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本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

彦八まつり(2)

2005年09月04日 | 落語
「彦八まつり」2日目。
再び、宿泊先の京都から阪急電車に乗って、大阪へ向かいました。
この日は、着物で出かけました。雨が降るかもしれないというので、念のため雨ゴート持参です。

2日目はまず、「扇納祭」でスタートしました。古くなってしまった高座扇子を供養するのです。
生國魂神社境内にある「彦八の碑」の前で、上方落語協会の幹部以下多くの噺家さんが参列し、神事が行われました。

扇納祭
↑扇納祭


扇納祭が終わった後、特設ステージで鏡開きが行われ、観客に祝い酒がふるまわれました。せっかくなので私も一杯いただきました。辛口ですが口当たりがやわらかで、なかなかおいしいお酒でした。

鏡開き
↑上方落語協会幹部の師匠連による鏡開き。向かっていちばん左は、「彦八まつり」のマスコットキャラクター「彦八くん」


その後ステージでは、芸人さんたちによるだんじり囃子の演奏が行われました。お囃子とともに「龍舞」という舞が披露されました。龍が天に昇っていく様子を表した、おめでたい舞だそうです。小さな子どもも一生懸命に踊っていて、とてもかわいらしかったです。

その後、また会場を見て回りました。
すると、見覚えのある顔が……。何と、東京の落語協会の三遊亭小田原丈さんでした。
「上方落語協会 楽茶会」のお茶席の手伝いにいらしたのだそうです。
さっそくお茶をいただくことにしました。小田原丈さんがお点前をしてくださいました。
お道具も凝っていて、棗(なつめ)は、三味線をあしらったものでした。楽茶会のためにわざわざ作ってもらったそうです。
お茶碗は、何と、故・文枝師匠が作られたものを、わざわざ出してくださいました。文枝師匠が晩年に作られたもので、生前、楽茶会に寄贈してくださったのだそうです。大事なものなのでいつも使っているわけではないようです。そんな貴重なお道具に接することができて、感激しました(割ったり傷をつけたりしては大変なので、もちろん緊張もしましたが……)。

故・桂文枝師匠作の茶碗
↑故・桂文枝師匠作の茶碗。しかも銘入り!


そのほか、文枝師匠の作ではありませんが太鼓をあしらったお茶碗も出してくださいました。こちらもとても素敵でした。
小田原丈さんのお点前も素晴らしい腕前でした。小田原丈さんは、東京の「圓朝まつり」ではバーテンダー姿でカクテルを作っておられます。シェイカーを茶筅(ちゃせん)に持ちかえて、大阪でも大活躍という感じでした。


お茶席を出た後、奉納落語会の会場へ向かいました。今度は、事前にいただいた招待券を使ったのでかなり前のほうの席になりました。
昼の部の演目の最初は「大喜利」です。若手の噺家さんとそれをサポートするベテラン師匠のみなさんが、「なぞかけ(○○とかけて××ととく、その心は……という、あれです)」などをするのですが、司会の月亭八方師匠の軽妙なトークや客席からの気の利いたツッコミも加わって、場内は大いに盛り上がっていました。
会場には、文化庁の河合隼雄長官もいらっしゃいました。大喜利の若手メンバーのなかから、河合長官の審査によって代表一人が選ばれ、落語をやることになりました。選ばれたのは森乃石松さんです。若手ならではのさわやかな高座でした。

石松さんによる落語の後、露の五郎師匠と河合長官による対談が行われました。
五郎師匠は、上方落語の歴史などについて解説してくださいました。いつもながら、五郎師匠の博識ぶりには頭が下がります。

奉納落語会2日目の番組
↑奉納落語会2日目の番組


いま大阪では、上方落語協会が中心となり、落語の定席(じょうせき:毎日興行をやっている小屋)「天満天神繁昌亭」の建設が進められています。大阪では、吉本興業や松竹芸能などのプロダクションに所属していなければなかなか舞台に立つことができなかったのですが、「天満天神繁昌亭」の開設により、プロダクションの垣根を越えて、文化的土壌を作り上げていこうというねらいです。

東京には落語の定席が4軒あります(昔は「町内に一軒」といっても過言ではないほどたくさんあったそうです)。落語だけでなく歌舞伎も、毎月歌舞伎座で上演されています。「いつでも落語を聴ける場所がある」「いつでも芝居を見られる」ということは、文化の成熟にとって重要な要素の一つです。聴く機会・観る機会が増えれば、観客の聴く耳・観る目も磨かれていきます。観客の目や耳が肥えれば、芸も磨かれていきます。芸が磨かれていけば、芸能や芸術がどんどん進化し発展していくのだと思います。
ずいぶん前、このブログでも書いたことがありますが、私が東京の名所として人に勧めたいのは、お台場でもなく六本木ヒルズでもなく、寄席と劇場です。常に「生の舞台」に接することができるというのは、ほかではなかなか味わえないことです。私は上京したてのころ、決して東京が好きではありませんでした。しかし、落語や歌舞伎、そのほかの芸能に日常的に接する楽しみを見つけてからは、東京が好きになりました。
大阪にも、戦前は落語専門の寄席がたくさんあったのだそうですが、今はありません。「天満天神繁昌亭」により大阪に落語の定席が復活し、かつて日本の芸能の中枢を担っていた大阪の「文化的活気」が戻ってくるといいなと思います。

話はそれましたが、落語定席「天満天神繁昌亭」の開設は、文化庁からも大いに期待されているようです。
文化庁の方の「今日は嫌なことがあったから寄席に行って笑って帰ろう、今日は楽しい気分だから寄席で笑ってもっと楽しくなろう、というように気軽に立ち寄れるところがあるのは素晴らしいことです」という言葉が印象に残りました。本当にそのとおりだと思います。
繁昌亭ができて、上方落語界がますます発展していってくれるといいな、と切に願っています。
繁昌亭完成のため、一般の方からの協力も募っているそうです。上方落語や、大阪の古き良き文化を守りたい! という方は、上方落語協会ホームページをごらんください。

途中、にわか雨が降ったりしましたが、奉納落語会が終わって外に出たころにはすっかり雨も上がっていました。
少し場内を見てから会場を後にし、京都へ戻りました。
京都に行くと必ず一度は立ち寄るお店で夕食をとったのですが、観光シーズンではないので人も少なく、ゆったりとした気分で食べられました。

