本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

京阪座敷舞の会in国立小劇場

2005年11月26日 | 伝統文化あれこれ
11月26日、国立劇場小劇場で「京阪座敷舞の会」が行われました。
昼夜2部制で、山村、吉村、楳茂都(うめもと)、井上、川口の各流儀の第一人者が競演する豪華な会です。
昼の部には、山村流の大御所・山村楽正さんや京舞井上流の重鎮・井上かづ子さんなど、夜の部には、京舞井上流宗家の井上八千代さん、京都・宮川町の芸妓さんで楳茂都流の名取でもある楳茂都梅加さん、川口流宗家の川口秀子さんなどが登場。
どちらを見るか迷った末、思い切って昼夜通しで観ることにしました。

舞踊にも東西の違いがあり、歌舞伎舞踊から生まれた江戸の日本舞踊に対して、京阪の舞はお座敷つまり花街から生まれました。
座敷で舞うのですから当然、動く範囲も狭く、動きも静かになります。狭い座敷の中で、ほこりをたてないように舞うためです。

伴奏となる唄も、江戸の舞踊の場合は長唄や清元、常盤津などが中心であるのに対して、京阪の舞は地唄が中心です。
歌舞伎舞踊の華やかな風情ももちろんよいのですが、地唄の静かな調子にあわせて舞われる舞は、何とも言えない風情があります。動きは静かですが、よく見るととても表現力があります。

歌舞伎舞踊と座敷舞。それぞれ違った良さがあると思うのですが、最近はその垣根が低くなってきているようです。
京阪の座敷舞でも、背景の大道具を使ったり衣装付き(紋付袴姿や芸者姿ではなく、役の衣装をつけること)で舞ったりすることがしばしば見られます。井上流京舞の「都をどり」や「温習会」でも、そのパターンが増えています。
今回の舞の会でも、そういった試みがいくつかなされていました。

個人的には、座敷舞には座敷舞の良さを生かしたものをやってもらえるといいなと思います。
新しいことに挑戦することも大事だとは思いますが、そのものが元来持っている良さを大切に守っていくこともまた大事だと思うのです。
決められた枠の中で新しいものを表現していくことこそ、伝統芸能の醍醐味なのではないでしょうか。
着物が、さまざまな決まり事のなかでもアイデアとセンスしだいで自分らしさを表現できるのと同じように、古典の枠を守りつつ新しい何かを表現していくことは十分可能だと思います。

昼の部に出演された山村楽正さんは、長唄の「越後獅子」を地唄にアレンジした曲に乗せて舞われたのですが、髪形も洋髪、着物も裾を引かず普通の着付けというシンプルないでたち、いわゆる「素踊り」の形です。
舞台にも、屏風と燭台が行われているだけ。お座敷にあるものしか使用しません。
それでも、地唄の文句や調べ、そして楽正さんの舞の力で、越後獅子の世界は十分に表現できていたと思います。むしろ、大道具を使い衣装をつけて踊るよりも却って唄の世界や舞の世界がよく伝わってくる感じがしました。

当日のパンフレットに、山村楽正さんの師匠であった山村流四世宗家・山村若さんの言葉が書かれていました。「座敷で舞うものやから、大道芸の獅子をまねているという気持ちを忘れてはいけないのです」
この言葉が、すべてを表していると思います。
背景の大道具を使い、衣装もつけて越後獅子に「なりきる」のが歌舞伎舞踊、それに対して座敷舞はあくまでも越後獅子を「座敷でまねる」ように舞うべき、ということなのでしょう。

その四世宗家の言葉を、山村楽正さんは忠実に守って「越後獅子」を舞っておられたと思います。
そして、そんなシンプルな楽正さんの舞が、当日の数々の演目のなかで最も印象に残りました。
もちろん「芸の力」でしょうが、余分なものをそぎ落としても十分に曲の世界を表現し、観る者に感動を与えられるということの証明でもあると思います。


<本日のキモノ>

何を着ていこうかな……と迷っていたのですが、前日の夜になって思いつきました。
「踊りの会→出演者のお弟子さんなども客席にたくさんいるに違いない→きっとみなさん『ええべべ(いいキモノ)』をお召しになっているに違いない!」

着物を着て劇場などのパブリックスペースに何度も足を運んでいると、しだいにこういった「勘」が働いてくるようになります(笑)。
自分で納得のいくものを着ていても、周囲とあまりにもアンバランスになっているとどうしても気後れしてしまうものです。「これだとまずかったかな……」と思うと、頭のどこかでずっとそれが引っかかって、十二分に楽しめなくなってしまうことがあります。
心おきなく舞台を鑑賞するためには、どんな装いが場に合っているかをあらかじめ察しておくことも大切ではないかと思います。

そんなわけで、自分の持っている着物のなかでは生地などがそれなりに良いと思われ、かつ格も低くない着物にしました。

菊の付け下げに絵羽羽織 絵羽羽織

11月なのでちょうどよいと思い、母からもらった菊の柄の付け下げにしました。
ベージュの羽二重の生地に、赤や白の菊の花を描いています。
私が中学生の頃まで母がよく着ていたのですが、柄に赤が入っているので「私にはもう派手やからあげる」ということで10年くらい前に私にくれました。

古いものですが、胴裏の取り替えと生洗い(仕立てをほどかずに洗うこと)をやっていただいたら、生き返りました。
着物って、良い物をきちんとメンテナンスしていけば長く愛用できるのが、本当にすごいと思います。

