん出るので、若い人を中心に毎年多くの人でにぎわっているようです。
麻布十番商店街のお店が出している屋台のほか、国際色豊かな「ワールドバザール」、日本各地の名産品が売られる「おらが国自慢」など、たくさんのお店が出ていました。
屋台のほかには、「麻布十番寄席」や盆踊り、お囃子などが行われていました。

私は、おはやしを目当てに行ったのですが、早めに行って屋台も見てみました。とにかく屋台も人も多かったのですべての店は見ていませんが、「おらが国自慢」のなかで飛騨牛の串焼きが売られていて、とてもおいしかったです。和牛ならではの旨味がありました。生ビールも一緒に売られていたので、串焼きを片手に一杯やって、しばし暑さを忘れることができました。

夜になって、麻布十番稲荷の前で「十番囃子」の演奏が行われました。高校生くらいの子もいて、一生懸命演奏していました。

十番囃子
↑十番囃子

「十番囃子」の演奏の後は、獅子舞や、「伊勢音頭」「かっぽれ」などの踊りが披露されました。
お囃子や踊りの会場はあまり広くなかったのですが、たくさんの人が集まっていました。若い人も結構いました。

獅子舞
↑獅子舞


<本日のキモノ>

濃紺地に朝顔柄の綿紅梅に博多織の紗献上八寸名古屋帯

濃紺地に朝顔柄の綿紅梅(めんこうばい)に、博多織の紗献上の八寸名古屋帯です。
朝顔の柄は、時期的には本当はもう遅いのですが(朝顔の柄は7月から8月初旬までの間に着て、立秋を過ぎたら桔梗や萩など秋草の柄を着るのがベストです)、朝顔柄の浴衣地の日傘とあわせたいと思ったので、着てみました。
日傘が白地に紺の朝顔柄、着物が濃紺地に白の朝顔柄なので、ちょうど対比になりました。
足元は、麻の足袋に、右近型の焼き桐の下駄です。

お祭りの会場には、着物の人も少しいましたが、浴衣を着た若い人がたくさんいました。六本木ヒルズ周辺にも浴衣の人がたくさんいました。この界隈にこんなに和服の人がいるなんて、普段ではまずありえないことです。やはり、浴衣姿・着物姿の人がたくさんいると、街が一気に華やぐ気がします。

夏キモノを着る若い人が増えたのはよいことですが、なかには、絽の着物(もちろん半衿、襦袢と一緒)に名古屋帯といういでたちなのに、素足に下駄ばきの人もいました。
最近、こういう人をよく見かけるのですが(驚いたことに歌舞伎座でも)、これはさすがにいただけません……。
半衿つきで着物(着物っぽい浴衣も含めて)を着たら、たとえ帯が半幅帯でも、足袋は必ず履きます。
綿コーマなど、半衿をつけないで着る浴衣の場合は、お太鼓の帯をあわせても素足に下駄履きで、すっきりと着こなすのがベストです。



熊谷花火大会

2005年08月20日 | つれづれ
自称「花火ヒョーロンカ」の私は、夏になると毎週末のように花火大会を見に出かけます。
夏だけでなく、10月にわざわざ茨城県の土浦まで行ったこともあるほどです(土浦花火大会は、全国の花火師のコンクールを兼ねている大きな大会です)。

この日は、埼玉の熊谷(くまがや)まで足を伸ばしてきました。
熊谷花火大会を見るのは今回で3回目ですが、この花火大会の魅力は、何と言っても広い河原でゆったりと座って見られることです。また、打ち上げ場所も広いので、1尺玉がバンバン打ち上げられるのもうれしい限りです。

ガタゴトと電車に揺られ、熊谷に到着。少し早めに会場へ着きました。ゆったりと見られるとは言っても、打ち上げ時には広い河川敷が人でほぼ埋まります。平らな場所はすでに埋まっていたので、土手に陣取りました。ビニールシートは必須アイテムです。