翌日、旅行3日目は、雨の京都でのんびりと過ごしました。その様子は、次の記事でご紹介します。


<本日のキモノ>

麻の葉の木綿ひとえ

9月に入ったので、単(ひとえ)にしました。といっても、これも実は浴衣です。
ただ、綿コーマ地の浴衣と異なり、変わり織りでしっかりした生地で透け感もほとんどないので、半衿と襦袢を着ければ、お彼岸のころまでの「木綿の単」として着られます。
お彼岸になったら、透けないきちんとした単を着て、帯も徐々に袷の帯に移行させていきます。

このキモノは、ヤフオクでゲットしました。
エンジ色で秋にちょうどいい色あいだったのと、私の好きな麻の葉模様だったので、がんばって落札しました。ユーズドではなく新品だったのもポイントです。
個人の出品ではなく「オークションストア」の出品だったため、結構安心して取引ができました。

私は、どちらかというと「9月に入ったらがんばって単」派なのですが、3日、4日は暑かったこともあり、大阪ではみなさん薄物を着ていました。
着物を単にしたら、帯も夏帯ではなく単の帯にします(※)。秋色の単だったので、単の帯(博多織の「やたら縞」の八寸名古屋帯)にしました。
ただし、襦袢はまだ麻にしました。この時期の単の場合、暑い時は襦袢で調節するのも一つの手です。
9月初旬なので、半衿は絽で、帯揚げも絽にしています。
9月10日から半ばごろになったら半衿を塩瀬にし、それにあわせて帯揚げや帯締めも秋冬物にします。半衿と帯揚・帯締は季節をそろえます。
帯締は三分紐、帯留は江戸べっ甲の「ふくら雀」、根付は象牙のレンコンです。

今回、着物一式を持って行ったのですが、長襦袢ではなく、半襦袢&麻のステテコにしたので、かさばらずにすみました。普通の名古屋帯と違って、博多織の八寸名古屋帯だとあまりかさばらないので、旅行の時には便利です。「紗献上」でない限り、博多織の八寸名古屋帯は一年じゅう締められます。


(※注)お茶席など正式な場以外であれば、9月上旬なら夏帯でも可とも言われているようです。着物の色合いとのバランスや、帯の柄、その日の気候などによって総合的に判断し、見た目に違和感がなければ適宜調節してよさそうですね。秋色の着物なら単の帯が合うでしょうし、淡い色の着物なら夏帯でも違和感がなさそうです。いずれにしても、全体のバランスがとれていることがポイントではないかと思います。



彦八まつり(1)

2005年09月03日 | 落語
9月3日~5日、またまた関西へ行ってきました……。

今回の旅行の目的は、大阪で行われた「彦八まつり」の見学です。
「彦八まつり」は、上方落語協会所属の芸人さんたちによるイベントで、芸人さんたちの屋台や奉納落語会などが行われる「落語ファン感謝デー」のようなものです。
大阪落語の祖といわれる米沢彦八が活躍した生國魂神社(いくたまじんじゃ)に「彦八の碑」が建立されたのをきっかけに始まり、今年で15回目となります。
ちなみに、数年前から東京で行われている「圓朝まつり」は、この「彦八まつり」を参考にして始まりました。

彦八の碑
↑生國魂神社の境内に建立されている「彦八の碑」


早朝の新幹線で京都へ行き、ホテルへ荷物を預けてからさっそく阪急電車に乗って大阪へ向かいました。
阪急から地下鉄に乗り換えて、谷町九丁目駅で降り、歩いて5分ほどで生國魂神社に到着です。
生國魂神社の境内には、「彦八まつり」ののぼりが立てられ、たくさんの屋台が出されていました。

生國魂神社

さっそく屋台を見て回ることにしました。
会場に入るとまず、彦八まつり実行本部のテントがあり、うちわやサインペンが売られています。会場内で芸人さんたちにサインをいただくためのグッズです。もちろん自分で持参してもよいのですが、持ってこなかった人や「彦八まつりの記念になるものにサインしてもらいたい」と考える人にうれしい配慮です。

彦八まつり本部売店

そのほか、上方落語協会の会誌や、上方落語の各一門の紋が入ったTシャツも売られています。
私はこのTシャツが前々から欲しいと思っていたので、さっそく1枚買いました。どの一門のものにしようか迷ったのですが、桂米朝一門の「結び柏」にしました。

「結び柏」の紋入りTシャツ
↑「結び柏」の紋入りTシャツ


その隣には桂ざこば一門による屋台があり、「ざこばブランド」のTシャツなど、オリジナルグッズが売られていました。
何と、ざこば師匠自ら店頭に立ち、Tシャツの販売活動にいそしんでおられました。買ったTシャツにサインをしていただけるとのことなので、ここでも1枚購入。目の前でざこば師匠にサインをしていただけて、感激です。

桂ざこば師匠のサイン入りTシャツ
↑桂ざこば師匠のサイン入りTシャツ


露の五郎一門による一銭洋食や故・桂文枝一門による焼きうどんなど、食べ物の屋台もたくさん出ていて、芸人さん自ら鉄板に向かっていました。
文枝師匠の焼きうどんは、薄口しょうゆで味付けした細麺うどんの上に半熟玉子を乗せ、かつお節をかけた、とてもシンプルなものです。
食べる時に半熟玉子をくずして、麺と玉子の黄身をからめていただきます。塩分の効いた薄口しょうゆで味付けられた麺と、玉子の黄身のまろやかさ、かつお節の香りがマッチして、シンプルなのにとてもおいしい焼きうどんでした。
この焼きうどんの由来が、店頭に貼られていました。文枝師匠がまだ駆け出しの芸人さんだったころ、うどん一玉だけを使ってどうやっておいしく食べるかを考えて作ったのだそうです。
そのころのエピソードをまじえながら、文枝師匠は時々この焼きうどんをお弟子さんたちに作ってあげていたそうです。
文枝師匠のお人柄と師弟の絆が隠し味になって、焼きうどんのシンプルなおいしさをより一層引き立てていました。

