本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

芸術座さよなら公演「放浪記」

2005年03月26日 | つれづれ
「日本のおしゃれ展」を見た後、デパートの地下で食料を買って、日比谷の芸術座へ向かった。

千秋楽を翌日に控えた「放浪記」を観るためだ。
以前の記事でも書いたが、芸術座は、老朽化による建て替え工事のため、この3月をもっていったん閉鎖される。
もちろん、数年後には新しい劇場になって生まれ変わる予定なのだが、伝統のある現在の劇場とはこれでお別れとなる。
今月の、森光子主演「放浪記」が、「芸術座さよなら公演」となるのだ。
同劇場で数え切れないほどの公演を重ねてきた「放浪記」は、現・芸術座のさよなら公演にふさわしい演目と言えるだろう。
人気も高かったようで、発売からすぐにチケットは完売していた。

お芝居自体もさることながら、芸術座のさよなら公演ということも私にとってはかなりのウエイトを占めていたので、着物を着ているにもかかわらずデジカメを片手に芸術座を撮影しまくる。

まずは外観から。
芸術座の入っている建物には、映画館「みゆき座」も入っている。
芸術座看板

ビルの外壁には、その月の芸術座の公演の大きな看板が掲げられている。
私は日比谷を歩くとき、いつもこの看板に目を向けていた。
芸術座公演看板

外観をひとしきり撮った後、中へ入り、エレベーターで4階へ。
4階に着くと、「芸術座」という文字の横に、公演のポスターが。
芸術座入口脇

入口でチケットを渡し、ロビーへと入る。
まだ開場前だったが、ロビーで待っている人が大勢いた。
私と同様、カメラ持参で場内を撮影している人もちらほらと見えた。
テレビ局も撮影に来ていた。

ロビーに入ると、いきなり「放浪記」初演時のポスターの写しが、大きく飾られていた。
放浪記初演時ポスター復刻版

撮影していると、係員のおねえさんが、「お客様」と言ってこちらへ寄ってきた。
「も、もしかして、撮影しちゃまずかったのかしら……。それとも、コンサートみたいに、カメラは預けないといけないのかしら……もちろん上演中は写真なんて撮らないけど……」とビクビクしていると、おねえさんの口からは意外なお言葉が。

「シャッターお押ししましょうか?」
何と、そのおねえさんは、私がその大きなポスターを撮っていたのを見て、そのポスターの前に立った写真を撮ってくれようとしていたのだ。
何というありがたいはからい。
私が、着物を着てパシパシ写真を撮っていたので、見るに見かねてくださったのかも……(笑)。

でも、芸術座の係員のみなさんには、こんなふうにあたたかみのある雰囲気の人が多い気がする。
何というか、「お高くとまっていない」という感じで、とても雰囲気がよいのだ。
制服を着た係員がたくさん並んでいても、威圧感がないのだ。
かといって、品性も保っているのだ。
係員のみなさんの雰囲気が、芸術座そのもののありかたと重なるのかもしれない。

係員のおねえさんに写真を撮っていただいたところへ、そばを通りかかった一人の女性が声をかけてくださった。
「あら、丈の長い昔風の羽織を着てらっしゃるのね。いいわねえ、『放浪記』にはピッタリの雰囲気! 楽しんでらしてね」

「ありがとうございます」と御礼を言いながら、うーん、見たことのあるお顔だなあ……と思った。
ひょっとして、役者さんだったかも……。とっさに思い出せなくて申し訳なかったかも……。
芸術座は、「演劇の殿堂」と言われるだけあって、客席のなかに役者さんの姿が見られることもしばしばある。
もちろん、出演されている役者さんが座っているのではなく、ほかの役者さんがお芝居を観にいらっしゃるのだ。それだけ、芸術座の公演が充実しているということだろう。

そうこうしているうちに開場時刻になった。
芸術座は、比較的小さな劇場である。この大きさが、演じるほうにも観るほうにもちょうどよいのだと思う。
ドレープのかかった幕に、ベルベット調の赤いシート。クラシックな劇場の雰囲気が、何とも言えず心地よい。
芸術座場内

開演前の知らせも、ブザーではなくチャイム(学校風ではなく、「リンゴーン」という音のもの)である。
開演前から、芝居の雰囲気をこわさないよう、ゆったりとした時間が流れていく。
まさに「古き良き時代の劇場」といった感じである。

お芝居を楽しんだ後、出口に向かう階段を降りる途中に、次のような看板がかかっている。
芸術座出口付近看板

私は、芸術座のこの看板がとても好きである。
劇場が壊されてしまう今、この看板の最後に書かれている「またのお越しをお待ちしております」の文字は、さびしく感じられた。
しかし、それと同時に、新劇場の完成への期待もふくらむ。