熊谷花火大会は、企業協賛型です。企業がスポンサーとなり、花火を提供するのです。そのため、それぞれの花火を打ち上げる前に、提供企業の名前や宣伝文句がアナウンスされます。
企業から提供される花火のほかに、「メッセージ花火」というのもあります。個人協賛型の花火で、スポンサーとなって花火を提供すると、自分の花火の打ち上げ前に好きなメッセージを読んでくれるのです。家族や友人、結婚相手、恋人などに対するそれぞれの想いが述べられていました。

協賛企業のほとんどは地元の企業です。まさに「地域密着型」の花火大会といった感じです。
それぞれに趣向を凝らした花火が打ち上げられますが、なかでもひときわ観客の目を引いたのは、ヤギハシという地元百貨店の提供する花火です。
ヤギハシはこの花火大会で毎年大掛かりな花火を上げています。観客の多くはそれを知っているので、打ち上げ前にヤギハシの名前がアナウンスされると大きな歓声がわき起こっていました。
スターマインが連発されたあと、クライマックスには1尺玉が何十発も打ち上げられるのです。同時に4発の1尺玉が打ち上げられるなど、都心の花火ではまずありません。
1尺玉の連発で締めくくられると、会場からは大きな拍手が起こっていました。
まるで花火大会のフィナーレであるかのような盛り上がりですが、ヤギハシ提供の花火が終わった後も、まだまだ打ち上げは続きます。

花火大会が終わって熊谷駅に向かうと、駅は大混雑で、改札を通るまでにかなりの時間がかかりました。
電車も相当混みそうだったので、帰りは新幹線に乗りました。しかし新幹線のホームにも、花火帰りと思われる人がかなりいました。遠くから見に来た人も結構いるんだなあ……と思いました。

首都圏での夏の花火大会は、これでほぼ終わります。夏の終わりが近づくと一抹のさびしさを感じずにはいられませんが、ダイナミックな花火で、行く夏を存分に楽しむことができました。


<本日のキモノ>

土手で花火見物 麻の葉の浴衣に博多織の献上八寸名古屋帯 

土手にビニールシートを敷いて座るので、白地の浴衣は避け、汚れてもいいものにしました。
淡いベージュ地の、麻の葉柄の綿麻浴衣です。6月にこれを着た時には、半衿、襦袢、足袋をつけて単の綿着物の代わりにしましたが、今回は半衿と襦袢をつけず、浴衣として着ました。
そのため足元も、素足に下駄ばきです。歩きやすいように、右近型の焼き桐下駄にしました。
帯は博多織の八寸名古屋帯です。
電車に長時間乗って出かける時は、半幅帯を文庫に結ぶのではなく、博多織や麻の名古屋帯をお太鼓に結ぶと、椅子に背中をぴったりとつけられて楽です。半幅帯に比べると見た目も少しきっちりとした印象になるので、少し遠出をするときにもそれほど違和感がありません。



深川祭

2005年08月14日 | 東京下町
※遅くなりましたが、深川祭の記事をアップしました。

8月12日~14日、深川・富岡八幡宮の例大祭(深川祭)が行われました。
深川祭は、「江戸の三大祭」の一つで、江戸時代から続く由緒あるお祭りです。

ちなみに「江戸の三大祭」は、神田明神の神田祭、赤坂・日枝神社の山王祭、そしてこの深川祭です。
現在は浅草の三社祭が有名になってしまっているかもしれませんが、本来は上の3つが「江戸を代表するお祭り」だったのです。

「江戸の三大祭」には、どのお祭りにも本祭り(ほんまつり)と陰祭り(かげまつり)があります。
陰祭りの年は、神事のみを行う、あるいは神事と宮神輿の渡御のみを行うなど、簡略化された形となります。それに対して本祭りの年は、行事も多く大々的に行われます。
今年は、神田祭と深川祭が本祭りの年でした。

深川祭の本祭りは、3年に一度です。
本祭りでは、神幸祭のほかに、町内神輿の渡御が行われます。この神輿の渡御が、深川祭の目玉と言えます。
神輿の数は全部で何と56基、それが列をなして氏子各町内を練り歩くのです。