付け下げだとちょっと仰々しくなってしまうかなあ……と思い、羽織を合わせました。
付け下げの上から羽織を着ると、着物の裾模様だけがちらっと見える程度になるので、少しおさえた感じになります。
反対に、小紋などのおしゃれ着や色無地などのシンプルな着物に華やかな雰囲気の小紋羽織をあわせると、羽織を前面に押し出した着こなしができます。
羽織って「足し算の着こなし」にも「引き算の着こなし」にも使えて便利だなあ……と思います。

付け下げの上から着る場合は小紋羽織は適さないので、絵羽羽織(背中の部分の柄が一幅の絵のようにつながっている羽織)にしました。組紐の柄が描かれています。

この絵羽羽織は、実はインターネット呉服店のオークションで手に入れたものです。絵羽羽織は自分で誂えようと思うと高いので、ネットオークションなどを活用しています。
少し古いもののようですが、未使用とのことでしつけも付いており状態もよかったので、お得でした。
しかも!
菊の付け下げと、生地の質感がとてもよく似ているのです。付け下げと同様、光沢のある羽二重のようです。
サイズもぴったり合っていて、まるで付け下げとセットであつらえたかのようでした。
両方とも古い物なので、柄の色あせ具合まで合っています(笑)。
そんなわけでこの絵羽羽織は、菊の付け下げ専用という感じで使っています。

帯は、有職模様の織り名古屋帯にしました。場内で羽織を脱いでもあらたまった感じに見えるようにするためです。

さて、当日の客席ですが、予想的中でした。
ほとんどの方が染めの着物で、訪問着や付け下げが多く見られました。
なかには、パーティーに着て行くような豪華な訪問着をお召しの方も……(さすがにそれだと、演者より目立ってしまう気がするので微妙ですが、でもとてもきれいな着物で目の保養になりました)。
「この着物にしておいてよかった……」と、胸をなでおろした私でした。

井上八千代さんや井上かづ子さん、宮川町の芸妓さんでもある楳茂都梅加さんが出演されていたため、客席には舞妓さんの姿もちらほらと見られました。これもまた目の保養になりました。



浅草花柳界・お座敷遊び「悠游亭」

2005年11月19日 | 伝統文化あれこれ
浅草の芸者さんたちによる舞とお座敷遊びを楽しむ会「悠游亭(ゆうゆうてい)」が、11月19日、東京浅草組合(浅草見番)の2階広間で開かれました。

このブログでも何度かご紹介しましたが、浅草見番では、年に数回、一般の人が芸者さんの踊りやお座敷遊びを楽しめる会を催しています。
今回の「悠游亭」がほかの会と異なるのは、芸者さんの踊りやお座敷遊びを楽しむだけでなく、芸者さんとの「おしゃべり」も楽しめることです。
ほかの会に比べると料金はやや高くなりますが、浅草の老舗料亭「草津亭」の懐石弁当がつき、お酒やソフトドリンクも飲めて、芸者さんと間近でお話ができることを考えると、破格の値段です。

会が始まり、めいめい飲み物を頼んだりお弁当をいただいたりしながら楽しんでいるうちに、いよいよ芸者さんの登場です。
芸者さんたちは、各テーブルを順番に回ってきてくださるので、いろいろな芸者さんと話をすることができました。
着物を着ていると、芸者さんも話のきっかけを作りやすいのか、次々と声をかけていただけたのでうれしかったです。こちらも間近で芸者さんの素晴らしい着物を見られてよかったです。

私の好きなベテラン芸者さんが隣のテーブルにいらした時、私の隣の席に座っておられた方に「私はあのお姐さんの踊りがすごく好きなんですよ~」と話していたのですが、そのお姐さんがこちらのテーブルにいらした時、隣の方が「彼女、あなたのファンで、あなたの踊りを楽しみにして来たんだって」と言ってくださいました。するとお姐さんが「あら、うれしい! ありがとうございます」と、わざわざ私にお酌をしてくださったので、感激しました。男踊りもすごく上手なお姐さんなのですが「でも今日はねぇ、男っぽい踊りじゃないのよ、色っぽい踊りなの(笑)」とチャキチャキと話してくださったのが、下町らしくて楽しかったです。踊りにあわせて黒の引き着(裾を引いた着物)を着ておられたのですが、凛としてとても素敵でした。

そうこうしているうちに、いよいよ芸者さんたちの踊りの始まりです。
まず初めは、半玉(はんぎょく)さんの踊り。民謡の「ちゃっきり節」をお座敷用にアレンジし、かわいらしく舞っていました。

半玉さんの踊り

半玉さんというのは芸者さんの見習いで、京都の舞妓さんにあたる存在です。現在、浅草には2人の半玉さんがいらっしゃいます。

その後、芸者さんたちが続々と登場し、様々な曲を「吹き寄せ」の形で舞ってくださいました。バラエティーに富んだ構成でとても楽しかったです。

芸者さんの踊り

芸者さんの踊り


芸者衆の踊りが終わると、今度は幇間(ほうかん)衆の踊りと芸の時間です。
幇間とは「たいこ持ち」とも言われ、
寄席でもおなじみの「かっぽれ」や「深川」といった踊りのほか、屏風芸を披露してくださいました。
屏風芸は、幇間芸のなかでも特に有名なもので、一枚の屏風を立て、その屏風の向こうに相手がいるかのように見せながら一人芝居をするものです。屏風の奥からお客さんに引っ張られている仕草をする場面では、まるで本当に引っ張られているかのような動きで拍手かっさいでした。