劇場リニューアル後の第一弾として、「放浪記」の上演が決まったそうだ。
生まれ変わった芸術座を見るのが、今から楽しみである。


<本日のキモノ>

桜の小紋に白の長羽織

青地にしだれ桜柄の小紋と、白地に四季の花模様の長羽織。帯は、白地に有職模様の織りの名古屋帯。しだれ桜柄の小紋は、叔母が若いころに着ていたもの。ちょっと派手になってきたかなあと思っていたのだが、白地部分の多いこの羽織をあわせると、派手さが抑えられてちょうどよい。
柄ものの着物に柄ものの羽織なので、帯は白地部分が多く色づかいも抑えたものに。



池田重子「日本のおしゃれ展」

2005年03月26日 | 着物
銀座・松屋で開催されている「池田重子コレクション 日本のおしゃれ展」へ行った。

池田重子さんは、日本有数のアンティーク着物コレクター。その彼女のコレクションを展示したものだ。会場には、着物姿の女性もたくさんいた。

池田さんもお芝居好きと見えて、歌舞伎にちなんだ帯や着物が多く展示されていた。
私の目にとまったのは「歌舞伎定式幕写し帯締」。
この帯締は、歌舞伎の定式幕(じょうしきまく)の色である黒、茶、緑の3本の細い組紐をあわせたもので、池田重子さんのオリジナルなのだそうだ。
池田重子さんは、ご自身のブランドを作っておられるので、市販されていたら買いたい! と思ったのだが、よく見ると一つ気になることが。
歌舞伎の定式幕は、舞台の上手(客席から見て右)端から茶、黒、緑の順で並んでいる。「茶汲み」という語呂あわせで覚えるとよいのだが、この帯締は、端から黒、茶、緑の順番に並んでいた。そう、実際の定式幕と、色の並び順が微妙にちがうのだ。これじゃ「茶汲み」じゃなくて「くちゃみ」になってしまう……。惜しい!

いちばん印象に残ったのは、昭和初期のものとされる花嫁衣装。
裾引きの振袖なのだが、まったく同じ柄で地色が色ちがい(黒、赤、白)のものを作り、それを三枚がさねにして着るのだ。
おそらく、大きな商家の娘さんの花嫁衣装と思われるが、婚礼貸衣装が一般的となってしまった現代では、ここまでの贅沢はなかなかできないだろう。
こういったものこそ、アンティークの醍醐味といったところである。
裏地にも紅絹が使われているため、白地の着物の場合は裏の赤が表にすけて、とても美しい。
ちなみに、かさねる順番は、下から赤、白、黒の順である。つまり、いちばん上に黒が来る。
一枚一枚が薄手に作られているので、三枚重ねても重くなりすぎることはないらしい。

展示会場を出ると、同じフロアで着物や和装小物などの販売が行われていた。
そのなかに、池田重子さんのオリジナルブランドの着物もあったのだが、なかなかいいお値段だったので、「見てるだけ~」にした(笑)。
池田重子さんのコレクションにあるアンティーク着物を写したデザインの着物もあった。
歌舞伎の定式幕の帯締は、似たようなものはあったのだが、3色の紐の組み合わせではなく、1色で両端にほかの2色が入っているものだったので、購入はせず。

品物を見ていたら、近くにあった試着スペースから「いいわよ、すごくいい!」という大きな声が聞こえてきた。
お客さんに商品を試着させた販売員さんの声である。
いわゆる「呉服展示即売会」のようなノリで、押しの強そうな売り声だった。
試着していたお客さんは、30代半ば~後半くらいの女性で、販売員の女性よりも若い。
その後、「だからあ、この帯は、いろんな着物に合うんだからあ、絶対いいわよお、まちがいないって!」という声も聞こえてきた。
私は、いくら相手が年下だからといって、客に向かってこんなふうになれなれしい口をきく販売員が、非常に嫌いである。
売りつけようとしている帯をちらっと見てみたが、はっきりいって「どんな着物にも合う」とは言い難かった。たしかにシックな色ではあったが、おしゃれ着用という感じで、人によっては飽きが来るかもしれない。

そのお客さんが普段どんな着物を着ることが多いのか、どのくらいの頻度で着るのか、どんな場面で着るのかを考えて、どのくらいの予算でどんな品を買うのがいいのかを適切にアドバイスしながら売るのが、良い呉服屋さんである。
呉服屋さんならそんなふうにいろいろなアドバイスをしながら「身の丈に合った」着物をすすめてくれるのだろうが、こういう「展示即売会」のようなところの販売員さんだと、「とにかく売りたい」「ノルマを達成したい」というのが見え見えの売り方をしていることが多いように思う。
「とにかく高い着物を押しつけたい」と考えるなら、もっと相手を見るべきだと思う。
ふつうの、30代の女性で、数十万もする着物をポンと買える人なんて、そうはいないと思うのだが……。

そのお客さんは賢く断ったようだが、お客さんがいなくなった後、その販売員さんが「売れなかったわ」みたいな態度を示していたのも気に入らなかった。
はっきり言って、品のある販売態度とはお世辞にも言えない。
やみくもに売りつけようとするよりも、適切な説明やアドバイスをしながらすすめたほうが、お客さんの信頼も得られて、結果的には売れるかもしれないのに……。
やはり、どんな商売でも「誠意」が売り上げに通じるのだと思う。

