本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

風に立つ仲三郎

2005年05月29日 | 伝統文化あれこれ
新橋演舞場で、人間国宝・新内仲三郎さんの公演「風に立つ仲三郎」が行われた。

「新内(しんない)」とは、「浄瑠璃(じょうるり)」の一種。
「浄瑠璃」は、三味線に合わせ、節をつけて物語を語っていくもの。
義太夫(ぎだゆう)、清元(きよもと)、常磐津(ときわづ)、新内など、その節回しに応じて様々な種類にわかれている。

義太夫は、大阪で生まれ、伝えられてきた浄瑠璃。
それに対して新内は、江戸独自の浄瑠璃であった。

新内の最大の特徴は、その哀切に満ちた曲調である。
三味線も、ほかの多くの浄瑠璃とは異なり、撥(ばち)を皮に当てないようにそっと弾く感じだ。
かつては、遊郭や町の中を流して歩く「新内流し」というものもあり、江戸の人々の間に広く浸透していた。
「新内流し」の男性の出で立ちは、着流しで頭に手ぬぐいをかぶっている。
現代では本物の「新内流し」は残念ながらなくなってしまっているようだが、新内の会などでは、これを模した演奏がよく行われる。
「新内流し」の三味線の曲調も、哀切極まる、何とも言えない風情を持っている。
まさに「江戸の粋」といった感じだ。


今回の公演では、新内の名曲「蘭蝶(らんちょう)」のほかに、新内仲三郎さん作曲の「新内傾城道成寺(しんないけいせいどうじょうじ)」、新内剛志さん作曲の「寿猫(ことぶきねこ)」という2曲の新作が演奏された。
「新内傾城道成寺」を舞うのは、新派の女形・英太郎(はなぶさたろう)さん。
「寿猫」を舞うのは、女優であり日本舞踊深水流家元でもある朝丘雪路さんだった。振り付けも、深水美智雪こと朝丘雪路さん自身によるもの。

最後に、富山県八尾(やつお)に伝わる「おわら風の盆」と、「新内流し」との競演。
はじめに「新内流し」、次に「おわら風の盆」と別々に演奏された後、最後は、「新内流し」の曲調と「おわら風の盆」の曲調を見事に融合させた演奏が行われるのだ。特に、「おわら風の盆」で用いられる胡弓が、「新内流し」にぴったりと合った節を奏でていた。

「おわら風の盆」と「新内流し」の静かな調べで、しばし現実を忘れたひとときであった。


新内の三味線のなかに、「鶴賀寿美之助」さんという人がいたのだが、3階席から見て「誰かに似てるなあ……」と思っていたら、何と、粋曲として寄席にも出ている柳家紫文(やなぎや・しもん)さんであった。
人間国宝の会に出演するなんて、「2つ名のある悪党」ならぬ「2つ名のある名人」といったところである。


<本日のキモノ>

前日と違って涼しく過ごしやすかったので、袷にした。
無地の結城に、5月22日(「三社祭」の記事を参照)と同じ博多織の八寸名古屋帯をお太鼓に結んだ。

ワンポイント八掛
無地の結城紬の八掛(裾回し)。
表地と同系色でほんの少し濃い色。紬地。ワンポイントの絵が入っている。
歩くと、裾からこのワンポイントがちらちらと見えるので、着ていて楽しい。
この結城紬のおかげで、今春はキモノ生活をいっそう楽しめた。

袷の着物とは、この後10月までしばしのお別れ。
いよいよ本格的な単、薄物(夏物)のシーズン到来。今から夏が楽しみである。
今年の盛夏も、小千谷縮(おぢやちぢみ)や綿絽(めんろ)で、カジュアルな外出を快適に楽しみたい。



東をどり

2005年05月28日 | 伝統文化あれこれ
「東(あずま)をどり」は、東京・新橋の芸者さんたちによる踊りの公演。
いわば「『都をどり』の東京版」といったところ。
今年で81回目を数える、歴史ある会だ。

私はここ数年、毎年この「東をどり」を観に行っている。
花柳流、尾上流、西川流の3つの流派に分かれ、それぞれ趣向をこらした踊りが披露される。
1)おめでたいご祝儀舞、2)新作もの、3)短い踊りが吹き寄せになっているもの、の3つで構成されることが多い。最後に、黒紋付の「出の衣装」(お正月などに着る正装)の芸者さんが勢ぞろいした華々しい「フィナーレ」がある。

新橋の芸者さんは、人数も多く層が厚いようで、当然のことながら芸達者が多い。
踊りはもちろんのこと、長唄、清元、常盤津などの演奏もすべて芸者さんたちがやっている。
目でも耳でも楽しめるといった感じだ。

歌舞伎役者や舞踊家の踊りを見るのももちろん良いのだが、芸者さんの踊りは独特の華やかさがあって、見ていてなんとなく心が弾んでくる。
きれいなものを見て素直にうれしくなる気持ちは、やはり男女を問わないのだろう。
単に容姿の問題ではなくて、やはり華があるというか、全体からにじみでる雰囲気や身のこなしがとても美しい。

目の保養ができて、幸せな気分で会場を後にした。
夕食にうなぎを食べたくなり、そのまま銀座線に乗って上野へ。
この日は、上野公園内にある五條天神の祭礼だった。
お神酒所には祭壇も飾られており、祭り囃子も奏でられていた。
お囃子を演奏する人たちのなかに、何と噺家さんもいた。下町のお祭りならではの雰囲気だ。

五條天神祭の提灯
上野のうなぎ店「かめや」軒先の五條天神祭礼提灯

元黒門町会お神酒所に飾られた祭壇
元黒門町会のお神酒所に飾られた祭壇

<本日のキモノ>

単の紋御召に博多織の八寸名古屋帯 単の紋御召に博多織の八寸名古屋帯(アップ)

