本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

柳家小三治独演会

2005年10月31日 | 落語
鈴本演芸場の余一会で柳家小三治師匠の独演会が行われたので、行ってきました。

寄席の定席興行は、毎月1日~10日、11日~20日、21日~30日の10日間ずつ行われます。
そのため、31日まである月は1日余ってしまいます。そこで、その日はさまざまな会が催されます。これを「余一会(よいちかい)」といいます。

鈴本演芸場の余一会では、年に2回柳家小三治師匠の独演会が行われます。
毎回発売と同時にチケットが売り切れる盛況ぶりで、すっかり恒例となっている会ですが、今回はいつもの独演会とひと味ちがっていました。

もちろん、チケットがすぐに売り切れるのはいつもどおりです。では、何がちがっていたのかというと……。
今回の独演会では、小三治師匠は落語をやらないのです。
落語をやらずに何をやるのかというと……、「コンサート」です。
落語をやらず歌を歌う独演会です。

小三治師匠の落語は定席でいつも聴いているので、独演会にはほとんど行ったことがありませんでした。
しかし今回は、定席ではおそらくあり得ないことなので、がんばって発売と同時にチケットをとりました。

当日。
鈴本演芸場へ入ると、高座にグランドピアノが置かれ、調律師の方が調律をしていました。寄席では、当然ながらまず見たことのない光景です。
高座にグランドピアノが置かれたのは、鈴本演芸場史上初めてだそうです(笑)。

鈴本演芸場の高座に置かれたピアノ

調律も済み、いよいよ開演の時間です。
今回は落語をやらないにもかかわらず、お囃子さんたちはちゃんと控えていて、出囃子を弾いていました。
出囃子の後、小三治師匠の登場です。さすがに着物ではなく洋服姿でした。
小三治師匠とともに高座へ出ていらっしゃったのは、ピアニストの岡田知子さん。岡田さんは、東京芸術大学を卒業後、ドイツのデトモルト音楽大学に留学し主席で卒業したそうです。
岡田さんのピアノ伴奏で、小三治師匠は童謡から流行歌、ミュージカル曲、外国民謡まで計13曲、アンコールも入れると計15曲を熱唱されました。

小三治師匠は、数年前から岡田さんに歌のレッスンをしていただいているそうで、発声もしっかりとしていてなかなか素晴らしい歌声でした。
岡田さんのピアノは、とても情感があってやわらかくて、小三治師匠の言う「まるでピアノが歌っているようだ」という表現が本当にぴったりでした。
岡田さんは、伴奏をなさる時でも必ず詩をきちんと理解したうえで、詩の世界を大切にしながら弾いていらっしゃるそうです。そんな岡田さんのピアノは、歌の世界をさらに広げてくれる感じでした。
高い技術をもったピアニストはもちろんたくさんいますが、本当の意味で心に響く演奏ができる人というのは、そう多くはいないと思います。とても高度な演奏をしているのになぜか聴いていて退屈するケースもあります。
しかし岡田さんの演奏は、存在感があるのだけれどとても自然で、そして聴き手の胸を打つものでした。

ピアニストとして素晴らしい感性と技術をお持ちの岡田さんですが、ご幼少の頃は三味線を習っておられたそうです。
意外なことと思えますが、私はそれを聞いて「なるほど」と思いました。邦楽の世界というのは、長唄にしても清元にしても義太夫にしても常磐津にしても端唄にしても、情感や詩の世界を非常に大切にするものです。その世界を知っているからこそ出せる音があるような気がしました。

私は、5歳から18歳までずっとピアノをやっていました。もちろん、ピアノのレッスンに付随して「コールユーブンゲン」を使った声楽レッスンもしていました。
両親の主義で、いろいろな習い事に手を出すことはせず、高校を卒業して実家を離れるまでとにかくピアノだけを習っていました。出かけるのもほとんどがクラシックコンサートで、邦楽の世界をまったく知らずにきました。
しかしその私が、今は三味線を習い、ご存じのとおりことあるごとに古典芸能鑑賞に出かけています(笑)。

邦楽の「ほ」の字も知らなかった私は、高校卒業の直前にふとしたことから能楽に興味を持ち(なぜ突然興味を持ったのかはまた別の機会に述べることとします)、大学生になって能のサークルに入り、謡と仕舞を習い始めました。
それまで知っていた世界とはまったく違った邦楽の世界にふれ、「こんな世界があったのか」と新鮮な感動をおぼえるとともに、「なぜ自分は今まで邦楽の世界を知らずにきてしまったのだろう」と思いました。
でもそれは決してそれまでの世界を否定するものではありません。邦楽の世界を知ったことによってクラシックの世界もよく見えるようになってきたのです。「邦楽の世界を知っていたら、これまでクラシックをもっと楽しめたかもしれない」と思いました。
それからは、能、オペラ、歌舞伎、人形浄瑠璃、落語など様々なものに興味をもてるようになりました。クラシックのコンサートも、昔よりずっと楽しんで聴けるようになりました。