その販売員さんは、期間中だけその会場にいる人なのかもしれないが、たとえその期間だけでも店やブランドの看板を背負っているのだから、もう少し自覚を持つべきだと思う。
その販売員さんの態度を見ているうちに購買意欲もすっかりなくなり、ウインドウショッピングをする気さえも萎えてしまったので、そのままデパートを後にして、次の目的地へ向かった。



九代林家正蔵襲名披露興行

2005年03月21日 | 落語
3月21日、「林家こぶ平改メ九代林家正蔵襲名披露興行」の初日に、鈴本演芸場へ。

前日の「中村勘三郎襲名披露興行チケット日付かんちがい事件」の教訓から(?)、今度はチケットの日にちを間違えず、無事に出かけることができた(笑)。
といっても、寄席の場合は、毎月1日~10日(上席:かみせき)、11日~20日(中席:なかせき)、21日~30日(下席:しもせき)の10日間ずつの興行と決まっているので、「3月下席の初日」とおぼえておけば日付を間違いようがないのだけれど……。

こちらの襲名披露興行も、あっというまにチケットが売り切れたようだ。当日券は立ち見のみらしい。
初日は、後ろにマスコミが入るため、立ち見も用意されていなかったようだ。
テレビ局や新聞社など、たくさんの報道陣がつめかけていた。

鈴本演芸場へ到着すると、「林家正蔵賛江」と書かれたのぼりが立っていたり(冒頭写真)、お祝いの酒樽が積まれていたりと、襲名披露興行の雰囲気が漂っていた。
入口横の番組案内板には、「正蔵」と書かれた真新しい「まねき」がかけられていた。

新正蔵の「まねき」


寄席では、襲名披露や真打昇進披露の興行のとき、各方面から贈られたお祝いの品を高座の両端に並べる。
新・正蔵師匠にも、歌舞伎俳優や有名タレントから様々な品が贈られたようで、華やかな高座になっていた。
また、贔屓(ひいき)などから贈られる後ろ幕もたくさんあった。後ろ幕は重ねてかけておき、頃合いのよいところで、前座さんが上の幕を手早く外していくという仕組み。
松嶋屋さん(片岡仁左衛門丈・片岡孝太郎さん)から贈られた後ろ幕もあり、正蔵師匠の交友範囲の広さをうかがわせた。

仲入(なかいり。寄席では休憩時間のこと)の後、いよいよ襲名披露の口上。
幕があくと、黒紋付に袴で正装した噺家さんが、深々と頭を下げて座っている。
真ん中に、九代正蔵師匠。

落語の世界の場合、歌舞伎とはちがって、本人は口上を述べない。ほかの師匠が口上を述べる間、ずっと手をついて頭を下げているのだ。
口上は、義兄である春風亭小朝師匠、先代の正蔵師匠(林家彦六師匠)の弟子である林家木久蔵師匠、橘家圓蔵師匠、落語協会会長の三遊亭圓歌師匠がつとめた。
どの師匠の口上もとてもすばらしかったが、なかでも特に印象に残ったのは、木久蔵師匠の口上である。
木久蔵師匠は、新・正蔵師匠のお父さんである林家三平師匠にいただいた袴の話を、なつかしそうに語っていた。

圓歌師匠の口上が終わったところで、客席へ手ぬぐいがまかれた。
寄席では、節分の日に客席へ豆や手ぬぐいをまくのだが、襲名披露興行でまくのはめずらしいかも。
まるで豆まきのときのように観客が殺到していた。
私は、たまたま近くに落ちてきた手ぬぐいをゲット。ラッキーだった。
手ぬぐいまきが終わったあと、恒例の三本締め。

口上の後、紙切りの師匠の高座があって、それが終わるといよいよ林家こぶ平改メ林家正蔵師匠の登場。

ネタは、人情噺の「子は鎹(かすがい)」であった。
「子は鎹(かすがい)」のストーリーについては、このブログの2004年11月1日の記事でも紹介しているので、そちらをご参照ください。

以前の記事でも少し述べたとおり、新・正蔵師匠は、「こぶ平」時代から古典落語の下地はできていた。
今回の高座も、噺の下地はしっかりとできていたと思うが、まだまだ改善の余地はあるかなという感じ。
人情噺の場合、どうしても情に訴えるような描写をしがちなのだが、それをやりすぎると、却って噺の本質が伝わりにくくなってしまう場合がある。
「言い過ぎる」と却って核心からはずれてしまうのだ。
今回の正蔵師匠の高座も、残念ながらそう感じられるところが少々あった。
逆に、「ここはこの噺の人物の心情を押さえるのに肝心なところ」という場面では、描写が足りなかったように思われる。

