本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

日本髪

2005年12月31日 | 伝統文化あれこれ
このお正月も、また日本髪を結いました。

東京で京風の日本髪を結ってくださる美容院があることを知って以来、毎年お正月には必ずそこで日本髪を結っていただくようになりました。今回で3度目のお正月、もはや「マイ年中行事」として定着しつつあります。

昨年、一昨年はお正月にわざわざ時間をとって結っていただいたのですが、さすがに毎年それでは申し訳ないので、今回はちゃんと大みそかに結っていただきました。

本式結髪の日本髪の場合、一度結うと5日くらいは十分もつので、「日本髪で初芝居」を楽しみに、1月3日歌舞伎座の桟敷席をとっておいたのです。
しかし……。
今年は、鬢(びん:顔の横にくる部分の髪)に使う髪の長さが少し足りなかったため、結って2日目で髪がくずれてしまいました。
長さが足りなくてもきれいに結い上げていただけるのですが、その場合やはりどうしてもくずれやすくなってしまうそうです。

そんなわけで、あまり写真も撮らないうちに髪をとくはめになってしまいました(涙)。
数少ない写真のなかから選んでご紹介します。

今回結った髪型は「菊がさね」。

菊がさね

「菊がさね」は江戸時代後期に京阪で結われていた髪型で、現在では舞妓さんが節分の「変わり髷(まげ)」として結っています。

日本髪も、江戸風と京風ではさまざまな違いがあります。
なかでも特に違いが目立つのは、前髪と鬢の形です。
江戸風の場合は、前髪を多めにとり、前にせりだすようにして大きくつくります。鬢も前にせりだすような感じで大きくなります。
京風の日本髪は前髪も鬢も小さめです。鬢の形も「引き鬢」といって、下の写真のように後ろへ向かって流れるようにつくられています。

引き鬢

この「菊がさね」は京阪の髪型なので、東京ではあまりなじみがないようです。
「何ていう髪型ですか?」とおっしゃる方も多かったです。

「菊がさね」のベースになっているのは「つぶし島田」という髪型なのですが、「つぶし島田」の髷の両脇に添え毛をし、鹿の子を交差させてかけるのが「菊がさね」の大きな特徴です。

菊がさねの髷

「つぶし島田」に添え毛をせず、髷の真ん中に鹿の子をかけると、「結綿」という髪型になります。「結綿」は娘さんの髪型で、東京でも京阪でも流行しました。
ご年配の方のなかには、娘時代お正月に「結綿」を結ったという方も多いようです。
「結綿に似てるけどちょっと違うんですね、なんていう髪型ですか?」と声をかけてくださる方もいらっしゃいました。

日本髪を結っていると、ご年配の方が声をかけてくださることが多いです。
以前はお正月になると多くの女性が日本髪を結っていたそうで、みなさん一様に「最近はすっかり見かけなくなっちゃったから、そうやって結ってらっしゃる方を見るとうれしいわ」とおっしゃいます。
そうやって喜んでくださるのを見ると、こちらもうれしくなります。

私が中学生くらいのころ、お正月に日本髪を結った女性を見た記憶があります。
今から10年くらい前でも、お正月に歌舞伎座のテレビ中継を観ると、日本髪を結ったお嬢さんが1人や2人は見えました。
そう考えると、この10年で人々の生活がかなり変わってしまったのかもしれません。バブルがはじけて不況になったことも影響しているのでしょうか。

かつては、お正月だけでなく節分にも、日本髪を結う女性が多かったそうです。
節分に普段と違った髪型をすることにより、厄払いをするのです。
もっと昔、女性がみんな日本髪を結っていたころは、身分や年齢によって髪型が決まっていましたが、節分の時だけは普段と違う髪型を結っていたそうです。
今でも花街には「お化け」という風習が残っています。節分に仮装をして厄払いをするのです。
京都の舞妓さんも、節分にはいつもと違う髪型を結うことが許されます。

季節ごとの行事が簡略化されていく昨今ですが、「ハレ」の日である元日に晴れ着で新年を祝い、「年の変わり目」とされる節分に無病息災を願う気持ちは忘れずにいたいものです。

<本日のキモノ>

染大島に松竹梅の塩瀬帯 松竹梅の塩瀬帯

大みそかだったため普段用の染大島にしたのですが、髪を結ったあといつも美容院で写真を撮ってくださるので、帯はお正月用のものにしました。松竹梅を描いた塩瀬の帯です。松竹梅という古典的な素材をポップな雰囲気で描いている点が気に入っています。


日本橋の新名所

2005年12月30日 | つれづれ
坂田藤十郎丈の襲名披露お練りが行われた日本橋に、新しい観光名所が登場しています。

1つは、歌舞伎俳優の松本幸四郎丈が出演するテレビコマーシャルでもおなじみの、三井ビル。
オフィスやホテルのほか、老舗フルーツパーラー・千疋屋総本店をはじめとする飲食店が入っています。

日本橋三井ビルと日銀
↑日本橋の三井ビル(右奥)と日銀(手前)