深川祭の神輿渡御には、いくつかの特徴があります。
一つは、神輿を「わっしょい」のかけ声で担ぐのが基本となっていること。
「そんなの当たり前じゃない?」と思われるかもしれませんが、この「わっしょい」のかけ声は、江戸の神輿の伝統的なかけ声なのです。浅草の三社祭などでは、いろいろなかけ声が混じっていますが、深川祭では、今もなおこのかけ声を守っています。
ただし、材木町だった木場や漁師町だった深濱では、別のかけ声が用いられます。その昔、町を構成していた職業の特色があらわれているようです。

次に、神輿や担ぎ手に沿道から水がかけられること。
このことから、深川祭は別名「水かけ祭り」と呼ばれています。
沿道の家々の人が桶に水を用意してかけるのですが、大きな通りでは消防の人たちがホースで水をかけていました。

神輿と担ぎ手にホースで水かけ
至る所で神輿と担ぎ手に水がかけられる
↑至る所で神輿と担ぎ手に水がかけられる

そしてもう一つの大きな特徴は、永代橋を渡るとき神輿を差し上げて(=腕を伸ばして神輿を持ち上げて)通ることです(冒頭写真)。
永代橋(えいたいばし)は、隅田川(江戸時代には大川と言われていました)にかかる大きな橋で、橋を隔てて東側が深川、西側が日本橋です。
日本橋の新川や箱崎も富岡八幡宮の氏子になっているので、神輿は隅田川を渡って日本橋側まで来るのです。
富岡八幡宮を出発し氏子各町内を回った神輿は、清洲橋(きよすばし)を渡って箱崎・新川界隈を通った後、富岡八幡宮へ戻るときに、神輿は永代橋を渡ります。
木遣りや手古舞(てこまい)を先頭に、56基の神輿が次々と永代橋を渡るのですが、このときに神輿を高く差し上げます。
最初から最後まで差し上げて渡りきる町内、橋の真ん中まで「わっしょいわっしょい」と担いできて橋の真ん中で差し上げそのまま渡りきる町内など、渡り方は様々です。
神輿を差し上げたら、「差せ、差せ」のかけ声に変わります。
永代橋を渡るところは、深川祭のなかでも特に大きな見どころと言えます。

私は、永代橋の上で神輿の渡御を見物しました。少し早めに着いたらまだ人が少なかったので、日陰になっているところに場所をとって待ちました。
神輿の渡御が始まる頃には、橋の両側の歩道に人がたくさん集まりました。しかし、思ったより混雑はせず、わりと楽に見ることができました。
56基の神輿は続々と永代橋を渡るのですが、数が多いだけあって、すべての神輿が通るまでに3時間以上かかりました。
永代橋を渡った後、永代通りのまっすぐな道を神輿が並んで進む様子は、圧巻でした。

永代通りを並んで進む神輿
↑永代通りを並んで進む神輿

直木賞作家・山本一力さんの書く時代小説には深川を舞台にしたものが多いのですが、そのなかにも出てくる冬木町、佐賀町、平野町などといった古い地名の町内が、現在も残っています。それもまた、江戸情緒を感じさせてくれます。

冬木町の神輿
↑冬木町の神輿

しんがり(最後)は深濱の神輿です。もともと漁師町だった深濱では、神輿の前に大漁旗が掲げられます。かけ声も「わっしょい」ではなく「オイサ」となります。

深濱の神輿
↑深濱の神輿と大漁旗

日差しのなか、長時間神輿見物をしていましたが、橋の上を通る川風と神輿にかけられる水が、涼を与えてくれました(日焼けしてしまいましたが……笑)。


ちなみに、この前日には「神幸祭」が行われ、富岡八幡宮の御神体を乗せた「鳳輦」が渡御しました。
残念ながら現在、鳳輦の渡御はトラックで行われています。しかし、絢爛な鳳輦が粛々と運ばれていく様子を見ていると、やはり厳かな気分になりました。
この鳳輦渡御では、もちろん水はかけられません。各町内の御酒所の人たちも、沿道に立って頭を下げながら鳳輦を出迎えていました。

鳳輦渡御
鳳輦
↑神幸祭の鳳輦渡御

祭礼提灯
↑祭礼提灯

お祭りモードの犬 
↑犬も沿道でお祭り見物(?)