故・文枝師匠の焼きうどん
↑故・桂文枝師匠一門による焼きうどん屋さん。文枝師匠直伝の焼きうどんの由来が書かれた看板が。


そのほか面白いところでは、桂あやめさんによる「ねちがいや」。
京都・島原の置屋「輪違屋(わちがいや)」をもじった楽しいネーミングです。
ここでは、落語のなかに出てくるようなお座敷遊びや芸を、ワンドリンク付きで楽しめます。
何と、東京の落語芸術協会の春風亭昇輔さんも、手伝いにかけつけていました。

「ねちがいや」のお座敷遊びメニュー
↑「ねちがいや」のお座敷遊びメニュー

1回のお座敷はだいたい15分くらいで、1回終わるとお客さんの入れ替えとなります。披露されるお座敷遊びや芸は、メニューのなかからその時のお客さんのリクエストに応じて決められます。
私が入った回では、桂あやめさんが「阿呆陀羅経(あほだらきょう:ふざけたネーミングに見えるかもしれませんが、日本の伝統的な大道芸の一種なのですよ)」をやってくださいました。お客も掛け声をかけて盛り上げます。
その後、「おしどり」という夫婦コンビによる芸が披露されました。奥さんのアコーディオンと漫談にあわせて、ご主人がワイヤーを使っていろいろなものを作っていきます。「天使の羽根」や「チューリップ」などかわいらしい作品が、見る見るうちにできあがっていきました。
その後、あいにく次の芸をしてくださる方が不在だったので、隣の屋台で生ビールを売っていた笑福亭たまさんがピンチヒッターで「スーパー記憶術」を披露してくださいました。
お客さんから好きな単語を合計20個出してもらい、番号とセットで、短時間ですべて記憶するのです。ランダムに番号を言っても、その番号に対応した単語をバッチリ答えるのです。
たまさんのすばらしい記憶術に、お客さんだけでなく、隣の屋台にいらっしゃった笑福亭福笑師匠や桂文福師匠も大きな拍手を送っていました。
一人2つか3つずつ好きな単語をあげてくださいとのことだったので、私は、近くにあった「三味線」と、先日聴きに行った「河内音頭」をあげました。
すると、隣の屋台の中に座っていた文福師匠が、即興で河内音頭をひと節唄ってくださいました。お座敷がおひらきになる時にも唄ってくださって、みんな大喜びでした。
出がけに、笑福亭福笑師匠に「先日、横浜にぎわい座の上方落語の会で師匠のお噺を聴きました。とても楽しかったです」と声をかけたら「ええ!? ほな、今日はわざわざ東京から来てくれはったんですか!? えらいおおきに!!」と言ってくださいました。

奉納落語会は、1日2回ずつ2日間、計4回開催されます。
事前に協賛金を納めると1回分の招待券がもらえるほか、当日券を買って入場することもできます。
招待券を1枚もらっていたのですが、この日は、当日券を買って女流落語会を聴きました。

奉納落語会初日の番組
↑奉納落語会初日の番組

ベテランの露の都師匠、桂あやめ師匠、若手有望株の桂三扇さん、フレッシュな露の団姫さんによる落語のほか、三味線漫談の内海英華師匠やお囃子のみなさんも参加しての、とても楽しい公演でした。場内は満員御礼でした。

奉納落語会会場
↑奉納落語会会場


奉納落語会に出演していた露の都師匠は、占いの屋台も出しておられました。よく当たると評判だそうなので、落語会が終わってからさっそく行ってみました。

露の都師匠のラベンダー占い

人気コーナーのようで、順番待ちの人がたくさんいました。整理券をもらってから40分ほど、場内を散策しながら待ちました。
占っていただくと、「あ、たしかに当たってるかも」と思うことが多々ありました。今後に希望が持てる占い結果だったのでうれしくなりました。でも、結果に関係なく、都師匠のお話を聞いているだけでもとても前向きな気持ちになった感じです。

夜になると、特設ステージで芸人さんたちによるバンド演奏が行われました。
1組目は「ヒロポンズ・ハイ」というユニークな名前のバンドで、笑福亭福笑師匠がメインボーカル、桂あやめ師匠がボーカル・コーラス・アコーディオンを担当しています。そのほかの楽器もすべて芸人さんたちが担当します。
昨年までこのバンドのメンバーとして活躍していた林家染語楼師匠が、今年3月に急逝されました。「青空理髪店」という楽しい新作落語で知られる師匠です。寄席のお囃子でも大活躍しておられました。その染語楼師匠を偲んだメドレーも披露されました。

芸人バンド「ヒロポンズ・ハイ」
↑芸人バンド「ヒロポンズ・ハイ」のステージ


ヒロポンズ・ハイの演奏が終わると、桂文福師匠をはじめとする和歌山県出身者で構成された「桂文福とワ!つれもていこら~ズ」のステージです。
和歌山県内のレコード店で売り上げ3位を記録したこともあるという「和歌山ラブソング」など、故郷和歌山を愛する歌が熱唱されました。

和歌山県出身の芸人グループ「桂文福とワ!つれもていこら~ズ」
↑和歌山県出身の芸人グループ「桂文福とワ!つれもていこら~ズ」


最後は、阿波踊りです。芸人さんや愛好会の方々による踊りが披露された後、観客も一緒になってにぎやかに踊り、彦八まつり1日目はおひらきとなりました。

阿波踊り

翌日(2日目)の様子は、次の記事でご紹介します。



圓朝まつり

2005年08月07日 | 落語
東京有数の寺町、谷中(やなか)にある禅宗寺院「全生庵(ぜんしょうあん)」で、落語協会所属の芸人さんたちによるイベント「圓朝まつり」が行われた。

明治時代の落語家で「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」や「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」など現代に残る名作落語を数多く作った、三遊亭圓朝(さんゆうてい・えんちょう)の追善法要を兼ねたイベントである。

三遊亭圓朝の追善法要は以前から行われていたのだが、落語関係者だけが出席し、全生庵の本堂での法要と奉納落語などを行うというものだった。
しかし、落語ファンにも集まってもらってファンとの交流を図ろうという趣旨で、4年前から「圓朝まつり」として新たなスタートを切ったのである。

当日は、関係者のみが出席する法要以外に、一般の人向けの奉納落語会が行われる。この奉納落語会は毎年、発売と同時にチケットが売り切れてしまうほどの盛況ぶり。
境内では、芸人さんたちによる様々な屋台が出される。場内の至る所で、ファンと語らい、写真撮影やサインに気軽に応じる芸人さんの姿が見られた。