幇間芸


幇間衆の芸が終わった後、またしばらく芸者さんたちとのおしゃべりを楽しみ、続いてお座敷遊びの時間です。
お客さんも参加して、「とらとら」というお座敷遊びを楽しみました。

楽しい時間はあっというまに過ぎて、いよいよおひらきの時間が近づいてきました。
最後は、芸者さんが勢ぞろいして「奴さん」「浅草名物」「さわぎ」を踊ってくださいました。

一人で行ったので「うまく楽しめるかなあ……」と思っていたのですが、周りの方々とお酌をしあっているうちにあっという間にうちとけ、まるでみんな同じグループであるかのように盛り上がって、とても楽しく過ごせました。知らない者同士がお酒を酌み交わし、和気あいあいと楽しめるというのは、とても素敵なことだと思います。そんな貴重な場を作ってくださった東京浅草組合と、素晴らしい踊りを披露し楽しい雰囲気を作ってくださった浅草芸者のみなさんに、感謝です。


<本日のキモノ>

薄緑色の無地結城紬に藤色の長羽織

先日、紺の鮫小紋にあわせた藤色の長羽織を、今度は薄緑色の無地結城紬にあわせてみました。
薄緑色と藤色。洋服ではあり得ないような組み合わせですが、着物だと全然違和感がないのです。むしろ、紺の鮫小紋とあわせた同系色のコーディネートの時よりも、今回のほうが若々しく見えてしっくりする感じでした。着物は、こういうところが本当に奥深いです。
帯は、黒地に「やたら縞」の博多帯です。


歌舞伎座顔見世興行

2005年11月13日 | 歌舞伎
11月の歌舞伎座は、吉例の顔見世興行。

その昔、江戸には3つの大きな芝居小屋があり、役者はそのうちのどこかと1年ごとの契約を結んでいました。
毎年11月になると、「むこう1年間、うちにはこの役者が出ますよ」というのを知らせるために、契約を結んだ役者が総出演して興行が行われました。出演予定の役者を紹介するための興行なので「顔見世」(顔見せ)と言われたのです。
今では、昔のような意味合いは薄れてしまいましたが、大看板が揃って出演する華やかな興行となっていることには変わりありません。
歌舞伎座では11月、京都の南座では11月末から12月にかけて行われています。

歌舞伎座では顔見世興行の時、建物の正面上部に櫓(やぐら)が上がります(京都の南座では、普段から櫓が上がっています)。

顔見世の歌舞伎座

この櫓の側面には「木挽町きやうげんづくし(狂言尽くし)」と書かれています。
本来、顔見世の時には「まねき」という、役者の名前が書かれた板が掲げられました。今でも南座では「まねき」が上げられています。

顔見世興行ならではの雰囲気に包まれた歌舞伎座を見ると、年の瀬が近づいた実感がわいてきます。
歌舞伎座の建て替えが決定したそうですが、建て替え後も、こうした顔見世の風情が似合う建物であればいいな、と思います。

さて、芝居に話を移して。
私が観に行った夜の部は、なかなかバラエティーに富んだ演目でした。

1幕目は「日向嶋景清」。
主演の中村吉右衛門丈が演出もつとめています。
平家の武将景清は、源平の戦いで生き残って島に流され、ひっそりと生活しています。盲人となりながらも、平重盛の菩提を弔って暮らしている景清。
ある日、景清の娘が島を訪れ、豪農のもとへ嫁ぐことになったのでその挨拶に来たと言い、目の治療をするために使ってほしいと大金を渡します。しかし、豪農のもとへ嫁ぐことになったというのは嘘で、父親を助けるために遊郭に身を売ることを決め、それによって得たお金だったのです。
事情を知らない景清は、娘の嫁入りを心の中で喜びます。しかし、自分と会ったことによって娘に里心がつかないようにとの配慮から、あえて冷たくあしらって、追い立てるように娘を島から出します。娘へのはなむけとして、家宝の刀をそっと供の者に渡した彼は、島を離れていく舟をいつまでも見送ります。
しかしその後、彼は真実を知ります。自分のために娘が身を売ろうとしていることを知った彼は、娘を助けるために、源氏方の要求を受け入れて頼朝の家臣になることを決め、島を離れ鎌倉へ向かいます。

わざと冷たくふるまいながらもその陰に見え隠れする景清の親心、そして、真実を知った景清の苦悩を、中村吉右衛門丈が迫真の演技で表現していました。平家の武将としての誇りと威厳に満ちた景清と、一人の親としての情愛に満ちた景清が、とてもよく演じ分けられていました。

2幕目は「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)」。
中村富十郎丈の長男・大くんが、このたび初代中村鷹之資を名乗ることになり、そのお披露目の狂言です。
鷹之資くんは牛若丸、富十郎丈は鷹匠の役で親子競演し、その周りを中村雀右衛門丈、中村吉右衛門丈、片岡仁左衛門丈、中村梅玉丈が固め、華やかな披露目狂言をさらに盛り立てます。
劇中でお披露目の口上もあり、場内はお祝いムードでいっぱいになりました。
鷹之資くんは、小さな体で一生懸命大きく演じていて、とても立派でした。行く末が楽しみです。