個人的には、当代の噺家さんのなかでは、「子は鎹」をやらせたら三遊亭圓彌(さんゆうていえんや)師匠の右に出る人はいないと思う。
以前にも書いたとおり、三遊亭圓彌師匠は故・三遊亭圓生師匠の弟子である。
「子は鎹」は圓生師匠の十八番だったが、その圓生師匠の芸を忠実に受け継いでいながら、それでいて、圓生師匠を超えているのだ。
とにかく、噺に「過不足」がないのだ。
無駄を省いていながら、なおかつ、噺の本質と登場人物の心理を見事に突いているのだ。

新・正蔵師匠には、持ち前の熱心さを生かして、いろいろな師匠の噺を聴き、いろいろな師匠に稽古をつけていただいて、研究を重ねていってもらいたいな、と思う。

何はともあれ、九代林家正蔵師匠の誕生、本当におめでとうございます。


<本日のキモノ>

紺の江戸小紋に白の長羽織

紺の江戸小紋に、松の柄の織り名古屋帯、白地に四季の花模様の長羽織。
襲名披露興行なので、長羽織を脱げばきっちりとした格好になるようにした。
家を出てバス停に立っていると、年配のご婦人がこのコーディネートをほめてくださったので、とてもうれしかった。
羽織と着物の色合わせだけでなく、江戸小紋をとても喜んでくださったのが印象的だった。
東京では、江戸小紋を着ていると年配の女性が喜んでくださることが多い。若い人が地味めの色を着ていても割に好意的に受け止めてくれる。
白の長羽織は、仕立て上がりで結構安かったのだが、いろいろな着物に合わせやすい色柄の「万能羽織」なので重宝。道行コートを着ないこれからの時期に活躍しそうである。
そういえば、上野の山(上野公園)の入口にある「エドヒガンザクラ」が満開になっていた。「エドヒガンザクラ」は早咲きの品種なので、ソメイヨシノよりも一足先に咲く。
これからいよいよ春本番。着物を着てお花見に出かけるのも楽しみである。



厄落とし!?

2005年03月20日 | つれづれ
十八代目中村勘三郎襲名披露の三月大歌舞伎、口上のある昼の部のチケットを、3階席ながらやっとのことでとっていたのだが……。

日にちを一日かんちがいしていた。
一日早い日付とかんちがいしたなら問題ないのだが、あろうことか、一日遅い日付とかんちがいしていたのだ。

ずっと、明日だと思いこんでいて、明日に備えてチケットを用意しておこうと思って見てみたら、チケットには思いきり今日の日付が印字されていた。
公演はすっかり終わっている時間……。

がっくり……。
これを楽しみに、先週末必死になって仕事をしたというのに……。ううう(涙)。

思い込みというのはおそろしいもので、チケットの確認もしていなかった。それがいけなかった。昨夜のうちにきちんと確認しておけばよかったのだ。
今にして思えば、昨日なんとなく気になったんだよなあ……。
歌舞伎のチケットでは今回が初めてだが、同様のことはこれまでにも何度かあって、そのたびに懲りていたというのに……。やはり油断は禁物である。

でも、まあ、今回の場合、逆にこれでよかったのかもしれない、と思った。
今朝、福岡地方で大きな地震が発生したのだが、両親が福岡にいるため、連絡をとるのに必死だったからだ。

一口に福岡と言っても広い。震源に近い福岡市からは離れているため、幸いにしてうちはとくに被害はなかったらしい。しかし揺れはかなり大きかったようだった。
お城の天守閣の瓦も落ちたそうである。
地震の起きる瞬間、「ゴーッ」という音が聞こえて、暴風でも吹いているのかと思って父は外を見てみたらしい。その直後に大きな揺れが来たので、父と母はあわててテーブルの下へ入ったという。幸い家具などが倒れることもなく、ケガがなかったのが何よりだった。
しかし、地域によっては、家屋が倒壊したところや、家具が倒れて家の中に物が散乱したところもあり、亡くなった人やケガをした人もいるので、被害にあわれた方たちのことを考えると本当に気がかりである。

起きてテレビをつけていたら地震速報が入って、びっくりしてすぐに電話をかけてみたのだが、すでに回線が混み合ってつながらない状態になっていた。
その後、固定電話や携帯電話に何度かかけてみたのだが、やはりつながらない。
しかたなくメールを送っておいたのだが、果たして見られるだろうか……。
連絡がつかないということほど不安なものはない。
そうこうしているうちに、向こうから電話がかかってきて、安心した。
電話がかかってきたときに、歌舞伎座にいたのでは出られないし、地震のことも知らずに過ごしてしまっていたかもしれないので、家にいてよかったのかもしれない。

昔は、厄年の人が、身に付けているものをわざと道端に落としてくると厄を免れる、と言われていたという。
両親がケガもなく無事だったことを考えると、歌舞伎座のチケットをうっかり反故(ほご)にしてしまったことは、厄落としだったのかもしれない。

何事も、「ものは考え様(よう)」である。



勘三郎襲名披露(夜の部)