さすがに芸人さんだけあって、屋台の内容やネーミングにも洒落がきいており、様々な工夫がこらされている。
今回、私がまず足を運んだのは、手ぬぐい屋さん「にせ辰」。
東京の下町に詳しい方ならよくご存じの、「いせ辰」という老舗手ぬぐい屋さんをもじったネーミングである。
「にせ辰」では、落語協会に所属する芸人さんが揃いで誂える浴衣の生地で手ぬぐいを作り、販売していた。
柄は、歌舞伎の「中村格子」をもじったもの。「中村格子」は、格子のなかに「中」「ら」の文字が散らされているのだが、これは、「ら」だけが散らされているのだ。「らくご」の「ら」。
このあたりも、芸人さんらしい洒落のきいたところである。

「にせ辰」手ぬぐいラベル 「にせ辰」手ぬぐい


「にせ辰」の近くに、三遊亭円丈師匠のお店があったので、足を運んでみた。すると、何と円丈師匠の新作落語の台本が売られているではないか!
パソコンを自在に操る円丈師匠が手ずから作ったもので、製作に何と10時間を費やしたという力作である。
全部で3種類、それぞれ20部限定だったので、売り切れないうちにさっそく買うことに。3種類セットで買いたいのはヤマヤマだったのだが、何せ数量限定なので少しでも多くの人が買えるほうがよいだろうと思い、1種類だけに絞った。
7月2日の独演会で演じられた「ぺたりこん」と、名古屋の大須演芸場の様子を描いた「悲しみの大須」が収録されている巻を購入。表紙にサインもしていただけて、まさに「お宝」である。

三遊亭円丈サイン入り落語台本


食べ物や飲み物の販売も、芸人さんたちによって行われている。
第1回圓朝まつりから毎年恒例で出店している、柳家小三治師匠の一門によるカレー屋さんや、三遊亭小田原丈さんによるカクテル屋さんが、今年も出店していた。
三遊亭小田原丈さんは、実際にバーテンダーをされていた経験があるので、とてもあざやかなシェーカーさばきである。氷がたくさん入った色鮮やかなカクテルは、涼を誘ってくれる。

お店の数も少しずつ増えており、今年新たに出店されたところもあった。
そのなかの一つが、柳家さん喬師匠の洋食屋さん。
さん喬師匠のお兄さんが下町で洋食屋さんをやっているので、そのネットワークを生かして、さん喬師匠が腕によりをかけて作ったようである。

10時の開場から1時間も経つころには、場内は多くの人でごった返していた。途中、入場制限が行われたほどだ。

圓朝まつり会場


奉納落語会は、今年は2部制だったのだが、私は1部のほうのチケットをゲットしていた。
本堂の下の広間で行われるので、お客さんはみんな畳の上に座るという、昔ながらのスタイルである。
先年亡くなられた柳家小さん師匠の「生誕90周年」ということで、小さん師匠が得意としていた噺を、柳家さん福師匠、柳家小三治師匠、柳家三語楼師匠が演じた。

奉納落語会のほかにも、境内で様々なイベントが行われた。
芸人さんたちによるゴミ収集隊「ゴミ隊」のダンスのほか、木遣り(きやり)、お囃子さんたちによる演奏、芸人さんによる歌謡ショーなど、趣向をこらした楽しいパフォーマンスが行われた。

「ゴミ隊」ダンス ←「ゴミ隊」ダンス


最後は、「深川」や「かっぽれ」などおなじみの寄席の踊りが披露され、場内みんなで三本締めをしておひらき。

「ゴミ隊」ダンス


猛暑のなか、芸人さんたちが汗だくになりながらも一生懸命ファンサービスをしてくださって、とても楽しい一日だった。

第1回圓朝まつりの開催時には、芸人さんたちの間でも賛否両論あったようだが、実行委員の芸人さんの尽力は言うに及ばず、みなさんの団結により、年々盛り上がりを増している。
寄席の高座の合間をぬって一生懸命準備を進め、ファンを楽しませることを第一に考えていろいろな試みをしてくださる芸人さんたちに、心から敬意を表したい。

これからも、夏の恒例行事として、ファンを楽しませてください。


<本日のキモノ>

8月1日のコーディネートと同じ、竹の柄の綿絽に博多織八寸名古屋帯、ふくら雀の帯留。



上方落語会in横浜にぎわい座

2005年08月06日 | 落語
横浜にぎわい座で、上方落語の会が行われた。

出演者は、林家染左、桂文華、露の團六、露の五郎、笑福亭福笑、桂福團治の各師匠。
露の五郎師匠が久しぶりに関東の寄席に出演されるので、ぜひとも聴きたいと思い、はるばる横浜まで出かけたのだ。

露の五郎師匠は、上方落語の大看板。
芝居噺や怪談噺のほか、艶噺や滑稽噺まで、芸域の広い師匠である。
数年前まで、落語協会の客演として年に1回、上野の鈴本演芸場で10日間トリを務めていた。また、国立演芸場でも毎年8月に10日間トリを務め、怪談噺を演じていた。
いつもそれを楽しみにして必ず聴きに行っていたのだが、体調をくずされたのか、数年前からそれらがなくなってしまい、さびしく思っていた。
それが今回、関東で五郎師匠の高座が見られるというので、とても楽しみにしていたのだ。

五郎師匠は、芝居噺を得意としているだけあって、立ち姿や所作がとても決まっている。
舞台袖から出てくるとき、いつも立ち止まって客席に向かって礼をするのだが、その時の形もとても良いのだ。
師匠が出てきたとたん、客席からは大きな拍手とともに、「待ってました!」の声もかかっていた。
足をいためておられるようで、正座ができないため椅子に腰かけての高座だったが、それでもなお、所作がとてもきれいに決まっていた。
怪談噺「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」の「宗悦殺し」の場を熱演され、客席もじっと聴き入っていた。真夏の暑い日に、怪談噺で場内が涼しくなったように感じられた。

ほかの5人の師匠も、それぞれ熱演され、客席は大いに盛り上がった。
どの師匠の噺もとても楽しくて、時間があっという間に過ぎた感じだった。

現在、東京で演じられている噺のなかには、上方落語から出たものも多い。
また、逆に、東京の噺が上方落語に取り入れられたケースもある。
どちらも、元の噺をうまく生かしながら、それぞれの風土にあった噺に仕上げられている。
これからも、落語界の東西交流がますます盛んになって、互いの良いところを取り入れていってもらえるといいな、と思う。