3幕目は「連獅子」。
こちらも、松本幸四郎丈と市川染五郎さんの親子競演。
どっしりと貫禄のある幸四郎丈と若々しい染五郎さんとの対比がよく、華やかで力強い舞台でした。
また、間狂言(あいきょうげん)を演じた信二郎さんと玉太郎さんが、とてもすばらしかったと思います。
連獅子の間狂言は、狂言の「宗論」に題材をとった舞踊劇。仲の悪い浄土宗の僧侶と日連宗の僧侶がひょんなことから道中を共にすることになるのですが、お互いに自分の宗旨が一番だと言い張り「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と言い争っているうちに、台詞が入れ替わってしまいます。それに気づいた二人は、口論をやめ、袖すり合うも他生の縁と道中を共にしていきます。
信二郎さんは、1幕目の「景清」にも出演されていましたが、きっちりとした丁寧な演技をされ、芝居を引き立たせていると思います。成長著しい役者さんで、これからがますます楽しみです。

最後は「大経師昔暦」(おさん茂兵衛)。
近松門左衛門作の世話物で、女主人と手代が過って姦通してしまい、事の重大さに恐れをなした二人が死を覚悟して逃げていくという悲劇を描いています。
女主人・おさんを演じるのは中村時蔵丈、手代・茂兵衛を演じるのは中村梅玉丈。
時蔵丈は、きれいで、そこはかとない色気があって、こういう役が特に似合うなあと思います。梅玉丈はこれまで「浮世離れしたお殿様」の役のイメージが強かったのですが、最近、こういった世話物の色男役を演じることが多く、新境地といった感じです。

余談ですが、このお芝居が終わった後、客席で聞こえてきた会話。
「あの二人、あれからどうなったのかしら……」ぜひ原作を読んでみてください。
「でも、何も逃げることないのにね……」「絶対ばれないわよね」……た、たしかに、そうかも。
その会話を聞いて、ふと「紙入れ」という落語を思い出しました。落語の「紙入れ」に出てくるおかみさんは肝っ玉が据わっていて、旦那にばれていないかとうろたえる出入りの若い商人や、妻の浮気にまったく気づかないのんきな旦那と好対照で描かれています。落語の「紙入れ」のほうが、現代に通じるところがたくさんあって、エスプリも効いていて、しかも笑いという「救い」があるように思います。
歌舞伎も面白いけれどやっぱり落語が面白いな、とあらためて感じました。


<本日のキモノ>

濃紺の鮫小紋と藤色の長羽織 紅葉の帯留

濃紺の鮫小紋に、藤色の長羽織。長羽織は、菊や紅葉を独特の色使いであしらった、大正ロマン風の柄です。
鷹之資くんのお披露目狂言もあるので、帯は若松をあしらった淡いピンクの織りの名古屋帯にしました。これだと、羽織を脱ぐときっちりとしたコーディネートになります。
帯留は紅葉。
10月にも紅葉の帯留を使いましたが、その時は、オレンジと黄色が混じったものでした。
今回のは全体が赤い色なので、秋が深まった時に使います。
ちょっとした小物の変化でも季節感を表せるのが、着物の楽しいところです。
実はこのアイデアは、お茶の世界にヒントを得たものです。

昔、あるお茶会の水屋のお手伝いをしていた時のこと。お客様にお出ししていたのが、ちょうど10月に使った帯留のような色・形の上生菓子でした。
「きれいなお菓子ですね」と先生に申し上げたら、「ちょうどこの季節にぴったりなので、毎年このお茶会にはこれを使うことにしているんですよ。もう少し経つと、今度は全体が赤くなったお菓子を作っていただけるので、それを使うのです」とうれしそうに答えてくださいました。
その時私は、細かなところにこだわって物を作る人、そしてそれを使って細やかなもてなしをする人のことを、心から「すごい」と思いました。
季節の移り変わりを大切にする心は、日本人として決して忘れてはいけないものだと思います。


酉の市

2005年11月09日 | 東京下町
東京では、毎年11月の酉の日に、縁起物の熊手を売る「酉の市」があちらこちらの神社仏閣で立ちます。
熊手の形にちなんで運を「かっこむ(掻き込む)」といって縁起をかつぎ、開運や商売繁盛を願うのです。
もちろんこの熊手は実際に使うものではなく、熊手に七福神や鶴亀、米俵、お多福など、縁起の良い飾りがたくさんつけられたもので、これを家の玄関などに立てておくのです。

熊手の大きさは、手のひらサイズの小さなものから背丈より大きなものまで様々です。
ご商売や事業をやっている方のなかには、景気づけに大きな熊手を買って担いで歩いている方も多くいます。すれちがった人は、「景気がいいね」などと言いながら、楽しそうに振り返ります。こういった光景を見るのもまた、酉の市の楽しいところです。

大きな熊手を買って行く人
↑大きな熊手を買って行く人

酉の市が立つ11月酉の日は、順に「一の酉」「二の酉」と呼ばれ、それぞれ0時から24時まで24時間にわたって開催されます。
年によっては「三の酉」まであります。昔から、「三の酉まである年は火事が多い」と言われているそうです。今年は二の酉までなので、ちょっと安心です。

酉の市といえば、やはり真っ先に思い浮かぶのは浅草・鷲(おおとり)神社。
台東区千束にある神社で、長國寺(通称・酉の寺)と隣接しています。
11月9日、鷲神社と酉の寺の「一の酉」へ行ってきました。