それに面白いことに、昔はあまり得意ではなかった歌が、謡をやってからすっかり得意になったのです。
学生時代、ほぼ毎日謡の稽古をしていた私。初めはあの独特の声がなかなか出せず、細い声しか出ていませんでした。しかしある時、それまでノドのあたりにあったフタがとれたかのような感覚とともに、お腹から出した声がポーンと外に出て、それまでとはまったく違う声が出せるようになっていたのです。
すると、ほかの歌を歌ってもそれまでとはまったく違う声が出せるようになりました。
考えてみれば、声楽であろうが邦楽であろうが、お腹から声を出すことには変わりありません。それまでの私は、わかっているつもりでもそのことが実践できていなかったのでしょう。

ひとつのことをきちんとやるというのはとても大事なことだと思いますし、それを教えてくれた両親にも感謝しています。
でも、別の世界にふれてみて、「ひとつのことをやり遂げる」というのと「周りを見ないでやみくもにやる」というのとは違うことにも気づきました。後者の場合はともすると自己満足に陥りがちだし、それではある一定のラインを超えることはできないのだと思います。
ほかの世界に目を向け、いろいろなものを見聞してこそ、自分の見識や感性も高まり、それが糧になっていくのだと思います。
クラシックと邦楽、一見両極にある2つの世界を知った今なら、ピアノも昔とは違った気持ちで弾ける気がします(もう弾く機会はほとんどありませんが……)。



おにぎり菓子

2005年10月23日 | 京都
祇園・一力茶屋の近くに「與市兵衛(よいちべえ)」というお店があります。
一見、お土産物屋さんのように見えるのですが、このお店はもともとお菓子屋さんだったのです。
どんなお菓子を売っているのかというと……「おにぎり菓子」です。
箱の中におにぎりと玉子焼をかたどったお菓子が並んでいて、見た目はまるで本物のお弁当のようなのですが、れっきとしたお菓子なのです。

與市兵衛のおにぎり菓子(外箱)

與市兵衛のおにぎり菓子(中身)

おにぎりは「おはぎ」のような感じのお菓子です。中のあんこももちろん自家製なので、甘さを抑えた軽い仕上がりです。
玉子焼は、卵黄と卵白をそれぞれふんわりと泡立てて、表面を軽く焼いているのです。まるで本物の「甘い玉子焼」みたいです。

この「おにぎり菓子」の由来は、店名からもわかるとおり「忠臣蔵」です。
芝居「仮名手本忠臣蔵」のなかでもとりわけ有名な七段目「一力茶屋の場」で登場する遊女・おかる。彼女は、夫・早野勘平の忠義心を支えるために祇園へ身を売ってきたのです。

五段目に登場するおかるの父親・与市兵衛は、身売りする直前の娘が心を込めて作ってくれた弁当を持って出かけます。しかしその道中で与市兵衛は殺されてしまうのです。
娘の心尽くしの弁当を食べないうちに命果ててしまった与市兵衛への手向けに、一力茶屋の近くでおにぎり形の菓子を売ったのが始まりで、それ以来祇園の名物となったそうです。

しかし、観光客向けの和菓子がたくさん登場してしまったからなのか、作るのに大変手間がかかるからなのか、今では限られた時期にわずかな数しか作られていません。
保存料なども使われていないので、あたたかい季節や夏場は作られません。9月に京都へ行った時にもお店でおにぎり菓子のことを聞いてみましたが、残暑が厳しかったためまだ作られてはいませんでした。

今回、さすがに10月も下旬なので作っているだろうと思い、行ってみました。日持ちがしないので、もちろん旅行の最終日にです。
売り切れてないかなあ……とドキドキしながら行ってみると、幸い、まだありました。
1つは、その後のプチ・オフ会でお会いする木下さんへのご挨拶がわりに、もう1つは自分のお土産用に買いました。
すると、何とちょうどその2つを包んでいただいたところで、玉子焼のお菓子がおしまいになったとのこと。ギリギリセーフでした。本当にラッキーです。
まだお昼をちょっと過ぎたくらいの時間だったのに、もう売り切れてしまうとは……まさに「幻のお菓子」です。

このお菓子は京都の方の間でも今はほとんど知られていないそうで、めずらしいと喜んでいただけたのでうれしかったです。

祇園の「與市兵衛」さんには、この丹誠込められた素晴らしいお菓子を、これからもぜひがんばって作り続けていただきたいなあ……と思います。



プチ・オフ会

2005年10月23日 | 京都
京阪旅行3日目。
この日はお昼ごろまで雨が降っていたので、チェックアウトぎりぎりまでホテルにいました。

駅に荷物を置いた後、また祇園に戻ってきてゆっくりと過ごしてから、高島屋へ。
このブログで以前ホームページのことを紹介させていただいた木下明美さんと、初めてオフでお会いすることになったのです。
高島屋で待ち合わせをした後、木屋町にある「フランソワ」という喫茶店に案内してくださいました。
「フランソワ」は、前を通るたびにいつも興味を引かれていたお店だったので、連れて行っていただけて本当にうれしかったです。
レトロな内装の店内は、上品でありながらも堅苦しくなく、ゆったりと落ち着いた雰囲気です。
私は、浅草の「アンヂェラス」という喫茶店が好きでよく行くのですが、どことなくアンヂェラスを思い出させてくれる感じで、とてもリラックスできました。