落語に限らないことだが、東京ではどうの、上方ではどうのなどと言っている場合ではない。江戸の昔から、上方の流行が江戸に取り入れられて定着したり、またその逆もあったりしたのだから。どっちにしろ、「いいものはいい」のだ。


<余話>横浜中華街でのランチ

7月2日に横浜にぎわい座に行った時に立ち寄った「刀削麺」のお店に、再び行ってみた。
夏休みのせいか、店内はかなりにぎわっていた。
前回と同様、「フカヒレ姿煮入り刀削麺」を注文。

フカヒレ姿煮入り刀削麺

「刀削麺」はその名のとおり、まるで刀で削ったような太めの麺。それでいて、コシがある。
フカヒレ入り刀削麺のスープは、見た目はやや濃そうに見えるかもしれないが、実は「あっさり系」。魚介類のダシがきいていて、ほどよいコクがある。暑い日だったが、このスープが食欲をそそってくれた。
夏のメニューとして、「冷やし坦々刀削麺」というのもあった。

冷し坦々刀削麺



末廣亭7月上席

2005年07月03日 | 落語
新宿末廣亭へ行った。

「上席(かみせき)」とは、毎月1日~10日の興行のこと。
11日~20日を中席(なかせき)、21日~30日を下席(しもせき)という。
1月だけは、1日~10日を初席(はつせき)、11日~20日を二之席(にのせき)という。

7月上席の末廣亭は、落語芸術協会(芸協)による興行。

東京には、落語協会落語芸術協会という2つの団体があり、東京の落語家の多くはこのどちらかに属している。東京の寄席では、鈴本演芸場を除いて、落語協会と落語芸術協会の興行が10日間ずつ交互に行われる。
このほか、立川流(たてかわりゅう)や円楽党などがあるが、こちらは寄席の通常の興行には出ない。

芸協の興行を見たのは久々だが、見た後にとても充足感のある興行だった。
見ている途中も、不思議と飽きない。
芸協は、ベテランの落語家と若手の落語家がほどよい配分で出演するうえ、かけられるネタもバラエティーに富んでいるからかもしれない。

落語協会の興行だと、見ている途中でちょっと飽きてしまうことがある。
若手や中堅の落語家ばかりで大ベテランの落語家が出ていなかったり、噺に個性が感じられなかったり……。それなりにうまく、きれいにまとまっているのだろうけれど、客席で聴いていると「噺を追ってるだけ」にしか聞こえないときも……。
(落語協会の噺家さん、もしもこれを読んでいたらゴメンナサイ……)
ベテランと若手、新作の人と古典の人、いろんな一門の人を、もっとバランスよく編成してくれるといいのになあ……。

芸協の興行だと、ベテランも若手も、噺に個性が出ている感じがして、不思議と飽きない。
寄席でよくかかる噺をしていても、「聞き飽きた噺」という感じがしないのだ。
そんなにうまくない人でも、不思議と飽きなかったりする(うまくない人だと、聴いててツライときももちろんあるけれど……)。

寄席へ行くとたいてい、途中で1、2度はウツラウツラしてしまう私なのだが、今日の芸協の興行は、まったくそんなことがなかった。
お客さんもよく笑っていたし、とても楽しい雰囲気であっというまに時間が過ぎた感じだった。
正直言って、「行こうかな~、やめとこうかな~」とちょっと迷いながら末廣亭へ行ったのだが、出るときには「来てヨカッタ」と思った。

そういえば、私が「寄席っておもしろいな」と思って足しげく寄席に通いはじめた時期は、ほとんど芸協の興行を見ていた気がする。その当時は、落語協会・落語芸術協会の区別など意識していなかったけれど。

芸協も、ここ数年で桂文治、桂枝助、春風亭柳昇、春風亭柳橋といった大ベテランが次々と鬼籍に入ってしまったうえ、体調不良で寄席に出ていない人もいるので、どうなることやら……と心配していたのだが、今日の興行を見てちょっと安心した。
あとは、若手の人をもっとうまく登用して、後進の育成に力を入れてくれるといいなあ……。
ビバ、芸協!

ちなみに、今回の興行のトリは、上方落語の笑福亭鶴光師匠。
「紀州」という噺を、上方風ににぎやかに演じていて、面白かった。

ところで、「鶴光」は「つるこう」とは読まないということを、ご存じですか?
正しくは、「つるこ」と読みます。アクセントは「る」の部分につきます。
先日、「トリビアの泉」という番組で、このことがトリビアとして紹介されていて、「60へえ」くらいついていました。
これで6000円ももらえるなら、早くに自分が送っておけばよかったと、ちょっと悔しい……。
関西では常識だと思っていたのだけれど、今の若い人は意外と知らないのかな!?

ちなみに鶴瓶師匠も「つるべい」ではなく「つるべ」。


<本日のキモノ>
6月26日のコーディネートと同じ、麻の葉模様の綿麻の浴衣+半衿、襦袢に、博多織の献上八寸名古屋帯。
今回は、忘れずに金平糖の根付のアップを撮影。

金平糖の根付



三遊亭円丈独演会in横浜にぎわい座

2005年07月02日 | 落語
三遊亭円丈(さんゆうてい えんじょう)師匠の独演会を聴きに、横浜にぎわい座へ行った。
七夕が近かったため、横浜にぎわい座のロビーには大きな七夕飾りがあった(冒頭写真)。

円丈師匠は、故・三遊亭圓生師匠の弟子なのだが、新作落語を専門としており、数えきれないほどの新作落語を作っておられる。
上方落語の桂三枝師匠は、円丈師匠の落語を聴いて、創作落語の道を歩んだのだという。
円丈師匠は、現代の落語界における「新作落語の金字塔」といっても過言ではないだろう。