蒸し暑かったので、単の着物にした。着物は紋御召。
「御召」は、先染めの織物だが、紬よりも改まった雰囲気で着られる。地紋が浮き立つように織られたのが「紋御召」。遠目に見ると、地紋の入った染めの色無地のように見える。
染めの着物に比べると張りがあるので、単には最適。
この着物は、ずいぶん前にネットオークションで反物をゲットし、某デパートで仕立てをしてもらったので、かなりお値打ちだった。

帯は、博多織の八寸名古屋帯。
単の帯として締められるので、これからの時期は重宝。
通常、胴に巻く部分は名古屋帯のように2つ折りにして縫うのだが、これは2つ折りにせず、そのままの幅にしてもらっている。
そうすると、帯幅を少し広めにとって締められるので、便利なのだ。九寸の名古屋帯と同じように締められる。

「東をどり」の会場には、着物の方もたくさんいた。
花柳界に縁のある方も多いせいか、歌舞伎座よりもさらに「着物通」がそろっている感じなので、ここに行くときはそれなりにきちんと見えるものを着ていくようにしている。
蒸し暑い日だったのでほとんどの人が単を着ていたが、袷の人も少し見かけた。
単の着物を着ている人の帯を見てみると、塩瀬の染め帯(礼装や盛装でなければ、夏以外はいつでも締められるので便利)、博多織の帯(献上柄なら礼装や盛装のとき以外は通年使えるのでたいへん便利)、単の帯、袷の名古屋帯(ただし、色は淡いもの)など様々だった。



三社祭

2005年05月22日 | 東京下町
5月22日の日曜日、浅草の三社祭へ行った。

三社祭は、浅草寺の隣にある浅草神社の祭礼。
毎年この時期に、金・土・日の3日間で行われる。
1日目は、木遣りや芸者衆も加わってのパレード、2日目は氏子各町内の神輿渡御が行われる。
そして3日目は、三社祭のメインイベント、「宮出し」と「宮入り」が行われる。早朝、浅草神社から3基の神輿(一之宮、二之宮、三之宮)が出され、各町内を回った後、日没とともに浅草神社へ戻るのだ。氏子各町内の人々が競い合うようにして神輿を担ぐ様子は、とても迫力がある。


もう一つ、この三社祭の名物がある。
それは、浅草の芸者さんたちによる「くみ踊り」。
「やなぎ」「さくら」「藤」の3つの組に分かれた芸者さんたちが、組ごとに踊りを披露し、お座敷を回るのである。
お座敷を回る合間をぬって、浅草見番の2階で「くみ踊り観賞の集い」が行われたので、観に行った。事前予約定員制で、お弁当も付いている。これだと、料亭のお座敷で見るよりもかなりリーズナブル(もちろん、料亭のお座敷で見られればいいのだが、なかなかそうはいかない……)。

「くみ踊り観賞の集い」会場の提灯

芸者さんたちの踊りの合間に、幇間(ほうかん)衆の芸や踊りも披露された。「幇間」とは、いわゆる「太鼓持ち」のことで、宴席で芸や踊りをしてお客を楽しませる芸人である。昔はたくさんいたそうだが、今は、現役で幇間をやっているのは浅草の4人だけのようだ。

浅草の芸者さんには、芸達者な人が多い。
東京の花柳界のなかでも特に芸に秀でていたといわれる吉原の芸者さんがいなくなるとき、吉原の花柳界に伝わっていた芸を、浅草の花柳界に引き継いだのだという。

立方(踊る人)だけでなく、鳴り物担当の芸者さんやお囃子さんの息もぴったりだった。
芸者さんのなかで一人、とりわけ踊りの上手なお姐さんがいる。ベテランのお姐さんという感じで、男踊りも上手く、ビシッと決まっているのだ。いつも惚れ惚れしながら見ている。
芸者さんたちのきれいな姿と踊り、幇間衆の楽しい芸を見て、とても楽しいひとときを過ごせた。


「くみ踊り観賞の集い」が終わって外へ出ると、ちょうどその界隈を神輿(二之宮)が通るところだった。お神輿が近づいてくると、なんとなく気分が昂揚してくるから不思議である。
近くで見ると、担ぎ手の熱気もよく伝わってきて、とても迫力があった。

三社祭本社神輿の渡御


夕食をとって店を出ようとすると、雨が降っていた。
三社祭のときは、必ず一日は雨が降る、というジンクスがあるのだが、まさにその通りになってしまった。
着物を着ていたが、万一に備えて雨コートと折りたたみ傘を持っていたので、あわてず。
着付けの際の襟どめなどに使うクリップで、着物の裾を帯の上端に留めてから、雨コートを羽織る。
こうすれば、雨が激しいときでも裾を汚さなくてすむ。

そのあとお茶を飲んだりしているうちに宮入りの時間が近づいてきたので、雷門前へ。
すでにたくさんの人が集まっていた。
雨は小降りになっていたが、傘をさすとほかの人のじゃまになってしまうので、襟のところに手ぬぐいをかけて完全ガード。ちょうど、着物と同じような色でしかも三社祭の網の柄(下記<本日のキモノ>を参照)が描かれた手ぬぐいを持っていたので、それを使用。

まもなく、三之宮が雷門前に到着。
ここで担ぎ手が交替するのだが、雷門の町内には人が少ないためか、よその町から担ぎ手が手伝いに来ることも多いらしい。
それはいいことなのだが、困るのは、なかには「神輿の上に乗る人がいる」ことだ。
ほかの町内でも時々こういったことを見かけるのだが、そのたびに町内の長老から注意をされているようだ。

神輿は、読んで字のごとく、神様の乗り物である。神輿に神様が乗って、町内を練り歩き、氏子に神の恩恵を授けるのだ。神様が乗る大切な乗り物に人間が足を乗せるなど、あってはならないこと。
古い人たちはみんなその理屈を知っているから、決して神輿に乗ったりしないし、ほかの人が神輿に乗ることも認めていない。