ホームページを拝見してもわかるとおり、木下明美さんは海外在住のご経験もあり、多方面で活躍しておられます。
様々なことに造詣が深く、お話もとても楽しくて、勉強になることばかりでした。

木下さんのホームページでは、着物でのお出かけやお仕事のことも紹介しておられますが、いつも素敵な「大人の着こなし」という感じです。
京都にお住まいですが、江戸風の着物もお好きとのことで、銀座の着物店の話でも大いに盛り上がりました。

インターネットを通じて幅広い世代の方と知り合い、いろいろなお話をうかがえるのは、とても素晴らしいことだと思います。
「袖すりあうも他生の縁」といいますが、インターネットの普及によって「袖をすりあう」チャンスが増えていくのは、本当にうれしいです。

木下明美さんのホームページに掲載されているブログ「京都で、着物暮らし」で、この日のことを記事にしてくださっています。ぜひごらんください。

木下さんは、淡交社から発売中の雑誌「なごみ別冊 京都で、きもの」で、「かづら清」の女将さんと対談をされています。
お二人ともとても素敵なお着物で、対談の内容も、着物初心者の方から着物通の方まで楽しめる感じです。特に、着物を着始めてまもない若い方には、ぜひ読んでいただきたいなと思います。

「なごみ別冊 京都で、きもの」では、京好みの着こなしや着物、小物が、豊富な写真と丁寧な文章で紹介されています。
私がかつて歌舞伎座で「いいなあ」と思って憧れ、目標にしたような素敵な着こなしが、たくさん紹介されています。自分にとってはまだ高嶺の花でも、良い物を目で見て覚えておくことは、きっと自分の着こなしに役立つのではないかと思います。



鞍馬の火祭

2005年10月22日 | 京都
時代祭を見終わったら、遅い昼食をとって、すぐに次の目的地への移動を開始しました。
目的地は鞍馬。10月22日は、時代祭のほかに鞍馬の火祭が行われる日でもあるのです。

叡山電鉄の出町柳駅に着くと、長蛇の列ができていました。ホームの前から始まった列は、駅構内をずーっと続いて、さらに階段を下りて地下道に入り、京阪電車の改札の前を通って、反対側の階段を上がったところまで、延々と続いていました。
並んで待つこと約2時間。やっと電車に乗れたのはいいのですが……。

叡山電鉄の電車は2両編成。当然、定員も多いとは言えません。
しかし、長蛇の列ができている出町柳駅では、できるだけ人をたくさん乗せたいのか、始発なのにほぼ満員に近い状態で出発しました。
しかし、鞍馬までの途中駅には、宝ヶ池や修学院など、観光客が乗降する駅がいくつもあります。
途中駅から乗ってくる人も結構いそうなのに、始発駅からこんなに乗っていて大丈夫なのかなあ……と心配していました。

扉の周辺は混み合うので、奥に入って車両のいちばん端の部分に立っていたのですが、最初は自分の周りに少しスペースがありました。
しかし、途中駅に着くごとに人が増え、自分の周りにあったすき間はどんどんなくなっていき、さらにどんどんすし詰めになっていきます。
座っている人もギュウギュウ押されるくらいの混みようです。もはや座っているメリットがないほどです。

そんなに混んでいるのに、それでもなお、駅に着くと駅員さんが乗客を押して詰め込むのです。
あまりの混みように途中で気分が悪くなって降りた人もいました。
終点の1つ手前の貴船口駅で人が詰め込まれた時、車内はすでに飽和状態になっていました。あちこちで「痛い!」という声が上がりました。泣き出した子どももいました。「これ以上は無理やのに、何でまだ押し込むんや! どっかに子どもも乗ってるんやで、子どもが死んだらどないするんや!」と駅員に怒鳴るおじさんもいました。まったくもって同感です。

私は車両の端に立っていたので、自分の隣は壁です。つまり、圧迫される一方で、これ以上力の逃げ場がないのです。
しかも、登り坂なので余計に重力がかかります。ほかの乗客の重力を「みぞおち」で受けている感じで、苦しくて脂汗が出てきました。
気分が悪いのを通り越して、気が遠のいてしまいそうな感じでした。「やばい、圧死するかも……」
満員電車には東京で何度も乗っていますが、生命の危機を感じたのはこれが初めてです。