そしてもう1つは、日本橋三越の向い側、老舗金物店「木屋」隣にできた「三井越後屋ステーション」。
三井ビルが完成するまで千疋屋仮店舗があった場所に、新たに作られました。

三井越後屋ステーション
↑三井越後屋ステーション

内部にはイベントスペースやカフェがあり、日本橋の歴史や名産品なども紹介されています。
カフェでは、おにぎりやお惣菜、甘味などが食べられます。おにぎりはちゃんと手でにぎったタイプのもので、なつかしい雰囲気です。
お店の外観も、江戸時代の商家の雰囲気を出したものになっています。

「三井越後屋」というのは、今の三越デパートの前身だった呉服店です。日本で初めて「正札(しょうふだ)売り」を始めたことでも有名です。

それまで、呉服の販売は「掛け売り」が常識でした。「掛け売り」というのは、その場で現金支払いをしてもらうのではなく後でまとめて代金の請求をする、「ツケ払い」の販売方法です。
その場で現金を払ってもらう必要がないので、当然、値札もつけられていませんでした。顧客は店の奥で様々な反物を見せてもらい、気に入ったものを買って、後でまとめて支払いをするのです。当然、店と顧客の間に信用が必要となりますから、顧客は必然的に「お得意様」が主流となっていました。

こういった呉服業界の「常識」に一石を投じたのが、三井越後屋でした。
「正札」というのはいわゆる値札のことです。商品に正札をつけて店頭に並べ、現金販売を行ったことで、いわゆる「一見さん」も買いやすくなり、顧客が増えていったのです。
当時としては斬新だったこの販売方法も、今ではごくあたりまえになっています。三井越後屋の先見の銘に感服します。

それまでの常識を覆す新しい発想で商売を成功させた三井越後屋は、現代におけるインターネット呉服販売に通じるところがあるように思います。


鹿芝居

2005年12月28日 | 落語
歌舞伎座前で坂田藤十郎襲名披露セレモニーを見物した後、上野の鈴本演芸場へ「鹿芝居」を観に行きました。

「鹿芝居」というのは、落語家さんが演じるお芝居のことです。
「噺家(はなしか)の芝居」が詰まって「しかしばい」というわけです。

鈴本演芸場では、年末の吉例として鹿芝居が演じられてきました。
今は亡き古今亭志ん生師匠や三遊亭圓生師匠も鹿芝居をなさっていたのです。

鹿芝居の演目には歌舞伎の演目が使われることも多いのですが、そこは噺家さんのことですから、笑いを取り入れて演じてくれます。

今回の演目は「芝浜の革財布」。
落語の「芝浜」をもとに作られた歌舞伎の演目です。
それを、鹿芝居で落語界に逆輸入してきたというわけです。

林家正雀師匠を座長とし、金原亭馬生師匠、蝶花楼馬楽師匠、金原亭世之介師匠、古今亭菊春師匠、林家彦丸さん、金原亭馬治さんが熱演されました。
金原亭馬生師匠は木挽町(歌舞伎座付近の旧町名)の生まれで、子どものころからお芝居が大好きだったそうです。
林家正雀師匠は、普段から高座で芝居噺を多く手がけていらっしゃいます。

衣装やカツラをつけ、白塗りもして、要所要所でミエをきって形を決める様子は、歌舞伎役者さながらです。
もちろん、噺家さんとしての観客サービスも忘れずに、途中で「なぞかけ」や役者の声色(こわいろ:物まねのこと)などを披露して楽しませてくださいました。
みなさんとてもよく稽古をされていて素晴らしい演技でしたが、なかでもとりわけ蝶花楼馬楽師匠は、役者顔負けといった感じの、味のある演技をされていました。
世之介師匠と菊春師匠による「声色」もとても楽しかったです。


鹿芝居のほかに獅子舞(これも噺家さんが舞っておられました)、寄席囃子の演奏、柳亭市馬師匠オンステージと、盛りだくさんの番組構成でした。市馬師匠の歌唱力には脱帽です。

あわただしい年の瀬、「笑い納め」でとても楽しいひとときを過ごすことができました。


2月11日~2月20日、国立演芸場でも鹿芝居が行われます。演目は歌舞伎でもおなじみの「文七元結(ぶんしちもっとい)」です。
お時間とご興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。


<おまけ>

しめ飾りの屋台

鈴本演芸場の近くに、お正月用のしめ飾りを売る屋台が出ていました。
東京や近郊の古い街では、鳶頭によって町内ごとにこしらえられた屋台でしめ飾りが売られます。



坂田藤十郎襲名披露 船乗込み&お練り

2005年12月28日 | 歌舞伎
京都・南座の顔見世興行で始まった、中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名披露。
新春2日から、いよいよ東京・歌舞伎座でスタート。

歌舞伎座での興行を前にして、12月28日、東京で「お練り」が行われました。
「お練り」とは、歌舞伎役者の襲名の際に興行の成功を祈願して行われる、パレードのようなものです。