しかし、大阪の「だんじり」や博多の「山笠」などの映像をテレビで見て影響される人がいるのか、神輿の上に乗って扇子で音頭をとっている人を、ここのところ毎年必ず見かけるようになった。

大阪の「だんじり」や博多の「山笠」で人が乗っているのは、「山車(だし)」である。
「山車」は神輿とは違って人間が乗るもの。だから、ああして山車の上に乗り、勇壮に音頭をとっているのだ。
こうしたお祭りの場合にも、山車とは別に神輿が出されるケースが多いが、神輿は神事に用いるから絶対にそれには乗らない。
京都の祇園祭だって、人が乗る「山鉾」のほかに神輿も出されるが、神輿は厳かに担ぐだけで、それに乗るようなことは決してない。
そういったことを知らずに、テレビの映像だけ見てすぐに真似をしようとするのは、勘違いもはなはだしい。

今回も、勘違いして神輿に乗っている人を見て、ほかの町内の人が「神輿から降りろ!」と注意をしていたが、聞こえなかったのか聞かなかったのか、乗ったまま行ってしまった。
もしも三社祭で、神輿に乗っている人を見かけたら、ギャラリーもさりげなくその勘違いを正してあげてください。
「おい、あれ見てみろよ、神輿に乗っかってやんぜ。神輿に乗っかるなんざぁ、江戸っ子じゃあねぇな」と……(笑)。


<本日のキモノ>

博多変わり献上八寸名古屋帯を角出しに

毎度おなじみ(笑)無地の結城紬に、博多織の矢鱈縞(やたらじま)の献上八寸名古屋帯。
今回、この帯を使って、初めて「角出し」に挑戦してみた。
角出しは前から一度やってみたいと思っていたのだが、劇場などで椅子にきちんと背中をつけなければならない時にはやはりお太鼓が最適なので(歌舞伎座で、ごくまれに文庫結びをしている人を見かけるが、背もたれにしっかりと背をつけられないから、本人もつらいだろうし後ろの人にもおそらく迷惑……)、なかなか挑戦する機会がなかった。結び方は、帯の雰囲気とのかねあいも大切だし。

角出しは、時代劇で町娘やおかみさん、芸者などが広くやっている結び方だが、今はあまり見かけない。
昔は、帯締めは使わず帯揚げ(といっても普通の紐だが)だけで結んでいたのだが、今の帯では長さが足りないので、帯締めを使う。
帯枕を使わないので、背中はとても楽だった。結構はまりそうだ。夏になると博多帯を締める機会が圧倒的に多くなるので、ことあるごとにやってみようかなあ……。

根付も扇子も、「お祭りモード」に。
お神輿の根付に、三社祭の時期だけ浅草の文扇堂で作られる、網の模様の扇子。この網の模様は、浅草神社の由来(漁師が網にかかった小さな観音像を引き上げてそれを祀ったというもの)から三社祭のモチーフとして使われている。
こういった小物に凝るのもまた、キモノの楽しみ。

お神輿の根付 三社祭にゆかりのある網の柄の扇子



歌舞伎座五月大歌舞伎(夜の部)後編

2005年05月21日 | 歌舞伎
(前の記事から続く)

三幕目は、「野田版 研辰の討たれ(とぎたつのうたれ)」。
ご存じ野田秀樹氏の脚本・演出で、大正時代に初演された歌舞伎「研辰の討たれ」を、現代演劇の手法をとりいれながら新しい視点で書き直したものだ。
舞台美術にも現代演劇の手法が生かされていた。
歌舞伎の大道具というのは、室内の様子や風景を写実的・具象的に表現するものだが、この「野田版~」では、階段などシンプルな道具を効果的に用いた場面が随所に見られた。

芝居自体も、現代演劇風の軽いタッチと歌舞伎の伝統的な型が見事に融合されていた。

時は元禄、赤穂浪士討ち入りの直後。
世間では、赤穂浪士たちの仇討ち本懐に対する賞賛の嵐。
しかし、研屋(とぎや)から武士になった辰次は、町人独特の考えを持っており、仇討ちに代表されるような武士の生きざまに対して否定的である。
仇討ちなどしょせんただの人殺しにすぎない馬鹿げたものだし、武士のなかにだって潔く死んでいく者ばかりではない、と。
それを聞いて辰治の周囲の武士たちは怒り、辰治を責める。あげくの果てには家老・平井市郎左衛門から、剣術の稽古でこてんぱんにやられてしまう。

泰平の世のなかで問題意識もなく過ごし、そのくせ体面ばかり気にしている武士たちに対して、人間の本質をしっかりと見極める辰治は好対照である。

そういえば昔、好きでよく見ていたテレビ時代劇「三匹が斬る!」のなかでも、高橋英樹扮する浪人が、「仇討ちなど馬鹿げたことだ」と言い、藩政の批判もしていたっけ。
同じく好んで見ていた、柴田錬三郎原作の「御家人斬九郎」のなかでも、武家の出である深川芸者・蔦吉(若村麻由美)が、武士の世界を皮肉っていた。
「野田版 研辰の討たれ」の冒頭シーンを見ていて、この2つの作品を思い出した。

職人時代の仲間たちの協力で作った仕掛けを使って市郎左衛門を驚かせ、一泡ふかせてやろうとする辰治。しかし、仕掛けに驚いた拍子に市郎左衛門は、脳卒中を起こして死んでしまう。あれほど「武士は脳卒中では死なん!」と言っていた市郎左衛門なのに。

それにより辰治は、仇討ちの相手として、平井市郎左衛門の二人の息子から追われる身となってしまう。
仇の辰治を探して旅に出た平井兄弟だったが、年月が経つにつれ、仇討ちの意義が見いだせなくなってしまう。冒頭の場面での辰治の言葉が、ここでも生きてくるのだ。