2005年03月15日 | 歌舞伎
友人が招待券をもらったというので、歌舞伎座へ。
平日なので、もちろん午後休みをとって……。
年度末の慌ただしい時期なので迷ったのだが、何と言っても勘三郎襲名披露興行だし……、チケットは当然もう売り切れているし、しかも1階席だし……。えーい、ままよ! と休みを申請(笑)。

人づてに券が回ってきたらしいのだが、招待席が空席になっているというのはやはりまずいので、誰か来てもらわないと、ということらしい。
これも人助けのためだから、仕方ない(ほんとかなあ……笑)。

幸い、仕事は調整がついて何とか時間までに終わったので、開演に十分間に合うように会社を出た。朝から何も食べていなかったので、歌舞伎座の近くにあるお店でお昼兼夕ごはんを食べた後、劇場へ。

場内に入ると、舞台には、十八代目中村勘三郎さんの名前と中村屋(勘三郎さんの屋号)の「角切り銀杏」の紋が入った幕がかかり、襲名披露興行らしい雰囲気になっていた。
開演直前、その幕が引かれ、内側の定式幕(じょうしきまく。歌舞伎などで用いられる、3色の縞模様の幕)が出てきてびっくり。
通常の定式幕は、柿色(茶)、黒、萌黄(緑)の3色なのだが、今回は、江戸三座の一つだった「中村座」の黒、柿色、白の定式幕が使われていたのだ。よくよく見ると、場内の提灯も、歌舞伎座の紋が入ったいつもの提灯のなかに、角切り銀杏の紋の入ったものが混じっている。開演前に、襲名披露興行の雰囲気がいっそう盛り上がる感じがしてわくわくした。

そして、一幕目の「盛綱陣屋」のはじまり。
時代物の義太夫狂言だが、新・勘三郎さんは、こういう狂言のときは型をくずさずきっちりとやり、そうでないときはどんどん新しい試みをして観客を楽しませてくれるのが、魅力の一つだと思う。今回の「盛綱陣屋」に関しても、きっちりと丁寧にやっていこうとする姿勢がとてもよく感じられた。
しかし、あえて辛口批評をさせていただくと……、台詞まわしによる表現をもっと磨いてもらいたいところ。
義太夫狂言の場合、台詞の抑揚ですべてを表現しなければならない部分がたくさんある。表情だけの芝居では通用しないのが難しいところなのだろう。
もちろん、勘三郎さんが手を抜かずめいっぱい台詞をしゃべっているのはよくわかるのだが、そうすればするほど、却って台詞は単調に聞こえ、役を十分に表現できなくなってしまうのだ。
ひとことでいうと……、残念ながら、一つの陣屋をかまえた武士に見えないのである。
盛綱は、佐々木一族の長男で、しかも、北条時政と源頼家の間で、思案をめぐらせているのだ。当然、それだけの貫禄がなければいけない。
江戸時代に御家人株を買ってできあがった武士のように見えてはいけないのだ。

和田兵衛秀盛の役をやっていた天王寺屋さん(中村富十郎丈)を見ていると、やはりさすがだなあ、と思った。型、台詞、そして役の表現、どれをとっても完璧という感じだった。ついつい天王寺屋さんのほうに目が行ってしまったほどだ……。
でも、新・勘三郎さんは49歳、これからもっと貫禄が出てくるのだと思う。大名跡の襲名により、役もどんどん広がっていくのだろうから、大いに期待したい。
ちなみに、福助さんの長男児太郎くんが、とてもがんばっていた。先が楽しみである。

二幕目の「保名」は、松嶋屋さん(片岡仁左衛門丈)による清元舞踊。
先月、息子さんの孝太郎さんと一緒にやっていた「二人椀久(ににんわんきゅう)」と雰囲気がかぶる演目だが、すらっとして美しい仁左衛門さんを見るのは、やはり楽しい。

三幕目の「鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)」(猿源氏)。
これは、まさに勘三郎さんの本領発揮という感じで、観客サービスも盛りだくさん、理屈抜きで楽しめるお芝居だった。
玉三郎さんが「いわし売り」の口上をやるところなんて、なかなか見られない(笑)。
先代の勘三郎さんと新勘三郎さんの親子二代にわたって、舞台で明石家さんまさんのギャグをとりいれたことがあるらしいのだが、今回もそんな場面が少し見られて、客席は大いに盛り上がった。
すっきりした気分で劇場を出られるような、大喜利にふさわしい楽しいお芝居だった。
勘三郎さんの興行は、いつも、劇場を出るときに爽快な気分になっている感じがする。サービス精神旺盛な勘三郎さんならではだろう。



「林家こぶ平下町感謝の日」

2005年03月13日 | 落語
3月21日に迫った、林家こぶ平さん(本当は、真打だから「こぶ平師匠」と書くべきところなのだが、雰囲気としてここはやはり「さん」づけとしたいところ)の九代林家正蔵襲名にさきがけ、「林家こぶ平下町感謝の日」として、パレードと「お練り」が行われた。