今回は「お練り」とともに「船乗込み(ふなのりこみ)」も行われました。
「船乗込み」とは、役者が巡業に赴く際、現地に船で乗り込むことです。

歌舞伎座の東を通り新橋演舞場へ向かって走る高速道路がありますが、そこは昔は川でした。
新・藤十郎丈は昔、新橋演舞場で公演を行った際、お父様である二代目中村鴈治郎丈とともに「船乗込み」を行ったそうです。
しかし、その川が埋め立てられ高速道路になって以来、東京では船乗込みが行われていませんでした。
今回の襲名披露により、久々に東京で船乗込みが行われたのです。
といっても、歌舞伎座の近くには残念ながら川がないため、日本橋で行われました。
襲名披露の船乗込みとお練りが日本橋で行われるのは、今回が初めてだそうです。

新・坂田藤十郎丈が乗った船は、隅田川を上って「日本橋」の下を通り、「常磐橋」の船着場へ到着します。
常磐橋の上で待っていると、藤十郎丈はじめ関係者の皆さんを乗せた船がやってきました。
船が見えると、橋の上で待っていた人たちが拍手で出迎えます。「山城屋!」の掛け声をかける方もいらっしゃいました。
藤十郎丈は、橋の上で出迎えた人々に、にこやかに手を振ってくださいました。大感激です。

坂田藤十郎丈の船乗込み
↑坂田藤十郎丈の船乗込み


船乗込みの後、常磐橋たもとにある日本銀行の前で、襲名披露セレモニーが行われました。
松竹副会長の挨拶、日本銀行総裁や中央区長からの祝辞に続き、祇園甲部芸妓衆による「手打ち式」が行われました。
「手打ち式」は、その昔、南座の顔見世興行の際、役者を出迎えるために行われていた儀式だそうです。現在では、お祝い事の席などで披露されています。
揃いの黒留袖を着て、手ぬぐいを頭に乗せた芸妓衆が、おめでたい文句を唱和しながら一糸乱れず拍子木を打ち鳴らします。
きれいな芸妓さんたちがずらりと舞台に並ぶ様子は、圧巻でした。

祇園甲部芸妓衆による「手打ち式」
↑祇園甲部芸妓衆による「手打ち式」


手打ち式の後は、いよいよ坂田藤十郎丈の挨拶です。
襲名披露セレモニーの会場にはとても多くの人が集まっていて、藤十郎丈も感激しておられたようです。
「お寒いなか、こんなに大勢の方が集まってくださり、本当に『生きててよかった』と思っております」とおっしゃってくださって、こちらもうれしくなりました。

セレモニーの後、日銀前から日本橋のたもとまで「お練り」。
鳶頭衆による「木遣り」を先頭に、藤十郎丈、関係者のみなさん、祇園甲部の芸妓衆が続きます。

坂田藤十郎丈襲名披露「お練り」
↑坂田藤十郎丈襲名披露「お練り」。先頭は鳶頭衆による「木遣り」。


沿道にはたくさんの人が集まっていました。
すぐ近くで藤十郎丈を見られて、大感激でした。

お練りの後、藤十郎丈はオープンカーに乗って日本橋から歌舞伎座まで移動。今度は歌舞伎座前でセレモニーが行われました。
藤十郎丈の挨拶の後、鏡開きが行われ、見物客にもふるまい酒が配られてお開きとなりました。

歌舞伎座では、襲名披露興行の準備が早くも整えられていました。
正面玄関の右側に、裃をつけた藤十郎丈の特大パネルが飾られています。

坂田藤十郎襲名披露興行パネル
↑坂田藤十郎襲名披露興行パネル


歌舞伎座での襲名披露興行は正月2日から26日まで。
お正月興行と襲名披露興行が重なったおめでたい興行なので、お時間のある方はぜひ歌舞伎座へ足を運んでみてはいかがでしょうか。


<おまけ>

日本橋三越本店のショーウインドウにも、藤十郎襲名を祝ってパネルが飾られていました。

日本橋三越ショーウインドウの坂田藤十郎パネル

日本橋三越ショーウインドウの坂田藤十郎パネル


<本日のキモノ>

染大島にやたら縞博多帯

母からもらった染大島です。
叔母が若いころに着ていたもので、ずっと実家にあったのですが、袖丈が1尺5寸とやや長いので(今の着物の袖丈は1尺3寸が主流)、袖丈の合う襦袢がなく全然着ていなかったのです。
袖丈を1尺3寸に直そうかと母が言っていたのですが、そんな時にちょうど、インターネットで「うそつき襦袢」の替袖を見つけました。

うそつき襦袢というのは、半襦袢の袖の部分にマジックテープがついているもので、袖だけ自由に取り替えることができます。
着物に合わせて襦袢の柄を変えたいけれど、そんなに何着も襦袢を持てないし……という悩みを解決してくれるお役立ちアイテムです。

その「うそつき襦袢」の替袖に、袖丈1尺5寸のタイプが登場したのです。マジックテープ式なので、裄(ゆき)も着物の寸法にあわせて自在に調節できます。
この便利アイテムのおかげで、着物の袖を切らずにすみました。

「大島は軽くて着やすいし、寄席に着ていくのにちょうどいいよ」と言って母がくれたのですが、着てみると本当に軽いです。
また、大島特有の光沢とシャリ感、絹なりの音がとても心地よいです。ふだん着としてこれから重宝しそうです。