仇討ちの手から逃れてあちらこちらを旅する辰治。
宿代を払わない辰治にしびれをきらした宿屋の番頭が、役人を呼んで来る。
役人に追及された辰治は、口から出まかせに「自分は仇討ちの本懐を遂げるために、仇を探して旅をしている」と言い、仇の名として平井兄弟を挙げる。
それを聞いた人々の態度は一転、辰治を賞賛して仇討ちに力を貸そうとする。

そこへやってきた、平井兄弟。
辰治の仇討ちの相手が見つかったと、人々は平井兄弟を捕えて辰治に討たせようとするが、辰治のほうは、たまったものではない。何せ、仇は自分のほうなのだから。
追いつ追われつしているうちに、仇は辰治のほうなのだとわかった人々は、一転、辰治を捕えて平井兄弟に討たせようとする。
あれほど辰治を賞賛していたのに、今度は、平井兄弟に向かって辰治を「殺せ」と言うのだ。
しかも彼らは、辰治のことが憎くてそう言っているのではない。単に「仇討ちを見たいから」なのだ。
物事の本質を見極めるだけの目を持ち合わせていない愚かな人間が束になったときのおそろしさを、よく表している。
この場面を見て、現代のマスコミや世論のことを思い浮かべたのは、私だけではないと思う。

結局最後に、辰治は平井兄弟に討たれてしまうのだが、辰治が最期まで「生きてぇ」と言って生に執着するところが、とても印象的である。
どんなに平凡な毎日でも、みんな明日のことを考えながら、明日があることを疑わずに生きている。「生きる」とはそういうことだ。死を前にしてもなお「生きたい」と思うのは、人間として恥ずかしいことでも何でもない。初めから「死にたい」と思って生きている人間など、どこにいるであろう。
そういった「人間の本当の姿」を隠して、武士たちのように死を美化しようとすると、ひずみが出てくるのだろう。

討たれる直前の辰治の台詞が印象的だ。
「咲いてすぐに散る桜の花もあれば、枯れるまで一生懸命枝に付いて、ついに力尽きて落ちていく紅葉もある。しかし、あっさりと散っていく桜より、一生懸命『生きてぇ、生きてぇ』ともがきながら落ちていく紅葉のほうが、ずっと多いはずだ」

「花は桜木、人は武士」というように、ここでの「桜」は武士を表している。それに対して「紅葉」は、辰治と同じような、世間の多くの人々のことだ。
「桜」よりも「紅葉」のほうがずっと多いのだ。もちろん武士のなかにも、「桜」よりも「紅葉」の道を選んだ者がいる。「御家人斬九郎」の蔦吉ではないが、武家の世界を捨てて町人になった者だってたくさんいるのだ。でもそれは決して、非難されるべきことではないと思う。
プライドを捨てきれずに水面下でもがき苦しんでいる武士より、地に足をつけてたくましく生きている町人のほうが、よほど素敵ではないか。

辰治を討って仇討ちの本懐を遂げた平井兄弟だが、本懐を遂げたにもかかわらず、えも言われぬ思いが後に残る。
平井兄弟の最後の台詞が、印象的だ。
「仇討ちの本懐を遂げたが、なぜか自分が『人殺し』になった気がしてならない。国許へ帰ったら『人殺し』と言われはしないだろうか」


歌舞伎の世界では、とかく「死」が美化されて描かれることが多い。
時代物では、武家の人間が「忠義」の名のもとに自分や自分の子どもの命を捨てたり。
世話物では、男女が心中をして愛を貫いたり。
でも、それって、人間として果たして正しいことなんだろうか。
少なくとも、現代ではそうは言えないはずだ。
いくら「忠義」のためとは言え、かわいいわが子やわが孫を殺すなど、それこそ「畜生にも劣る」ことになりはしまいか。

歌舞伎の古典作品にだって、もちろん良さがあるし、人間の本質もよく描き出されていると思う。だからこそ、時代を超えて受け継がれてきたのだ。
しかし、現代に生きる人間には、古典の世界だけでは本質を伝えきれない面があるのも事実だと思う。
完成された世界だけに甘んじていては、いつか後悔する時が来てしまうと思う。

そんな歌舞伎界に、この作品で野田秀樹氏と勘三郎丈が一石を投じてくれたのは確かだ。


<本日のキモノ>

無地の結城紬に織りの名古屋帯

夜の部だが、3階席なので動きやすいよう、紬にした。
ただし、帯は金糸の入っていない織りの名古屋帯にして、襲名披露興行の場に合うように。

ストラップを利用した房付きの根付

根付にしているのは……何をかくそう、某ペットボトル飲料のおまけでついていた、ストラップ。
小さなガラス玉と房がついていて、色もパステルピンクできれいだったので、根付として使うことにしたのだ。
名古屋帯のなかにピンクの柄も入っているので、ちょうどよかった。

扇子は、勘三郎襲名記念扇子。

十八代目中村勘三郎襲名記念扇子




歌舞伎座五月大歌舞伎(夜の部)前編

2005年05月21日 | 歌舞伎
十八代目中村勘三郎襲名披露興行、夜の部へ。

仕事で徹夜明けの身で、果たして無事に木挽町までたどりつけるかしら……と心配だったが、始発電車で帰って少し仮眠をとって、起きてからしっかり着物も着て出かけた。しかも、まだ開場される前に、余裕で到着。おまけに、芝居の最中も全然眠くならなかった。やればできるもんだなあ……(笑)。

今回は3階席での鑑賞。

一幕目は「義経千本桜 川連法眼館」。
忠信を菊五郎丈、静御前を菊之助さん、義経を海老蔵さん、川連法眼を左團次丈、法眼の妻を田之助丈。
「宙乗り」で有名な市川猿之助丈の澤潟屋(おもだかや)型が好きだという方も多いようだが、私は、音羽屋型のほうが好きである。