鷲神社への道中、熊手をもった人と何度もすれちがいました。
鷲神社の手前まで来ると、入場の列ができていました。
神社の門をくぐる時、門の両脇で神官がおはらいをしてくださいました。

鷲神社門前
↑鷲神社門前

境内には多くの熊手屋さんが並んでいます。

鷲神社境内の熊手店
↑鷲神社境内の熊手店

何と、サンリオ特注の大きな熊手を売っているお店もありました。

サンリオの大熊手
↑サンリオのキャラクターをあしらった大熊手

鷲神社の本殿におまいりし、お守り売り場へ行きました。
今年は12年に一度の「酉年の酉の市」なので、例年にはない特別なお守りが授与されるのです。
しかし、数量限定だったため、すでに売り切れていました。0時の酉の市開始から2時間も経たないうちに売り切れてしまったのだそうです。

次に、いよいよメインイベントの熊手探しです。
といっても、行くお店は最初から決めていたのでした。向かった先は「よし田」さんの出店。
「よし田」は、浅草に古くからある鳶頭の家です。ここの大女将である吉田啓子さんは、酉の市の熊手職人として有名なのです。
今は、娘さんの京子さんも技を受け継ぎ、共に熊手づくりに励んでおられます。

ここまでですでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、吉田啓子さんは、着物の情報誌や雑誌でもよく紹介されています。
「江戸好み」といった感じの粋な縞やしゃれた模様の着物をさらりと着て、「かみいさん(髪結いさん)」できりっとひっつめに結い上げた白髪に小ぶりの珊瑚のかんざしを差し、しゃきっと立っている姿は、まさに「江戸の粋」といった風情です。

浅草「よし田」の熊手店
↑浅草「よし田」の熊手店。中央が吉田啓子さん。

吉田さんが作る熊手は、飾りにプラスチックなどの化学素材を一切使っていません。紙と木だけで作った、手描きの七福神や宝船、大福帳、鯛などが飾られています。紙と木だけしか使っていないのに、とても立体的なのです。
すっきりとしているのだけどよく見るととても凝っていて、まさに「江戸前」といった感じです。
落語家さんや役者さんのなかにも、「よし田」の熊手をひいきにしている方が多いようです。

「よし田」の熊手
↑「よし田」の熊手

「よし田」さんの出店は、鷲神社境内に2か所出ているのですが、啓子さんがいらっしゃるメインのほうはかなり混み合っていたので、もう1か所で買いました。
商売繁昌といっても、勤め人の身ではタカが知れているので、担いで歩くような大きなものは買いません。片手で軽々と持って歩けるサイズのものと、手の平サイズのかわいいものを買いました。それでも、縁起物だからというので、手締め(三本締め)をしてくださいました。もちろん、買うほうも一緒に手を締めます。縁起物の市ならではのことで、やはり気分がよいものです。

「よし田」で熊手を買った後、鷲神社の隣にある「酉の寺」へ行きました。
本堂では、酉の市の法要が行われていました。

酉の寺
↑酉の寺

酉の寺では、「酉年の酉の市」限定の「金鷲熊手」が売られているというので、さっそく見てみました。こちらはまだ数が残っていました。それほど高い値段ではなかったので小さなものかと思っていたら、結構大きなサイズでびっくりしました。
せっかくなのでこれを買って、掲げながら帰りました。

金鷲熊手
↑金鷲熊手。「酉の寺」で12年に一度、酉年の酉の市で売られる。

酉の市で熊手を買ったら、小さなものでなければ、通常は手に持って歩きます。その際には、ちゃんと腕を上げ、飾りが付いているほうを前方に向けて熊手を掲げます。そうすると、熊手が向こうを向くので運を「かっこむ」ことができるのです。自分のほうに熊手を向けてしまうと、「かき出す」形になってしまいます。
「酉の寺」の金鷲熊手を持って電車に乗ったら、「あら、お酉さま(酉の市)ね」という感じでにこやかに見てくれる人が結構いたので、うれしくなりました。

酉の寺ではほかにも「酉年の酉の市」の特別頒布として、お札やお守りを買った人には縁起物の稲穂をつけてくださいました。

縁起物をたくさん手にして、気持ちも軽やかになった感じがしました。それこそが「開運」のための第一歩なのかもしれません。


三遊亭円丈古典落語の会

2005年11月05日 | 落語
11月5日、横浜にぎわい座で三遊亭円丈師匠の「古典落語」の会が行われました。

円丈師匠は新作落語をメインにしておられるのですが、今回はめずらしく(?)古典落語を披露なさるというので、ぜひ聴いてみたいと思い行ってきました。
円丈師匠は、あの故・6代目三遊亭円生師匠のお弟子さんです。

会場に着くと、たくさんの人が来ていました。
幕が開くと、二ツ目の三遊亭ぬう生さんが出てきました。
二ツ目だけど今回は彼が前座をつとめるのかな、と思っていたら……あれれ?
座布団には座らず、前に立ってしゃべりはじめました。
そうです、この会の前座をつとめるのは彼ではないのです。では誰かというと……ズバリ円丈師匠その人です!