帯は、やたら縞の博多織の八寸名古屋帯。
寒かったので、ベルベットのコートを着ました。
袖が筒状になっていて風が通らないので暖かいです。

ベルベットコート



終い天神&河道屋養老

2005年12月25日 | 京都
京都旅行3日目。

25日なので、天神さんのご縁日です。しかも12月なので、一年の締めくくりとなる「終い天神(しまいてんじん)」の日です。
これはもう、天神さんに行くしかない!ということで、北野天満宮へ行ってきました。

バス停を下りると、人、人、人……。終い天神だけあって、たくさんの人が訪れていました。
また、この日はちょうど高校駅伝の日だったので、その見物・応援の人もたくさん出ていたようです。

北野天満宮の参道には、たくさんの露店が並んでいました。お正月用品のお店も出ていました。
境内に入ると、本殿の前にはお参りの人で長蛇の列ができていました。

終い天神の日の北野天満宮本殿前
↑終い天神の日の北野天満宮。本殿前には長蛇の列が。


この時期、北野天満宮ではお正月用の縁起物が売られます。
その一つが「大福梅」です。
北野天満宮の梅林でとれた梅の実をからからに干したもので、これを元日の早朝、お茶やお湯に入れて飲むと無病息災と言われています。
そのほか、元日から小正月くらいまの間に使う「祝い箸」、家の玄関にかける「守護縄」、お屠蘇など、お正月ならではの品が売られていました。

北野天満宮で売られる正月用の縁起物
↑北野天満宮で売られる正月用の縁起物


北野天満宮を出た後、聖護院の近くにあるおそば屋さん、河道屋養老へ行きました。
以前このブログでも紹介させていただいた木下明美さんと、2度目のオフ会です。
河道屋養老の名物「養老鍋」を二人でいただきました。
お出汁がとても上品で、京野菜もたっぷり入っていて、かしわ(鳥肉)も柔らかくて脂が乗っていて、とてもおいしかったです。
河道屋養老さんは、門構えも建物もお庭もとても風情があって、本当に素敵なお店でした。
聖護院のあたりの閑静な雰囲気ともあいまって、ゆったりとした冬の午後が過ごせました。
木下さんも南座の顔見世をごらんになったとのことで、お芝居の話でも盛り上がり、とても楽しいひとときでした。

木下さんは、後にお孫さんたちとのクリスマス会を控えておられるとのことで、クリスマスを意識した色合わせの素敵なお着物姿でした。
木下さんのブログ「京都で、着物暮らし」でもこの日のことを紹介してくださっていますので、ぜひごらんください。


オフ会がお開きになった後、六波羅蜜寺へ行ってみました。
六波羅蜜寺では、毎年12月13日から30日までの間、「かくれ念仏」と呼ばれる念仏踊りが行われます。
「かくれ念仏」は、念仏が弾圧されていたころの名残だそうで、一見、念仏とはわからない「モーダー、ナンマイドー」の声とともに、僧侶が踊りながら念仏を唱えます。
法要が終わった後、参拝者は志を納めて内陣参拝をすることができます。
内陣参拝をした人には、厄除のお守り札が授与されます。私もお札をいただき、お財布に入れて持ち歩いています。

六波羅蜜寺の近くに「幽霊飴本舗」という飴屋さんがあります。
子どもを産んで亡くなった母親が、乳を欲しがって泣く子どものために幽霊となって毎晩飴を買いに来た、という説話に出てくる、由緒あるお店です。
素朴な感じでとてもおいしい飴です。


六波羅蜜寺を後にして、先斗町の洋食屋さんで夕食をとった後、木屋町の喫茶店「フランソア」でお茶を飲みました。「フランソア」のショートケーキは、生クリームがふんわりとなめらかで、とてもおいしかったです。

わずか3日間でしたが、もっといたような気分になるくらい、充実して楽しかったです。
今年は京都へ行く機会が多かったですが、そんな一年の締めくくりにふさわしい、良い旅ができました。


<本日のキモノ>

紺の鮫小紋に星梅鉢の帯

前日と同じ、紺の鮫小紋に星梅鉢の帯です。
終い天神の日だったので、梅鉢の帯はちょうどよかったです。天神さんのご紋も星梅鉢だからです。
坂田藤十郎襲名披露興行に、終い天神に、この帯が大活躍した3日間でした。



南座・坂田藤十郎襲名披露興行(昼の部)

2005年12月24日 | 歌舞伎
京都旅行2日目。
この日もまた南座へ。坂田藤十郎襲名披露興行の「昼の部」を観るためです。
さすがに今度は3階席です……。

夜の部では、幕間にゆっくり場内を見ることができなかったので、今回は開演前にロビーをまわって、舞台写真を買ったり襲名記念グッズや展示品を見たりしました。

2階ロビーには、「紙衣(かみご)」が展示されていました。

紙衣
↑紙衣

「紙衣」というのは、紙で作った着物のことです。
歌舞伎では、みすぼらしい身なりを表す衣装として「紙衣」が用いられます。普通は、布の衣装に縫い取りで手紙の文字を表すことで「紙衣」を表現するのですが、今回の興行では、本物の「紙衣」が使われています。
最近は紙も進化していて、破れにくくゴワゴワ感の少ない、着心地のよいものができあがったそうです。とはいっても毎日舞台で使用するものですから、裏地には羽二重(絹)が使われて補強されているそうです。