菊五郎丈の忠信は、後半の「狐忠信」(忠信に化け、親狐のなれの果てである「初音の鼓」を慕い、静御前の旅の道中を守ってきた狐)の「ケレン」(早がわりなどの派手な演技のこと)もさることながら、前半、本物の忠信を演じるときの貫禄が何とも言えず素晴らしい。
特に、見栄をきって最後にキメるところなどは、本当にいい形である。やはりカッコイイなあ……。
菊之助さんは、本当にきっちりと丁寧にやっているなあ、と思う。型や台詞の一つ一つを大切にしている感じだ。そこはかとない気品も漂う。次代を担う女形になってくれることだろうと期待している。
海老蔵さんは……最近、口跡の悪さがいささか気になる。あと、どんな役をやっても台詞が軽く聞こえてしまうのはなぜだろう。先日の芝居でも感じたけれど、今回もやはりそうだった。ちょっと残念だ。「新之助のころのほうがよかった」と言われないように、もうちょっとがんばってもらいたいなあ……。


二幕目は、玉三郎丈の「鷺娘(さぎむすめ)」。
何だかんだ言っても、やはりきれいだなあ……と思った。
玉三郎丈の「鷺娘」はこれまでにも観ているが、今回は、幕が降りた後も、鷺娘の世界がまだ場内に残っているような感じで、とても印象的だった。客席の拍手もしばらく鳴り止まなかった。

(次の記事に続く)

勘三郎襲名披露興行五月の祝い幕

今月の祝い幕。背景に描かれている柄は、「野田版 研辰の討たれ」での辰治の衣装をモチーフにしている。迷彩服のような柄で面白い。
「野田版 研辰の討たれ」の観劇記については、次項を参照。



関西弁AIBO

2005年05月17日 | つれづれ
ソニーの犬型ロボットAIBOに「関西弁版」が登場する。
AIBO本体に関西弁版の「カスタムデータ」をセットすると、AIBOが関西弁をしゃべるようになるらしい。

「お手」「おすわり」などと話しかけると、「なんや?」と言ったり、持ち上げると「落とさんといてや」と、ちょっとひねた物言いをしたりもするそうだ。

ここまではまあ許せるとして、納得いかないのは「もうかりまっか」。
こんなこと実際に言う関西人は、もはや皆無であろう。
しかも、どういう文脈で出てくるかというと、「はじめまして、もうかりまっか」である。
初対面のあいさつの後にいきなり「もうかりまっか」なんて、関西弁以前に人間としてありえないだろう。
推測するに、このAIBOは、関東の人が、関東人の考える関西弁や関西人のイメージで作り上げたのではないだろうか。

男性の言葉と女性の言葉と二つのパターンのAIBOが用意されているようだが、どちらも、正統派の関西弁(といっても、大阪と京都と神戸では言葉も違うけれど)が用いられているかは定かではない。

どうせなら、「古い大阪弁をしゃべるAIBO」とか「正調の京都弁をしゃべるAIBO」などがあればいいのになあ……。

文楽(人形浄瑠璃)の太夫、竹本住太夫さんのインタビューを聞いたことがあるが、彼のしゃべる大阪弁はまさに「古き良き大阪弁」という感じだった。今の若い人にはとても使えないような。
そして、「古き良き大阪弁」というのは、どっしりとした貫禄とそこはかとない品のあるものであり、決して初対面の人に「もうかりまっか」というようなものなどではない。

核家族化に拍車がかかる今、せめてAIBOにおじいちゃんおばあちゃんの代わりとなって古い言葉をしゃべってもらえば、子どもの語彙力の低下も防げるかもしれないのに。

そういえば、まだ祖母が生きていたころ、わが家では「往生した」という言葉が普通に使われていた。
「往生した」とは、関西以西の地域ではわりと広く使われていた言葉で、「大変だった」という意味だ。
「今朝、電車が止まってしもうて、往生したわぁ」などといった具合である。
関西では似たような意味の言葉で「難儀した」というのもある。

今、関西に行っても、こういった言葉を耳にすることがほとんどなくなってしまった。
「もうかりまっか」などより、ずっと響きのいい言葉だと思うのだが……。

もしも「古き良き関西弁をしゃべるAIBO」が実現したら、ぜひ全国各地の言葉でも作ってもらいたいなぁ。
「江戸弁のAIBO」というのも見てみたい。


心眼

2005年05月14日 | 落語
新宿末廣亭へ行った。
昼の部のトリは、私の好きな三遊亭圓彌師匠。

圓彌師匠の本日のネタは、「心眼」。
私の大好きな噺の一つである。

目の不自由な方が登場する噺で、いわゆる「放送禁止用語」も出てくるため、現在のテレビやラジオではほぼ流されることがない。寄席でしか聴けない噺といっても過言ではないだろう。

按摩(あんま)の梅喜(ばいき)は、気立てのやさしい妻おたけと、仲むつまじく暮らしている。
ある日、仕事に出ていた梅喜が意気消沈した様子で家へ帰って来る。一生懸命流して歩いたがなかなか療治の注文がなく、生活費にも困ってきたので弟のところへ借金の相談に行くと、こともあろうに実の弟から暴言を浴びせられたのだという。
おたけがなだめようとするが、自分が親代わりになって育てた弟にひどい仕打ちを受けたと悔しがる梅喜は、「眼病にご利益のある茅場町の薬師さまに明日からおまいりに行き、目が見えるようになって弟を見返す」と言って、気をたかぶらせたまま床につく。

翌日から毎日、薬師さまにおまいりし、いよいよ満願の日。
必死の願いが通じたのか、梅喜の目は見えるようになる。
そこへ通りかかったのが、梅喜の得意客、上総屋。
上総屋は梅喜の目が見えるようになったことを喜び、「目が見えるようになって却って勝手がわからず不安なので、自分の家まで案内してください」という梅喜を連れて歩き出す。