<本日のキモノ>

桔梗の浴衣

桔梗の花の丸模様の藍染め浴衣に、博多織の八寸名古屋帯。
この浴衣は、実は三味線の浴衣ざらいの時に揃いであつらえたものですが、普段着てもまったく違和感のない柄なので、便利です。
日傘は、白地に藍の浴衣生地で作られたものです。この日傘は、年配の女性になかなか好評で、何人かの方が声をかけてくださいました。
足元は、素足に塗りの千両下駄です。



東京湾大華火祭

2005年08月13日 | つれづれ
東京の花火大会のフィナーレを飾る「東京湾大華火祭」が行われた。

隅田川の花火大会に匹敵するほどの観客動員数を誇る花火大会なので、会場周辺は例年ごった返している。
そのため今年は、晴海(はるみ)に設置された有料観覧席のチケットを購入。
自由席だが、椅子も設置されているし、障害物がほとんどないので花火もよく見えた。

少し早めに会場に着いたら、まだ人もまばらだった。遠くに雷の音が聞こえ、雲行きがあやしかったので屋根のある位置の席をキープ。
するとまもなく、にわか雨が。
前のほうの席をキープしていた人たちもいったん屋根の下に避難して雨やどりをしていた。
雨はしばらく降っていたが、打ち上げ開始30分くらい前になって止んだので、順延されることもなく予定どおり打ち上げが開始された。

尺玉の連発や、一尺五寸玉のほか、まるでカーテンのような形を作りながら連続して打ち上げられるスターマインなど、広い海上に打ち上げられる花火ならではのスケールの大きさで、とても見ごたえがあった。

花火が終わり、大混雑の通りを延々と歩いて駅にたどりついた直後に、また雨が降ってきた。
花火の間や歩いている間に降らなくてよかった……。

<本日のキモノ>

波に千鳥の浴衣

竺仙の「波に千鳥」の柄の浴衣に、博多織の献上名古屋帯。
足元は、素足に塗りの千両下駄。塗りの下駄は、夏のみに履きます。白木の下駄や焼き桐の下駄は通年履けます。
帯留、根付、ハンカチがわりの豆手ぬぐいもすべて千鳥にして、「千鳥尽くし」にしました。

千鳥の帯留と根付
千鳥の豆手ぬぐい

朝顔柄の日傘は、何と浴衣生地で作られているのです。

浴衣地の日傘




鏡味仙三郎 芸歴50周年の会

2005年08月12日 | 伝統文化あれこれ
東京・三宅坂の国立演芸場で、江戸太神楽(だいかぐら)曲芸の鏡味仙三郎(かがみ・せんざぶろう)師匠の会が開催された。
この会は、仙三郎師匠の芸歴50周年を記念したもの。

「芸歴50周年」。これはすごい数字である。
50年というと、夫婦ならばちょうど「金婚式」にあたる年数だが、平均寿命が少しずつ短くなり、初婚年齢が上がり、離婚率が高くなっている現代において、金婚式を迎えられる夫婦というのはごく稀だろう。

芸歴50年というと、どんなおじいさんかと想像する方もいらっしゃるかもしれないが、仙三郎師匠は何と9歳でこの世界に入ったので、まだまだじゅうぶんお若いのだ。
9歳の時、鏡味小仙(おせん)師匠に弟子入りした仙三郎師匠は、年の近かった鏡味仙之助(せんのすけ)師匠とともに稽古に励み、昭和48年、「鏡味仙之助・仙三郎」のコンビで独立した。