「紙衣」は、初代坂田藤十郎が和事を演じる時に用いられていたそうです。初代藤十郎が後進に芸を継承する時には「紙衣譲り」という儀式が行われたそうで、紙衣はいわば「坂田藤十郎の代名詞」とも言えます。
新・坂田藤十郎丈は、初代藤十郎への憧れと敬意から、今回の興行で本物の紙衣を使用されたのだと思います。

紙衣を見て「紙とは思えないほどよくできているなあ……」と感心しているうちに、いよいよ開演です。

1幕目は「女車引(おんなくるまひき)」。
「菅原伝授手習鑑」の一幕「車引」に出てくる三兄弟、松王丸、梅王丸、桜丸の女房を登場人物にした清元舞踊です。
荒事の「車引」とは対照的な、女形ならではのしっとりとした華やかな踊りが、襲名披露興行の幕開けに花を添えていました。


2幕目は「夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)」。
放蕩の末に勘当され、紙衣に身をやつした伊左衛門が、なじみの遊女・夕霧のもとを訪れると、夕霧が病気で亡くなってしまったことを知らされます。
悲しみにくれる伊左衛門のところへ、夕霧の幻が現れる……という、舞踊仕立てのお芝居です。

伊左衛門を演じるのは坂田藤十郎丈、夕霧を演じるのは中村雀右衛門丈。人間国宝どうしの競演です。
「夕霧名残の正月」は、初代坂田藤十郎の当たり狂言だったそうです。そのため、今回の襲名披露の演目にも選ばれたようですが、初代の演じた台本が残っていなかったことから、地唄「由縁の月(ゆかりのつき)」などをもとに新たに書き起こされ、新・藤十郎丈によってこのたび復活上演されました。
「つっころばし」と言われるひよわな色男の役を演じる新・藤十郎丈は、本当にきれいです。雀右衛門丈演じる夕霧のはかなげな美しさと見事に調和し、ほうっと息をついてしまうような、幻想的な世界が創り出されていました。

幻となって伊左衛門の前に現れた夕霧が消えて行った後、店の主人・三郎兵衛と女将・おふさが出てきます。
三郎兵衛を演じるのは片岡我當丈、おふさを演じるのは片岡秀太郎丈です。
三人の会話の後、おふさ役の演じる秀太郎丈が「あ、おめでたいといえば若旦那、襲名のお祝いが」と話を切り出し、劇中で襲名披露の口上が述べられます。
裃をつけての正式な口上とはひと味ちがった、ユーモアの交えられた楽しい口上でした。
我當丈と秀太郎丈は、藤十郎丈と常日頃から共演されているので、息もぴったりと合っていました。


3幕目は「義経腰越状 五斗三番叟」。
中村吉右衛門丈演じる五斗兵衛(ごとびょうえ)が、大酒を飲まされて酔っ払い「三番叟」を踊り出すという内容ですが、この「三番叟」がとても面白いのです。
「三番叟」はご存じのとおりご祝儀舞踊ですが、酔っぱらっての座興という設定ですから、着ている裃の肩衣を素襖に、煙草入れを烏帽子に見立てた格好で踊るのです。
周りを取り囲む奴たちを、紙相撲や奴凧に見立ててあしらいながら軽快に踊る様子は、とにかく「楽しい」の一言に尽きます。
最後は、奴たちに馬乗りになって、五斗兵衛が堂々と花道を入っていきます。

前半は、主君を裏切って窮地で追い込もうと企む錦戸太郎と伊達次郎の会話で、緊張感の漂う雰囲気。
中盤は、太郎と次郎にそそのかされて酒を飲み、しだいに酔っぱらっていく五斗兵衛のコミカルな演技。
後半は、奴たちを相手に軽快に踊る五斗兵衛。
場面展開が見事で、見終わった後爽快な気分になるお芝居だと思います。派手なお芝居ではないけれど、楽しくて見どころ満載で、好きな演目の一つです。
ただ、これを見る時は必ずと言っていいほど、前半から中盤にかけて眠くなってしまいます……。私だけでしょうか……?
錦戸太郎役の中村歌六丈も、伊達次郎役の中村歌昇丈も、とても形がよくてきっちりとした演技で素晴らしかったのに……。しだいに酔っぱらっていく五斗兵衛も絶妙だったのに……。


4幕目は「文屋(ぶんや)」「京人形」の舞踊2本立てです。
「文屋」を踊るのは片岡仁左衛門丈、「京人形」を踊るのは尾上菊五郎丈と尾上菊之助さんです。

仁左衛門丈は、女官たちを相手にしたコミカルな演技をしつつ、品格のある美しい踊りを披露していました。さすがの貫禄です。

「京人形」も、菊五郎・菊之助親子の息がぴったりと合っていて、とても素晴らしかったです。菊五郎親方は、やっぱりいつ見ても形がいいなあ……。
菊之助さんはとにかくきれいです。客席のあちこちから「きれいやなあ……」という声があがっていました。人形の動きも実によくできていて、すばらしい踊りだったと思います。