とにかく、これ以上みぞおちを圧迫されたら本当にやばいことになると思ったので、息を深く吸って止め、内側からみぞおちを支えました。ろっ骨が折れたらどうしようかとも思いましたが、命には代えられません。もはや声も出せない状況のなか、「あとちょっと……」と思いながら必死で耐えました。
やっと終点の鞍馬駅に着き、悪夢のような状況から解放されました。かえすがえすも、丈夫な体に産んでくれた親に感謝です。体の弱い人だったら、とてももちこたえられなかったかもしれません。

今年は祭り当日が土曜日にあたったので、例年にない混みようだったようです。
しかも、交通規制されていて、車は貴船口のところまでしか行けないので、観光バスで来た団体の人たちもみんな叡山電鉄に乗るのです。混むのも無理はない話です。
観光会社も、バスツアーを主催するならもっと責任を持ってもらいたいものです。貴船口までバスに乗せて行って、そこから一駅歩いてもらうという方法もとれないことはないはずです。
叡山電鉄にも、始発駅でもっときちんと乗客整理を行うなど、もっとしっかりと運行管理をしてもらいたいものです。何か事故があってからでは遅いのです。


話を元に戻して……。
鞍馬の火祭は、鞍馬の「由岐神社(ゆきじんじゃ)」のお祭りです。
各町内の人々が松明を運び、由岐神社に集合します。そして、そのたくさんの松明のなかを、お神輿が運ばれていくのです。
その様子は神社の前にいないと見られないのですが、神社の前には早くから人が集まっていて、私が着いたころにはもう近寄れなくなっていました。

仕方ないので、神社よりも手前の通りで待ち、各町内から松明が運ばれていくのを見物することにしました。
暗くなると家々の前でかがり火がたかれ、松明を持った人たちが次々と神社へ向かっていきます。
いちばんの見どころは、大人が数人がかりで担ぐ大松明です。火のついた大松明がすぐ近くを通り過ぎていく様子は、とても迫力がありました。

鞍馬の火祭・松明の行列
↑松明の行列

鞍馬の火祭・大松明
↑大松明

鞍馬の火祭・子ども松明
↑子どもも、一生懸命に松明を運んでいました。


松明が神社まで運ばれた後、お神輿が神社から出されて各町内を渡御し、お旅所へ着きます。

鞍馬の火祭・お旅所
↑お旅所

お神輿がお旅所に着くのを待っていると叡山電鉄の最終電車に間に合わなくなってしまうので、最後まで見るのはあきらめて、戻ることにしました。
お旅所の近くの家の前には、甲冑(かっちゅう)や屏風が飾られていました。

家々の前に飾られた甲冑や屏風

お旅所の近くで、由岐神社の火難よけのお札が売られていたので、さっそく買ってみました。おつりは細かな額だったのでお供えにしてくださいとお願いしたら、丁重な御礼の言葉とともに自家製の甘酒をふるまってくださいました。とてもおいしくて、冷えていた体が芯からあたたまりました。

「京都の三大奇祭」の一つに数えられる、鞍馬の火祭。遠くにいるとなかなか見られないので、今回、少しですが見られてよかったです。
余談ですが、この日は着物ではなく洋服で出かけて正解でした。火の粉や灰をかぶってしまううえ、煙のにおいもしみついてしまうからです。
一人、着物を着ている人を見かけたのですが(木綿の普段着ではなく絹のお出かけ着で、羽織も着ていた……)、大丈夫だったのかしらとちょっと心配です。



時代祭

2005年10月22日 | 京都
京阪旅行2日目。まずは、時代祭を見学しました。

葵祭と祇園祭はこれまでにも見たことがありましたが、時代祭はまだ見たことがありませんでした。今回、ちょうど前日に大阪へ行くことになったため、せっかくなので見物することにしたのです。
葵祭や祇園祭に比べて有料観覧席もとりやすかったので、行列の出発点である京都御苑の観覧席をとりました。

正午に行列が出発。
京都の時代祭行列は、明治から順に時代をさかのぼっていくのが特徴です。
時代祭の旗を先頭に、まずは明治維新の頃の時代風俗を模した行列がやってきました。
尊王攘夷を唱えた7人の公家が、長州へ身を寄せるために都落ちする「七卿落ち」や、衣冠束帯姿の近衛忠熙(このえただひろ)など、勤王派の公家にスポットが当てられていました。

時代祭行列・七卿落ち
↑七卿落ち

時代祭行列・近衛忠熙
↑近衛忠熙


続いて江戸時代。徳川城使の行列や、皇女和宮、吉野太夫など江戸時代の女性たちが続々と登場しました。

時代祭行列・和宮
↑和宮

時代祭行列・吉野太夫
↑吉野太夫


安土桃山時代の織田信長や豊臣秀吉の行列、「吉野時代」(いわゆる南北朝時代のことを指すようです)の楠木正成の行列などに続いて、中世の女性の行列が来ました。
淀君や静御前など歴史上の人物のほか、大原女(おはらめ)や桂女(かつらめ)といった庶民の姿も織り込まれていました。
淀君や静御前の役は、祇園東の芸妓さんが務めていました。毎年、各花街が交代で担当するそうです。