その後、落語協会にも所属した両師匠は、寄席に出演し、寄席の色物(寄席で、落語・講談以外の芸全般を指す)として、高座であざやかな曲芸を披露し続けてきた。
非常に残念なことに、相棒の仙之助師匠が4年前に他界された。
しかしその後も仙三郎師匠は、息子さんの仙一さんをはじめとするお弟子さんたちとともに高座に上がり、寄席の客の目を楽しませてくれている。

前置きが長くなったが、その仙三郎師匠の記念すべき50周年の会なのでぜひとも行きたいと思い、前もって午後半休を申請しておいた。会社が終わってからだと開演に間に合わないからだ。
会社を出て遅い昼食をとった後、こまごまとした用事をすませてから国立演芸場へ。
開演1時間前に着いたのだが、入り口にはすでに列ができていた。
仙三郎師匠の小学校時代の同級生のみなさんや、ご近所のみなさんなどが、花束を持ってたくさん集まっており、師匠のお人柄を感じさせた。

公演では、太神楽曲芸の原点である獅子舞をはじめ、傘の曲芸や毬の曲芸など寄席でもおなじみの曲芸が数多く披露された。そのほかちょっと変わったところでは、「キッチントリオ」と題して、コックさんの姿をした仙三郎師匠、仙一さん、仙三さんが台所用品を使ってあざやかな曲芸を披露し、場内は大いに盛り上がった。
ゲストとして紙切りの林家正楽師匠や奇術の花島世津子師匠も出演され、盛りだくさんの内容だった。

正楽師匠の紙切りでは、幼い頃の仙三郎師匠や故・仙之助師匠がランドセルをしょって曲芸の稽古をしている姿など、仙三郎師匠のこれまでの足跡を振り返る作品が多数披露され、場内は大変盛り上がった。
また、仙三郎師匠と、紙切りで表現された故・仙之助師匠とのジョイントによる毬の曲芸も印象的だった。「芸歴50周年の会は仙三郎・仙之助の会にしたかった」という仙三郎師匠の願いを、このような形で表現されたのだろうと思うと、胸に迫るものがあった。
花島世津子師匠は、奇術のほかに「松づくし」というおめでたい芸を披露し、彩りを添えた。

どれも大変にすばらしい曲芸ばかりだったが、一番すごかったのは、やはり「土瓶の曲芸」。
加えたバチの上に土瓶を乗せ、投げたり回転させたり、手を触れないでフタをとったり、目を見張る技の連続だった。

終演後は、お弟子さんたちとともに仙三郎師匠自ら出口で観客を見送ってくださっていた。
お弟子さんたちの活躍もめざましく、今後の仙三郎社中に大いに期待したいところだ。

仙三郎師匠、芸歴50周年本当におめでとうございます。
これからもがんばってください!



原爆忌

2005年08月09日 | つれづれ
8月9日は、長崎原爆忌。6日は広島原爆忌で、長崎と同様、今年も平和祈念式典が行われた。

どちらも毎年この日を迎えるたびに、戦争と平和について多くのことを考えさせられるのだが、私はとりわけ、長崎の原爆忌に深い感慨をおぼえる。

広島に原爆が投下されたのは午前8時15分。長崎に原爆が投下されたのは午前11時2分。
なぜ投下時刻に開きがあるのか、ご存じだろうか。

実は長崎は、米軍による8月9日の原爆投下候補地としては、2番目だったのだ。
第1候補地は、福岡の小倉だったのだという。小倉に軍需工場があったのが、その理由の一つであろう。
しかし当日、小倉の上空は雲が厚く垂れ込めていた。
そのため投下目標が定められなかった米軍は、晴天に恵まれていた第2候補地の長崎に移動し、原爆を投下したのだという。