ぬう生さんの「前説」の後、前座の「円丈くん」の登場です。
ちゃんと前座さんっぽい着物を着て(前座さんは羽織を着ることが許されず、「やわらかもの」の着物も着られません)、「金明竹」を披露してくださいました。
「金明竹」は、江戸の人のところへ上方の商人がやって来て言付けをするのだけれど、上方言葉が通じないために勘違いが起きるという噺ですが、名古屋ご出身の円丈師匠はこれを名古屋弁にして演じます。
前座噺が終わったら、本物の前座さんのようにちゃんと自分で座布団と「めくり」を返していました(笑)。楽しいファンサービスでした。

その後、ぬう生さんの落語に続いて再び円丈師匠の登場、「茶の湯」という噺を披露してくださいました。
中入り(寄席では休憩時間のこと)の後、いよいよトリの円丈師匠の登場。トリでは、「小言幸兵衛」という噺を「キレやすい幸兵衛モード」(笑)で演じていました。

ふだんはあまり聴くことのない、円丈師匠の古典落語。
故・円生師匠のもとで修行をされていただけあって、さすがにきっちりとした落語でした。
そのなかに円丈師匠ならではのエッセンスがちりばめられ、より楽しめました。


東京時代まつり(3)

2005年11月03日 | 東京下町
東京時代まつり(2)から続く>

次は「きれいどころ」の登場です。

江戸芸者
↑江戸芸者
浅草花柳界の芸者さんたち。もちろん本物です。そろいの黒紋付を着てずらりと並んだ芸者さん、実に華やかでした。


おいらん道中
↑おいらん道中
待ってました! 東京時代まつりの目玉とも言える「おいらん道中」。昨年は残念ながらこれがなかったのですが、今年こそはと楽しみに待っていました。

「おいらん」は「花魁」と書きます。花に魁ける、つまりどんな花よりも美しく華やかな存在だというのです。吉原遊郭のなかには3000人とも言われる数の遊女がいたそうですが、その遊女すべてが「花魁」と呼ばれていたわけではありません。一口に遊女と言っても様々な位があり、位が変われば呼称も異なります。吉原の遊女たちのなかで「花魁」は最高位にあり、容姿・教養・芸事すべてに秀でた女性しかなれなかったのです。当然、お客も大名や豪商などが中心で、普通の人はなかなか会うことができなかった存在です。京都の島原では「太夫」と言いますが、吉原の花魁と島原の太夫では、髪型や着付けなど様々な点でちがいがあります。
花魁の髪型は「横兵庫」というもので、大きな髪にべっ甲のかんざしが何本も飾られています。体の前で結んだ大きな帯には豪華な刺繍が施されています。着物は裾に綿がたっぷり入ったものを何枚も重ね、やはり豪華な刺繍が入った打掛を着ます。足は冬でも常に素足で、花魁道中の時には高い下駄を履き「外八文字」という独特の歩き方をします。島原ではこれが「内八文字」になるそうで、面白いです。

花魁道中の先頭は、店の名前の入った提灯です。提灯には「仲之町 松葉屋」と書かれています。

おいらん道中

松葉屋は、吉原遊郭の「大見世」です。遊郭が廃止された後は料亭として営業を続け、近年では「はとバス」のコースにもなり、江戸名所のひとつとなっていました。しかし時代の流れか、今は営業をやめてしまったそうです。松葉屋が閉じてしまった今の吉原に、江戸時代の面影を残すものはありません。

花魁の名前が入った大きな提灯、遊女見習いの少女・禿(かむろ)に続いて、いよいよ花魁の登場です。店の名前の入った大きな傘を差しかけられ、男衆さんの肩に手をのせた花魁が、「外八文字」でゆっくりと歩いてきます。男衆さんは「吉原つなぎ」の柄の浴衣に、手ぬぐいを「吉原かむり」にしている、粋な格好です。花魁の後には新造が続きます。
美しい絵巻物を見ているかのように華やかで、そこだけ時間の流れが止まっているように感じられました。

おいらん道中

この後、新撰組や徳川慶喜も通ったのですが、花魁道中に見とれているうちに脇を通り過ぎて行ってしまいました……。

そして時代は明治へ。「江戸」は「東京」となり、大きく変わっていきます。

黒船来航・黒船 黒船来航・ペリー、ハリス
↑黒船来航


明治維新
↑明治維新


樋口一葉
↑樋口一葉


行列の締めくくりは「奥山風景」。浅草寺の裏手はかつて「奥山」と呼ばれ、多くの見世物小屋や大道芸人が出てにぎわっていました。その様子を表し、面売り、三河万歳、獅子舞などが続々と通りました。

面売り
↑面売り

三河万歳
↑三河万歳

獅子舞
↑獅子舞

そしてこの後も浅草は、六区興行街に芝居小屋や寄席、活動写真小屋などが多く立ち並び、東京の娯楽の中心地として栄えました。

東京時代まつり行列最後尾


この少し前に、京都の時代祭を見物してきた私。
歴史上の出来事というのは、立場や見方が変われば解釈もまた違ってきます。一口に「時代行列」といっても、京都・東京でそれぞれの特色が出ていて面白いです。
江戸は京都に比べるとたしかに歴史は短いですが、短い間にこれだけの発展を遂げただけあって、様々な面で凝縮されているというか、一種のパワーを感じます。
京都の時代祭ももちろん楽しいのですが、東京の時代まつり行列は、歴史上の人物から芝居の登場人物、本物の芸者さんまでバラエティーに富んだ遊び心のある構成で、京都の時代祭とはまた違った楽しみ方ができました。



東京時代まつり(2)