午前10時半すぎに上野鈴本演芸場前を出発し、上野駅前から、寛永寺、こぶ平さんの地元根岸を通って浅草までパレード。浅草に到着後は、仲見世を通って浅草演芸ホール前まで、「お練り」が繰り広げられた。
「お練り」というのは、もともと、歌舞伎役者の襲名の際に行われるもの。
役者やひいき連、芸者衆などが、その役者にゆかりの地を練り歩き、襲名披露興行の成功を祈願する。
この「お練り」を、噺家であるこぶ平さんがやったのだ。
こぶ平さんの弟であるいっ平さんも、真打昇進の際に「お練り」をやっていたが、噺家さんで「お練り」をやる人はまだ少ない。

私は、国立劇場へ佐渡の伝統芸能公演を観に行く予定があったので、その前に上野に立ち寄って、パレードに出発するところを見た。
鈴本演芸場の前は、テレビカメラが何台も来ていて、黒山の人だかりだったので、少し離れたところで待っていたのだが、鈴本演芸場から上野駅までの沿道には、ずっと人が並んでいた。

パレードには、「九代林家正蔵襲名記念」という大きな文字とこぶ平さんの似顔絵が書かれたトラックが使われていた。

正蔵襲名記念パレードのトラック

上野駅近くの歩道で待っていると、鈴本演芸場を出発したトラックが目の前を走っていった。
トラックには、こぶ平さんほか、一門の噺家さんやこぶ平さんと懇意にしている噺家さんが乗っており、沿道の人に手を振っていた。こぶ平さんも、みんなに一生懸命手を振っていた。

トラックが目の前を通り過ぎた後、私はそそくさと地下鉄に乗って、半蔵門の国立劇場へ向かった。
国立劇場の公演が終わったのが1時半ちょっと前。それから行けば浅草の「お練り」に何とか間に合いそうだったので、国立劇場の前からバスに乗って銀座まで行き、また銀座線に乗って浅草へ。
朝は晴れていたのに、国立劇場を出たときには何と雪が舞っていた。
しかし、浅草に着くと、雪は止んでまた晴れていた。

仲見世に掲げられたお練りの横断幕

仲見世に着くと、どうやらもうお練りが始まっているらしく、ものすごい人だかりができていて、みんなカメラを上のほうに掲げて一生懸命写真を撮ろうとしていた。
仲見世では人だかりがすごくて見えなかったので、少し離れた浅草公会堂前に行って行列が来るのを待っていた。
ここでもやはりすごい人だかりだったが、少しだけ見えた。

その後、浅草演芸ホールの前へ行ってみると、まもなく一行が到着した。
到着後、演芸ホールの前の仮設舞台で、あいさつが行われた。
林家木久蔵師匠をはじめ、春風亭小朝師匠、笑福亭鶴瓶師匠、立川志の輔師匠や、春風亭昇太師匠、柳家花緑師匠があいさつをしていた。
下町のほうでも、途中雪が降ったらしいが、木久蔵師匠が「初めは晴れていて、途中雪が降ってきて、そのあとまた晴れて、驚きましたが、これも三平師匠(こぶ平さんのお父さん)が天国で喜んでいて、ちょっといたずらをしてくれたのかなと思います」と言っていたのが印象的だった。

パレードとお練りにはとても多くの人が集まっていて、何と14万5000人の人出だったという(どうやって調べたのかわからないが……)。
たくさんの人に集まってもらえて、集まった人たちに祝福と激励の言葉をもらえたこぶ平さんは、感極まって涙をこぼしていた。
鶴瓶師匠も、「あんたたくさんの人に愛されてるんやなあ」と、感激していたようだった。
最後に三本締めをして、おひらきとなった。
その後、浅草公会堂で落語会が行われたらしい。

こぶ平さんは、テレビなどでよく「古典落語ができない」と自分でネタにして言っているが、実はそんなことはない。寄席での高座を何度も聴いたことがあるが、特に正蔵襲名が決まってからは、熱心に古典落語に取り組んでいた。
ネタの振り幅もわりと広く、軽い滑稽噺から人情噺まで手がけている。人情噺もなかなかよく語っているのではないかと思う。
滑稽噺にしろ人情噺にしろ、こぶ平さんは古典落語をやるとき、一生懸命にやっているのがよくわかる。「気持ちで演じる落語」といった感じだ。しかし、気持ちばかりが先走るわけでもなく、結構きれいにまとまっている。

寄席というのは、たくさんの芸人さんが入れ替わりたちかわり出てきて、いろいろな噺をするところだ。
だから、「全体の流れをこわさず、しかもお客さんを飽きさせないようにする」ことが求められる。そんななかで重要なのは、「軽い噺でお客さんをひきつけられること」だ。
軽い噺というのは便利だが、お客さんのほうでもよく聴く噺だったりするので、ややもすると退屈してしまう。それをいかに退屈させずに聴かせられるか、というのが、腕の見せどころである。そして、現在の寄席では、これができる人が残念ながら意外に少ないのだ。
しかし近年のこぶ平さんの高座を見ていると、ひょっとしたらこの人は、それができる人になれるのかもしれない、と思った。
トリをとって人情噺をみっちりやったり、間に入って着実に滑稽噺をやったり、自在に噺を操れる人になってくれればいいなと思う。
人気におごることなく、寄席の高座を大切にしながら、これからも芸を磨いていってほしい。