今回の独演会では、「往年の名作復活」として、「ぺたりこん」「グリコ少年」の2作が演じられた。

「ぺたりこん」は、今から30年も前に作られたという作品。
ある会社に、要領が悪く仕事も身を入れてやらないため上司から疎まれている、一人の中年サラリーマンがいる。
ある日、彼の手が、なぜか会社の机に貼り付いて離れなくなってしまう。
兼ねてから彼のことで頭を悩ませていた課長は、部長の指示のもと、あの手この手で彼をリストラしようとする。
しかし、まだ小学校・中学校に通う子どもを2人抱えている彼は、会社を辞めるわけにはいかない。
社員としてではなく「備品」としてなら会社に残すことができる、備品リース料としてこれまでの給料と同じ額は支払うと言われた彼は、家族のために自ら会社の「備品」となることを決意する。
あくまでも「備品」だし、手は机に付いたままなので、家にはもう帰れない。
家族に最後の電話をかけた後、日に日に衰弱していった彼は、ついに机に手を付けたまま死んでしまう。
事が外部にもれることを恐れた会社は、遺族に億近い慰謝料を払うことになる。
そして、部長の指示で彼をリストラしようとした課長も、あれこれと理由をつけられて解雇されてしまう。

「自己実現」よりも「家族のため」に地道に日々の仕事を続けるサラリーマンの姿や、中間管理職の悲哀などが、よく描かれている。
今の時代に合うように所々に手を加えたとはいえ、このような作品を今から30年も前に生み出していたとは、円丈師匠の先見の明に、あらためて敬服してしまう。

「グリコ少年」は、戦後まもないころの、食べ物がなかった時代から、高度経済成長期を経て現代に至るまでの食生活や世相の変遷を、自身の成長の軌跡、駄菓子の歴史を通じて振り返る作品。
甘いものが少なかったころ、「グリコ」に支えられながら少年時代を送った師匠の、グリコに対する思いが、よく伝わってくる。
それとともに、この飽食の時代に、あらためて何かを考え直させてくれる。
昔の「グリコ」は、暑くなると表面がベタついてしまっていたのだが、今の「グリコ」は、暑くてもベタつかないようになっているのだという。
次々と発売される新製品に押され、店頭でなかなか見られなくなってしまった「グリコ」だが、それでもなお「グリコ」は、改良の努力をたゆまず続けてきたのだ。
それは、利益追求だけに流されない、製造業としてのプライドだったのであろう。
目先の利益を追い求めて企業買収を繰り返したり、粗製乱造をする昨今の企業は、見習うべき点が多々あるのではないだろうか。

「グリコ少年」の噺の最後に、円丈師匠が数々のコンビニを歩き回ってやっと入手したという「ミルキー」と「グリコ」を、客席にまいてくれた。
前のほうの席に座っていた私は、ちょうど自分のところに降ってきた「ミルキー」をゲット。

三遊亭圓丈師匠独演会でまかれたミルキー

「ミルキー」も、歯にくっつかないように改良されているのだという。
いただいた「ミルキー」を帰りの電車の中で食べてみたら、ナルホドたしかに歯にくっつかない。
「グリコ少年」を聴いた後で食べる「ミルキー」は、食べ物のありがたみを感じて、何となくあたたかい気持ちになる味だった。


<本日のキモノ>
朝顔柄の綿紅梅に博多織の紗献上八寸名古屋帯

博多織の紗献上八寸名古屋帯(前) 博多織の紗献上八寸名古屋帯(後ろ)

濃紺地に朝顔柄の綿紅梅(めんこうばい)の浴衣に、博多織の紗献上の八寸名古屋帯。
綿紅梅は透ける生地なので、半衿、襦袢をつけてキモノ風にした。
※半衿をつけずに浴衣として着る場合も、浴衣用の下着が必要。

横浜にぎわい座で、「素敵ですね~」と声をかけてくださった方がいた。
その方も時々着物をお召しになるようで、参考にしたいからと、綿紅梅のことなどを質問してくださった。「こういう着こなしを目指します!」と言ってくださったのは、身に余る光栄……。
着物を着ているときにじろじろ見られたり、あれこれと声をかけられたりするのが好きでないという方も多いようだけれど、やっぱりこうやって声をかけていただけるのは、私はうれしい。どうせ着るのだったら、人から見られる着こなしをするほうが張り合いがあるというもの(「白い目で見られる」着こなしは論外だけれど……)。

綿紅梅は当然洗えるので、お昼ごはんは遠慮なく麺類を食べた。
正絹の帯だけを手ぬぐいでガードし、あとはそのまま。
中華街で「フカヒレ入り刀削麺(トウショウメン)」というのを食べたのだが、なかなかおいしかった。次に中華街に行く機会があったら、また食べてみようっと。



上方寄席囃子の会in横浜にぎわい座

2005年06月04日 | 落語
大阪の噺家・桂文我さんによる「上方寄席囃子の会」を聴きに、横浜にぎわい座 へ行った。

横浜にぎわい座は、桜木町駅からほど近い、野毛(のげ)にある。近くには横浜能楽堂もある。
その昔、横浜には、寄席や芝居小屋が数多くあったらしい。
そういった雰囲気を復活させようと、玉置宏さんを館長として数年前にオープンしたのだ。
落語の定席(じょうせき)のほか、独演会などの落語会、浪曲の会や大道芸など、公演の内容は多岐にわたる。

今回行われた「上方寄席囃子の会」は、桂文我さんの「上方寄席囃子大全集」刊行を記念したもの。

東京の寄席でも、噺家さんが出てくるときに「出囃子」が演奏されるが、これはもともと上方のものであった。
さらに、上方落語には「はめもの」といって、噺のなかにお囃子が入ることが多い。歌舞伎の下座音楽と同じで、一種の演出効果である。
それだけ、上方落語と寄席囃子は縁が深いのだ。
そもそも上方落語の発祥は、路上で人に話を聞かせる、いわば大道芸のようなものであったと言われる。
往来を行き交う人を引き付けるために、にぎやかなお囃子が必要だったのであろう。

今回の会は、「はめもの」入りの上方落語と、寄席囃子の解説・実演から成る構成であった。
「はめもの」に乗って芝居や踊りの一場面、大道芸の口上などが織りまぜられる、楽しくも格調ある上方落語はもちろん、客席からはふだん見ることのできないお囃子の様子が見られたことも楽しかった。
およそ2時間半の充実した公演は、あっという間に過ぎた。


にぎわい座を出た後、せっかく横浜へ来たので中華街で夕食をとることに。
「楊州茶楼」で、青島ビールを飲みながら、海の幸や季節の野菜を生かした料理を楽しんだ。
この店の料理は、普通に比べると小さいお皿に盛られており、そのぶん一品の値段も安い。少人数でいろいろな料理を食べたいときにはちょうどよい感じだ。