時代祭行列・淀君
↑淀君

時代祭行列・静御前
↑静御前

時代祭行列・大原女
↑大原女

時代祭行列・桂女
↑桂女


鎌倉時代の流鏑馬(やぶさめ)の行列の後は、平安時代。
平安時代の女性たちの行列は、さすがに華やかでした。
馬に乗った凛々しい巴御前、牛若・乙若・今若を連れた常磐御前、平安時代の女官装束姿で輿に乗った清少納言と紫式部のほか、紀貫之の娘、小野小町などが続々と登場して、あでやかでした。
これらの役は、祇園甲部の芸妓さんたちが務めていました。これも毎年各花街が交代で演じるそうです。

時代祭行列・巴御前
↑巴御前

時代祭行列・清少納言と紫式部
↑清少納言と紫式部

時代祭行列・紀貫之の娘
↑紀貫之の娘


平安時代初期の女性や文官・武官の行列が続いた後、締めくくりは平安神宮の御神幸の列です。
きらびやかな鳳輦(ほうれん)が、鬱金(うこん)色の装束に身を固めた人たちによって厳かに担がれていました。

時代祭行列・御神幸
↑御神幸の鳳輦

行列がすべて通り過ぎたころにはもう午後2時を回っていました。途中、ポツポツと小雨が落ちてきたこともあったのですが、それもすぐにやみ、行列が通り過ぎるまでお天気がもったのでよかったです。


<おまけ>九条家遺構・拾翠亭

京都御苑の一画にある「拾翠亭」が特別公開されていたので、時代祭が始まる前に見学しました。

拾翠亭
↑拾翠亭

書院造の建物で、内部は細かなところに凝った作りが見られ、なかなかのものでした。

拾翠亭内部

中から庭園の池を眺めると、不思議と気分が落ち着く感じでした。

拾翠亭から池を眺める

外には東屋(あずまや)もあり、これも細部に凝って作られていました。

東屋
↑東屋



自由軒本店の名物カレー

2005年10月21日 | つれづれ
露の五郎兵衛襲名披露落語会の前に、「名物カレー」で有名な「自由軒」の本店へ行きました。

関東に出店されていた自由軒には時々行っていたのですが、大阪の自由軒に行ったのは、ものすごくひさしぶりです。

道順を思い出しながらたどり着くと……あったあった、ありました、レトロな雰囲気の看板が出ているお店が!(冒頭写真)

お昼をだいぶ過ぎた時間だったので、幸い、店内は空いています。
店内は、昔ながらの「大衆食堂」的な雰囲気です(でも、歴史あるりっぱな「洋食屋さん」なのですよ)。そこへキモノ姿の私が入っていくと、お店のおばさんが、出入りしやすそうな席に案内してくださいました。

メニューを見ながら注文品を検討。
名物カレーは絶対はずせないとして、ほかの「洋食メニュー」も捨てがたいなあ……ということで、ハムサラダとエビフライも注文し、同行の友人と取り分けることにしました。

ハムサラダには、最初からスライスされて売られているハムではなく、固まりからカットしたものが使用されています。なので厚みもうまみもたっぷりです。
エビフライは、外はサクサク、中はプリプリ。ウマ~イ!

そしていよいよ、「名物インディアンカレー」の登場です。
出てきたカレーを見てみると、関東にあるお店で食べたものとは微妙に異なる感じが。
まず、量。こちらのほうがボリュームがあります。
それに、関東のお店では挽き肉だけが入っていましたが、こちらでは挽き肉のほかにバラ肉も入っています。
ルーの色も微妙に異なる感じです。
食べてみると、こちらのほうがマイルドな感じがしました。

うむむ、お店が変わるとこんなに違うものなのかあ……と思いながら、ふとテーブルに置かれていた支店の案内を見ると、そこには驚愕の事実が……。
「同名他店やレトルト商品とは、関係がありません」。
なんばの「自由軒」が直営する支店は、どうやら、大阪市内に数店あるのみらしいのです。
たしかに、レトルトのお土産を作っていて関東にも出店している「自由軒」は、「せんば自由軒」と称していました。
ずっと「本店はなんばにあるのに、何で『せんば自由軒』なんだろう」と疑問に思っていたのです。
その疑問がここで解けようとは……。
やはり、現場へ足を運んでみるのが一番。

流通が発達した現代では、地方の名物を東京でも手に入れることが比較的容易になりました。しかしそれでもやはり、旅に出たら現地で食べたり買ったりすることが大事なのだと、あらためて思いました。それが旅の醍醐味でもあるのだと思います。

「せんば自由軒」のも、それはそれでおいしいので、まったく別の物と考えてこれからも時々食べようとは思います。
でも、これからは大阪へ出向く機会があったら、ちゃんと「自由軒本店」の名物カレーも食べようと思います。