昼の部のおしまいは「曽根崎心中」。
新・坂田藤十郎丈が若いころ(中村扇雀時代)に遊女・お初の役を演じて大当たりし、以来、52年にわたって演じられてきました。
最近では海外公演もされており、世界各国で好評を博しているようです。
藤十郎丈のお初、中村翫雀丈の徳兵衛のコンビもすっかり定着した感があります。

平成11年4月に歌舞伎座で「曽根崎心中」が上演された時、私は連日のように一幕見席で見物しました。
今ほど「一幕見席」が注目されておらず、並ばなくても入ることができていたころです。
そんな時に、浄瑠璃や台詞を覚えてしまうくらい何度も一幕見をしました。それほど印象的なお芝居だったのです。

歌舞伎座の一幕見席というのは、3階席のさらに上にあります。天井に手が届きそうなほど高いところから見下ろすので、当然、舞台は小さく見えます。
1階席だと肌で感じるような「気」を、一幕見席では感じ取れないことが多いのも事実です。
しかし「曽根崎心中」は違っていました。
あんなに遠くから観ているのに、舞台の「気」がひしひしと伝わってくるのです。
一幕見席で観てそれほどまでに印象に残ったお芝居というのは、私の知っているなかでは藤十郎(当時・鴈治郎)丈の「曽根崎心中」をおいてほかにありませんでした。

その時のイメージが強かったからでしょうか、南座の襲名披露での「曽根崎心中」は、やや印象が違って見えてしまいました。
藤十郎丈の、お初という役に対する思い入れが強いためでしょうか、いささか力が入りすぎてしまっていたような感じです。その結果、徳兵衛役の翫雀さんとの間(ま)や、芝居全体のバランスがくずれてしまっていた気がして少し残念でした。
歌舞伎座での襲名披露興行の時にはその辺りがうまく調整できているといいな……と思います。


何はともあれ、昼の部も盛りだくさんの内容でとても見ごたえがありました。
がんばって京都へ足を運んでよかったです。

終演後、ロビーで藤十郎丈の奥様・扇千景さんが、観客を丁寧に見送っておられました。ご自身も多忙の身なのに、えらいなあ……と思いました。着物も、観客に礼を尽くすものをお召しになっていて、さすがだなあ……という感じでした。とても素敵なお着物姿でした。


<本日のキモノ>

濃紺の鮫小紋に星梅鉢の名古屋帯

3階席は狭いため座席の出入りの際に着物が擦れてしまう可能性もあるので、汚れの目立たない濃紺の鮫小紋にしました。
帯は前日と同じ、星梅鉢文様の名古屋帯です。帯締めや帯揚げなどの小物も同じです。
帯が同じでも、着物を変えるとずいぶん違ったイメージになりました。



南座・坂田藤十郎襲名披露興行(夜の部)

2005年12月23日 | 歌舞伎
12月23日~25日の3連休で、京都へ行ってきました。
今回の上洛の目的は、ほかでもなく、南座での中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名披露興行を観るためです。

鴈治郎ファンだった私は、襲名が決まって以来この日を楽しみにしていました。坂田藤十郎(屋号・山城屋)の紋になっている「星梅鉢」をあしらった帯も誂え、襲名披露興行を観に行くときに仕立て下ろそうと、楽しみに桐箪笥にしまっていました。

待ちに待った当日。
仕立て下ろした星梅鉢の帯を締め、新幹線に乗って一路京都へ。
途中、積雪による徐行運転のため新幹線が1時間ほど遅れましたが、開演には間に合いました。

南座には、顔見世興行ならではの「まねき」が上げられていました(冒頭写真)。出演する役者の名前が書かれています。
上段の右に「坂田藤十郎」と書かれた真新しい「まねき」が輝いていました。

坂田藤十郎丈の船乗込み
↑南座顔見世興行の「まねき」。上段右に、今回の興行の立役者、坂田藤十郎丈の名前が。

まねきの下には、上演される芝居の一場面を描いた絵看板がかけられています。襲名披露「口上」の絵看板もありました。

「口上」の絵看板
↑南座顔見世興行の絵看板。写真は「口上」のもの。

場内に入ると、舞台には坂田藤十郎襲名の祝い幕がかけられ、襲名披露ならではの華やかな雰囲気に包まれていました。

坂田藤十郎襲名の祝い幕
↑坂田藤十郎襲名の祝い幕

ロビーには、ご贔屓から役者衆に贈られた「竹馬」が並んでいます。これも、南座の顔見世興行ならではのものです。

顔見世興行の「竹馬」
↑顔見世興行の「竹馬」。上の木札に贈り主の名前と役者の名前が。贈り主のなかには、祇園の芸舞妓さんやお茶屋さんの名前も多数。


場内の雰囲気をい楽しんでいるうちに、いよいよ開演。
1幕目は「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)引窓」です。
「引窓」は10月に歌舞伎座でも上演されましたが、その時とはまた違った配役で楽しめました。
南与兵衛を中村梅玉丈、与兵衛の母を中村東蔵丈、妻を中村扇雀丈、濡髪長五郎を中村我當丈が演じました。