店を出た後まだ時間もあったので、中華街のなかの洋服屋さんをのぞいてみた。
チャイナドレスとアオザイの専門店を見てみると、なんと「浴衣アオザイ」なるものが売られていた。文字どおり、浴衣の生地で作ったアオザイである。
しかも白生地から染めさせているそうで、絵羽(一枚の絵のように柄が一続きになっている状態)になっているものもあった。
綿紅梅(めんこうばい。格子状に織られた、少し透け感のある木綿の生地)のものもある。

黒の綿紅梅生地で、裾の部分にぐるりと菖蒲が描かれているものが、とても華やかで目を引いたのだが、店員さんに促されて試着してみると、背の高くない私には残念ながらちょっと重い感じがした。
以前同じ店を訪れた際に見つけて「いいなあ」と思っていた、生成地に藍染めで小花の柄を描いたアオザイがあったのだが、そちらのほうが自分には合うような気がした。
しかし店員さんは、浴衣地アオザイのほうを熱心に勧めてくる。そっちのほうが値段が高かったからかもしれない……。
やたらとなれなれしく押しの強い店員のおばさまにやや辟易していた私は、「今年はこれを着て花火大会に行ってよ~」という店員さんに向かって、ついに一言。
「あー、浴衣は5、6枚あるんですよねー、下に襦袢着てキモノっぽく着られるのも含めて」

その瞬間から微妙に大人しくなった店員さんを尻目に、当初の目的であった「生成地に藍の小花柄のアオザイ」のほうを頑なに選んだのであった。

もちろん、「浴衣アオザイ」が気に入らなかったわけではない。
試着したものも、柄がとても気に入っていたのだが、着てみると自分にはちょっと似合わないかなあと思ったのだ。私にもう少し背があったら、迷わず買っていたかも。
すらりと背の高い方が、あの菖蒲柄の浴衣アオザイをかっこよく着てあげてくれるといいなあ、と思う。
目移りするくらいいろいろな柄があったので、そのなかにはたぶん私くらいの背丈の人にも着こなせるものがたくさんあると思う。
そのお店では、浴衣アオザイのみならず、なんと着物の生地を使ったアオザイも作っているそうだ。



心眼

2005年05月14日 | 落語
新宿末廣亭へ行った。
昼の部のトリは、私の好きな三遊亭圓彌師匠。

圓彌師匠の本日のネタは、「心眼」。
私の大好きな噺の一つである。

目の不自由な方が登場する噺で、いわゆる「放送禁止用語」も出てくるため、現在のテレビやラジオではほぼ流されることがない。寄席でしか聴けない噺といっても過言ではないだろう。

按摩(あんま)の梅喜(ばいき)は、気立てのやさしい妻おたけと、仲むつまじく暮らしている。
ある日、仕事に出ていた梅喜が意気消沈した様子で家へ帰って来る。一生懸命流して歩いたがなかなか療治の注文がなく、生活費にも困ってきたので弟のところへ借金の相談に行くと、こともあろうに実の弟から暴言を浴びせられたのだという。
おたけがなだめようとするが、自分が親代わりになって育てた弟にひどい仕打ちを受けたと悔しがる梅喜は、「眼病にご利益のある茅場町の薬師さまに明日からおまいりに行き、目が見えるようになって弟を見返す」と言って、気をたかぶらせたまま床につく。

翌日から毎日、薬師さまにおまいりし、いよいよ満願の日。
必死の願いが通じたのか、梅喜の目は見えるようになる。
そこへ通りかかったのが、梅喜の得意客、上総屋。
上総屋は梅喜の目が見えるようになったことを喜び、「目が見えるようになって却って勝手がわからず不安なので、自分の家まで案内してください」という梅喜を連れて歩き出す。

道中、人力車に乗った美しい女性が二人の前を通り過ぎる。東京で屈指の売れっ妓芸者なのだという。
家に帰って愛妻おたけの顔を見るのを楽しみにしている梅喜は、上総屋に、その芸者とおたけとどちらが美しいか尋ねる。
すると上総屋は、「あの芸者は東京でも指折りの“イイ女”だ。おたけさんはあいにく不器量だが、気立ては東京一どころか日本一だ」と答える。と同時に、不器量なおたけに対して梅喜は男前で、芸者の小春が好意を寄せているようだと教える。

浅草の仲見世を歩いているうちに上総屋とはぐれてしまった梅喜のところへ、小春がやってくる。
梅喜の目が見えるようになったことを喜ぶ小春は、梅喜を連れて近くの待合料亭へ入る。
そこで、梅喜に対する自分の想いを告げる小春。「でも、おたけさんというよくできたおかみさんがいるのだから、私がどんなに想いを寄せても無理でしょうね」

すると梅喜は、あろうことか、不器量なおたけなど追い出して小春と夫婦になると言うのだ。
陰でそれを聞いていたおたけが、怒って梅喜の胸ぐらをつかみ、首を絞めようとする。必死になって抵抗する梅喜……。

そこへ「梅喜さん、おまえさん、ちょいと、大丈夫かい」というおたけの声がして、梅喜は目を覚ます。
「今日から茅場町のお薬師さまへおまいりに行くんでしょう」というおたけに、梅喜は静かに答える。
「いや、俺ぁもう、おまいりに行くのはよすよ」
理由を尋ねるおたけに向かって、梅喜は答える。
「寝ているときのほうが、よぉく物が見える」


私は、この噺を聴くといつも、ある紅葉の名所を訪れた際に見かけた盲人のことを思い出す。
紅葉を見に来た人々の喧噪のなかで、その人は静かにたたずんでいた。
失礼ながら、一瞬、目がご不自由なのになぜ? と思った。
しかし次の瞬間、その方の表情を見て、私は自分の考えが浅薄だったことを恥じた。
その人は、とてもおだやかな、そして満足そうな表情で、紅葉に向かって顔を上げていたのだ。まるで、美しい紅葉がくっきりと見えているかのように。
私はそれを見て、「ああ、この人は、心の眼でしっかりと紅葉を見ているのだな。この人の心の眼には、色鮮やかに紅葉が映っているのだな」と思った。

それに対して、自分の目で紅葉が見えているのにもかかわらずカメラのフレームを通してしか見ようとしない人々や、紅葉はそっちのけで騒いでいる人々のことが、とてもかわいそうに思えた。
そんな人たちよりも、この盲人のほうが、よほどよく「見えて」いたのだ。