2005年11月03日 | 東京下町
東京時代まつり(1)から続く>

次は、いよいよ江戸の礎が築かれていきます。

太田道灌
↑太田道灌
太田道灌公は「江戸の開祖」と言っても過言ではない人物です。彼が、豪族・江戸重嗣の屋敷跡に江戸城を築城しました。
ところで、道灌公の後ろにいる女性は誰だかわかりますか? 道灌公の愛人では決してありません。ある逸話に基づいた人物です。その逸話とは……。

太田道灌公は、和歌の素養も高い人物でした。ある時、道灌公が鷹狩りに出かけると、にわか雨が降ってきました。茶店の娘に雨具を貸してもらえないかと頼んだところ、娘はお盆の上に山吹の花を乗せて持ってきました。その山吹の花には、次のような歌が添えられていました。
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」
「みの」は「実の」と「蓑」とをかけたものです。つまり「美しい花を咲かせても実のならない山吹のように、貧しい私にはあなたにお貸しできる蓑すらもないのです」という意味です。
道灌公は最初、この歌の意味を理解できませんでした。しかしその意味を知って歌のすばらしさに心を打たれ、「まだまだ自分は和歌の修行が足りない」と思い、以後いっそう歌道に精進しました。

道灌公の後ろにいる女性は、この時の茶店の娘を表しているのです。ちゃんと手に山吹の花を持っています。
沿道で見ていた人たちは、江戸のお客さんだけあってさすがにこの逸話のことに気づき、「あ、ちゃんと山吹の花まで持ってる」という声があちらこちらで上がっていました。
ちなみに上であげた逸話は、落語の「道灌」にも使われています。


江戸城築城 お石曳き
↑江戸城築城 お石曳き
徳川家康が江戸城の大拡張工事を行った際、相模国(今の神奈川県)や東伊豆海岸から、城に適した石が運ばれました。その様子を表したものです。現在、静岡県の東伊豆町で「石曳きのお祭り」として伝えられているそうで、東伊豆町のみなさんが東京時代まつりのために来てくださっていました。沿道からはあたたかい拍手が起こっていました。


徳川家康の江戸入府
↑徳川家康の江戸入府
ご存じ徳川家康公です。隣には徳川秀忠もいます。


徳川家光
↑徳川家光
江戸幕府3代将軍です。家康によって築かれ、秀忠によって受け継がれていった江戸幕府は、家光の時に完成しました。後に幕府の基礎となる様々な仕組みが、家光の時代につくられたのです。いよいよ華やかな江戸文化の幕開けです。


大奥御殿女中
↑大奥御殿女中
きらびやかな大奥の女性たち。このなかに春日局もいるのでしょうか。


参勤交代の大名行列
↑参勤交代の大名行列
参勤交代の制度も、家光によって確立されました。各地の大名が幕府への反逆を企てることを防ぐため、一年おきに大移動を命じたのです。この行列では、顔を赤く塗った奴(やっこ)が、掛け声をかけながら練り歩き、房のついた長い棒を投げ合って交換する技を披露していました。


江戸歌舞伎・白波五人男 江戸歌舞伎・三人吉三
↑江戸歌舞伎
江戸には中村座(当初猿若座)・市村座・守田座(当初森田座)という3つの芝居小屋があり(当初はもうひとつ「山村座」があったのですが「絵島生島事件」によって取りつぶしになりました)、「江戸三座」と呼ばれていました。三座はもともと別のところで興行をしていたのですが(現在の歌舞伎座があるあたり「木挽町」では市村座が興行していました)、江戸時代後期に浅草・猿若町に三座すべてが集められ、浅草は一大興行街となっていたのです。
この行列では、子どもたちが「白浪五人男」「三人吉三」といった江戸歌舞伎の登場人物にかわいらしく扮していました。


助六と意休
↑助六と意休
江戸歌舞伎を代表する狂言といえる「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の登場人物、花川戸助六と意休です。


七福神舞
↑七福神舞
江戸三座のひとつ市村座では、興行が始まる前のご祝儀として「七福神踊り」を上演していたそうです。


元禄花見踊
↑元禄花見踊
元禄時代には、太平の世で江戸の町人文化が花開きました。ちなみに、この踊り手さんたちの着物のように、たもとを丸くして仕立てている袖を「元禄袖」といいます。


赤穂義士の討ち入り
↑赤穂義士の討ち入り
おなじみ「忠臣蔵」のモチーフとなった、赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。四十七士による仇討ちは江戸の庶民の間で大きな話題となり、すぐに芝居になりました。しかし、フィクションの世界で実名をそのまま使うことははばかられるので、芝居では微妙に人物名を変えているのです。


江戸町火消
↑江戸町火消
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多かった江戸。そのため、名奉行・大岡越前守忠相は、合計48組の町火消を組織して江戸の町に配置しました。今でいうと地元の消防団という感じです。町火消の組の名前は、「め組」「は組」など、いろは48文字を当ててつけられました。