二世露の五郎兵衛襲名披露

2005年10月21日 | 落語
10月21日~23日、またまた大阪・京都へ行ってきました……。

今回の旅の第一の目的は、「露の五郎改め二世露の五郎兵衛襲名披露」の落語会へ行くことです。
露の五郎師匠は、上方落語協会の前会長であり、芝居噺から怪談噺、艶噺まで幅広いレパートリーを持つ、上方落語界の大御所。
その五郎師匠が、上方落語における大名跡「露の五郎兵衛」を襲名すると発表されてから約半年、その襲名披露落語会が大阪・ワッハ上方ホールで行われました。

初代の露の五郎兵衛は、「上方落語の祖」と言っても過言ではない人です。この人が行った辻説法が、上方落語に発展していったのだと言われています。
それほど大きな名前だった「露の五郎兵衛」ですが、初代(江戸時代)以来、その名跡を継ぐ人はいませんでした。
しかしこのたび、五郎師匠がその名前を初めて襲名することになったのです。
五郎師匠はこれまで、芸道の精進や上方落語の研究はもちろん、東京の寄席にも出演して上方落語の普及や東西交流を図るなど、大きな功績を残してこられました。
そんな五郎師匠が露の五郎兵衛を襲名するのは、自然の流れだったのかもしれません。

9月に「彦八まつり」を見に行った際、襲名披露落語会のことを知りました。東京でも開催される予定があるのかどうかを尋ねてみると、今のところその予定はないとのこと。これはもう、有休をとって大阪まで聴きに来るしかない!と思い、さっそくチケットを購入。あと少しで完売というところで、運良く購入することができました。

待ちに待った当日。
落語会は夕方からでしたが、朝の新幹線でいったん京都へ向かいました。ホテルに荷物を預けてから祇園の某喫茶店でひと休みしていると、お稽古帰りの舞妓さんが入ってきて、隣のテーブルに座りました。ちょっと得した気分でした。

その後、京阪電車に乗って大阪へ。
まだだいぶ時間があったので、「すし萬」や「自由軒」に寄った後、ワッハ上方へ向かいました。演芸資料館を見て時間をつぶしているうちに、ほどよい時刻になったのでホールへ行くと、開場前から多くの人が集まっていました。

場内満員のなか、いよいよ開演。
出演者は、五郎師匠門下から露の新治師匠、露の団四郎師匠、そしてゲストとして桂米朝師匠、桂春團治師匠という、豪華な顔ぶれです。
新治師匠、団四郎師匠、春團治師匠、米朝師匠の噺の後、中入り(休憩時間)。
4人ともとても楽しかったのですが、前日の夜1時間くらいしか寝ていなかったので、途中で眠くなってしまいました。「これはイカン!」と思い、中入りの間にブラックの缶コーヒーを一気飲み。それが効いたのか、中入り後はバッチリ覚醒していました(笑)。
中入り後、まずは「襲名披露口上」。春團治師匠、米朝師匠、そして新・露の五郎兵衛師匠が黒紋付に袴で居並ぶ様子は、圧巻でした。

口上の後、いよいよ二世露の五郎兵衛師匠の登場です。得意の「浮世床」を披露してくださいました。「浮世床」は江戸時代に式亭三馬によって作られた滑稽話ですが、現在でもよく演じられます。軽い噺のように聴こえるのですが、実は登場人物の演じ分けがなかなか難しい噺だと思います。五郎師匠改め二世五郎兵衛師匠は、細やかな人物描写で丁寧に演じていました。
米朝師匠も春團治師匠もそうですが、軽い噺を聴いていても飽きることがありません。きっと3人とも、噺の世界を大切にして丁寧に演じているのだろうなあ……と思います。

襲名を機に、また新たなことにチャレンジしていきたいと意欲を見せる五郎兵衛師匠。これからもご活躍を楽しみにしています。


<本日のキモノ>

無地紬に松の柄の織り名古屋帯

朝から着物を着て、新幹線に乗りました。
そのため、動きやすくシワになりにくいものがいいと思い、紬にしました。
襲名披露落語会に行くので、無地の結城紬に、松の柄の織り名古屋帯を合わせて、少しあらたまった感じにしました。
帯留は、紅葉です。黄色い部分がある紅葉なので、紅葉シーズンの直前から、紅葉が始まったばかりの頃までの間に向いています。


桂春團治一門会

2005年10月17日 | 落語
霞ヶ関のイイノホールで毎年開催されている「桂春團治一門会」へ、今年も出かけた。

春團治師匠の落語を東京でも聴きたいということから、10年前、桂春團治東京後援会の発足とともにスタートしたというこの会。
10年経った今では、リピーターも増えて毎年多くの観客が集まっている。
私は、この会へ足を運ぶようになってからかれこれ3、4年経つが、飽きることがないばかりか、年を追うごとにますます楽しみになっている。
今年は10周年記念ということで、特別企画が用意されていた。
地唄舞山村流の名取でもある春團治師匠が、落語の後で舞を披露してくださったのだ。しかも2曲!