梅玉丈の与兵衛は、抑えた演技だけれど情感がとてもよく出ていて、観客の心を打ちました。途中、客席から拍手がわき起こっていたほどです。

与兵衛の女房は、「かつて廓にいたため、廓特有のそこはかとない色気を残しながらも、今は鄙びた里の女房として義母や夫を支えながら暮らしている、気働きのできる女性」というような役どころですが、扇雀さん演じる女房は「廓の色気」にちょっとこだわりすぎていたかな、という感じです。色気を出そうと意識しすぎたのか、役の持っている品が損なわれてしまったようで、少し残念でした。
10月の歌舞伎座ではこの役を中村魁春丈が演じていたのですが、あくまでも品のある色気で、絶妙の演技でした。


2幕目は、お待ちかね坂田藤十郎襲名の「口上」です。
幕が開くと、舞台には裃(かみしも)をつけた幹部俳優がずらりと並んでいます。
中央には中村鴈治郎改め坂田藤十郎丈、その横には中村雀右衛門丈が座っています。

初めに雀右衛門丈によって、襲名の経緯と祝福の言葉が述べられます。その後、列座の役者さんたちによって次々とお祝いの口上が述べられていきます。
尾上菊五郎丈が、大きな藤の絵が描かれた背景を指して「このように派手な背景は今まで見たことがありません。私も、スパンコールのついた裃を着てくればよかったかなと思っています」と言って、観客を笑わせていました。

新・坂田藤十郎丈の口上からは、念願の藤十郎を襲名できた感慨が伝わってきました。客席からは大きな拍手と「山城屋!」の掛け声がかかっていました。


3幕目は「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」。
もとは人形浄瑠璃の作品だったのが歌舞伎に輸入されたものです。こういった歌舞伎を「丸本歌舞伎」といいます。
「本朝廿四孝」の八重垣姫は、歌舞伎のお姫様役のなかで最も難しいとされる三つの役「三姫」の一つです。その八重垣姫の役を、坂田藤十郎丈が演じます。

最初の「十種香」の場は、東京で行われることの多い「五世歌右衛門型」ではなく、上方式の型に新・藤十郎丈独自の工夫を加えた形で演じられました。
藤十郎丈は、丸本歌舞伎を演じる時、丸本(義太夫の床本)にのっとった形でなさることが多いそうです。義太夫の詞章を大切にすることで、作者の伝えたいことを丁寧に表現したいという考えからだと思います。
この「十種香」の場も、丸本の世界を大切にしている感じでした。
東京の型を見慣れた方には「ちょっと間延びして見える」というご意見もあるようですが、私は、浄瑠璃の世界がよく伝わってきてよかったんじゃないかなと思います。
片岡秀太郎丈演じる腰元・濡衣も、楚々とした感じがとてもよく表れていてよかったです。

次の「奥庭」の場は、人形振りで演じられました。
藤十郎丈が、文楽人形の真似をして八重垣姫を演じるのです。人形浄瑠璃と同じように、人形遣いもつきます。人形遣いを演じるのは、坂田藤十郎丈の長男・中村翫雀丈です。
ここでの八重垣姫は、髪型も衣装も文楽(人形浄瑠璃)と同じ形になります。
格好だけでなくもちろん動きも人形と同じようにします。人形のような動きで一瞬にして体を横にしたり、足を宙に浮かせたりと、ケレン味たっぷりです。

私は、この人形振りの「奥庭」を、国立劇場で拝見したことがあります。
今からもう何年も前のことですが、その時と同じように体が動いている藤十郎丈に、感心することしきりでした。
私は、その時初めて歌舞伎の「人形振り」を見たのですが、「こんなにおもしろいものがあったのか」と感動し、ゾクゾクしたのを覚えています。
その後、人形振りを見る機会は何度もありましたが、藤十郎丈(当時・中村鴈治郎丈)のこの「奥庭」ほど印象に残ったものはありませんでした。
翫雀さんの人形遣いも、国立劇場で見た時と同じようにとても凛々しく、すばらしかったと思います。出過ぎず引き過ぎず、人形を引き立てながらもちゃんと人形を「遣って」いました。
あの時と同じ感動を、何年ぶりかでまた味わえたことに感謝したいです。


おしまいの4幕目は「相生獅子(あいおいじし)」と「三人形(みつにんぎょう)」の舞踊2本立てです。
「相生獅子」は中村芝雀さんと尾上菊之助さんが踊りました。とにかくきれいでした。
「三人形」を踊るのは尾上松緑さん、片岡愛之助さん、片岡孝太郎さん。松緑さんの踊りは、さすがにきっちりしていて素晴らしいです。客席からも大きな拍手がわき起こっていました。松緑さんはここのところ口跡も良くなって、今後が大いに楽しみです。
愛之助さんも、基本をしっかりと守っている、きれいな踊りでした。容貌もいいし、上方歌舞伎の若手ホープだと思います。