道中、人力車に乗った美しい女性が二人の前を通り過ぎる。東京で屈指の売れっ妓芸者なのだという。
家に帰って愛妻おたけの顔を見るのを楽しみにしている梅喜は、上総屋に、その芸者とおたけとどちらが美しいか尋ねる。
すると上総屋は、「あの芸者は東京でも指折りの“イイ女”だ。おたけさんはあいにく不器量だが、気立ては東京一どころか日本一だ」と答える。と同時に、不器量なおたけに対して梅喜は男前で、芸者の小春が好意を寄せているようだと教える。

浅草の仲見世を歩いているうちに上総屋とはぐれてしまった梅喜のところへ、小春がやってくる。
梅喜の目が見えるようになったことを喜ぶ小春は、梅喜を連れて近くの待合料亭へ入る。
そこで、梅喜に対する自分の想いを告げる小春。「でも、おたけさんというよくできたおかみさんがいるのだから、私がどんなに想いを寄せても無理でしょうね」

すると梅喜は、あろうことか、不器量なおたけなど追い出して小春と夫婦になると言うのだ。
陰でそれを聞いていたおたけが、怒って梅喜の胸ぐらをつかみ、首を絞めようとする。必死になって抵抗する梅喜……。

そこへ「梅喜さん、おまえさん、ちょいと、大丈夫かい」というおたけの声がして、梅喜は目を覚ます。
「今日から茅場町のお薬師さまへおまいりに行くんでしょう」というおたけに、梅喜は静かに答える。
「いや、俺ぁもう、おまいりに行くのはよすよ」
理由を尋ねるおたけに向かって、梅喜は答える。
「寝ているときのほうが、よぉく物が見える」


私は、この噺を聴くといつも、ある紅葉の名所を訪れた際に見かけた盲人のことを思い出す。
紅葉を見に来た人々の喧噪のなかで、その人は静かにたたずんでいた。
失礼ながら、一瞬、目がご不自由なのになぜ? と思った。
しかし次の瞬間、その方の表情を見て、私は自分の考えが浅薄だったことを恥じた。
その人は、とてもおだやかな、そして満足そうな表情で、紅葉に向かって顔を上げていたのだ。まるで、美しい紅葉がくっきりと見えているかのように。
私はそれを見て、「ああ、この人は、心の眼でしっかりと紅葉を見ているのだな。この人の心の眼には、色鮮やかに紅葉が映っているのだな」と思った。

それに対して、自分の目で紅葉が見えているのにもかかわらずカメラのフレームを通してしか見ようとしない人々や、紅葉はそっちのけで騒いでいる人々のことが、とてもかわいそうに思えた。
そんな人たちよりも、この盲人のほうが、よほどよく「見えて」いたのだ。


適切でない言葉を使用することへのご批判は甘受したうえであえて述べさせていただくが、「あきめくら」という言葉がある。
これは、「目が見えているのに、物事の本質がまったく見えていない人」という意味の言葉だ。

夢のなかで目が見えるようになった梅喜は、見えるようになった代わりに、大切なものを見失う。
最後の梅喜の台詞が、この言葉の本質をよく表していると思う。「『見えていても見えていない』人がいる、『見えていなくても見えている』人がいる」ということを。


この「心眼」という素晴らしい噺が高座でかけられるとき、悲しいかな、近年のお客さんのなかには苦情を申し立てる人もいるのだという。
この噺の本質がきちんととらえられていれば、これを障害者差別の噺などとは決して思わないはずだ。
その証拠に、かつて、目の不自由な方がこの噺を聴いてとても感動され、足しげく寄席に通ったことがあるのだという。

さらに言えば、落語のなかには、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々が登場する噺が数多くあるが、その根底には、そういった人々へのあたたかいまなざしがあるのだ。

落語を聴いて苦情を申し立てるような人がもしもいるのだとしたら、その方たちに申し上げたい。
表面上の事象にとらわれて本質を見誤り、「あきめくら」になるようなことがあってはいけない。

そしてそれは、先日来の列車脱線事故の報道などに見られるような、根幹からそれた事象をあげつらって偽善的な追及を続けるマスコミや、そのマスコミの論理に影響されて無責任に傾いていく世論に対しても、言えることであろう。



歌舞伎座五月大歌舞伎(昼の部)

2005年05月08日 | 歌舞伎
先月に引き続き、十八代目中村勘三郎襲名披露興行。

今月は、いわゆる「襲名披露口上」はないのだが、その代わりに「弥栄芝居賑(いやさかえしばいのにぎわい)」という芝居が上演された。「芝居仕立ての口上」といった趣の演目である。

江戸・猿若町の中村座の前に、芝居茶屋の女将に扮した雀右衛門さん、芝居茶屋のあるじに扮した富十郎さん、町名主の女房に扮した芝翫さん、中村座の座元に扮した勘三郎さん、若太夫に扮した勘太郎さん、七之助さんが集まり、口上を述べる。
後ろには、中村座の役者に扮した役者さんたちが並んでいる。そのなかには、もちろん小山三さんもおられた。

座元たちの口上が終わると、両花道に男伊達、女伊達に扮した役者さんたちが出てきてずらりと並ぶ。
男伊達は、菊五郎さんをはじめ、三津五郎さん、橋之助さん、染五郎さん、松緑さん、海老蔵さん、獅童さん、弥十郎さん、左團次さん、梅玉さん。
女伊達は、玉三郎さんをはじめ、時蔵さん、福助さん、扇雀さん、孝太郎さん、菊之助さん、亀治郎さん、芝雀さん、魁春さん、秀太郎さん。
豪華メンバーが両花道にずらりと居並ぶ様子は、まさに圧巻であった。