春團治を襲名される以前は、高座で舞を披露されることも多かったそうだが、襲名以後は久しく舞っておられなかったのだそうだ。
今回、東京での一門会開催10周年で、観客になにかお礼をということで特別に披露してくださったのだ。
そんな貴重なものを見せていただけて、大感激だった。
高座での姿からもわかるように、とてもきれいな舞だった。「容貌(かたち)がいい」とは、春團治師匠のような人のことを言うのだろう。まさに「役者顔負け」といった感じだ。

ゲストの笑福亭鶴瓶師匠や、桂春之輔師匠をはじめとする春團治一門の師匠たちの噺もとても楽しく、充実した会だった。


追伸:
ちょうどこのころ行われていた「東京国際映画祭」で、春團治師匠が初めて主演される映画「そうかもしれない」が上映されたのだが、平日の昼間だったので観に行けなかった……。
上映会場は勤務先から目と鼻の先だったので、半日有休をとって観に行こうかと真剣に考えたのだが、仕事の都合がつかず断念。観たかったなあ……。
自主制作の映画なのか、今のところ劇場公開の予定がないらしいが、単館上映でもいいからやってくれないかなあ……。
「自らも口腔がんを患いながら、痴呆(認知症)の症状が出てしまった妻の介護をする夫」の役を春團治師匠が演じたそうだ。春團治師匠はこれまで、CM出演や脇役での映画出演はあったが、主演は今回が初めてとのこと。
映画のテーマも、今の日本で避けては通れないものだと思うし、どこかで上演の機会を作ってもらえるといいなあ、と思う。



落語協会新真打昇進披露

2005年10月16日 | 落語
落語協会ではこの秋、5人の新真打が誕生し、真打昇進披露興行が都内の各寄席で行われた。
それぞれ10日間の興行で、5人が交替で2日間ずつトリを務めた。
新真打は、三遊亭小田原丈改め三遊亭丈二師匠、三遊亭金太改め三遊亭金也師匠、橘家亀蔵改め橘家圓十郎師匠、五街道喜助改め桃月庵白酒師匠、林家すい平師匠。
東京の落語界では、二ツ目時代までは「さん」づけで呼ばれるが、真打になったら「師匠」という敬称がつく。

全員のぶんを見に行きたいのはやまやまだったが、さすがにスケジュールの都合がつかないので、小田原丈さん改め丈二師匠の興行を見に行った。
丈二師匠とは、毎年足を運んでいる「圓朝まつり」や今年9月に行った大阪の「彦八まつり」で会話をしたことがあり、親近感がわいていたからだ。

浅草演芸ホールでの披露目に行ったのだが、襲名披露でしかも日曜だったこともあり、場内は満員で立ち見も出ていた。
浅草の高座は鈴本に比べるとやや狭いのだが、それでも口上には丈二師匠を真ん中に左右二人ずつ幹部が並び、充実していた。
口上の最後には観客も一緒になって三本締めをするのが、落語の真打昇進披露や襲名披露のならい。全員で三本締めをしていると、不思議と一体感が出て「みんなで応援しよう」という気分になる。「手締め」は、日本の良い風習だなあ、とつくづく思う。これが「乾杯」だと、なかなかここまでにはならない。

丈二師匠は三遊亭円丈師匠のお弟子さんだが、師匠同様、新作落語の創作に意欲をそそいでいる。この日も得意の新作落語を披露していた。
古典落語を演じるのももちろん大変な努力が必要なのだと思うが、自分で噺を作っていくというのはさらに苦労が多いと思う。しかし、何十年、何百年経った時に自分の作った噺が語り継がれていたら、とても素晴らしいと思う。現代において「古典落語」とされている噺の多くも、最初は「新作」だったのだ。後世に残るような噺が、現代の新作落語のなかから出てくるといいなと思う。丈二師匠には、新作落語の担い手として、円丈師匠とともにぜひがんばってほしい。

丈二師匠をはじめ、落語協会新真打のみなさん、これからもがんばってください。



芸術祭十月大歌舞伎(昼の部)

2005年10月09日 | 歌舞伎
夜の部を観た翌9日に、今度は昼の部へ。忙しい……。

昼の部の1幕目は「廓三番叟(くるわさんばそう)」。長唄の舞踊である。
舞い手は、中村芝雀丈、中村翫雀丈、市川亀治郎さん。
芝雀丈と翫雀丈の踊りはさすがの貫禄で、きっちりとした美しい踊りだった。
翫雀丈は、踊っている時の形が本当に良い。
亀治郎さんも頑張ってはいたが、首を動かしてシナをつくって踊るのはやめたほうがいいと思う。踊りが下品になってしまうよ。