江戸の人気者・大久保彦左衛門 江戸の人気者・一心太助
↑江戸の人気者
大久保彦左衛門、水戸黄門、松尾芭蕉、一心太助の登場です。自分の出世を顧みず、多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたと言われ、講談や浪曲、歌舞伎でも有名な大久保彦左衛門(大久保忠教)。同じく講談・浪曲・歌舞伎で有名な一心太助は、江戸っ子気質の侠気(おとこぎ)に富んだ魚屋で、大久保彦左衛門から愛顧されていたと言われています。
大久保彦左衛門の役は何と、直系の方がつとめているそうです。魚を入れる桶で作ったかごに乗った彦左衛門さん、沿道の人々ににこやかに手を振っていました。魚桶をかついで走っている一心太助さんは、私がデジカメで撮影しているのを見ると、足をゆるめてカメラ目線になってくれました。一心太助役をつとめているだけあって、粋でいなせなおにいさんです。

<→東京時代まつり(3)に続く>



東京時代まつり(1)

2005年11月03日 | 東京下町
「文化の日」の11月3日、東京・浅草で「東京時代まつり」が行われました。「ときめきたいとうフェスタ」という、東京都台東区主催の様々なイベントの一貫として毎年一度開催され、今年で17回目を数えます。

昨年も見たのですが、結構おもしろかったので今年も行ってみました。
仕事で徹夜明けだったのでどうしようかと思ったのですが、妹夫婦とも約束していたし、結構見たかったので、1時間ほど仮眠をとってから気合いで出かけました。遊びの時には気合いの入り方がちがいます(笑)。

東京時代まつりの開催に先立ち、浅草寺では「白鷺の舞」の奉納が行われます。
それも見ようと思っていたのですが、ギリギリに着いたら人だかりができていて近くでは見られなかったので、浅草寺の本堂前の石段を上がって遠巻きに見ていました。先に着いて前のほうにいた妹が撮影してくれたビデオを見られたので、よかったです。

白鷺の舞を見た後、昼食をとるために浅草寺の裏へ向かいました。浅草寺北側の一画は浅草の花柳界になっており、今でも芸者さんがたくさんいて、「草津亭」「婦志多」「瓢庵」「一直」などの老舗料亭が軒を連ねています。料亭にはもちろん予約がないと入れませんが、周囲には、予約なしで入れる小さなお店が点在しています。

途中、東京浅草組合(浅草見番)の前を通ったら、芸者さんが何人もいました。東京時代まつりに浅草芸者のみなさんも参加されるので、その仕度だったようです。
芸者さんを間近で見ていきなり目の保養ができた後、行きつけの釜めし屋さんでお昼を食べました。

妹夫婦と久々に会って話に花を咲かせているうちに、東京時代まつりが始まるころになったので、行列が通る「馬道通り」へ向かいました。
馬道通りは、浅草寺の東側を南北に走る通りです。時代まつりの行列は、浅草寺の東側にある「二天門」を出て馬道通りを南に進み、雷門通りを西に進んでゴールとなります。
距離は長くありませんが、馬道通りの両脇には長いシートがひかれ、座って観覧できるようになっています。浅草寺の本堂裏側には、有料観覧席も設けられていました。
沿道にはたくさんの人が出ていました。

馬道通りの観覧シートに座って待機していると、行列の先ぶれである屋台囃子がやってきました。

屋台囃子

その後少し経ってから、いよいよ行列がやってきました。
最初は「東京時代祭」の旗です。旗の周りには「手古舞」姿の女性もいます。

東京時代祭本旗


京都の時代祭は、明治維新から順に時代をさかのぼっていきますが、東京時代まつりはその逆で、古い時代から順に下がっていきます。題材も、江戸に関連する人物や風俗を集めています。


浅草観音示現
↑浅草観音示現
その昔、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成の兄弟が、黄金の観音像を見つけます。土地の豪族・土師真仲知は、この観音像を安置するために寺を建てました。これが浅草寺の起源と言われています。


金龍の舞
↑金龍の舞
観音像がまつられて3日後に天から金の竜が舞い降りた、という伝説をもとにうまれた古くからの舞です。沿道の人々の頭の上に竜が降りてきて、厄をはらってくれます。ちなみに、浅草寺の正式な名称は「金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)」と言います。


金龍の舞のお囃子
↑金龍の舞のお囃子
浅草の芸者さんたちがつとめています。


在原業平の東下り
↑在原業平の東下り
在原業平が京の都を離れ東国に下った際、川辺の水鳥を見て「名にしをはば いざこと問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」という歌を詠みました。その様子を表しています。


源頼朝の隅田川陣営 江戸重嗣
↑源頼朝の隅田川陣営
源頼朝は挙兵にあたり、豪族たちと共に浅草寺に参詣して戦勝を祈願したと伝えられているそうです。江戸重嗣は、12世紀にこの土地にいた豪族です。


北条政子の浅草寺参詣
↑北条政子の浅草寺参詣
源頼朝の妻・北条政子は、承久3(1221)年にお供を連れて浅草寺に参詣したと言われているそうです。北条政子は「尼将軍」と言われ、「強い女性」のイメージが強いですが、この行列の政子さんはとてもにこやかで、親しみをもてる感じでした。北条政子のイメージチェンジに一役買っているかも!?


三社祭 船渡御
↑三社祭 船渡御
浅草といえば三社祭。江戸時代末期までは、三社祭の時、お神輿を船に乗せる「船祭」が行われていたそうです。その様子を模しています。ここで乗せられているお神輿は、浅草神社の宮神輿ではなく、浅草神社氏子町内のお神輿です。


白鷺の舞 びんざさら舞
↑白鷺の舞、びんざさら舞
今でも三社祭の時に必ず奉納される「白鷺の舞」と「びんざさら舞」です。

<→東京時代まつり(2)に続く>