私が生まれたのは、この小倉である。細川忠興によって整備され、礼法で有名な小笠原氏によって長く治められた城下町で、海と山に恵まれた良い所だ。
戦時中、両親はまだ小学生だった。父はそのころ大分に移り住んでいたが、母は小倉にいた。
もしもこの時、小倉に原爆が投下されていたら、私はこの世に生まれていなかったかもしれないのだ。
それを考えると、実際に戦争を体験していない私でも、とてつもなく恐ろしいものに身の震える思いがする。
と同時に、不幸にも原爆によって命を落としてしまった人々、今なお後遺症と闘っている被爆者の方々、そして、戦争で亡くなったすべての人のことを思い、悲しみを禁じ得ない。


私は、「反戦」「平和」を主義主張として掲げているわけでもないし、首相による靖国神社参拝に異議を唱えるわけでもない。
しかし、先で述べたようなことを考えると、戦争は決して繰り返されてはならないのだと、切に思う。

両親は、自らの戦争体験をあまり多くは語らなかったが、それでもやはり、戦争を体験した世代として次の世代に残していくべきことがあると考えたのだろう、長崎のことも含めて、折を見て私たちに話してくれた。
普段、両親のお説教を聞く時は内心反発していたことの多かった私も、その話になると素直に、神妙な気持ちで聞いたものだ。
そして今になってみると、子どものころに両親から実体験に基づく話を聞かせてもらえたことは、とても貴重だったと思う。

戦争を我が身で知っている世代は、着実に少なくなっている。
戦後生まれの世代のそのまた子どもの世代になると、様々な点で物の見方や考え方が違ってくるのは避けようのない現実だろう。
しかし、戦争体験談を聞いたこともないという「戦後生まれジュニア」の世代にも、戦争を知っている世代、あるいはその人たちから話を聞き知っている世代が語り継いでいくことによって、何かを感じ取ってもらうことはできるはずだ。

沖縄戦の体験者の話のことを「退屈だ」とした某校の先生のように感受性のレベルが高くない人もいるかもしれないし、自分より上の世代の人の言うことにまったく聞く耳を持てない人もいるかもしれないし、インターネット上の「仮想現実」のなかで生きている人たちにどれだけ「現実」が通用するかもわからない。
しかし若い世代のなかにも、「もしも自分がそのような目にあってしまったら」と我が身にひきつけて考え、そのことで何かを感じ取れる人は、きっと少なからずいると思う。

歴史に「if(もしも)」はあり得ないと言われる。
しかし、「もしもあの時自分の街に原爆が落ちていたら」「もしも自分が戦時下に生まれていたら」と考えると、その恐ろしさに「悲劇は決して繰り返してはいけない」と感じることができると思う。

人間は想像する生き物だ。その想像力を、発展性のあることに生かしていかなければならない。


圓朝まつり

2005年08月07日 | 落語
東京有数の寺町、谷中(やなか)にある禅宗寺院「全生庵(ぜんしょうあん)」で、落語協会所属の芸人さんたちによるイベント「圓朝まつり」が行われた。

明治時代の落語家で「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」や「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」など現代に残る名作落語を数多く作った、三遊亭圓朝(さんゆうてい・えんちょう)の追善法要を兼ねたイベントである。

三遊亭圓朝の追善法要は以前から行われていたのだが、落語関係者だけが出席し、全生庵の本堂での法要と奉納落語などを行うというものだった。
しかし、落語ファンにも集まってもらってファンとの交流を図ろうという趣旨で、4年前から「圓朝まつり」として新たなスタートを切ったのである。

当日は、関係者のみが出席する法要以外に、一般の人向けの奉納落語会が行われる。この奉納落語会は毎年、発売と同時にチケットが売り切れてしまうほどの盛況ぶり。
境内では、芸人さんたちによる様々な屋台が出される。場内の至る所で、ファンと語らい、写真撮影やサインに気軽に応じる芸人さんの姿が見られた。