男伊達、女伊達は一人ずつ、芝居の題や台詞をまじえた口上で名乗りを上げていく。
今回、前から3列目の真ん中寄りの席に座っていた私は、一生懸命振り返って、花道の後ろのほうまで見ていたら、首が痛くなってしまった(笑)。
でも、近くに菊五郎丈が見えたので、とてもうれしかった。
私の隣に、九州からわざわざ観に来られたと思われるご婦人が2人いらっしゃったのだが、菊五郎さんを見て「かっこよか(かっこいい)ねえ~」と歓声をあげておられた。
たしかに、カッコイイなあ~。

男伊達、女伊達の名乗りがすんだ後、客席も含めて皆で手締めをして幕。
襲名披露口上の雰囲気ももちろんよいが、通常の口上よりも役者さんの数が多く、芝居仕立てになっているので、さらに楽しめた。


話が前後するが、「弥栄芝居賑」の前に、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「車引」と、舞踊劇「芋掘長者(いもほりちょうじゃ)」の2幕が上演された。

「車引」は、松王丸を海老蔵さん、梅王丸を勘太郎さん、桜丸を七之助さんという若々しい配役。
若い人が競演する時ならではの熱意と緊張感にあふれ、観ていて心地がよかった。
藤原時平役の左團次丈が、ベテランとして舞台にスパイスを効かせていた。


「芋堀長者」では、踊りの名手・坂東三津五郎丈が登場。
これはもう、あれこれと言う必要はないであろう。
さすがは坂東流の家元。完璧な踊りである。しかも、観ていて楽しい。
ただ型をきっちりとやるだけではなく、表情や動きに物語性がある。それでいて、芝居がかることなく、「舞」としての形と品位を保っているのだ。絶妙のバランスである。
橋之助さん、亀治郎さん、秀調さん、萬次郎さん、高麗蔵さん、権十郎さんもきっちりと脇を固めておられ、本当に楽しくすばらしい舞踊劇に仕上がっていた。


昼の部のおしまいは「髪結新三(かみゆいしんざ)」。新三を演じるのは勘三郎丈。
材木問屋白子屋の娘・お熊を菊之助さん、白子屋の手代・忠吉、新三の長屋の大家を三津五郎さん、お熊の母を秀太郎さん、親分・弥太五郎源七を富十郎さんなど、これもまた豪華な顔ぶれであった。
菊之助さんは、こういった娘役がとてもよく似合う。とにかくきれいで愛くるしいのだ。その姿を間近で見られたのでよかった。たまには前のほうの席も悪くないなあ。
初鰹がアクセントとして出てくる、季節感あふれる芝居で、初夏の雰囲気を堪能できた。


<本日のキモノ>

花の丸の飛び柄小紋に花丸の名古屋帯 花丸の名古屋帯のお太鼓部分

襲名披露興行だが、昼の部なので、迷ったあげく小紋にした。
千總の飛び柄の小紋。先月の昼の部に出かけたときと同じだが、私の持っている小紋のなかではこれがいちばんイイやつなので、仕方がない……。
帯や帯揚げ、帯締めも、先月と同じ組み合わせ。少し金糸の入った名古屋帯と、白地に赤の入った帯揚げ、帯締め。これだと、小紋に合わせても割とあらたまった感じに仕上がるので、襲名披露興行のときには便利なのだ。
扇子は、京都・宮脇賣扇庵の藤の扇子。

藤の柄の扇子



国立劇場文楽公演

2005年05月07日 | 伝統文化あれこれ
国立劇場小劇場の五月文楽公演を観に行った。

「文楽」とは、人形浄瑠璃のこと。

文楽には3つの役割がある。
まず「太夫(たゆう)」。「義太夫(ぎだゆう)」という独特の節で、物語を述べていく人。いわば「ストーリーテラー」であり、文楽のなかで最も重要な位置を占めていると言っても過言ではない。

次に「三味線」。太夫の語りにあわせ、「太棹(ふとざお)」という少し大きめの三味線を弾く。

そして「人形遣い」。その名のとおり、文楽人形を操る人のこと。文楽の場合、小さな人形以外は、1体を3人で扱う。顔と右手という最も重要なポジションを扱うのが「主遣い(おもづかい)」、左手を扱うのが「左遣い」、足を扱うのが「足遣い」。
通常、主遣いだけが紋付袴といういでたちで顔も表に出るが、左遣いと足遣いは黒子の格好である。
人形遣いは、足遣いを10年、左遣いを10年、主遣いを10年やってやっと一人前になれると言われているそうだ。

太夫、三味線、人形遣い、それぞれの芸が競演しながら一つの物語を完成させ、独特の世界が作り上げられる。

今回の公演は2部制だったが、私が観に行ったのは、第1部。
演目は「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」と「冥土の飛脚(めいどのひきゃく)」。

「近江源氏~」は、歌舞伎でも同じ外題(げだい)になっており、「盛綱陣屋」の場面がよく演じられる。ストーリーも、ほぼ同じである。

一方「冥土の飛脚」は、歌舞伎では「恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)」という外題になっており、ストーリーや人物像も少し変わっている。
本家は人形浄瑠璃のほうであるが、それが歌舞伎にも取り入れられ、現在に至っているのだ。
歌舞伎のほうは、主人公の人間像などがやや美化されているのに対して、人形浄瑠璃のほうでは、人間の弱さというものが率直に描かれている感じだ。
私は、近松門左衛門の原作に近い文楽の作品のほうがどちらかというと好きなのだが、歌舞伎の作品も好きである。

歌舞伎と違って文楽は、太夫がすべての登場人物を演じ分けながら語っていくので、太夫の技量に依るところが大きい。
私の好きな太夫の一人に、豊竹嶋太夫さんという方がいるのだが、この方は、世話物(男女の機微や親子の情愛など、人間模様を描いた作品)を語らせると天下一品だと思う。特に、女性の描写が素晴らしいのだ。