こぶ平師匠、改め九代林家正蔵師匠、がんばってください。



佐渡の伝統芸能

2005年03月13日 | 伝統文化あれこれ
12日(土)、13日(日)と、国立劇場の民俗芸能公演を観に行った。

今回の公演は「佐渡の伝統芸能」で、新潟県中越地震の被災地復興支援活動の一環として開催されたものだ。

1日目は、第1部、第2部にわかれており、第1部は神事芸能、第2部は人形芝居を中心とした芸能がテーマになっていた。私が観たのは第2部。
佐渡に伝わる人形芝居「説教人形」「のろま人形」「文弥(ぶんや)人形」が上演された。
私は、以前佐渡へ行った際、文弥人形を観たことがある。
佐渡には文弥人形の「座」がいくつか残っていて、観光客向けの短い公演などを行っているところもあるのだ。
そのため、佐渡の人形芝居というと「文弥人形」を思い浮かべてしまうが、意外にも文弥人形は、明治時代になってからできあがったものらしい。
佐渡に伝わっていた「文弥節」に、人形芝居を加えてできあがったのだそうだ。

佐渡の人形芝居としては「説教人形」や「のろま人形」のほうが古いらしい。
「説教人形」とは、文字どおり、仏教などの教えをさとすための人形芝居、といったものである。
通常、説教人形は全5幕で構成されており、その幕間に上演する、ユーモアを交えた人形劇としてはじまったのが「のろま人形」。
これは、能と狂言の関係に似ている。能はもともと、5本立てで上演されていた(現在は、時間の関係もあって3本立てで上演されることがほとんど)。そして、能の合間に上演されたユーモラスな寸劇が「狂言」なのだ。
能がさかんだった佐渡ならではだなあ、と思った。

人形芝居にはとても興味があったのだが、なぜかとても眠くなってしまった。
前日遅くまで仕事をしていたために睡眠不足だったからかもしれないが、ほかにも理由があるような気がした。もちろん、お芝居自体も、演者もすばらしかった。なのになぜだろう。
考えてみると、「説教人形」も「のろま人形」も、祭りなどの際に奉納されるものとして上演されている。
つまりそれは、信仰や土地の風習と密接に結びついているものなのだ。劇場で上演するために作られたものではない。
それを信仰や風習と切り離して、薄暗い劇場のなかできれいなイスに座って見ていると、残念ながら本当のよさを味わえないような気がする。だから眠くなってしまったのではないかなあ、と。
やはり、民俗芸能というのは、劇場ではなく、その土地へ行って観るべきなのだと思った。


2日目は、「伝統を受け継ぐ子供たち」というテーマで、「佐渡子供歌舞伎」を中心に上演された。
子供歌舞伎は、まずはじめに「三番叟(さんばそう)」が上演され、そのあとに「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」の「道行初音の旅(みちゆきはつねのたび)」が上演された。
子どもとはいえとてもしっかりとした芝居で、観ていて楽しかった。
初めに「三番叟」を踊ってから芝居を上演するところなど、本寸法でよい。
本来、このように芝居の開幕の前に「祝儀」として「三番叟」が舞われていたのだが、現在の主な歌舞伎興行では、お正月の演目くらいでしか観られなくなってしまった。
歌舞伎座などでも、毎月の興行の初日と千秋楽くらいは、芝居のはじまる前に「三番叟」を舞ってもいいのではないだろうか。若手俳優の研鑚(けんさん)の場にもなると思うのだけれど。

2日目の会場には、秋篠宮妃紀子さまや、眞子さまもお見えだった。
開演前にも休憩中にも特にアナウンスがなく、SPとともに静かに客席へ入って来られた。
私は何列か後ろに座っていたのでたまたま気が付いたのだが、気が付いていない人も多かったらしく、休憩時間になって席をお立ちになった際、知らずに立ち上がったほかのお客さんがぶつかりそうになっていた。
お互いにかわいそう……。
でも、ほかの観客にできるだけ気をつかわせないように、自然体で、という配慮なのだろう。

私など、朝ごはんを食べずに行ったので、売店で買ったサンドイッチを開演前にロビーであわててほおばっていたのだが、もう少しタイミングが悪かったら、ひょっとするとそんな情けない場面を見られてしまったのかも……。まあ、庶民の生活はそんなものです……(笑)。