適切でない言葉を使用することへのご批判は甘受したうえであえて述べさせていただくが、「あきめくら」という言葉がある。
これは、「目が見えているのに、物事の本質がまったく見えていない人」という意味の言葉だ。

夢のなかで目が見えるようになった梅喜は、見えるようになった代わりに、大切なものを見失う。
最後の梅喜の台詞が、この言葉の本質をよく表していると思う。「『見えていても見えていない』人がいる、『見えていなくても見えている』人がいる」ということを。


この「心眼」という素晴らしい噺が高座でかけられるとき、悲しいかな、近年のお客さんのなかには苦情を申し立てる人もいるのだという。
この噺の本質がきちんととらえられていれば、これを障害者差別の噺などとは決して思わないはずだ。
その証拠に、かつて、目の不自由な方がこの噺を聴いてとても感動され、足しげく寄席に通ったことがあるのだという。

さらに言えば、落語のなかには、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々が登場する噺が数多くあるが、その根底には、そういった人々へのあたたかいまなざしがあるのだ。

落語を聴いて苦情を申し立てるような人がもしもいるのだとしたら、その方たちに申し上げたい。
表面上の事象にとらわれて本質を見誤り、「あきめくら」になるようなことがあってはいけない。

そしてそれは、先日来の列車脱線事故の報道などに見られるような、根幹からそれた事象をあげつらって偽善的な追及を続けるマスコミや、そのマスコミの論理に影響されて無責任に傾いていく世論に対しても、言えることであろう。



浅草演芸ホール

2005年05月05日 | 落語
3連休最終日。

午後から浅草演芸ホールへ出かけた。

昼の部がハネる(終わる)少し前に着いたら、場内は立ち見が大勢出ていて、人があふれんばかりだった。休日の昼間で、しかも昼の部のトリが林家木久蔵師匠なので、無理もない。

立ち見の集団のいちばん後ろで、前の人々の頭のすきまから高座を見ようと試みたが、無駄な抵抗だったので、あきらめて耳だけ傾けた。
まあ、落語も漫才も「聴くもの」だし、おもしろい落語や漫才なら耳だけでも十分楽しめるのでよい。

私が着いたとき、高座には、あした順子・ひろし師匠という、東京の漫才の大御所が上がっていた。
このお二人の漫才は、同じネタを何度聴いても笑えるのだ。これは本当にすごいことだと思う。やはり貫禄なのだろうか。あるいは、ご本人たちが漫才を楽しんでおられるから、観ているほうも楽しくなってくるのだろうか。どちらにしても、頭が下がる。
同じく東京の漫才の大ベテランで、昭和のいる・こいる師匠がおられるが、このお二人も同様である。

漫才ブーム以降、漫才=大阪というイメージが定着してしまった感があるが、東京の漫才もまだまだ捨てたものではない。
吉本のお笑い学校出身のタレントコンビが増え、しっかりした「しゃべくり漫才」のコンビが少なくなってしまった大阪の漫才界にも、正統派の漫才をしっかり受け継いでくれる若手コンビが少しでも多く登場してくれることを願ってやまない。

木久蔵師匠の噺も、いつものことながらとても楽しかった。
木久蔵師匠の師匠である故・林家彦六師匠のことを、おもしろおかしく語る「彦六伝」というネタの一部をやっておられたのだが、おもしろおかしいなかにも亡き師匠に対する愛情が感じられて、何となくほのぼのする。

昼の部が終わると帰る人も多かったので、夜の部は座って聴くことができた。
翌日が平日になる日の夜の部は、どうしてもお客さんが少なくなる傾向にあるようだ。

夜の部のトリの柳家小三治師匠は、前日に引き続き「天災」。


<本日のキモノ>

無地の結城紬に変わり縞の博多織八寸名古屋帯

無地の結城紬(といっても、インターネットショッピングのバーゲンで購入した安い物だが……)がしみぬきから戻ってきたので、さっそく着用。
しみぬきから戻ってきたら、心なしか生地がやわらかくなっていた。いかにも「おろしたて」というパリパリの状態の紬だとあまり見栄えがよくないので、「ケガの功名」だったかも。
帯は、博多織の変わり縞模様の八寸名古屋帯。


桂文朝師匠死去

2005年04月19日 | 落語
ショックだ……。

桂文朝師匠が、逝去されてしまった。

文朝師匠は、わずか10歳で二代目桂小南(当時・山遊亭金太郎)師匠に弟子入りした、芸歴50年の大ベテランであった。

マスコミに露出することはあまりなかったので、ご存じでない方も多いかもしれないが、東京の寄席では、なくてはならない存在だった。寄席で、文朝師匠の姿を見ない日はなかったと言っても過言ではないだろう。

正統派の古典落語をやり、しかもうまい。
トリで聴いてももちろんいいのだが、間にはさまった時や、仲入り(ここでは、休憩時間の前の出番のこと)の時に聴くのが、私はとても好きだった。
とにかく、どんな出番の時でも、寄席の流れをくずさず、噺を自在に操り、しかも客を惹き付けるのだ。
軽い噺をしていても存在感があり、絶妙の語り口で客を惹き付けることのできる、たぐいまれな噺家さんだったと思う。

以前にも少し書いたが、現在の寄席で、このように「間にはさまったところできっちりとやれる」人は、意外に少ない。
「きっちりとやる」というのは、ただ丁寧にやるとか気合いを入れてやるとか、そういうことではない。
「悪目立ちせず、しかし客を退屈させず、存在感がある、しかもおもしろい(または心地よい)」ということだ。
こういう人がいるからこそ、寄席が「締まる」のだ。
歌舞伎が主役だけでは成り立たないのと同様、寄席も、決して「トリ」だけで成り立つものではない。

中堅や若手と呼ばれる噺家さんのなかにも、きちんと古典落語をやる人は大勢いるが、この域まで達している人は残念ながら少ないと思う。

私にとって、「トリで聴きたい噺家」は結構いるけれど、「間にはさまったところや仲入りのところで聴きたい噺家」は、数えるほどしかいない。
その貴重な一人がいなくなってしまったことは、落語界にとって大きな損失だと思う。

中堅や若手の噺家さんのなかから、この後を継げるような人材が早く出て来てくれることを、祈るばかりである。