今からもう何年も前に「冥土の飛脚」を観た時、嶋太夫さんが「淡路町(あわじまち)の段」を語っておられたのだが、大坂(注・江戸時代の地名なので、「おおさか」の「さか」は「こざとへん」ではなく「つちへん」)新町の遊女・梅川に会いに行こうとする飛脚問屋の養子・忠兵衛が、お客から預かっている大事な金を持っているので行くのはやめようか、いややはり会いに行こうかと何度も思案をする場面がとても印象的だったのをおぼえている。
結果的に、忠兵衛は梅川に会いに行くことを選んでしまい、そのために客から預かった大事なお金に手をつけてしまって、梅川と心中をすることになるのだ。
その伏線となる重要な場面で、忠兵衛の心の揺れと、その後に悲劇が待っているという緊張感が見事に表現されていた。「冥土の飛脚」を観たのはその時が初めてだったが、その場面はずっと記憶に残っていた。
今回は嶋太夫さんではなかったので残念だったが、若手の太夫さんがはつらつと語るのも、それはそれでなかなか味わいがあった。

人形のほうは、忠兵衛を吉田玉男さん、梅川を吉田蓑助さんが遣っておられた。お二人とも、人間国宝である。
蓑助さんは、女性の人形を遣うと当代で右に出る者はいないだろう。
玉男さんは、まさに「人形と呼吸がぴたりと合った」という感じで、玉男さんに操られている人形は、まるで命を吹き込まれたかのように見える。
今回の「冥土の飛脚」では、「封印切の段」で忠兵衛がお客から預かったお金の包みを開けてしまう場面(この作品において最も重要な場面の一つである)で特にその素晴らしさが際立っていた。まさに名人芸と言えよう。


劇場内で偶然、以前勤めていた職場の人に会った。
その方は、もともと演劇が好きだったのだが、私が古典芸能好きなのを見てご自身も古典芸能に興味を示してくださり、折にふれ歌舞伎や文楽などを観て、立派な古典芸能フリークとなられたのである。
着物にも興味を持ち、着付けを習って着付け師範の免状もとられたのだ。この日も、格子の素敵な紬を着ておられた。
幕間に少し立ち話をしただけだったが、旧知の人と偶然に会えるのはやはりうれしいものだ。

劇場を出た後、妹夫婦と待ち合わせて食事をした。
着物を着ていたが、食事は臆せずパスタ屋さんへ。
愛用の「ゴム付きクリップ」と大判ハンカチーフで、即席前掛けを作り、襟元を完全ガード。私はこの方法で、歌舞伎座に行った時も臆することなく、幕間におそば屋さんに入っている。
比較的近くに住んでいるとはいえ、普段は忙しくてなかなか顔を合わせることがなく、妹夫婦と会うのは3か月ぶりだったので、楽しく話をしているうちにあっという間に時間が経った。


<本日のキモノ>

無地の結城紬にちりめんの染め名古屋帯 ちりめんの染め名古屋帯後ろ姿

前回と同じ無地の結城紬で、帯だけ変えてみた。
帯は、ちりめんの染め名古屋帯で、丸窓の中に祇園のお茶屋さんが描かれている。
舞台となる街は違うが、今回の演目「冥土の飛脚」のイメージに合わせてみた。



浅草演芸ホール

2005年05月05日 | 落語
3連休最終日。

午後から浅草演芸ホールへ出かけた。

昼の部がハネる(終わる)少し前に着いたら、場内は立ち見が大勢出ていて、人があふれんばかりだった。休日の昼間で、しかも昼の部のトリが林家木久蔵師匠なので、無理もない。

立ち見の集団のいちばん後ろで、前の人々の頭のすきまから高座を見ようと試みたが、無駄な抵抗だったので、あきらめて耳だけ傾けた。
まあ、落語も漫才も「聴くもの」だし、おもしろい落語や漫才なら耳だけでも十分楽しめるのでよい。

私が着いたとき、高座には、あした順子・ひろし師匠という、東京の漫才の大御所が上がっていた。
このお二人の漫才は、同じネタを何度聴いても笑えるのだ。これは本当にすごいことだと思う。やはり貫禄なのだろうか。あるいは、ご本人たちが漫才を楽しんでおられるから、観ているほうも楽しくなってくるのだろうか。どちらにしても、頭が下がる。
同じく東京の漫才の大ベテランで、昭和のいる・こいる師匠がおられるが、このお二人も同様である。

漫才ブーム以降、漫才=大阪というイメージが定着してしまった感があるが、東京の漫才もまだまだ捨てたものではない。
吉本のお笑い学校出身のタレントコンビが増え、しっかりした「しゃべくり漫才」のコンビが少なくなってしまった大阪の漫才界にも、正統派の漫才をしっかり受け継いでくれる若手コンビが少しでも多く登場してくれることを願ってやまない。

木久蔵師匠の噺も、いつものことながらとても楽しかった。
木久蔵師匠の師匠である故・林家彦六師匠のことを、おもしろおかしく語る「彦六伝」というネタの一部をやっておられたのだが、おもしろおかしいなかにも亡き師匠に対する愛情が感じられて、何となくほのぼのする。

昼の部が終わると帰る人も多かったので、夜の部は座って聴くことができた。
翌日が平日になる日の夜の部は、どうしてもお客さんが少なくなる傾向にあるようだ。

夜の部のトリの柳家小三治師匠は、前日に引き続き「天災」。


<本日のキモノ>

無地の結城紬に変わり縞の博多織八寸名古屋帯

無地の結城紬(といっても、インターネットショッピングのバーゲンで購入した安い物だが……)がしみぬきから戻ってきたので、さっそく着用。
しみぬきから戻ってきたら、心なしか生地がやわらかくなっていた。いかにも「おろしたて」というパリパリの状態の紬だとあまり見栄えがよくないので、「ケガの功名」だったかも。
帯は、博多織の変わり縞模様の八寸名古屋帯。