桂文枝師匠死去

2005年03月12日 | 落語
関西落語界の重鎮、桂文枝(かつらぶんし)師匠が、肺がんのため亡くなった。

文枝師匠は、笑福亭松鶴師匠、桂米朝師匠、桂春団治師匠とともに「上方落語の四天王」と呼ばれ、衰退していた上方落語の復興に尽力された人だ。

現在、東京の落語に残っている噺のなかには、上方落語の噺をもとにしたものも数多くある。
また、落語家が出てくるときの「出囃子(でばやし)」も、今では東京ですっかり定着しているが、もともとは上方での風習だった。
そんなすばらしい伝統のある上方落語が、戦後は衰退の一途をたどっていた。
それをここまで復興させるのには、並々ならぬ苦労があったと思う。

近年、上方落語の復興はめざましく、大阪には落語専門の寄席が建設中である。
その寄席の完成を待たずに亡くなられてしまったのが、惜しまれてならない。

昨年の夏、神戸の落語会で文枝師匠の噺を聴いたのが、私にとっては最後となった。
文枝師匠は、古典落語もさることながら、新作落語の創作にも意欲的で、そのときも「熊野詣(くまのもうで)」という新作落語を熱演していた。
新作とはいえ、古典落語にもひけをとらない完成度の高さだった。新作落語と知らずに聴いてもまったく違和感がないほどだろう。あらためて、文枝師匠の才能と実力を感じさせられた瞬間だった。

落語界の貴重な人材が、また一人消えてしまった。  合掌



雪と梅

2005年03月05日 | つれづれ
昨日の雪から一転してよい天気になったので、新宿御苑へ梅を見に行った。

以前の記事でも少し書いたが、私は、桜よりも梅のほうが好きである。
桜ももちろん好きだが、梅の花のもつ何ともいえない趣が好きだ。
とくに、紅白の色彩の対比は、ほかの花にはなかなかなく、梅ならではの美しさといった感じだ。
今は桜が「日本の花」とされているが、平安時代以前は「花」というと梅の花のことを指していたほど、梅が好まれていた。

実家の庭に紅梅と白梅が並んで植えられているのだが、私は子どものころからこの2本の梅を見るのがとても好きだった。
私が小学校に入学するときに白梅の苗木が植えられ、2つ下の妹の小学校入学の際に紅梅の苗木が植えられたのだ。
はじめは白梅よりも紅梅が一回り小さかったのだが、木が成長するにつれ、いつのまにか同じ大きさになって並んでいた。人間の成長と同じでおもしろい。

ある年、庭の梅が咲いている時期に雪が降り、梅の花が雪をかぶったのだが、この様子が何ともいえず趣深かった。
桜だとこうはいかない。何年か前に関東地方で、もう桜が咲いている3月末に寒の戻りで雪が降ったことがあったが、雪のなかで咲いている桜は何だか興ざめだった。
梅の花は、小春日和のなかで見ても、名残の雪のなかで見ても、それぞれ趣がある。やはり「百花のさきがけ」にふさわしいのだなあ、と思う。

新宿御苑では、前日の雪がまだ溶けずに残っている所があり、雪と梅の対比が見られた。
福寿草も咲いていて、春の訪れを感じさせてくれた。

福寿草


梅の花と香りを楽しんだあと、三宅坂にある国立演芸場へ行った。
私の好きな三遊亭圓彌師匠がトリをとっていたのだ。

落語を楽しんだあと、夕食をとって、映画「北の零年」を観に行った。
前売り券を買っていたのだがなかなか行かれなかったので、そろそろ観ておかないと、と思ったのだ。

吉永小百合さんは、いくつになってもきれいだなあ、と思った。
もちろん、年齢とともに外見は変わっていくのだろうけれど、年齢に応じた美しさ、つまり「時分の花」というのを持っていると思う。

最近発売された吉永小百合さんの写真集のなかに、「私は、過去を振り返るのは好きではない」というようなコメントがあった。年を重ねても、常に現在とこれからを見つめ、新しいことにチャレンジしていきたいのだという。
そういった考え方が、年齢を重ねてなお魅力を放ち続けている根本なのだろう。
以前の記事でも書いたが、年を重ねてはじめて出てくる魅力というのがあると思う。
もちろん、若いときには若いときの魅力があるのだろうが、逆に、若いときには出せない魅力というのもある。
若いときにも、年を重ねてからも、そういう考えを持っていられる人は、よい年のとり方ができるのだろう。

観梅と落語と映画、一日でたくさんのことを楽しめて有意義だった。



また大雪

2005年03月04日 | つれづれ
昨夜遅くから降り出した雨が雪に変わり、今日は朝から雪だった。
朝の時点ですでに積もっており、バスもなかなか来なくて、通勤時間もふだんの倍近くかかった。
前日から「大雪のおそれ」と言われていたので早く起きて家を出ておいたのだが、会社に着いたのは結局いつもと同じくらいの時間だった。
しかも、バスを待っている間に靴がぬれて、靴下までびしょびしょになってさんざんだった。

会社に着いて窓から外を見たら、都心もすっかり雪景色になっていた。
ビルの上のほうだと風も強く、まるで吹雪のようだった。

今年は本当に雪が多い。
でもまあ、これが本来の冬のありかたなのだろう。