2幕目は、通し狂言「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」。
別名「女忠臣蔵」とも呼ばれる話で、奥女中同士のいさかいで自刃してしまった主人の仇を召し使いがとるというストーリー。
意地悪な局・岩藤が、ライバルである中老・尾上を草履で打つ場面が有名。
岩藤を演じるのは尾上菊五郎丈、尾上を演じるのは坂東玉三郎丈。尾上の召し使いで主人の仇をとるお初を演じるのは、尾上菊之助さん。
菊五郎丈は、意外にも岩藤は初役なのだそうだ。菊之助さんも、お初を演じるのは今回が初めてとのこと。お初はこの芝居の中で重要な役どころなので、かなり気合いが入っていたようだ。
少し力が入り過ぎているかな、と思うところはあったが、お父さん譲りのきっちりとした型で、丁寧に演じていた。
菊五郎丈扮する岩藤に仇討ちを試みる場面では、親子ですばらしい立ち回りや見栄を披露していて、観ていて気持ちよかった。

今回は、1階席の真ん中よりちょっと後ろで、花道のすぐ右側の席だったのだが、花道を歩く役者さんの表情もよく見えた。表情がわかると、芝居の世界も広がっていく感じだ。
衣装も間近で見えて、中老が着る打ち掛けの、手の込んだ刺繍もよく見えた。
座る席によってさまざまな楽しみ方ができるのも、生の舞台ならではだと思う。


全体的によい出来の芝居だったと思うが、残念なのは、観客の反応。
途中、黒子が足をすべらしてしまったところがあったのだが、そこで客席から笑いが起きた。しかも、一瞬で終わるのではなく、笑いがいつまでも後を引いていたのだ。

歌舞伎における黒子(雪の場面では白子)は、「見えないお約束」の存在なのだ。「見えても見えない」のである。
もちろん、無駄のない俊敏なその動きからは、見ていて得るものがたくさんある。すべての動きが合理的で自然なのだ。たとえば落語の前座さんや、サービス業に従事する方などは、黒子の動きを一度は観察してみるべきだと思う。
そうやって、「見えても見えない」黒子の動きを観察することはもちろん自由だが、「見えても見えない」存在なのだから、足をすべらしたり万一転んだりしても、それは「見て見ぬふりをする」のがルール。
それに、黒子の失敗によって客席がざわつき、芝居が壊れてしまったとあらば、役者に叱られるのは黒子なのだ。陰で芝居を支えている黒子のことを思えば、良識ある大人の観客なら、見て見ぬふりをするのが当たり前。何もわからない子どもや、箸が転んだだけでもおかしい女学生とは違うのだから。

観客の反応といえば、最近気になるのが「変なところで起きる笑い」。
今回、お初に討たれた岩藤の亡骸を、女中たちが抱え上げて運んでいく場面があるのだが、女中役の役者さんたちが岩藤役の菊五郎丈の体を持ち上げたところで、客席からどっと笑いが起きたのだ。
はっきり言って、ここはまったく笑う場面ではない。
話の筋やその場面での情景描写を考えず、「見た目がおかしい」だけで笑いが起きているのだ。
これでは小学生と一緒である。いや、今日び、小学生だってこんなことで笑わないのではないだろうか。歌舞伎座に子どもが来ていることも時々あるが、意外に子どものほうがちゃんと芝居を観ている感じがする。

誰もが初めから歌舞伎通のわけではないし、歌舞伎のことを知っていないと観てはいけないというようなことはまったくないと思う。
しかし、たとえ歌舞伎のことを知らなくても、ごく普通の感受性と少しの良識があれば、ここは笑うべき場面なのかそうでないのかはわかるはずだ。

変なところで笑いは起きるのに、肝心なところで拍手が起きないということに、最近よく出くわす。そうかと思えば、これは「マスコミへの露出が多い」役者さんが出演する時によく見られるのだが、大して良い芝居でもないのにわっと客席がわいたり。

「いい芝居はいい観客がつくる」というのは、よく言われることである。
歌舞伎ブームも良いけれど、ブームに乗ってただ「見る」だけではなく、いい「観客」(役者とお近づきになって楽屋を訪ねて祝儀を渡す「お客=ご贔屓」ではなく)になれるよう、観るほうにもそれなりの心構えが必要だと思う。


<本日のキモノ>

縞の小紋に塩瀬の帯

出かけるとき雨が降っていたので、汚れが目立たない縞の小紋にしました。雨ゴートを着て出かけましたが、薄手のコートで専用ケース付きなので、劇場に入ったら小さくたたんでケースに入れておけるので便利です。
帯は、白地に文机や本を描いた塩瀬の帯(帯の柄はこちら)。
縞の着物も、上品でやわらかい雰囲気の帯をあわせると、粋になりすぎず、少しあらたまった感じになります。
着物が白地に黒の縞、帯が白地なので、帯揚げと帯締めに強い色を持ってきました。そうしないと、全体がぼんやりしてしまうのです。

劇場を出るころには雨もすっかり上がっていて、よかったです。
雨が激しい時は草履カバーを使用しますが、今回はそれほどでもなかったので使いませんでした。草履カバーは、劇場や会場に着いたらはずさなければならないので、結構面倒なのです。雨用草履も、劇場や会場に着いたら普通の草履に履きかえます。