さすがに芸人さんだけあって、屋台の内容やネーミングにも洒落がきいており、様々な工夫がこらされている。
今回、私がまず足を運んだのは、手ぬぐい屋さん「にせ辰」。
東京の下町に詳しい方ならよくご存じの、「いせ辰」という老舗手ぬぐい屋さんをもじったネーミングである。
「にせ辰」では、落語協会に所属する芸人さんが揃いで誂える浴衣の生地で手ぬぐいを作り、販売していた。
柄は、歌舞伎の「中村格子」をもじったもの。「中村格子」は、格子のなかに「中」「ら」の文字が散らされているのだが、これは、「ら」だけが散らされているのだ。「らくご」の「ら」。
このあたりも、芸人さんらしい洒落のきいたところである。

「にせ辰」手ぬぐいラベル 「にせ辰」手ぬぐい


「にせ辰」の近くに、三遊亭円丈師匠のお店があったので、足を運んでみた。すると、何と円丈師匠の新作落語の台本が売られているではないか!
パソコンを自在に操る円丈師匠が手ずから作ったもので、製作に何と10時間を費やしたという力作である。
全部で3種類、それぞれ20部限定だったので、売り切れないうちにさっそく買うことに。3種類セットで買いたいのはヤマヤマだったのだが、何せ数量限定なので少しでも多くの人が買えるほうがよいだろうと思い、1種類だけに絞った。
7月2日の独演会で演じられた「ぺたりこん」と、名古屋の大須演芸場の様子を描いた「悲しみの大須」が収録されている巻を購入。表紙にサインもしていただけて、まさに「お宝」である。

三遊亭円丈サイン入り落語台本


食べ物や飲み物の販売も、芸人さんたちによって行われている。
第1回圓朝まつりから毎年恒例で出店している、柳家小三治師匠の一門によるカレー屋さんや、三遊亭小田原丈さんによるカクテル屋さんが、今年も出店していた。
三遊亭小田原丈さんは、実際にバーテンダーをされていた経験があるので、とてもあざやかなシェーカーさばきである。氷がたくさん入った色鮮やかなカクテルは、涼を誘ってくれる。

お店の数も少しずつ増えており、今年新たに出店されたところもあった。
そのなかの一つが、柳家さん喬師匠の洋食屋さん。
さん喬師匠のお兄さんが下町で洋食屋さんをやっているので、そのネットワークを生かして、さん喬師匠が腕によりをかけて作ったようである。

10時の開場から1時間も経つころには、場内は多くの人でごった返していた。途中、入場制限が行われたほどだ。

圓朝まつり会場


奉納落語会は、今年は2部制だったのだが、私は1部のほうのチケットをゲットしていた。
本堂の下の広間で行われるので、お客さんはみんな畳の上に座るという、昔ながらのスタイルである。
先年亡くなられた柳家小さん師匠の「生誕90周年」ということで、小さん師匠が得意としていた噺を、柳家さん福師匠、柳家小三治師匠、柳家三語楼師匠が演じた。

奉納落語会のほかにも、境内で様々なイベントが行われた。
芸人さんたちによるゴミ収集隊「ゴミ隊」のダンスのほか、木遣り(きやり)、お囃子さんたちによる演奏、芸人さんによる歌謡ショーなど、趣向をこらした楽しいパフォーマンスが行われた。

「ゴミ隊」ダンス ←「ゴミ隊」ダンス


最後は、「深川」や「かっぽれ」などおなじみの寄席の踊りが披露され、場内みんなで三本締めをしておひらき。

「ゴミ隊」ダンス


猛暑のなか、芸人さんたちが汗だくになりながらも一生懸命ファンサービスをしてくださって、とても楽しい一日だった。

第1回圓朝まつりの開催時には、芸人さんたちの間でも賛否両論あったようだが、実行委員の芸人さんの尽力は言うに及ばず、みなさんの団結により、年々盛り上がりを増している。
寄席の高座の合間をぬって一生懸命準備を進め、ファンを楽しませることを第一に考えていろいろな試みをしてくださる芸人さんたちに、心から敬意を表したい。

これからも、夏の恒例行事として、ファンを楽しませてください。


<本日のキモノ>

8月1日のコーディネートと同じ、竹の柄の綿絽に博多織八寸名古屋帯、ふくら雀の帯留。