顔見世興行ならではの盛りだくさんの演目で、とても充実した内容でした。
盛りだくさんすぎて、ロビーをゆっくり見られなかったのが残念なくらいです(笑)。
とにかく楽しいひとときを過ごせました。


<本日のキモノ>

ピンクの色無地に星梅鉢の名古屋帯

ピンクの色無地に、星梅鉢の名古屋帯です。

色無地は母からもらったものなので、母方の家紋が縫い紋で背に入っています。
地模様が織り出されているので、色無地だけれど結構華やかに見えるのがうれしいです。

小物も、襲名披露のお祝いムードにふさわしくなるよう、帯揚げは白地に赤の飛び絞りが入ったもの、帯締めも白地にところどころ赤が織り出されたものにしました。



早起きは三文の得

2005年12月02日 | 歌舞伎
今朝、早めに出社しようと思い、いつもより1時間半も早く起床。
普段の私なら、しばらく布団の中でぐずぐずしていて結局いつもとあまり変わらない時間になってしまうのだが、今日はすぐに起き上がった。

そしてとりあえず、時報がわりに毎朝つけているテレビを、半ば反射的につける。
チャンネルは、昨日帰宅してなんとなく深夜番組を見ていたときのまま。
ちょうど、1つのコーナーが終わって次のコーナーが始まるタイミングだった。次のコーナーのオープニングをなんとなく見ていると……何と!

そこには、私の好きな歌舞伎俳優・中村鴈治郎改め坂田藤十郎丈の、襲名披露口上の映像が!
さっそくテレビの前に正座(笑)。

ご存じのとおり、中村鴈治郎丈はこのたび坂田藤十郎を襲名し、その襲名披露興行が11月30日から京都・南座で行われている。そのなかでの口上の場面である。
坂田藤十郎の紋「星梅鉢」が入った新しい黒紋付に、藤十郎の名にちなんで藤色の裃をつけた、あでやかな姿。

このたび襲名された「坂田藤十郎」という名跡(みょうせき)。この名跡が復活するのは、江戸時代以来実に231年ぶり。
そこでそのコーナーでは、「初代坂田藤十郎とは、いったいどんな人だったの?」ということをとりあげていたのだ(2005年2月26日の記事でも少しふれているので、詳しくはそちらをご参照ください)。

放映時間はそれほど長くなかったけれど、襲名披露興行の舞台の様子も少し映っていたし、口上の様子(音声は流れていなかったけれど)もたくさん映っていたし、これを見て一気に目が覚め、勤労意欲もわいてきた。やはり、「早起きは三文の得」かもしれない。

それにしても、たまたま早く起きた日に、たまたまつけたテレビで、ドンピシャリのタイミングで中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名に関する放送を見られようとは。
まさに「念ずれば通ず」で、ずっとファンをやっていると自然とこういうタイミングに出くわすのかもしれない……。

ちなみに京都・南座での襲名披露興行には、もちろん万難を排して行く予定。
以前このブログでも紹介した「星梅鉢」の帯を、仕立て下ろす日がいよいよ近づいてきた。早くも心が弾む今日このごろ(その前にやらねばならないことは山積しているけれど……)。
「家庭画報特選きものサロン 2005-2006冬号」によると、顔見世興行の客席は「衣装くらべ」なのだとか。
華やかな訪問着や上品な付け下げで襲名披露に花を添えるのももちろん素敵だけれど、ここはひとつ、質の良い色無地の着物に、ひいきの役者ゆかりの柄の帯を締めて、「江戸前」の観劇スタイルで臨むとしよう(というと聞こえがいいけれど、その実、「はんなり系」本場の京都で直球勝負をしてもたちうちできないので、変化球を使うという企み……笑)。

余談だが、件の「きものサロン 冬号」で、林真理子さんが「きものの聖地」と題して歌舞伎座とキモノのことを論じておられた。
着物初心者のころ歌舞伎座で素敵な着こなしを見てあこがれたこと、着物ブームやアンティークブームの昨今、場内で思わずまゆをひそめてしまうような光景が増えてきたことなどが書かれていた。
拙筆でも観劇のキモノについて述べたことがあるが、林さんもほぼ同じお考えのようで、「うんうん、そうそう!」とうなずきながら拝読した(林さんはどちらかというと「ゴージャス系」がお好みのようで、そのあたりは「江戸前」の好みとはだいぶ異なるのだけれど)。

江戸時代の芝居小屋のあり方を考えれば、歌舞伎はオペラのようにフォーマルなものでは決してない。むやみにハイソサエティーな方向へ流れていくことは、歌舞伎の未来のためには決してプラスではないし、若い方が気軽に足を運べるような雰囲気をつくることも大切だと思う。
しかし、今よりもっとインフォーマルな雰囲気の強かった江戸時代の芝居小屋でも、顔見世興行などの時には女性は朝早くから支度をして、めいっぱいおしゃれをして出かけたという。それは、時代が移っても変わらないはず。
「おしゃれは自分の感性で決めるもの」というのはもちろんそうだと思うけれど、「おしゃれ」は客観的に評価されてこそ「おしゃれ」になり得るのだ、ということを忘れてはいけないと思う。これは観劇のスタイルに限ったことではないけれど。